毎年2月は自死について考える月。自死をテーマにした専門書を集中して読んだ年もある。昨年は、年若い頃に身近な人を亡くした人を対象にしたグリーフ・ケアの本を読んだ。とても有益な本だった。今年は、自死を主題にした小説を読んでみた。
物語に自死が現れる小説は珍しくない。夏目漱石『こころ』のように、登場人物が結末で自死するもの。村上春樹『ノルウェイの森』のように、物語の途中で登場人物の一人が自死するもの。梨木香歩『海うそ』のように、物語の最後に突然、自死が登場するもの、太宰治『満願』やゲーテ『若きウェルテルの悩み』のように書き手が自死する作品もある。
意外に少ないのが、身近で大切な人を自死で失った、いわゆる"自死遺族"の心境を描いた作品。私が読んだ小説のなかでは、森山啓『谷間の女たち』しかない。もっとも、私は多読ではないので、私が知らないだけで、ほかにもきっとあるだろう。
福永武彦『草の花』は自死遺族の文学か。読みようによってはそうとも言える。意見が分かれるところだろう。危険な手術に臨んだ汐見茂思の死は自死と言えるかもしれない。しかし「私」は遺族と呼べるほど汐見と近しいわけではない。そういう理由で、私は『草の花』は自死遺族の文学には分類しない。
本作は、どこかで自死を主題にした作品と見聞きしたので、読んでみることにした。そう、私は自死遺族の文学を探している。
前置きが長くなった。自死遺族の文学であることを期待して本作を読んだ。結論から先に書けば、期待通りではなかった。
自死遺族へのサポートを扱った本を読めば、自死遺族は、深い悲しみだけではなく、強い自責の念や、激しい怒りさえ持つことがわかる。本作において、主人公の心情はそのような複雑なものとして描かれていない。あえて言えば、複雑な感情すら持てない、現実を受け入れられない初期反応のような状態にある。
その意味ではこの作品は自死遺族の文学の入口にとどまっている。疑問も悲しみも怒りもここから始まる。死者との対話が生まれるまでにはまだまだ長い道のりが必要だろう。
安易に死を受け入れたり、悲しみを乗り越えてしまわないところはよいところと言える。でも、自死遺族が本作を読んで自分たちの心情をよく描写していると感じるか、私には疑問が残る。主人公は淡々と謎を追いかけていくだけで、戸惑いや怒りなどが感じられないから。
何か物足りなさが残る。
こんな風に書くことは、医者が医療ドラマに「ホントの手術室はこんなものじゃない」とケチをつけたり、科学者がSF漫画に知識不足や矛盾を指摘するようなことと同じだろうか。きっとそうだろう。自分が自死遺族だからといって小説の中の自死について文句を言う資格はない。作品の中の自死を客観的に評価することが私にはできない。問題は私の方にある。
もとより芸術に制約はない。どう書こうと作者の自由であり、自死を肯定する作品さえ、書くことを止めることはできない。もちろん、そういう作品を嫌う自由も読み手にはある。
私が書いてきたことも、一人の読者の勝手な感想であり、書評や批評とは呼べない類いのものだろう。
さくいん:小川洋子、自死・自死遺族、悲嘆、夏目漱石、村上春樹、太宰治、梨木香歩、森山啓、福永武彦