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 吉屋 信子   明治29年(1896)1月12日〜昭和48年(1973)7月11日
 大正〜昭和期の小説家。

<生い立ち> 
 新潟市の新潟県庁官舎で生まれた。父・雄一39歳、母・マサ33歳の長女。すでに信子の上に3人の兄がいた。両親は山口県出身であったが、父が官吏として転勤が多かった。新潟では新潟県警務課長であった。が、明治32年に警察畑から行政職に転じ、佐渡郡の郡長を勤務後、北蒲原郡の郡長になり新発田に移り住んだ。そのとき、信子は近くの練兵場で近所の子どもらといっしょに教練を見た。

 明治34年に父が栃木県芳賀郡の郡長として転勤となり、一家を挙げて真岡に移り住んだ。
 明治35年(1902)、6歳になった信子は真岡小学校に入学した。ほどなく父が下都賀郡の郡長になったために栃木町官舎に移り住むこととなった。

 近くにキリスト教会があり、信子は牧師の娘たちと親しくなり、日曜学校に熱心に通い始めた。クリスマスには日曜学校の劇で天使役を演じた。

 このころ、郡内の渡良瀬川流域では足尾銅山から流れ出た鉱毒が農作物に大被害をもたらし、反対運動が盛んだった。その指導者・田中正造と信子の父は何度も接触を重ねていた。時には信子の父・雄一は田中正造の前で土下座するなどした。しかし、効果はなく渡良瀬川鉱毒問題が緊迫して、父・雄一は一月も立ち退き反対闘争の激しい谷中村に泊り込む苦悩の日々だった。

 その過程で信子の弟・礼明が死亡した。雄一は弟が亡骸になってやっと帰宅した。白ズボンに、きゃはん、わらじ履きの土足のまま座敷に駆け込むや冷たくなった死児を抱き上げて、うろうろと畳の上を歩き回ったのもつかの間、待たせたあった人力車で再び谷中村に引き返すといった多忙を極めていた。

 そのような姿を見た母・マサは父・雄一を見送ったその場で気を失った。幼い信子にはあまりにも強烈な家の悲劇であった。父が踵を返して急いで村に戻ったのは、強制立ち退きに最後まで応じない残留農家13戸を説得し家屋を破壊してでも追い立てる残酷な役目が仕事として残っていたからであった。

 この事件には全国の耳目を集め、木下尚江福田英子も残留民応援に來村して雄一ら酷吏の所業を憎悪の目で眺めていた、と後年信子は「田中正造」の項で記している。

 これらを命じた時の内務大臣は原敬であり、彼は足尾銅山主・古河家の鉱業会社の最高顧問役だった。信子は、後年、舟橋聖一の自伝的作品「風中燭」を読み憤慨した。それは、なんと谷中村悲劇の原因の足尾銅山経営の支配人格が舟橋聖一の外祖父で、巨富を積んで豪奢な生活にあったと記されていた箇所を知ったからだった。そうとも知らずに競走馬の馬主仲間の席で舟橋聖一の愛馬を応援した信子は憤懣やるかたない思いだった。

<栃木高等女学校入学> 
 明治41年(1908)12歳の信子は栃木高等女学校(現在の栃木県立栃木女子高等学校)に入学した。この学校で開催された講演会で、新渡戸稲造が古い良妻賢母思想を批判し女性の新しい生き方を説いたことに大いなる感銘を受けた。読書欲の旺盛な信子は進学をしたかったが、親が許さず、竿期の修行に励んだ。せいぜい、17歳の折に近所の小学校の代用教員を務めたが、文学を絶ちがたかった。

 大正4年(1915)、信子は19歳。父・雄一が退官して日本赤十字栃木支部主事となったため一家は宇都宮に移転した。このころ、信子の文学熱に両親が折れたので上京し、大塚にいた東大生の三兄の忠明の下宿に同宿した。

 ここを根城として尊敬する文学者を次々と訪問した。近所の生田花世夫妻を紹介され、生田家でまだ無名だった岡本かの子と親しくなった。岡本かの子は、跡見女学校を卒業後、与謝野晶子に師事して『明星』に投稿を続け、名をあげた。東京美術学校の学生だった岡本一平の熱烈な求愛を受けて結婚し、一子・太郎を産んだ。太郎はのちに特異な画家として名をあげた。

 信子は文学者訪問だけではなく、山田嘉吉・わか夫妻の「語学塾」に通い英語の勉強を始めた。同時に「読書会」にも参加して『青踏』平塚らいてう伊藤野枝などとも知り合いになった。『青踏』のメンバーたちと接近することにより、信子の心にも女性問題を考える意識が芽生えた。

 大正6年(1917)、東京四谷にあったバプテスト女子学寮に入り、その近くの教会に通った。また日曜学校の手伝いとして子ども相手に話をする機会を得た。この年、これまでの童話を集めた『赤い夢』を処女出版した。

 同じ寮生に後年歌手として有名になる佐藤千夜子がいた。彼女とふたりで密かに浅草へ映画を見に行ったことが発覚し二人とも退寮処分となった。その後、信子は神田のキリスト教女子青年会(YWCA)の寮生になった。この寮で津田塾や女子美術の学生と友達になった。

 YWCAの寄宿舎で大阪の朝日新聞が新聞連載用の長編小説を募集していることを知った。さっそく信子は応募の決意を固めるや、勤務のために北海道池田町にいる兄・忠明の家に向かった。北海道の大自然の中で信子は5月から7月までの3月間書き続けた。それが一等に当選する長編「地の果てまで」である。だが、この当選の通知が信子の手元に舞い込む前にに父・雄一は他界し、信子を悲嘆にくれさせた。

 大正9年(1920)の元旦から『朝日新聞』の「地の果てまで」の連載が始まった。翌年、兄・忠明の転勤に伴い東京に戻った。本郷林町に住んだ。近くの森川町に『朝日新聞』の懸賞小説の選者だった徳田秋声がいて、信子は時々、秋声を訪ねた。

 帰京とともに岡本かの子とも会う機会が増え、終生交際を続けた三宅やす子とも出会った。三宅やす子は加藤正矩(加藤弘之の弟)の娘で、のち昆虫学者宮家恒方と結婚した。夫の勧めで夏目漱石に師事、夏目漱石の没後は小宮豊隆に師事して文学活動を続けた。43歳のとき死去したが、娘三宅艶子が小説家となって未完の小説「偽われる未亡人」を「墓石の言葉」として書き継いだ。

 ちなみに、加藤正矩は、同郷の6歳の河本香芽子の養父である。

 信子は、大正12年には国民新聞の女性記者山高しげりの紹介で門馬千代を知った。彼女は東京女子師範学校で山高と同級で、そのころ女学校教師をしていた。信子は会った途端に千代との友情を感じ、それ以後長く二人の関係が続いた。

 長崎での取材をもとに『婦人之友』にキリシタン弾圧から明治の終わりまでの一家族を変転を描いた「薔薇の冠」を発表し、好評を得た。これが機縁となって羽仁もと子との交際が始まった。

 昭和2年(1927)31歳になった。「空の彼方へ」が『主婦の友』に連載され、社長石川武美との交際が終生続くことになった。石川武美は真摯なクリスチャン実業家として多くの社会的貢献をなしている。

 このころから信子の純文学方面への執筆が激減し、大衆作家の一人と目されるようになり、一冊一円分売の《円本》時代が信子にも迫ったが、新潮社企画の「現代長編小説全集」の中に信子の作も組み入れられて、印税が2万円転がり込んできた。この印税でヨーロッパ旅行をした。シベリヤ鉄道を利用したので、途中モスクワで中条(宮本)百合子湯浅芳子と会った。

 昭和5年(1930)、モスクワで出会った中条(宮本)百合子、湯浅芳子が帰国して下落合の信子の近くに住んだ。近くには林芙美子もいた。林芙美子は『放浪記』があたり、時代は新しい時代が到来した。が、信子は文芸批評で取り上げられることのない通俗小説一辺倒になった。それでも雑誌新聞等の大衆小説執筆で多忙を極めた。

 昭和15年(1940)、『主婦の友』特派員として満州開拓団を見学し、インドシナへも赴いた。翌年も特派員としてベトナムやタイにも出向き、途中で日米開戦を知らされ、急遽、飛行機で帰国した。

 昭和32年(1957)、61歳の信子は長年の共同生活の相手、門馬千代を嗣養子とした。67歳になったとき山室軍平を調べ上げ、「ときの声」を書き出した。

 昭和48年(1973)、恵風園病院で命終。立ち会ったのは養子の千代と姪の澤子の二人だった。信子の遺体は鎌倉大仏のある高徳院墓地に葬られた。旧吉屋邸は鎌倉市の「吉屋信子記念館」となって、信子の生存中のままのかたちで現存している。
出 典 『吉屋信子』 『キリスト教歴史』 『女性人名』
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