最初のもくじ(index)に戻る 



 管野 スガ    明治14年(1881)6月7日〜明治44年(1911)1月25日
 明治期の革命家。
 筆名は須賀子。号は幽月。大阪生まれ。父・義秀、母・のぶの長女。

 京都の寺待出身で大阪の巡査から投機的な鉱山師に転じた父の事業の失敗続きで各地を流浪した。12歳で実母を失い、酷薄な継母に迫害されて育った。19歳のとき、東京深川の商人小宮福太郎と結婚したが、海軍に身を置くこととなったことを理由として離婚した。

 大阪に帰って文筆家を志し、作家・宇田川文海に師事して文学を学んだ。、『大阪新報』の記者をつとめ、文海の愛人のような生活を送った。

 『基督教世界』に寄稿したこともあり、私生活に対する反省からキリスト教に近づき、明治36年(1903)11月に日本組合天満教会で受洗した。日本基督教婦人矯風会大阪支部に入会し、宇田川文海らとともに「浪速踊反対運動」に活躍した。その過程で木下尚江を知り、その影響で社会主義運動に接近した。

 翌37年(1904)7月に女子学院で開催された婦人矯風会大会において、スガはガントレット恒羽仁もと子渡辺つね、堀あい子らとともに時事問題委員のひとりに選出された。

 平民社の堺利彦を訪ね、その紹介で和歌山県田辺の牟婁新報社に入社した。ここで荒畑寒村(勝三)と知り合い、40年(1907)から同棲した。このあたりから新聞紙上を絶えず賑わすしていった。

 その後、毎日電報(毎日新聞)社会部の記者となった。翌年、赤旗事件に連座して入獄するが無罪になった。
 福田英子は、赤旗を翻して警察官と衝突をしているところを錦輝館の2階から眺めていた。このときスガは肺を患っていた。

 赤旗事件は、山口孤剣が明治40年3月27日の平民新聞の論説「父母を蹴れ」などで新聞条例違反に問われて1年2ヶ月の刑に処せられていたが、彼の出獄を祝って社会主義者有志が赤旗を翻して歓迎しつつ帰路についているときに治安警察法違反に問われ、警察官との嵐の結果、堺利彦、荒畑勝三その他とともに拘引された事件である。

 スガは出獄後、幸徳秋水から経済的援助をうけ療養生活を続けているうちアナーキズムに共鳴して、秋水と恋愛関係に陥り、やがて平民社内で同棲するにいたった。秋水の妻・千代子は嫁ぎ先の姉のもとに身を寄せた。秋水がスガに『自由思想』の発行署名人としたことで、さすがの同主義者らから悶着が出た。

 しかし、秋水は自由思想の実行のみとて取り合わずに、発刊した。ところが、これは発売禁止となり、新聞紙条例違反で家宅捜査を受け、目下、肺を患っていたために断食して臥床していたスガを拘引した。罰金刑を言い渡されている裁判所の傍聴席に幸徳秋水はいた。

 同43年、宮下太吉、新村忠雄らと天皇暗殺を密謀したとして起訴され、いわゆる大逆事件で犯人とされた。幸徳秋水は湯河原で逮捕された。同44年(1911)1月非公開裁判により、大逆罪として秋水ら関係者11人とともにスガは24日午前8時ににわかに処刑されることとなり、秋水から順次6人の執行がなされ、午後1時前に終えた。

 秋水の妻・諸岡千代子は23日に、東京監獄に出頭して秋水と面会をして、差入屋の藤間方に立ち寄り本月中の昼食の弁当と夕食の洋食を頼んだ。ところが、千代子の心づけの差入を一度も口にすることなく処刑された。

 スガは、j辞世の句を残したと、新聞に出ていた。「やがて来む終の日思ひ限り無き生命を思ひ微笑みて居ぬ(中略)」

 スガは、他のものから一日遅れて執行され、死体の引き取りには、スガが生前かわいがっていた妹ヒデ子は41年2月に肺結核で死去したため、堀ヤス子が出頭した。スガの生前の遺言により、落合の火葬場で荼毘に付し、下淀橋町字角筈新町にある正春寺に葬られることとなった。法名は釈淳然。

 戦後発見された獄中記『死出の道草』がある。大逆事件の真実を明らかにする会によって、昭和46年(1971)7月東京代々木の正春寺境内に記念碑が建てられた。 
出典 『キリスト教歴史』  『女性人名』 『明治ニュース事典8』
天満教会  http://homepage1.nifty.com/temma/