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  山を考える  

このページは、山について考えてみたページです。

・高尾山について(2007.6.10追加更新)
・山とはどんな世界か?
・山を何故ヤマとかサンと読むの(2006.11.5追加更新)
・山の名、なぜ「山」と「岳」あるの(2000.5.30読売新聞)
・畑と畠の違い? ・山での生き方 
・低山とは ・磐梯山の今と昔
・干支と還暦・・・・など
 

白毛門
山とはどんな世界か? 
 広辞苑などによる山の語源についてはいくつかの説がありますが、山の「ヤ」は「高き義」「重なり積もれる」ことをいい、「マ」は「限り隔たりぬる」こと、一定の間隔があることを指すという新井白石の「東雅」の説に沿った解釈を採用しています。
 このように、山の第一の特徴は、高く突出して大地が積もり重なっているところに認められます。そしてそのような場所は天に近いのです。
 そこから山は、高いところに昇っていく性質をもった死者の霊魂が帰っていく場所と考えられました。これを山中他界観と言います。この考えがのちに仏教と結びつき、平安時代には山中浄土観へと発展します。恐山でイタコが口寄せをするのは、そこが死者の寄り来る他界だからであり、同じ事を、各地修験者も行ったのであります。

            「修験道の本」学研編集部


高尾山について (山行日誌からの抜粋) 
詳しくは 高尾山の山行日誌

世界一の山 という人もいる高尾山 山行日 : 2001年5月3日   メンバー3名
  高尾山の登山は、これで13回目になるが、何回登ってもいい山だ。 確か3年前と思うが、途中でふと出会った見知らぬおばあちゃんに声をかけた。「お元気ですね。」 びっくりしたおばあちゃんだったが、すぐ反応があった 「私はお医者さんの勧めで、70歳から腰痛治療のためにこの山に登り始め、これで500回目になります。」 ”いやー”たいしたもんだ。

  だからこの山についてはすべてを知り尽くしている。そこでいろいろなコースを教えていただき、思いがけない素晴らしいハイキングをした思い出がある。 その時は、記念に 「たこ杉」 で一緒に写真を撮り、翌日送ってあげた。

  おばあちゃん曰く 「 {ここは世界一の山だ。 } と 私の主人が言ってます。」 その訳は、「高尾山はこんなに都市に近くにありながら、自然がちゃんと残っていて、四季を通じて植物やバードウオッチングが楽しめる、しかも安全だから一人歩きでも苦にならない。 こんなに恵まれた山は世界中探してもないよ。」 と、ご主人の持論を展開してくれた。

  「随分ご主人は詳しいんですね。」 と聞いたら、このおばあちゃんのご主人は、世界中を植物調査のために回っている植物学者だという。 そのご主人が世界中から選んだ高尾山。なるほど、確かに説得性がある訳だ。ちなみに、このおばあちゃんは86歳、16年かけて高尾山を500回踏破し、今では持病の腰痛もすっかり治り、元気はつらつ。

  高尾山は山歩きが年中楽しめる世界一の山。 そんな話を聞いて、私も高尾山のフアンになってしまった。 いつまでも安全に一人でも登れる高尾山。 交通の便も最高、年中いつでもお勧めできる一座である。 私ももっと登らなくっちゃ!

ハナネコノメ!見いつけた  山行日 : 2005年4月7日  晴 メンバー2名

 今日の高尾山は、カミさんが入手してきた情報で、珍しい花 「ハナネコノメ」 をデジカメで撮るのが目的だった。どこに咲いており、どんな花かインターネットで調べた結果、6号路の6番〜7番標識の間に咲いていることがわかった。念のため高尾駅で高尾山のパンフレットを貰って確認したら、インターネットの情報とぴったり。こうなると、具体的でわかりやすい、流石は情報化時代、有り難い世の中だ。

特に今日は、カミさんもオリンパスのデジカメで花の撮り方を○○の手習い。30枚くらい撮った中で、何とか使えると思われる写真が2枚くらいあって、まあまあの成果。

コースは登りが6号路、下りは4号路から日影沢へ下山し、高尾駅まで歩いた。まだ4月というのに、ここ3日間25℃を超す連続の夏日、途中、ある民家の庭先に見事ななカタクリが満開で、思わずシャッターを切った。
歩行時間は約4.5時間。よく歩いたあとの生ビールと、美味しいとんかつで心地よい山行を締めくくった。
ハナネコノメは全長5〜8cm 花の直径約5mm 花が猫の目のように小さいとこらからその名がついたという。


ハナネコノメ

山を何故ヤマとかサンと読むの? ヤマとサンの使い分けについて
・・・ こんな質問が最近4通よせられました。

あくまでこれは私個人の考えです。
山の呼び方はサンとヤマの他、センとかザンとかありますが、珍しい名ではマルとかモンとか付く山名もあります。
 
これは最初に山の名前を付けるとき、例えば富士山であればフジサンと呼んだ方がゴロ合わせがよくて名付けたのだと思います。
原則的には頭の字が音読みであればサン、訓読みであればヤマを付けるようです。しかし、山名にはそれぞれの由来と歴史があるので、例外も沢山あります。
 
こうして付けた最初の山名を地図などに登録して、それを忠実に読ませているのだと思います。
同じように橋はハシ、バシ、キョウなどがあり、海をウミやカイと呼ぶがごとく、これらと同じ解釈だと考えます。
私も国語学者ではありませんので、正しいかどうかはわかりません。私にとっても今後の課題です。
 
更に詳しくは
Yahooの検索で 山 と入力し、上欄の辞書をクリックし、大辞泉みれば、だいたいのイメージがわかると思います。
山とは、
(やま)
  1.. 周囲よりも高く盛り上がった土地・場所。山岳。山を参照。
  2.. 物事の絶頂、肝心な個所。山場(やまば)の略語。
  3.. 根拠のない見込み。山勘(やまかん)の略語。
  4.. やまの形をしたもの。
  5.. 祭の山車などの略称・通称。詳しくは山車を参照。
  6.. 麻雀牌を積み並べたもの。壁牌(ピーパイ)ともいう。
  7.. 愛知県名古屋市昭和区にある喫茶マウンテンの通称。
  8.. 日本の自動車のナンバープレートのかつての地名表示の一つ。現在の「山口ナンバー」
  にあたる。
(さん)
  1.. 山(山岳)の名称の接尾語(例:富士山、エベレスト山)。
  2.. 仏教寺院の山号(例:本山、成田山新勝寺)。
  3.. 城郭のこと。(地名、山下、山北)

   ※以上、ヤマとサンについて2006.11.5追加更新
                 
 
山の名 なぜ「山」と「岳」あるの
 
高い「岳」身近な「山」?
 山の呼び名に○○山と○○岳があるのは、何か根拠があるのでしょうか?
 辞書を見ると、山は地形的に凸起した部分。岳は「広辞苑」(岩波書店)によると「高くて大きい山」。中国の「辞海」では「五岳のように高くて大きい山」としています。

 確かに岳は日本の場合でも、高い山に多いようであります。「世界山岳百科事典」(山と渓谷社)の高度表の十傑でいうと、トップは富士山で「山」ですが、あとの九つは北岳、奥穂高岳、槍ヶ岳など「岳」ばかりであります。これをベスト百まで広げても、八十四が岳ですから「岳は高い山」、と解釈することができそうです。

 小学館の「日本国語大辞典」の岳の項には、「嶽という語尾をもつ山峰は、頽岩や崩土を大規模にもつ雄大な山に用いられ・・・・」という言葉もみられます。 国語語源辞典(校倉書房)は岳を高、丈、竹などに当てた後、ユーラシア大陸、北米に広がっている似た発音の言葉を拾っています。

 一方、トルコでは「dagn(岳)」がつく山名が百三十以上ある、とも記しています。いずれも発音、形態からの解釈でありますが、山名を調べている名クライマーだった古川純一氏によれば、日本の山、岳については言葉の入ってきた時系列に関係がある、という見方をしています。

 古い順からいうと、縄文時代、高いところは「ね」と言いました。それが屋根、尾根、そして峰の語源であります。山は峰から始まります。白根山、早池峰などがそうです。その後にイランの南部で急傾斜を意味する「ダカン」を語源にした「岳」。さらにその後、東南アジア、中国から入ってきたのが「山」であります。
  古川氏によると、沖縄の山に岳が多いのも、佐渡島に山が多いのも、言葉の入ってきた経路に関係があるためだと言われています。
 
古い順では 峰→岳→山 時代で変わる例も 「語源命名時期関連説」
 この順は北アルプスの剣岳と立山の関係に現れると言います。富山県側から見ると手前の剣岳は、最初に命名されたから「岳」。その奥の立山、これは太刀からきているから剣と同意、その後についた名だから立山、と言うわけであります。富士山は富岳から富士山へ。筑波山も古い著述には筑波岳の文字が見えるそうであります。

 しかし、深田久弥氏の「日本百名山」でいうと、岳は四十四で、山が五十一と多くなっています。羊蹄山、岩木山、岩手山、鳥海山、浅間山、白山など、独立峰で古里の山と言われるのは「山」が多いようであります。

 八甲田などは、大岳など八つの峰を総称した山名であります。南アルプスの北岳、農鳥岳、間ノ岳は白根山、または白根三山と呼ばれます。また、木曽の御嶽山などは、岳と山が一緒に入っています。多く人が口にするのは「山」が多いようであります。これは親しみの度合いかも知れません。いずれにしても、山岳の命名に定説はないようであります。

            2000年5月30日 読売新聞夕刊
 
 
山岳の語義その2
山と岳の違い?

畑と畠の違い?

山での生き方?


生藤山からの富士
 山はわが国において、ヤマと発音されてきました。「古事記」の上巻、神々の生成のくだりには、「次に山の神名は大山(おおやま)津見(つみ)の神を生みたまひ、次に野の神名は鹿屋野比売(かやのひめ)の神を生みたまひき。」とあって山という字をヤマと読ませています。
 ところで、ヤマという言葉は、どのような語義をもったものでしょうか。これについて新井白石の「東雅」は、その地與の条に次のようにのべています。

 山。ヤマの義詳ならず。万葉集抄に、昔は山をいひて子といひし也。ヤマといは、山は高き義也。山は円なりをいふなり。其形高く円なるをいふ也といへり。されど古語に八俣といひ、八田間などいひし例によらば、ヤマとは、唯その高く隔りぬをいふに似たり。古語にヤと云ひしは、重なり積もれるをいひ、マといひしは、限り隔たりぬるをいひしあり。凡そ物積りぬれば、其形自ら高し。限り隔たりぬれば、その時自ら間あり。されば後に漢字を伝へ得て、弥の字読てヤといひ、ヤマなどといひける也。
 
 すなわち、ヤは重なり積るのいう意味で、マは隔りの限界を意味する言葉であったというのであります。しかし、これに対して谷川士清(ことすが)の「和訓栞」は、全く違った解釈を試みています。すなわち、その前編三十四に、やま(山)をいふ。止の義動かざるを称すといへり。古今集にも、ひらの山をかくして、かくてのみ我おもひらのやまざればとよめり。一説に弥間の義、弥高く間隔せるをいふなりともいへり、とあります。
 
 これによれば士清は白石の説を一説として認めながらも、ヤマは止むの意、すなわち動かないものという意味であるとしています。
 このようにして、ヤマの語義については、二種の説があるということができます。しかし、二説のうちの何れが多く用いられているかを見るために、一、二の辞書をみると「大言海」には「土の平地より大きく高くなれるもの」と説明し、「すべて物の堆くなれるもの」という注がついています。

 さらに新村出博士の「広辞苑」を見ると、「平地よりも高く隆起した地塊。谷と谷にはさまれた凸起部」としています。いずれもヤマの語義としては、ヤはものの積み重なれるをいい、マは一定の間隔を意味するといい。「東雅」の説を採用した説明のようであります。

 しかし、ヤマということばは、山の意味のみに用いたとは限りません。ヤマということばの特殊な用例は、古代にもないわけではありません。山法師といえば、比叡山延暦寺の僧兵を意味した場合があります。「古今和歌集」十八の雑の下の歌に、世を捨てて山に入る人山にてもなほ憂きときはいづち行くらん
 
 とある場合の山も、具体的には比叡山の延暦寺を意味しているらしく、また山というのは、山稜を意味する場合がありました。「三代実録」にでてくる山作司の、山がそれであります。さらに、京都の祇園御霊会に際して引き出される山車のことを、山という一語であらわした特殊な場合もありました。
 
 次に岳というのは、どういう意味でしょうか。これについて「東雅」は、嶽(タケ)といふ。タケは高なり。倭名抄には漢語抄を引て、嶽の字ミタケと読むと注せり。ミといふはミネのミの字に同じ。旧事記・日本記には、その峰の字を用いてタケと読まれしなり。として、嶽は高い意味であるとしています。

 もっとも、ヤマということばに特殊な用法があったように、ミタケという場合にも、一段に高い山を意味するのではなく、特定の高山を指す場合がありました。なかでも長野県の御嶽神社のある山は、ミタケまたはオンタケとよばれました。ミタケは秩父多摩国立公園の一部を占める山を意味することもあれば、また山梨県巨摩群宮本村にある金桜神社をまつる山を意味することもありました。

 しかし、奈良県吉野郡金峰(きんぷ)山のことを、ミタケまたはカネノミタケとよんでいたのは歴史上の著名な事実であります。

      高瀬 重雄著「古代山岳信仰の史的考察」 名著出版 1989年8月30日
      
            
畑と畠の違い(柳田国男の視点)
 明治末期、柳田が農政学から民俗学へ転じようとしていた頃、柳田には日本の風景が二通りに見えていたに違いありません。二つとは山と平野の二つであり、異なる人々と異なる文化が併存するという見方であります。 
 たとえば明治41年(1908)に熊本県五木村を訪れ、村の古い絵地図を見て畑と畠の違いを知ったと言われています。

 畑はコバすなわち焼畑であり、畠は常畑をさす。そして翌年日本民族の起源に絡めて山と平地の違いを指摘する。すなわち、米を作る平地(里)と焼畑を営む山地との対比であり、伝統や文化に異なりをみせる人間や風景が少なくとも二通りあることを見据えていたに違いありません。

     湯川 洋司著山の民俗誌」吉川弘文館 1997年10月1日

山での生き方(狩猟の例)
 山で生きることは山の自然と時にたたかい、時に適応することであります。そのためには山に生育する草木・動物、生起する天然現象等についてよく知り、知識として蓄えておく必要があります。狩りをする者は、山の地形や動物の習性などをよく心得ておくことが、狩猟活動の前提となります。

 足跡一つからその動物に関するさまざまな情報を得て、狩りの戦法を組み立てることは猟師にとって必須のことがらであります。
 福島県のある猟師の話では、大型獣であるクマとカモシカの習性には次のような違いがあると言われています。すなわちクマは人に追われると上へ上へと逃げる。だから勢子が下から追い、射手が上で待ち受けるように狩場の人員配置をします。

 一方カモシカは、人に追われれば沢めがけて下へ下へと逃げる。逃げて走って胸がやけ、必ず水を求めるから沢へ進むのだと言います。それで沢へ追い詰めれば、生け捕りさえできるのです。

 そうした動物の習性を観察し、それに応じた狩猟法を考え用意すること、これが山で生きる前提であります。

             (『日本精神史』1991年)
              
 
低山とは何かその魅力と楽しみは

・低山とは何か、その魅力と楽しみは(山と渓谷より)

・里山とは


伊予が岳
低山とは何かその魅力と楽しみは(山と渓谷より)
 今、低山が面白い。中高年の登山ブームから環境問題まで、何かと近くの山が賑やかです。
 そこで、この記事は、各地の山をよく歩き、こだわりをもつ4人の登山家から、低山について、思う存分に語ってもらいました。
 第1回低山サミット(1994年12月:箱根)ともいうべき特集です。
 
登山家の紹介
・横山 厚夫:1933年東京生まれ、著述家、日本山岳会会員。
・小倉  厚:1929年新潟生まれ、深田クラブ会長、日本山岳会会員、新ハイキングクラブ会員、エッセイから短歌まで幅 広くこなす。
・小林 泰彦:1935年東京生まれ、イラストレーター。風俗から旅、そして山までフィルドは幅広い。
・紀村 朋子:1955年東京生まれ、フリーライター、編集者、山と渓谷ではウイークエンドの構成編集を担当。
 
 上記の4名は、現代感覚にマッチした、日本の名低山50座づづを選定してくれた人たちです。
 「低山とは何か、その魅力と楽しみとは」について、登山のスペシャリストの意見を集約して紹介します。

1ここでいう「低山」と呼ぶ基準とは
 (1)山の品格・歴史・個性を持ち、標高は1500メートル以下、しかし低山だ と思えばそれ以上でもこだわらない。
 (2)展望・雑木林・山村風景が良くてどこかに神社がある。
 (3)静かな山・全国的に名前が知られている山。

2低山にいく人はどんな人?
 低山に登る人は、自分の好みがはっきりして、幅広い趣味と好奇心の強い人が多く、このような人が低山は楽しめます。
 例えば、写真撮影、絵描き、植物採取、昆虫採取など色々な楽しみ方があります。
 
3高い山と低い山登山の考え方
 (1)低山の良さは、高い山に登って、その良さが判ると言われています。
  近場の低山ばかり行ってたら、日本全体が判らなくなります。
 (2)料理に例えるなら、高い山は「有名店のフルコース料理」どんどん料理が運 ばれてくるように、登るだけで景色も変化するし、劇的であります。 低山は、「ラーメン」安くておいしいラーメン店を探すようなもの。それは安くて楽しいのです。
 (3)低山は、気持ちの余裕があるから、気持ちが山ばっかりに向かない、メンバーとか、雰囲気によって印象が変わります。
  高い山は、山が主で、低い山はメンバーや人数に左右され山は従になりやすいのです。
 
4低山の魅力と日本の縮図
 低山登りは遊びとして安い、ぺちゃくちゃしゃべりながらの山行は、最高のストレス解消であります。日本のおばさんは体力が有り余って好奇 心が強く、ストレスを山で発散し、精神的に元気だけれど、おじさんは疲れています。ふだんから疲れているところに、歩いてから更に疲れます。
 これが、日本の縮図かも知れません。
 

里山とは
 
ひとことで言えば、「里にある森林(=緑)」という意味で、都市と自然の間にあって、人が利用してきた(いる)森林のこと。今多くの里山は、昔と比べ、あまり利用されていなません。
 「里」というのは、大自然に対して「人の住むところ」をさし、また都市に対する「いなか」という意味もあります。ここでは大自然(人がいないところ)と都市との中間に位置する空間をさします。
 「山」とは、起伏のある地形をさすこともありますが、「里山」の「山」は「森林」という意味です。
「磐梯山」今と昔

干支(えと)と還暦について

干支と暦(こよみ)
磐梯山」今と昔
  ♪会津磐梯山は宝の山よ
  笹に黄金がなり下がる ♪・・・・・・・
 
 民謡「会津磐梯山」のよく知られた歌詞であります。
 この磐梯山は、平成8年9月16日に私たち山のメンバーで登った思いで深い一座で、山仲間の語り草であります。
 その時は、何故磐梯山が宝の山とうたわれたのか? 強い関心があり、地元の人たちにいろいろ聞いてみましたが、明確な回答は得られず、たまたま下山途中に、休憩所の弘法清水近くにあった、売店のおばさんが教えてくれました。「『磐梯山は宝の山』と昔から言われていますが、地元の人間としていえることは、この磐梯山には毎年、冬はスキー客、春夏秋は登山者や観光客が大勢押し寄せてたくさんお金を使ってくれるから、有り難い収入源になるんですよ。だから『宝の山』だと私たちは思っています。」それが真実かどうかは別として、その時は説得力のある回答であるような気がしました。

 ところが、本日読売新聞の特集記事をみて、ふと考えました。そうだ、この特集記事を契機に登山の思い出と重ねながら、「磐梯山は宝の山」について改めて考えてみたい思いました。

 その磐梯山が、今年五月、三十五年前からの観測史上、初の火山性微動を起こしたのです。今月十五日(平成十二年八月十五日)には、最多の四百十六回の地震が発生。気象庁は翌十六日臨時火山情報を出し、「小規模噴火の可能性」を指摘しました。 磐梯山は福島県中部の猪苗代湖の北側に位置する成層火山。すそ野の広がりが似ていることから「会津富士」とも呼ばれます。猪苗代湖側を表磐梯、1888年(明治21年)の水蒸気爆発でU字状の崩壊カルデラができた山体北側を裏磐梯と呼びます。大規模な噴火は806年にも起きています。

 明治二十一年の水蒸気爆発で小磐梯が吹き飛び、ふもとの五村十一集落の約百戸を埋め尽くしました。一瞬にして四百七十七名の命を奪ったと記録されています。

 飛散した岩石が、猪苗代湖に注いでいた長瀬川の支流を次々に堰き止め、大小三百の湖沼が誕生しました。桧原湖も、そんな「堰止(せきと)め湖」の一つなのです。
 噴火が起きたのは、午前七時四十五分。朝早く家を出て、森の奥まで入っていた人に命を落とした人が多いのです。地元の衝撃は大きく、それからというものは、急用がない限り、出掛ける前にゆっくりと「朝茶」を飲む風習になったといいます。
 磐梯高原一帯は1950年、既に国立公園に指定され、観光客が年々増え、現在は年間350万人が訪れ、そのため、「磐梯山観光」に懸ける人たちにとって、この噴火の影響は計り知れない打撃を受けることになります。

 ところで、読売新聞の取材(山口正雄記者)によると、ふもとの塩川町の商工会副会長佐藤一男さん(70)は、三〇年前まで会津地方で鉱山を経営していました。県立博物館資料調査員を務め、県内鉱山の歴史にも詳しい人です。「旧桧原村の鉱山は江戸時代の会津藩の財政に貢献しました。でも、だれにとっても
『宝の山』になるのは裏磐梯の今の景観がつくり出されてからでしょう」と話しています。

 裏磐梯は、国内で唯一のバンダイクワガタが自生し、南限、北限の植物など九八〇種の植物が群生しています。クマやタヌキなどのほ乳類、約八〇種のチョウ類、約六〇種のトンボ類が生息し、約一六〇種の野鳥が飛来する動植物の宝庫です。「噴火で破壊された自然が、新たに多様な景観をつくり出した営みは貴重」と国内外の自然科学者が注目しています。

 この陰には、先人の偉大な努力があったのです。
「東洋のスイスを目指そう」
 明治末期、会津若松市で醸造業を営んでいた遠藤十次郎は、私財を投じて国から土地の払い下げを受けました。数十万本のアカマツやスギの苗木を同志とともに、汽車と馬車で運び、十年ほどかけて約四七〇ヘクタールに植林しました。
 五色沼周辺から桧原湖畔までつづくアカマツの群生に、多くの観光客は魅了されます。佐藤さんは「私が生まれた頃はまだ、松の木は赤茶けた山の岩間を埋める程度。こうした先人たちの努力も私たちの『宝』です」と感謝しています。

 磐梯山が「宝の山」とうたわれた由来について考えると、元々は「旧桧原村の金鉱山が江戸時代の会津藩財政に貢献した」ことに始まり、その後は噴火による自然の破壊が観光資源を産み、地元の人に恵みをもたらす結果となったことが、現在ではその主流を占めているようです。

 地元の人たちの会話と自然なやりとりの中に、そのような気持ちが現れているような気がします。
 会津磐梯山は、確かに昔も今も魅力ある「宝の山」なのです。

   1999年8月27日(日)読売新聞  山口 正雄記者
   2000年 列島を行く(火山と暮らす磐梯山 景観・水・山の幸・宝の山)
 
 
干支(えと)と還暦について
 還暦を過ぎた中高年の山歩き人口は最近特に多くなりました。しかし、幸いにしてみんな元気で山歩きをしています。
 そこで、還暦とは何かについてここで考え、調べてみることにしまた。
 満六〇歳になると「還暦に達した」といい、赤い袖無しに赤い頭巾をつけて祝う人達もいる。赤い色は赤ん坊の表示で「もう一度生まれ変わって出直す」という、二度目の誕生を祝うわけであります。

 では、何故六〇歳が二度目の誕生になるのか? いったい還暦とは何のことか? これについては、まず干支というものを知らなくてはならなりません。

 干支と称するものは干(10種)と支(12種)の組み合わせにより、全部で60組あります。干は甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の10種からなり、支は子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の12種で、通常この生き物で区分した12種をもって「今年のえとは」とか、「貴方のえとは」とか、略して表現されているようであるりますが、正確ではありません。

 本来の干支は干と支の組み合わせで、甲子(きのえね)乙丑(きのとうし)丙寅(ひのえとら)丁卯(ひのとう)戊辰(つちのえたつ)己巳(つちのとみ)庚午(かのえうま)辛未(かのとひつじ)壬申(みずのえさる)癸酉(みずのととり)甲戌(きのえいぬ)乙亥(きのとい)・・・・・・・以下略
  という順で60組になります。

 この一定順序で毎年に配当されていることから、六〇年を隔て同一干支が出てくる勘定になります。
 即ち六一年目(六〇歳を迎える年)が同じ干支の出てくる年になり、その年を還暦というのです。

 還暦とは、「暦年の上で干支が還ってくること」であり、それを迎えた人にとっては、ここで若返って再出発すべき、めでたい時機である。と考えたから、そこで「赤ん坊に返ったような」服装をして、まわりの人たちから祝福してもらうという習わしを生じたのであります。
                                
干支と暦(こよみ)
 干支紀年法は中国に始まる、といわれていますが、いつからであるかは明確ではなく、おそらく世紀前104年(漢の武帝の即位三十七年)太初歴というこよみ(・・・)が作られたころに前後して、歴書の中に干支紀年法が用いられたものと思われています。
 そしてこの方法は、中国にずっと古くから行われていた、干支紀日法(毎日に干支をあてる法)の応用であり、干支を年に当てることが始まったときには、同時に月にも当てるようになったのであります。

 このような訳で干支とこよみ(・・・)との関係は、まず毎日に干支を当て日を順序づけることに始まったのであります。そして、さらにその始めを求めると、ごく古くは干支ではなく干だけで日を順序づけたのであり、干には十種、すなわち甲乙丙丁戊己庚辛壬癸があるから十干といい、これで日を並べるのを十干紀日法というのです。

 当時は毎日をほぼ三十日としてこれを三分し最初の十日間を上旬とし、中の十日を中旬、末を下旬に十干を当てたのであります。
 それゆえ、1ヶ月間がもし必ず三十日であれば、どの月の日順もみな同一の十干の順になるわけで、たとえば毎日の第一日はいつも甲の日、第九日はいつも壬の日となるところでありますが、実はどの歴法によっても毎月の日数は必ずしも三十日ではなく、したがって毎月の日順を示す十干は一定ではないのです。

 そうであればこそ暦術のまだ粗略であった時代には、毎日を数字で表すことができず、十干で表したのであります。
 このように、暦は干と支の組み合わせにより形成され、現在に至っています。

       竹内 照夫著 「干支(えと)物語」 2000年2月
2006年3月1日から
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