実家に積んであった文庫本から一冊借りてきた。およそ50年前に書かれた批評文なので、題名でいう百年とは1874年から1974年までの百年を指す。内容はいくつかのカテゴリーに近代小説を分類し、その概念からそれぞれの作品を読み解いていく。カテゴリーは「青春」「恋愛」「老年」「少年」「心理」「感覚」「家庭」「社会」「歴史」「滑稽」「西洋」。
「小説を読んでいないな」というのが率直な感想。多くの小説が取り上げられているけど、読んだことのある作品は10にもならない。
それでも借りてきたのは福永武彦『草の花』と島崎藤村『夜明け前』が取り上げられていたから。
『草の花』は「青春」の章に収められている。
『草の花』について中村は青春時代に特有の「人生を主観の強烈な幻想を通して眺める」作品と評価する。この評価には同意する。相手の真の姿を見ず、自分のなかに理想型、「愛のイデア」を求めてしまう「偶像」をめぐる小説と私は考えている。
そして、中村は本作の背景には「戦争という過酷な現実のなかで、孤独に生きなければならなかった世代」に見られる特徴があったと結んでている。
戦争が背景にあることは認めつつ、『草の花』には普遍的な価値もある。中村が指摘している「主観の強烈な幻想」という青春時代に普遍的な心理を描いていると思う。
事実、戦争を知らない私が十代の後半にこの作品を耽読したのは、そこに共感する心理を見出したからだろう。
「偶像」というとどこか否定的な響きがする。中村も『草の花』にある2冊の手帳を「愛の不可能性」を証明するものと書いている。いわゆる偶像崇拝は否定しつつも、「偶像」を、とくに青春時代に「偶像」を持つことに積極的な意味を私は見出したい。言葉を換えれば、偶像崇拝を通過しなければ偶像批判はできず、まして理想型を客観的に表現したり創作したりすることはできない。
ここで言う「表現」や「創作」は芸術的な行動だけを意味しない。生活のすべてにおいてあてはまると私は考える。
「偶像」を凝視することは、己れのなかに理想型を見つめることでもある。それは内省につながる。そして、完全ではない自己のなかにある以上、「偶像」も完全な理想にはなり得ないことを知る。
それに気づいたとき、「偶像」は虚飾が剥がれ、真の姿を表す。それは、「偶像」が崩れ去り、「真の姿」、すなわちイコンと出会うとき。
言葉を換えれば、自己のなかにある「偶像」を凝視することでしか、「真の姿」にたどりつくことはできない。あるいは、西田幾多郎の言葉を借りれば、「偶像」が崩れ去るとは、「自己の内に他者を見る」こととなる。
汐見茂思は、「偶像」が崩れ去るまで凝視し続けることができなかった。それこそ、自己を封じて戦場に出ていかなければならなかった時代の悲劇と言えるだろう。
しかし、前にも書いた通り、福永武彦自身は己の中の「偶像」の客観視することができるようになったから、自己の中から外へ表現としてイコンを押し出し、小説を創作することができた。
小説の内容が悲劇だからといって作家の生涯が悲劇だったと言うことは短絡的すぎる。
『夜明け前』は「歴史」の章に入っている。
中村は『夜明け前』について「一方で歴史的叙述、一方で小説的描写の二枚重ねになったもの」ととらえている。それゆえ、この作品は「一種の叙事詩」とも述べている。
この評価に異論はない。突飛ではない、むしろ広く受け入れられている教科書的な評価と言うこともできるだろう。
『夜明け前』のような歴史長編小説はほとんど読んだことがない。似た性質の小説でこれまでに読んだことがあるのは、住井すゑ『橋のない川』と三浦綾子『泥流地帯』『続・泥流地帯』。前者は部落差別に苦しみながら水平社創立までの家族の歴史。後者は北海道の開拓時代、十勝岳の噴火により灰燼に帰した田畑をあきらめずに再び開拓する忍耐強い開拓者の物語。
二つの作品と比べて『夜明け前』が特異なところは、書名にもあるように主人公が歴史に対して主体的かつ積極的に関わろうとしていること、にもかかわらず、志とはまったく異なる方向へ歴史が舵を切ったために失望し、最後には自己崩壊してしまう点にある。
同じように「歴史に翻弄される」と言っても、青山半蔵の場合、志が高い分、その失意と挫折感は半端ではない。福沢諭吉は「一身にして二生を経る」と快哉することができたが、二生を生きられなかった青山半蔵は精神を破綻させてしまった。
藤村は「歴史に関わる」ことについてどう考えていたのだろう。受け身になり歴史の波に流されることを良しとするのか、それとも失敗する危険を承知の上で歴史に積極的に関わる志を持つことを理想の生き方と見るか。
『夜明け前』という作品を書いた事実から見ても、藤村は後者の立場にいたと思われる。藤村自身の生涯が自己と家族との葛藤の歴史だった。歴史と関わる厳しさを彼は身をもって知っていた。藤村の歴史哲学は自身の生活史の延長線上にある。
だからこそ、『夜明け前』は歴史叙述的であり、同時に私小説的である作品となった。「叙事詩」という呼称は複合的なこの作品に対する中村からの賛辞と推測する。
ところで、「歴史に関わる生き方」という視点から文学者である島崎藤村と哲学者である西田幾多郎の考えを比較するのは面白いかもしれない。