武蔵関公園のメタセコイア

土井健司の書いたキリスト教の概説書を2冊、図書館で借りてきた。土井健司の文章はこれまでに読んだことがある。

いずれも論文集や対談集の一章で単著を読むのは初めてだった。読みづらいところが少しあったので、興味のわいたところを拾い読みした。

興味を持って読んだのは生命倫理についての議論。例えば、安楽死臓器移植について。

こうした問題については、常に個別の事例として考えるべきで、一般化すべきではない、と土井は主張する。同じことを小松美彦との対談でも話していた。

キリスト教とは、徹底して個人と神との関係、という考えは興味深い。隣人愛も一般的・抽象的なものではなく、目の前にいる、「名前のある」人に対する態度を問いかけていると土井は説く。

この主張には同意する。抽象的な「人類」を愛するのではなく、まずは「名前」を知っている人を愛するべきと思う。もちろん、それは物理的距離の遠近とは関係ない

結論として、土井は、戦争をしてきたのは"本来のキリスト教"ではない、とまとめる。おそらく内部抗争やキリスト教内部にある性差別、聖職者による児童への性虐待などについても同じように弁明するのだろう。

   とはいえ、個別的なものは一般的なものへと容易に変化します。キリスト教も、個別性を生きる人の集まりですが、それが制度化され、一般化されてしまいがちなのです。そのことによって「キリスト教」は、社会をまとめる力へと変質することもあります。しかし本来キリスト教は、このように結束し、「あちら側の人々」を取り込むことによってではなく、自らが「あなた」に向かって生成変化し、他者との出逢いを生きることによって成り立つものです。
(「まとめ——結論に代えて」『キリスト教を問いなおす』)

しかし、"本来のキリスト教"ではない、と言ってしまっては、それ以上議論は深まらない。「社会をまとめる力」があるからこそ、教会という組織が生まれ、組織を指導する聖職者がいる。それを否定するなら、無教会主義になる。それは牧師でもある土井の意図するところではないだろう。

そこにこだわるのは、私がそういう疑問にこだわり、答えを得られないでいるから。

入信するとはどういうことか。教会に通うとはどういうことか。それと「神を信じる」という「信」とはどういう関係にあるのか。

私はいつまでも教会の門の前で立ち尽くしている


さくいん:土井健司小松美彦名前