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 津田 栄子    嘉永4年1月16日(1851.2.16)〜昭和18年(1943)12月8日
 天城教会伝道師。

 夫の一陣(かずのぶ)が西南戦争で戦死した後、信仰を得て、明治17年(1884)、天城基督教講義所(天城教会)で金森通倫から受洗した。天城教会では第2回(2番目)の受洗者となる。ちなみに第1回(最初)の受洗者は津田美歌子で、天城教会創立期の教会員として指導的役割をもつとめた。

 同年11月、栄子は神戸女子神学校(現在の聖和大学)に入学し、第2回生として卒業した。
 明治22年に受洗して、明治から大正期にかけてキリスト教伝道師として活躍した小野家寿子も天城教会を母教会として、しかも栄子と同じ神学校出身である。栄子は明治20年(1887)天城基督教会の会計執事をつとめていたから、小野家寿子はともに礼拝を守り、栄子の祈りに支えられて献身した様子が目に浮かぶ。

 栄子は、卒業後は神戸女学院の舎監となったが、明治23年(1890)1月に自給伝道師として奉仕活動を開始した。

 夫一陣は津田美歌子の義理の子である。一方、加藤寿(ひさし)の母は津田美歌子であるから、一陣と加藤寿は彼の異母兄にあたる。
<やりかけ>
天城教会 明治13年(1880)10月、日本組合岡山教会が設立されて岡山県下の伝道が進展したことに伴い、天城出身の加藤寿子が、倉敷にいた川越義雄伝道師を招聘して津田家をはじめ数箇所で家庭集会を開くようになったことが教会設立の動機である。
加藤 寿 寿の母は津田美加子。父は津田熊次郎。日本組合基督教会天城教会創立者のひとりである。書記の同志社の幹事をつとめた。一時、新島襄の秘書になったこともある。
金森通倫  明治5年(1872)熊本洋学校の第二期生として入学。ジェーンズ,L.L.の薫陶を受け、(1876)の花岡山奉教結盟に参加。同年秋、同志社に入学し、新島襄から受洗。(1879)6月予科を終えてどん同活動を行い、翌年10月に岡山教会の創立時に牧師としての按手礼を受けて初代牧師に就任。(1886)には同志社に戻り、新島襄の大学設立の夢に募金活動などで大いに貢献。

 やがて新神学の信仰を公表して日本組合基督教会を脱会、自由党に入党、三井鉱山その他の実業界で活躍。全国的に貯蓄遊説などもしたが、妻小寿の没後は回心して組合教会に復帰し、山室軍平の救世軍に入隊したり、中田重治の東洋宣教会日本ホーリネス教会に入会、百万救霊を展開するなど積極的に活動をした。海外にも出向いたが、結局は救世軍もホーリネス教会からも脱会して、(1933)湘南の嶺山に隠居して洞窟生活を送り、<今仙人>と称された生活後、福島県郡山で(1945)3月4日に永眠。
出 典 『キリスト教歴史』
天城教会(http://www.c-sugar.on.arena.ne.jp/amaki/info/index.html
天城教会(http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/shitei/sub4_amakikyoukai.htm
神戸女学院( http://ns.kobe-c.ac.jp/index.html