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加藤 俊子  天保年12月1日(1839.1.15)〜明治32年(1899)6月27日

明治期の教育家
 越後国に生まれる。

 1852(嘉永5)年、同国の板屋沢村の大庄屋加藤雄次郎と結婚して3男1女を産んだ。1868(明治9)年3月16日、夫が死去。29歳の俊子は子沢山の未亡人となった。

 1881(明治14)年に子どもが
宣教師パームの関係した病院に入院したことがきっかけでキリスト教を知るに至る。1883年、村上に移住。そして、翌年5月、村上教会で長男加藤勝弥夫妻とともに受洗した。授洗者はデーヴィス宣教師

 受洗後の翌月、上京して数寄屋橋(
巣鴨)教会に転会。1884年から3年間、ヤングマンの伝道学校に学んだが、一家の牛込移転に伴いやむなく退学した。

 村上在住のときより女子教育に尽力してきたが、1888年に「精神ありて資金乏しき女子を教へて独立自修の途を立てさする」ため有志と
女子独立学校を創立して、自らが校長の任にあたった。以後、死に至るまで女子教育に挺身した。

 一方、市ヶ谷(
池袋西)教会の熱心な会員として、一族に信仰の継承をさせた。加藤タカは俊子の孫にあたる。
 俊子の活動を終生に渉って支援した植村正久は、「女史は性深沈にして剛毅の気象あり」と評価した。

 墓地は東京の谷中霊園にある。

医療宣教師パーム

1873年、エディンバラ大学卒業した翌年5月、来日。1875年4月、最初の宣教師として新潟に赴任。恙虫病をヨーロッパに紹介し、リスター式消毒法や近代看護法などを日本に導入した功労者。

村上教会

宣教師パームや押川方義らによって1878年5月に開始された教会。

加藤勝弥

政治家、教育家、実業家。数寄屋橋、市ヶ谷教会の長老。北越学館初代館長をはじめ母俊子の開設した女史独立学校、明治学院にも理事として貢献。県政のほか、羽越線の開通、新潟毎日新聞社の創設にも大貢献。四女タカをはじめ5男7女はいずれも信仰を継承。

デーヴィス宣教師

 

巣鴨

 

ヤングマン

 

女子独立学校

 

池袋西教会

 

出典

『キリスト教歴史』『女性人名』『回想の加藤勝弥』