西田幾多郎の日記と書簡を集めたアンソロジー。西田の哲学論は読み難いが手紙や日記は平明で読みやすい。年譜や家族の生没年を付した系図、登場する関係者の紹介も付いていて手助けになる。
『声』という書名がいい。よい文章からは書いた人の声が聴こえると聞いたことがある。私的な手紙を読んでいると西田の人となりが見えてくる。
『西田幾多郎歌集』に収録されていた息子の外彦や娘の弥生、静子の回想と合わせて読むことで、西田の人生を俯瞰できたような気がする。
以下、読みながら気づいたことを箇条書きにして書いていく。
前にも書いた。西田幾多郎の論文は読みづらいが手紙や随筆は読みやすい。
弟子にあたる人に対しても「です・ます」調の丁寧な文章を書いている。娘たちへの手紙の口調は厳しい。
1895年(M28、25歳)のときに書いた手紙はまだ「候文」。昭和になってから後の手紙は完全な口語体。西田幾多郎は、日本語が劇的に変化した時期に生きていたことをあらためて思い知る。この点は小林敏明『夏目漱石と西田幾多郎』に詳しく書かれていた。
言葉を換えれば、西田は思索において試行錯誤を重ねただけでなく、文章表現においても生涯、試行錯誤を重ねた。
京都と鎌倉の二重生活。金沢と長野へも頻繁に往来している。大正・昭和初期の交通事情を考えるとかなりの体力があったことが伺われる。
次々と降りかかる身内の病と死のなかで、なお哲学研究に没頭する信念と集中力には驚嘆しないではいられない。
後妻探しにはかなり力を入れた。女中に家事を任せて一人で暮らすことはほとんど考えていなかった。
クリスチャンだった後妻の琴から何か影響を受けたのか、この本ではわからなかった。
かなり歳をとってから旧約聖書に関心を示した。自身の哲学が歴史へとその視点が広がったとき、ヘブライ人の歴史叙事詩である旧約聖書に接点を見出したのかもしれない。
「自分の仕事が理解されない」という不安や悔しさ、虚しさがしばしば吐露されている。自分の文章が難解であることは十分承知していたように見える。
それだけに、自分の意図を理解してくれた若者には篤い感謝の言葉を送っている。
弟子思い、家族思い、孫思い。苦しい生活を強いられながらも、金沢では学生たちを住まわせていた。弟子の就職先や娘の結婚先についても常に気にかけている。孫に対する態度は溺愛と言っていい。このあたりは普通のお爺ちゃん。
「ありがとうございました」という言葉が手紙によく書かれていえ驚いた。この言い方はもっと最近生まれたものと思っていた。私自身は「感謝に過去形はない」という考えから、「ありがとうございます」としか言わない。
日中戦争が始まり、言論への統制が厳しくなってからは慎重に言葉を選んで書いている。
蓑田胸喜からの攻撃については恐怖を抱いており、かなり手を焼いている。
近衛内閣に期待してはいたが、近衛個人に対しては「押しが弱い」という評価をしている。
教育を知らない法学部出身者が文部省に多いことについて、強い不満を持っていた。
大衆雑誌や広告に文章を載せることを極度に嫌っていた。
現代の作家や研究者のように依頼があって締切までに書き上げるのではなく、書き上げたものを出版社に送っていた。
数学にずっと興味をもっていた。
「コピイ」「copy」という言葉がすでに使われている。意味は校正の終わった原稿の写しらしい。
晩年、同じ年齢の友人たちが亡くなることが増えて、悲哀感が増している。
古くからの畏友、山本良吉と長女、弥生の急死はとりわけ大きな痛手になった。
三木清との間の書簡がない。なかったとは思えないので、三木と西田の『全集』を借りて確認してみる。
西田幾多郎書簡集に三木清宛ての手紙はなかった。三木から西田に宛てた手紙も、書簡を収録している『三木清全集 第19巻』にはない。なぜか。
その理由は、三木清全集の編集後記を読んでわかった。
この書簡を整理しながら西田幾多郎宛てのものがまったく見られないのを編者は遺憾に思わざるをえなかった。かなりの数のものが書かれたと思われるが、おそらく一通も残存していないであろう。西田静子女史が集めておられたという著者の学生時代からの手紙も、ジャーナリストからの好奇心から公表を迫られる煩わしさに女史みずから焼却されたという。『西田幾多郎全集』も著者宛ての手紙を一通も収録していない。著者の家でも、西田の書簡は再度の検挙の時押収され、心なき者らの手で失われてしまった。この師弟の私的な、また学問上のうるわしい交わりをうかがわせるべき往復書簡が両者の全集に一通も収められていないということは、かえすがえすも遺憾の極みであり、学界の大きい損失であろう。
ネットを探しても、西田幾多郎と三木清の書簡が見つかったというニュースはない。
誠に残念。
写真は鎌倉、東慶寺にある西田幾多郎の墓地。