COLLAGE

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HHJ

                                               

                                                                                

 

 

人間の可能性が行き着くところ

 

 

 


絶滅工場

ナチスはなぜユダヤ人絶滅計画を思いついたのだろうか?人種的偏見と答えるのは、表面的である。ドイツだけではない。第3帝国建設の〈生贅の山羊〉が必要だったと捉えても、一民族抹殺は異常な発想である。ヒトラー(A.Hitler)の狂気のせいか?しかし、独裁者の残虐さと誇大妄想は珍しいことではない。ぼくは疑問を解く鍵を科学技術と化学の発展に求めたい。それがなければ、ホロコーストは決して実現されなかったに違いないからだ、機械による大量生産工場のネガ・フィルムのように…

 虐殺には、たとえ被害者が一人だろうと、激しい憎悪が感じられる。ガス室と死体焼却炉を備えた絶滅工場は、人間に対する憎悪が表現されているようには見えない。憎悪どころか何の情念も感情もない、超越的な運動がある。しかし、それこそが機械装置の本質である。出来上がってしまえば、殺人者達の内面的な世界は消える。殺された人間達はもちろん内面的な世界を壊された廃棄物でしかない。実際、ユダヤ人の死体から石鹸などが製造されたことや生体実験1は忘れるべきではないだろう。

20世紀に人間の可能性があっという間に行き着いたところは《可能性の恐ろしさ》と書かれている終点だった。現代人は、遊んでいる子どもがいつか自分も死ぬんだと気づくように人間の終わりを知ったのだ。

 

恐怖のシステム

ヒロシマ・ナガサキヘの原爆投下は、倫理的に間違っていた。日本のアジア侵略と真珠湾奇襲に始まる連合国との戦争がそうだったように。トルーマン大統領は警告とデモンストレーションだけで戦争を終わらせる努力をするべきだった。多数の科学者と軍部2の反対を無視して、政治的判断が優先したことは嘆かなければならない。原爆は国民(兵隊)を無益な死から守り、旧ソ連の共産主義に対する切り札ジョーカーである、という考えだ。原水爆の恐ろしさが、科学者を除いてまだほとんど認識されていなかったようだ。それは放射能の永久的な脅成ばかりではない。核ミサイルと人工衛星の出現でアメリカと旧ソ連の〈核の傘〉が拡がると、人類はスイッチのわずかな動きで世界が壊滅する時代になったことを知った。命令だろうと、事故だろうと、恐怖のシステムはいったん動き出せば、機械のように相互的な連鎖で破壊を続ける。しかも、その破壊状況は計算できない。核抑止論は無益に破滅の危険性を高める効果があっただけだ。結果は冷戦を無事に終わらせたじゃないか、という反駁には、幸運がいつ終わるか分からない、と言いたい。見えない恐怖の網と平和な日々の核汚染。それが地球環境と心身に与える影響を国家と原子力関係者は反省しないどころか、アメリカと旧ソ連では汚染実験さえ行なわれたという報告がある3。       

                                  無差別テロ

核戦争は日常生活からの遠さと巨大さで恐怖を感覚的に捕らえるのが難しい。無差別テロは安楽な生活のために作られた都市を瞬間的に反逆させる。都市は危険な装置として働き、不安と恐怖は目の前にある。駅、地下鉄、電車、自動車、街路、レストラン…どこに爆発物や生物化学兵器があるか分からない。犯行者は同じような顔と服装の群衆に隠れている。互いに誰なのか知らないということ、つまり無名性は、都市生活の魅力的なジレンマだ。自由と孤独がその遠景から描かれ、マイケル・フランクスの歌にあるような個人主義の〈Inside o f Happiness 幸せの内側〉と不幸な事件のドラマが繰り返される。

 無差別テロは、抽象的な精神の犯罪である。それは主権者である国民を裁き、民主主義国家と社会の活動に責任を取れ、と短格的に語っているように思える。さまざまな思考と感情を持った個人がいて、民主主義社会でさえも政治家・官僚・資本家達に間接的に支配されている無力な存在だという事実は、想像できない。

                                 DNA操作

最近はDNA(遺伝子)操作で新種の花が作られるようになった。美しい花ならいいが、新種の動物がDNA操作でできるとしたら、人間が勝手に生命体を作ることに不安と忌まわしさを感じる。不安は、新種の動植物が地球の徽妙な生態系を破壊する恐れがあるから。忌まわしさは、自然が長い時間をかけて造り上げた動物である人間に動物を造る特権がないと考えるからだ。動物からヒトまでほんの一歩である…しかし、幸い科学技術はそこまで行っていない。今、問題になっているのは遺伝子治療、〈生命の設計図〉と言われるDNAの病気を正常にする繰作である。健全なDNAを移し入れた細胞が正常に生命を機能させるなら、新しい希望だと思う。

 

追記

DNA操作〉を書き終えて、何か忘れていることはないかと思っていると、朝日新聞の記事が注意を引いた。各種名簿を集めて有料で公開している会社(東京)が詳細な個人情報を発売する計画だ、と。東京都民の情報だけだが、市民団体はプライバシー侵害に憤りを表明した。経営者は、〈情報を悪用されないようにするため、販売先をチェックしたい〉と言っている。そんな名簿の存在を知るだけで、嫌な気分になる。個人の自由意思が専重されない情報化社会の一面を意識させられて…

 アルベール・カミュ(Albert Camus)は寓意劇《戒厳令》(1948年)でスペインの町に君臨したペストにこう語らせた。〈すべての者がリストの順序にしたがって、たった一つの死に方をする。諸君はカードに記入され、もはや気まぐれに死ぬことはありえない。〉

ペスト=ファシズムという寓意は依然として現実である。死の管理とは、人生が管理・制御されることに他ならない。

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HHJ  VOL.41 1995.8

MODE ACTUEL MODE ACTUELLE   

            

1 満州国で731部隊が毒ガス製造と生体実験を行なった事実と、毒ガス弾が処理されずに残っていることを付け加えておく。

2 アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)将軍、マッカーサー(Douglas MacArthur)元帥、ニミッツ(Chester William Nimitz)提督[テレビ朝日:ザ・スクープ]

3 NHKスペシャル; 調査報告 地球汚染 ヒロシマからの警告(86日)               

 

▼ 帝国の亡霊     

▼ アジアの亡霊  

▼ 病院国家の縮図  

 

▼ 敗戦後劇場

 

 

 

 

 

 

 

忘れられたような小公園の地下で

 

 

 

 


爆弾テロが起きた地下鉄サン・ミッシェル駅はセーヌ左岸にある。南に少し歩けば、サン・ジェルマン・デ・プレ大通りとの交差点、斜め向かいにクリュニー美術館が見える。中世の寺院だった薄暗い建物の中には、無心に写生している若い男女が何人かいる。2階に上がると、有名な6枚のゴブラン織り《貴婦人と一角獣》の部屋がある。五官の欲望を表わしたと言われる、宗教的に昇華された清らかな絵。ぼくは、可愛いパリジェンヌと同じように心を打たれてしばらく見とれた。

 大通りを東に歩くと、やがてセーヌ河に出る。流れに、ノートル・ダム寺院のあるシテ島とサン・ルイ島が船のように浮かんでいる。パリ発祥の地に渡って、船尾に当たる小公園で休む。地図で通りの先を確かめると、フランス革命勃発の場所バスチーユ広場だ。〈自由・平等・博愛)…タバコを吸って、ひっそりした船尾から河の流れを見ようと階段を降りる。地下の入りロが目に止まった。ガイド・ブックに載っていない、ユダヤ人迫害を記憶に刻むための場所だった。

 内部は明るい色の石造りで、強制収容所を彫刻作品のように表現していた。左右に格子が嵌まった木の扉があり、正面の奥行きには長い廊下の前に立たされた感じがする深い孤独がある。突き当たりまで、歩いて、どれくらい時間がかかるだろうか?この彫刻作品はその疑問を観賞者に与えるために作られたかのようだ。目を上にあげると、刻まれた碑銘があった。ナチスに支配されたフランス人がユダヤ人迫害に協力した弱さを詫びる言葉だった。    

        

   NOUS  NOUBLIRONS PAS(ヌー・ヌブリロン・パ) 

      決して忘れません  

 

   PERMETTEZNOUS(ぺルメテ・ヌー) 

      私たちを許してください

 

ぼくは壁に彫られたエリュアールなどの詩を読んで、外に出て空気を吸った。水の流れが聞こえる本当に静かな場所だ・・・人間は決して他の人間になれない。フランス人の苦痛はユダヤ人には理解できない。ユダヤ人の苦痛はフランス人には分からない。苦しみや悲しみは、それぞれ絶対的なパトス(情念)である。分かるよ、と誰も簡単に言ってほしくないだろう。たとえ共通性があったとしても、違いが遠ざける。他者とは余計なところがある存在だ。孤独は消えない。苦しみや悲しみを他と比較するこ

とは、できない。客観的なパトスは表現されたロゴス(言葉、理性)で、残された沈黙は夜空のように深い。                                                          

忘れられたような小公園で1、ぼくもやはり一人の他者だった。しかし、それでも、言葉には希望がある。

 

          Ψ それに関する対話 Υ

A―言葉は、しかし、人を傷つける場合が少なくないね。

]―そう。理解しようと思うが、他人の内面的な世界が分からないからな。

A―ぼくは、内面的な世界を知られたくない。黙って一緒に遊んでるほうがいいね。

]― ぼくは、それを尊重して分かった振りはしないんだが、相手の気を悪くすることがないとは言えないだろう。

A―まあ、そういう時は理解してほしいと思う。ただ過去にこだわるのは良くない。

]―水に流すってことも確かに大切だ。歴史の事実に迷い込んでしまうからね。

A―それも自分の思惑や感情で解釈するからさ。

]―しかし、歴史を見ないと、現在が分からない。人間関係と違って、特に国際関係は過去の問題が待ち伏せしているときが多いんだ。

A―まあ、そうだね。ちゃんと片付けなければいけない。前に進みながら…時が来れば、自然に解決することだってあるからね。芸術はそこで何ができるのかな?

]―人問と環境世界の証言、と言うだけでは足りない。それを美の領域に高めなければならない。優れた作品は、沈黙とか忘却を表現することができる。

A―人間は言葉ですべてを明確に捕らえられるわけじゃない、ね。

]―限界がある。しかし、美術作品は言葉の地平線を広げる。そこには生きた世界(あるいは、生きられた世界)があるから。観念的な作品は駄目だ。

A―生きた世界(あるいは、生きられた世界)って、どういうことかな?

]―生活の中で後ろに見捨てられてきた内面的な世界、と言ってもいいが、ただ、これは人がポケットに入れているような《所有する記憶》ではなくて、逆に人が《所属する記憶》なんだ。

A―《所属する記憶》というのは、無意識とは違うのかな?

]―違うね。その記憶はむしろ忘却であって、君の外にもある。

A―外に?

]―そう。君が生きている場所、つまり、家や通りや街、広い意味での環境世界、それが言葉に書かれない歴史的空間として君の《所属する記憶》なんだ。精神ばかりか、表情や身振りさえも、それと無関係に作られたのではない。だから、人間は環境世界と自分(自我)の問にある存在だ、他者だ、と言うことができる。

 

願望と後悔も、そこにあるパトス

長木川上流社会特派員 △APENANI

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HHJ  VOL.41 1995.8

MODE ACTUEL MODE ACTUELLE     

          

1 名前は見たと思うが、メモを取らなかった。

; この対話はフィクションである。

 

 

 

 

 

 

欲望の表と裏

 

 

 

 


スキー場のルポルタージュを書きたいと思っていたが、この冬はまだ一度もスキーに行っていない。編集長が取材費を出さないので、たぶん駄目だと思う。5000円あれば、ゴンドラとリフトに乗れるのだが…ウィークエンドを外せば、ランチが食え、スキーの合間にコーヒーやコーラが飲める。目が合った可愛い彼女たちに何かスナックでもおごって、楽しくおしゃべりしている間に、ワインを一本注文してもらおう。Vin Rosé…さりげないフランス語の美しい発音。

 しかし、現実の中に、大館の冷たく暗い地下室の中に、ぼくは帰る。そんな空想に耽ると、スキー場にいない自分が意識に浮かんできて、ただ寂しさを感じるだけだ。スキー場にいる自分という欲望が現実になると、ぼくは幸せなのだが…内面のルポルタージュだけで止めようか。

 

欲望は、現在を否定する。そこにいない自分、それを持っていない自分という欠如的な状態が、否定される。なぜ現在が欠如的な状態として感じられるのだろうか?スキー場にいれば、ワインがあれば、理想の生活と自己自身が実現されると思えるからだろう。嵌め絵遊びのように、それで全体が出来上がる…しかし、それも崩れるときが、あるいは否定されるときが来る。アッピじゃなくてシャモニーへ、ワインよりはコニャックを…欲望は、ないものを求めて、対象の所有と同化をめざす。しかし、それは仮象の表であって、裏には現在の否定と書かれている。この否定は、生の運動で、主観のエゴが吐くNonではない。生命の本質から来るパトス(受動的な様相・属性)である。人間にとっては、時間の中にある存在を超越する行為である。だから、すでに…ない〉過去とまだ…ない〉未来の間で、人間は揺れ動いている。時には甘く、時には苦く。      

 

 

 欲望についての対話 

 

■有限な生き物

 

ナモネ氏―私のようにどうにかこうにか生きてる人間にしてみれば、現在なんて欠如そのものだよ。生存のために食い物を手に入れなければならないんだ。

ダレナニ―何かが不足してる現在を、空腹を感じてる自分を、否定するわけです。それが生きるってことで、見方を変えれば、時間の中にあることです。絶えず死の不安に晒されてる。しかし、実感することはあまりない。

ナモネ氏―まあ、生命には確かに終わりがある。

ダレナニ―そして、いつ終わりなのか分からない。そういう人間の宿命のような在り方が、人間を物に向かわせる原因、契機なのじゃないか…食べ物はもちろん、装飾的な物、永続的な物なんかへ…

ナモネ氏―逆説的だが、そういう面も確かにあるな。私は、よくスーパーマーケットやデパートで思うことがあるんだ。あんなにいろんな品物を買い込んで、果たしてどれだけ本当に必要不可欠なものがあるのかって…いや、私もそんな時があるんだがね。しかし、時間の中にある生き物だから、とは思ったことがない。お金を使うことが楽しいんだよ。

ダレナニ―悲しいときの方が多いな。

ナモネ氏―それはともかく、お金について考えてみると、無限牲の象徴なんだろうか ?何でも好きなことができるし、500円玉や1000円札がさまざまな物に変化することになんとなく満足感を覚えるときもある…

 

■フォルムを与えること

 

ダレナニ―そうですね。ショッピングは、芸術的な行為と似たところがあるかもしれませんよ。芸術は、端的に言えば、フォルム(描かれたものも含めた形)を与えることが目的です。抽象的な観念や、何だか捉えどころがない内面に、ね。

ナモネ氏―500円玉がさまざまな物に変化することに、似ていなくもないな。すると、つまり、お金はパステルや絵の具みたいなものか…

ダレナニ―マチエール(材料、素材)のような、ちょっと風変わりな道具だけど、それを使って、人はいろんな表現をするんだ、と言えないかな?でも、自分で作るっていうことはない。〈欲望〉に形を与えて、ただ交換するだけの表現行為ですね…メーカーが製造した物を選ぶだけです。現代社会のショッピングは、まるでコンピューターに図形を描いてもらうような奇妙な行為に変わってる。  

ナモネ氏―そういう消費の仕方があるってことは間違いないだろうね。買い物は単なる買い物じゃないんだ。

ダレナニ―たぶんそうでしょう。実際、〈欲望〉は宣伝広告そしてマスメディアによって作り出される、というのが現代社会の特徴なんですから。

ナモネ氏―すぐに廃棄処分になる〈欲望〉だな。新しい商品が加速度的に作られるのを見ると、そう実感するよ。買った機械がたちまち嫌になったりして。〈欲望〉が満たされると、カタルシス(浄化)があるものだがね。

ダレナニ―そうなると、もう時間の中にある存在の超越どころじゃありませんよ。〈欲望〉が持つ現在の否定という力、それこそパトス(情念)に他ならないけれど、そのエネルギーが稀薄になってしまう。〈欲望〉が資本主義社会の商品経済によって簡単に形を与えられてしまうから。そして、これは政治的に見れば、秩序の安定に役立つというわけですが…

ナモネ氏―いいことずくめで、結構な世の中じゃないか…いや、冗談半分だよ。このあいだ、ヴァレンタイン・ディに娘が憧れの彼氏にチョコレートを送ったんだが、ヴァイオリンの形をしたミルク・チョコレートが立派なケースに入ってる、なかなか凝った商品だった。今の若い者は羨ましい、と思ったね。私は、ラブ・レターの表現に苦心惨憺したし、どうやって人に知られず彼女に渡すか、悩んだものなんだ。ギャルやボーイを見てると、ちゃんと恋愛の表現から行動の形式まであらかじめ決まってるようなところがある。利益追及の社会が意図的に枠組みを作ったことじゃないにしても、だ。

ダレナニ―いや、明らかに意図的ですね。

 

思いがけない内容になったが、刺激的ではないだろうか?

結論:ぼくはやはりスキーに行って、現実の汚れを消し去る白い世界で気ままなシュプールを描くべきだ!

 

         さ、行こうか。えっ、もう雪がない?

         長木川上流社会特派員 ダレナニ

 

HHJ  VOL.27  1994.4.8

MODE ACTUEL MODE ACTUELLE

 

〈ない〉ということについて

▼ あの《オレンジと青》をどう考えるか ?

 

 

 

 

 

言葉の力

 

 

 

 

 


迷信と恐怖

〈あそこに行くと、悪いことが起こる〉と言われて、全然気も留めない人はそう多くないだろう。ぼくだったら、自分と関係のない場所でも、好奇心から理由を聞く。関係のある所なら、具体的な話を聞いて本当かどうか判断する。こういう場合に限って、はっきりしないのが現実である。だから、直接自分で行ってみて、果たして本当に悪いことが起こるかどうか確かめてみなければならない。しかし、その〈悪いこと〉が身の安全に係わるといった深刻な結果を指すなら、どうだろう?愚かな言い伝えだと一笑する理性的な人間でも、ためらわずにはいられなはずだ。

 ぼくは、そんな人間ではないと思っているが、かと言って不合理なことをすべて嫌う生き方はしていない。スポーツマンらしく結構ジンクスを大事にして、チョコレートを食べてから日常のさまざまな《ゲーム》に臨んだり、その他のちょっとしたジンクスを折りに触れて冗談半分に作ったりする。因果関係があるかどうかは、どうでもいい。一時期口癖になったように〈気持の問題だ!〉なのである。このジンクスには、ネガティブな意味は絶対にない。幸運を引き寄せるためのお呪(まじな)いである。〈いいことが起こるように!〉しかし、〈悪いことが起こらないように!〉と慎ましく祈る気持も必要なのじゃないか?

 問題はそこだ。〈悪いことが起こらないように!〉という願いには、逃避の欲求が潜んでいる。災いから逃げることしか考えない人間に、進歩などあるはずがない。逃避する精神は、悪いこととは実際どんなものなのか、その実体を理解するのが困難なのである。したがって、それが現実的な状況では恐怖が実際よりも肥大化する。だが、逃避する精神は、自分だけの安全と幸福しか眼中にない。

 恐怖について、ボー(Edgar Allan Poe)の《赤死病の仮面》は人間の運命を描いた。猛威を振るうベストから逃れて田園の別荘で暮らす富裕なイタリア人たちが、劇のクライマックスで仮面をかぶったペストに惨殺される。こういうエピソードは、象徴牲を取り除けば、歴史の隅々に無数に見られただろう。ある本でベストに関する記述を読むと、逃げた人々の多くにやはり皮肉な死が待っていた。バルカン半島だったか、ある都市ではペストと一人戦った医師だけが生き残り、逃げた人々はみんな地獄の一丁目にまで落ちた。これは大館橋問題についても当て嵌まる。

■  ■  ■

存在認識の欠如

比較的新しいアメリカ映画を何本か見て、気になったことがある。共通して、主人公の異常な行動を説明するために幼年期の体験が出てくるということだ。フロイトの精神分析が型通りに適用されている。普通一般の観客やそんな知識のない若者なら、おもしろい展開だと思うかもしれない。これは見過ごしていい問題ではない。

1 過去から現在を見る人間解釈は俗世間の安易な考え方と一致する。因果関係を考えるときに過去のシーンをプレイバック(再生)させない者はいない。ところが、人間は内面的な生き物であるばかりか、それ以上に社会的な存在としてメカニスム(機械装置)中心の多様な関係の中で生きている。フロイトの構神分析は、アメリカの心理学者フロム(Erich Fromm)が批判したように個人から社会的存在を抜き取ってしまう1。人間は実際どのように存在するのか、フロイト流精神分析は見ようとしない。

2 個人の心理と行動は社会の在り方あるいは環境とは何の関係もないという認識は、指導的地位にある保守的な人たちを喜ばせる。個人の失敗も愚行もすべて個人に欠点があるからで、社会に責任を押し付けるべきではない…これは良くも悪くも自律的な精神だ。

3 精神分析の知識が精神異常を作る。不安な精神は意識しなかった潜在的な異常さを知ると、それが外に現われ出ないように注意する。意識は対向車を避けようとする自転車乗りがかえって対向車の方に吸い寄せられるのに似て、強迫観念(オプセッション)となる。しかし、心の中で悪いことを考えようと、罪悪ではない。

 

しかし、こんな反論があるに違いない。〈たくさんの患者が病から救われた事実を見ながら、君は精神分析を批判するのか?〉

 患者は構神分析医との対話で、内面の異常な迷路から脱出することができる。フロイトもこの対話の重要牲に気づいていた。だが、患者が対話を通して自分の無意識をはっきりと自覚したために異常さが消えたと単純に考えるべきではない。心理学などの知性は、《真理は遠くに隠れている》と相変わらず思い込んでいる。ところが、真理は幸せの青い鳥のようなものだ。対話することそれ自体が最高の薬なのだ。なぜなのか?

一般的に言って、私という世界が歪むのは親密な他者との関係の崩壊と環境世界の変化が原因である。事物と言葉の分かりきった秩序が崩れて、環境世界が険悪な様相を帯び、極端な場合可能なものが何もない状況に陥ってしまう。親密な他者はもう一方の中心として私と楕円形の世界を築き、私という存在と環境世界に明確な安定した意味を与えていたのだ。対話とは、他者と相互的な一つの世界を作り上げる創造的な行為である。言葉を口に出して聞くことで話の内容と自分との間に距離を置き、自分が〈知覚した現実(表象)〉や感情および想念を客観的に認識させる。言葉を交わすとは、他者的になることである。だが、生活の場を離れた都市に重点を移せば、この環境世界は個人が自由にできる所有物のような世界ではない。親密な他者や私という人間を形成した超越的な世界であり、さらに私と無関係に感覚器官にさまざまな情報を送る煩わしい世界である。これは現在進行形で〈私が所属する記憶〉に入り込む。この記憶は習慣的な身体運動と同じように環境世界との関係の仕方によって構造化され、行為や意志的でない視線の方向、食べ物の味わい、意味のニュアンスといった意識の機能と知覚をコントロールする。そう考えると、環境世界を変えないで内的な秩序を再形成することには無理があるだろう。意識に還元するだけでは、環境世界と人間存在の関係は捉えどころがなくなる。

■  ■  ■

 

HHJ  VOL.63   1998.8.8 

MODE ACTUEL MODE ACTUELLE

 

1 19001980 ナチス・ドイツからアメリカに亡命した。1940年名著《自由からの逃走》出版。

 

▼ 夢について現実的に考える

 

 

 

 

 

 

庭で語る

 

 

 

 


1

戦時中、小坂から汽車に乗って、ときおりドイツ人の牧師さんが大館駅で降りた。小坂の教会がプロテスタントかカトリックか、知らない。ドイツ人の牧師さんは、大館橋を渡ると、よく長谷川木工所に立ち寄った。狭い小路を入った工場で、牧師さんは、使わない木の切れ端を集めて小坂に持ち帰るのだった。少年だった父の話によると、牧師さんはそれで何か作るらしかった。しかし、ドイツ人の牧師さんが木工所に来たのは、今アトリエになっている場所がその頃キリスト教の教会でアメリカ人の牧師さんが強制疎開させられていたことと無関係ではないだろう。ドイツ人の牧師さんは、閉鎖された教会の様子に注意していたかもしれない。自分だけ自由の身であることに良心の呵責を感じながら…木っ端で何やら作っている牧師さんの姿を想像すると、やり切れないパトスの細工だったように思う。

 ぼくは庭の芝生に肘掛け椅子を出して凭れながら、7月号の真っ白な空間を目に浮かべた。涼しい木陰には甘い草花の香りが漂っている。草の匂いが、不思議なことにバニラに似ている。また戦争の話を書くかどうか、ぼくは迷ってしまう。

 

そうしていると、(緑の牧場教会)の牧師さんが庭に入って来た。ぼくは薄紫色の椅子を地下室から出して、勧めた。《永遠の波の建築》を見ながら、話をした1

―聖書は、(市場のギリシア語)で書かれてるんです。

 それがぼくの興味を引いて、イエス(Jésus)の死後のローマ帝国に話が広がった。聖書がプラトン(Plato)哲学と同じギリシア語で書かれたことは知っていたが、一般民衆が理解できる日常語だったとは思わなかった。

―ローマ帝国時代に、一般の人たちがギリシア語を理解したんですか?

―ええ。聖書がラテン語で書かれるようになってから、キリスト教は一般の人々から離れたのです。

―バチカン法皇庁みたいに仰々しくなって。それで、プロテスタントが出て、宗教改革を始めた…

―ええ。プロテスタント(抗議する人)という名の通り。

―歴史を見れば、キリスト教はかなり悪いことをしている。

―しかし、キリスト教は愛の宗教です。

―ある人類学者が宗教の発展について、キリスト教は本当なら仏教とイスラム教の後に来るべきだったと語ってるんです。なるほどと思いましたが、仏教の慈悲とキリスト教の愛とはどう違うんでしょうか?

 牧師さんははっきり答えなかった。ぼくもよく覚えていないので、イスラム教が現代社会特にコントリートとアスファルトの砂漠アメリカで隆盛していることに触れた。

―あんなに戒律の厳しい、生活の隅々まで支配するコーランと剣の宗教が現代人の心を捕らえるのは何か嫌な感じがしますね。

 牧師さんはイスラム教の話に戸惑っているように見えた。ぼくは言った。

―もし全知全能の神が人間を造ったとしたら、人間が将来何をするかすべて決めて見通しているわけだから、つまり、決定論ですが、人間の間違いを裁くのはおかしいのじゃありませんか? 人間には責任がない…

―神は、人間を造りましたが、すべて決めたのではありません。同時に自由を与えたのです。だから、人間には自分の行為に責任があるのです。

 その言葉はキリスト教の核心のように思えた。しかし、牧師さんは後でこう続けた。

―イエスは人間達の罪をあがなうために死んだのです。罪が許されるということが、肝心です。許されるということがなければ、私は信じません。

 それは、愛の宗教という言葉の説明だろう。

 

 テーマに合わせて対話の順序を少し変えたが、牧師さんが言った〈人間には生きる根拠、確かなものが、必要です〉という言葉が端役のように舞台裏に取り残されてしまった。どこで言われたのか、想い出せない。しかし、ぼくが対話の後ずっと考えていたのは、その一言だった。それは懐かしい響きで、若い頃の記憶の断片を蘇らせた。合理主義や懐疑的精神にとって、絶対的なものは一つもない。すべては相対的(相関的)であり、存在するものはみな他の存在との関係に依存して移ろいやすい。愛という言葉も社会と時代によって意味と価値を変える。しかし、それでは人間の精神はいつも不安な状態のままゼンマイ仕掛けのように人生が巻き戻されるのを眺めるだけだ。移ろいやすいものを超えた何か永久不変な存在あるいは真理がなければ

 生きる根拠、人生に意味を与える確かなものがあるとしたら、虚無的にはならない。しかし、それは人生にあらかじめ与えられたパターン(型)などではない。自分自身で人生に意味を与える確かなものを探し求めること、造ることが、自由の良さなのである。すると、あのドイツ人の牧師さんが木の切れ端で何か作っていたのは、確かなものが虚無の中に消えてしまったせいなのか、という芸術的な想像が浮かんだ。

* * *

2

それから数日後、庭の木陰でやっと開き始めた薔薇の蕾を眺めていると、珍しく鵜川君が姿を見せた。米代川ドキュメンタリー第1部の撮影班の一人である彼と、アトリエの白いペンキを塗ったファサード(正面)を見ながら、いっものように雑談を始めた。6月号のジャーナルのレーダー・チャートを見せると、話題は旧ユーゴスラビアに飛んだ。

EU(欧州連合)は、ボスニアで内乱が始まったとき、EUに加盟すれば国境なんて要らなくなるんだよ、と希望を与えれば良かったんだ。そうすれば、領土争いは止めたはずだ。

―なるほど。EUはセルビアから始まった第1次大戦の悪夢に法えて、ぎごちなかったからな。でも、EUがヨーロッパの国境線を消したとしても、フランスとかドイツという国がなくなるわけじゃない。それぞれの固有の領土が基盤にあって、EUという全体を支えているわけだろう。ヨーロッパの民主主義は、考えるのは私であって神や僧侶や王様じゃないというデカルト(Descartes)以来の思想が根底にある。個人が自分の考えにしたがって行動するのだから、当然責任も彼が負う。そういう人間が集まって一つの社会を作っている。その社会は他の社会と同じような関係で結び付くんだ。だから、

そんな希望をボスニア・ヘルチェゴビナに与えても無駄だったのじゃないか?しかし、共産主義の理想に幻滅してしまった国民には、理想というものをまだ信ずることができるとすれば、やはり新しい理想が必要だと思うね。

 

MODE ACTUEL MODE ACTUELLE

HHJ  VOL .40  1995.7.13

 

1 半地下室の出入口に作った透明な波型ビニール樹脂の庇。

 

レーダー・チャート ワールド・フォーム

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生の逆説

 

 

 


過去の歴史の過ちを咎める人が、同じような間違いを犯しているのを見るのは悲しいことだ。なぜそうなのか?理由は二つ考えられる。一つは、過去が完結した全体として自分の外にあって把握しやすいが、現在は自分がある全体の中にいて想像力で外に出られないので、行為の自覚が困難だということ。もう一つは、要するに考え方が悪いということ。自分は例外だ、無関係だ、と思っている。

 例外意識は、存在の条件に由来する。周囲を見るとき、自分の身体は視野に入らないか或いは影の中にある。科学的知性はそうしてただ客観的に対象を考察する。誰でも似たようなものだが、視野を構成する自分の身体は問題にならない。これは、人が死を経験しないことと関係があるだろう。

 ところで、身体はいつも視野の中心にある。人間が自分中心に考えるのは、自然なことだ。

 

MODE ACTUEL MODE ACTUELLE

HHJ  VOL.19  1993.7.12  

 

 

 

 

 

COLLAGE 1

 

 

 

 

GALERIE

 

 

 

 


                   

 

Atelier Half and Half