COLLAGE

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HHJ

 


 

                                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


                                                                                

 

 

オレンジと青の構図

 

 

 


 

オレンジと青

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

即興的に絵を描くと、全体の中でオレンジと青が対立して、変な感じだ。絵描きには、どちらの色彩も存在理由があるのだが、全体の印象を崩すわけにはいかない。そこで、オレンジと青をそのままにして、他の部分を変えてみる。青のとなりに赤を少し入れると、オレンジと青の関係が新鮮な果物のようになった。もう一枚描くと、今度はオレンジと青がそのままではとうしても調和が取れない。惜しいと思いながら、色の形を変えてみると、全体の感じが良くなった。オレンジと青の関係の仕方が悪かったのだ。絵描きは思う。

―これは弁証法的な解決だ。でも、人生にはオレンジと青をそのまま味わう手もある。

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オレンジの位置

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

批評家が来て、絵を見て言った。

―最初の絵だが、どうもオレンジが良くないな。

―このオレンジは可愛い色ですよ。世の中はこんな感じなんだ、と囁いてるんです。

―じゃあ、青と切り離せないかね?私の目にはこんな接触は好ましくない。

―オレンジの位置がおかしいと言うんですか?

―まあ、そうだ。もっと斜め下に移すべきだな。すると、形はそのままでも全体の見栄えが良くなるよ。

―想像してみたけれと、他のどこに置いても駄目ですね。あたしは正しい、と強情で。

―それで、全体が迷惑するんだよ。

         

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美術の環境論

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

老いぼれたファシストが感激する絵は、

もう一枚の絵だ。オレンジと青が全体に適応するために個性を減少させ、萎縮している。

―全体の印象は柔らかく落ち着いてるな。進化論の見本だよ。

―しかし、あんまり環境が悪すぎる。大気と水の汚染、政治腐敗。

―ほう、いろいろ考えるもんだねえ。

―ええ、まあね。題名を付ければ、《これは古臭い弁証法の進化論にすぎませんよ》。最初の絵はオレンジと青の関係が環境のせいで歪んで見えたんです。だから、環境の方をちょっと変えた。

―非常に危険な絵だ!《手がつけられないオレンジと青の火遊び》だ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


HHJ  VOL.30 1994.8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HHJ  VOL.30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GALERIE

 

 

 

 

 


 

あの《オレンジと青》をどう考えるか?

 

 

 

 


男と女が公園のベンチに腰掛けて、黙っている。疲れた感じの男はタバコをふかし、女は片足で小刻みにリズムを取っている。見るからに二人の関係は冷えているが、別れたがっているようではない。女が、ふとバッグからHALF AND HALF JOURNALを出した。

女―これ、読んでみない?

男―もう読んだよ。

女―図書館で見つけたのよ。

男―毎月置いてるよ。

女―そうなの。あたしは《オレンジと青》に感動してしまったわ。何て言うか…

男―感じやすいのも、どうかと思うな。感動が評価の基準じゃ、思想は居場所がないよ。でも、それは確かに面白い考え方だね。

女―考え方じゃなくて、経験を想い出して書いてる…    ′

男―想い出して…そう、そうなんだ。何かしてるときのことを忘れてしまうから、ぼくは駄目なんだよ。思考とは?存在とは?疑問を抱くけれども、頭の中は夜霧だよ。本のページだけが浮かんでは消える。その点この絵描きは自分の行為をちゃんと作品のように保存してる。

女―絵よりも優れた作品ね。女は身に着けるものに気を使うから、よく分かる。今日は白いパンプスで全体のバランスを取ってみたのよ。

男―パンプスって?

女―平底の靴のことよ。

男―あ、そうなの。ぼくはブルーだなあ。二人の間にそんな雑誌を置いたって、憂欝なだけだよ。

女―マテウス・ロゼ(ワイン)、ドライブ、それとも…

男―つまり、矛盾・対立する関係のもう一つの解決策を取るべきなんだ。〈オレンジと青はそのままに〉、とんでもない。その場しのぎのごまかしさ。君の性格を変えなけりゃ、終りだよ。

女―〈悪いのは性格じゃない。教育なんだ〉とミュージカル《南太平洋》で中尉さんが言ってたわ。弁証法って、何なの?二つの色が生きるために、仲良く暮らすために、妥協するということ?

男―まあ、そうだな。互いの悪いところを直せば、ハッピー・エンドになるんだよ。それはヘーゲル(G.W.F.Hegel)という19世紀初めのドイツの大哲学者が思考と存在するものの発展の法則として考えたことだ。例えば、君は自然の中で遊びたいと言った。ぼくは本を読みたかった。これは定立(テーゼ)と反定立(アンチ・テーゼ)で、簡単に言うと、状況の中で二つの主題化が矛盾・対立する状態なんだ。

女―じゃあ、公園に行けばいい、ということになった。

男―間題がなくなっても、周囲の情勢が変化したり、生活や考え方が変われば、また分裂が生じるけれど、悪いところを廃棄して良いところを保存すれば、全体は再び統一されて発展する…しかし、彼は観念論的に思考が存在するものを作り出すと考えた。思考は、この場合、認識と言ってもいい。君とぼくはそれぞれ違ったふうに公園を見る。マルクス(K. H.Marx)はそれを批判して、存在するものが思考を作り出すという弁証法的唯物論を展開した。公園がそんな認識と運動を規定するのだ、と。個性は窒息してしまい、受動的な精神が出来上がる。しかし、ヘーゲルの観念論が個人の自由を認めているかと言うと、そうじゃない。世界はすべて本質、概念と言ってもいいが、それの論理的な展開にしたがって生成消滅して行く、と考えてる。まるで遺伝子の暗号の組み合わせが未来をすべて決定する、というように。だから、19世紀半ばキェルケゴール(S.A.Kierkegaard)とニーチェ(F.W.Nietsche)以来、実存(existence)哲学と生の哲学は人間の存在の意味を問い直した。人間は他の存在するものと同じように存在するのだろうか?決してそうじゃないはずだ。

 ヘーゲルの《哲学入門》の〈第2課程 精神現象論と論理学〉から一般的な用語に置き換えて引用してみよう。〈そこにあるところの或る物は他の物への関係を持つ。他の物は或る物の非存在として一つの限定的存在である。〉つまり、公園は道路、森、空、人間、などなどと関係しているからこそ、公園でありうる。そう思わないか?

女―ええ、当然よ。

男―公園からそれら自分でないものが消えれば、公園とは言えないんじゃないか?

女―ええ、当然よ。

男―人間も同じように自分以外のものとの関係がなければ、存在できない。それら自分でない人間と物はその人の生活の可能性や制約として存在している。君はよく、あたしはあたしよ、と言うけれど、それは君が否定した存在によって生きているという事実を暗に表明してるんだ。

女―それじゃ、あたしは公園やパンプスや帽子と同じだっていうわけ?今日、この公園に白いパンプスと帽子と退屈なあなたを仕方なくコーデイネイトしたのは他でもないあたしなのよ。

男―確かにまずい寄せ集めだ。しかし、それが人間の存在の特徴なんだよ。そして、人間は時間の中にある存在として別の非存在(non-être)とも関係してる。つまり、過去と未来。君は、現にこうしている君自身ではない昨日の君と明日の君に意識や思考で関係しているね。そのことに気づかないか?ぼくには想像するしかないそういう君は、森や空が公園の性質を決めるように、今の君の内面の状態を下描きしているはずだ。君は心の中でそれらを強調したり描き直したり消したりするだろう?

女―ええ、その通りだわ。いろんなイマージュがあって、あたしを束縛したり、希望の蕾だったりする…

男―〈ない〉ということ、つまり非存在は、矛盾として否定する働きとして存在するものの中に含まれて同一性を維持してるんだ1。そして、良くも悪くも潜在する可能性なんだ。これは組織や国家で言えば浮気女か裏切り者みたいな存在で、対立する勢力と手を組んで、発展させる場合もあれば、破壊する時もある厄介者なんだ。

女―ちょうどAtelier Half and Halfのような存在ね。

男―(青褪めて)ええと、何を喋ってるんだ…そうだ。そういう事実を認識してる人間の在り方が、実存なんだ。これは物の存在と区別しなければならない。物は他の物との単なる関係で外面的であれ性質であれ変化する。実存は関係に対する関係の仕方で変化する。例えば、オレンジと青の関係にどんな態度を取るか?例えば、昨日の自分をどのように捉えるか…明日の自分との間にどんな調和を探るか…これは個人の自由な行為だと思うね。二人の異なった願望を生かしてランデブーを実現するための可能な選択が、そうだ。一つとは限らない。後で振り返れば、もっといい場所や手段があったかもしれない。しかし、《その時の現在》で状況の全体を正確に認識するのは困難だ。でも、そう、考えるだけで行為しなければ、何も現実にならないんだ。そして、ぼくはあいにくスポーツマンでも芸術家でもないんだ。

女―白いパンプスを脱いで、落葉の上を裸足で歩くわ。そして、あなたとの関係をどうするか、考えましょう。

 

 女が裸足で歩いて行ったので、男は深呼吸してゆっくり歩き出した。

 

男と女の複雑な物語をしたが、参考として先月号の表紙《彼女はものを支配している》をもう一度見てほしい。絵では灰色に塗られている女の肉体が、所有するものといくつか共通の線を持っている。関係させるその線が非存在である、と考えることにしよう。それらのものが共通線とともに消え去れば、女はまだ何かでありうるだろうか?

 

           中途半端だが、ま、いいか

          長木川上流社会特派員 ダレナニ

                

 

HHJ VOL.32 1994.10.11

MODE ACTUEL MODE ACTUELLE

特派員報告

 

1         これはハイデッガーM.Heidegger)の考え方のコピーらしい。

 

▼ 実存と表現