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 福田英子     慶応元年(1865)10月5日〜昭和2年(1927)5月2日
 明治〜大正期の社会運動家。本名は、英。
 
 岡山藩士景山確(かたし)と母楳子(うめこ)の次女として備前国岡山の野田屋町に生まれる。当時の確の職位は池田家の家老に仕える下級武士で、17俵2人扶持であった。祐筆、役小姓などを務めていた。下級武士の例にもれず生活の糧として内職に寺子屋を開いていた。楳子は確から和漢学を学び、その教養を生かして寺子屋の教師をつとめていた。

 英子が4歳のとき、明治維新の大変革が遂行され、父確は、武士階級の解体に伴って巡査となったが、5円の給料で家族(父、母、兄、姉、英子、弟)の生活は苦しいばかりであった。寺子屋教師をつとめていた母楳子は、岡山県が開設した女子教訓所という女学校の教師として招かれた。
47歳で寺子屋の教師となった。のち、女紅場の校長になった。

 英子は明治9年(1876)岡山県立研智小学校に入学し、その4年後、15歳で小学校を終えると助教となった。
 明治15年(1882)5月13,14日は、18歳の英子にとって終生忘れることのできない感激の日であった。それは、岡山で開催された演説会に岸田(中村)俊子が自由民権運動の弁士のなかの紅一点として英子の前に現れたことであった。その演説を聞いて英子は自由民権運動を志す。

 明治16年(1883)民権論者の活動家小林樟雄と結ばれる。「人間平等論」の演説をして女闘志と呼ばれたりした。

 私塾の「蒸紅学舎」を設立したが、当局の圧力で一年で閉鎖。同18年大井憲太郎らの大阪事件に連座して入獄、女傑として名を馳せる。12年出獄後、小林と別れて大井と恋愛、内縁関係となり一子をもうける。その後大井とも離別。25年(1892)アメリカ帰りの自由主義者福田友作と恋愛し結婚、三児を生む。33年(1900)友作と死別。

 キリスト教に入信し、翌年角筈女子工芸学校を設立、自らと女性の経済的自立をめざす。このころ堺利彦、幸徳秋水と出会い、平民社創立に参加、のちキリスト教社会主義者らの『新紀元』発行に協力。民法改正、sh回主義、婦人解放論を唱える。

 40年(1907)石川三四郎、安部磯雄らの協力で日本最初の社会主義女性新聞『世界婦人』を創刊、弾圧と生活難に抗して2年半維持し、婦選獲得、足尾鉱毒事件の谷中村民支援を続ける。41年石川三四郎と同棲するが、5年後に離別。

 英子は、41年(1908)6月23日の赤旗事件すなわち山口弧剣歓迎祝いで赤旗を翻して警察官と衝突をしているところから菅野スガや大杉栄、荒畑勝三その他が警察官に連行されていくさまを他の仲間らとともに錦輝館の2階から眺めていた。

 大正2年(1913)『青踏』に「婦人問題の解決」、昭和2年(1927)『婦選』に往年の活動の思い出「自由民権時代の婦人の政治運動」を寄稿。63歳で死没。

 著書に自伝『妾の半生涯』(明治37年)、小説『わらはの思出』(同38年)、がある。
<やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『明治女性史』 『婦人参政権』 『明治ニュース8』
母となる 福田英子 http://www.aozora.gr.jp/cards/000057/files/369.html
先駆けた女性景山(福田)英子 http://www.sanyo.oni.co.jp/kikaku/kibi-kairou/kibi16.html