新潮文庫版表紙

初めて読んだ文学作品が島崎藤村『破戒』だった。中学二年生の冬。完結した作品として最期となった『夜明け前』はその頃から読みたいと思ってはいたものの、いざ読みはじめてみてもなかなか盛り上がらない筋書きに飽きてしまいついに読み終えたことがなかった。

今回は思い切って4冊に別れた文庫本の最終巻から読み始めてみた。ここまで来ると物語も佳境。一気に読み終えてしまった。

名作は終わりから読んでもいい」という教えは斎藤美奈子に学んだ。


報われない人生もある

これが読後の率直な感想。どんなに真面目に生きても、志を高く持っても、巡り合わせが悪く、運に恵まれず、時代に翻弄され、志の半ばも行かずに終わる生命もある。平穏な時代に比べれば、時代の過渡期にはその数はきっと多い。

そういう人たちのことを記録することは歴史家や小説家が果たすべき重要な役割と思う。彼らはけっして負けたわけではない。むしろ彼らのように時代の流れに乗り切れなかったけれども時代に棹差し抗った多くの人たちが、成功者たちが描く上っ面の歴史を支えている。そのことは作品のなかにも書かれている。

この作品は私が読あぐねたように冗長なところもあるが、それだけ当時木曽路や中間層の暮らしぶりが写真を見ながら書いたかのように細やかに描写されている。


「新生」という考えは藤村の文学に一貫している。「新しく生まれる」「生まれ変わる」「新しい時代を生きる」。どれも華やかな響きがあるけれども、実際はそうではない。生き方を変えることは易しいことではないし、新しい時代に適応することも簡単ではない。前途洋々の「新生」などない。

   新生は言いやすい。誰が容易く「新生」に到り得たと思うであろう。北村透谷君は「新奇妙変」を説いた人出会った。そしてその最後は悲惨な死であった。「新生」を明るいものとばかり思うのは間違いだ。見よ、多くの光景はむしろ暗黒にして、かつ惨憺たるもおのである。
(「新生」『藤村随筆集』

「報われない人生」という意味でこの作品を旧約聖書「ヨブ記」と比較することはできるだろうか。

どちらもやることなすこと裏目に出てうまく行かないという点では同じ。決定的な違いはヨブには救いが待っていたが、半蔵にはなかったことだろう。それを信仰の有無と片付けていいだろうか。若い頃に熱心に学んだ国学も土壇場の境地で心の拠り所にはならなかった。この点、藤村の国学理解が不足していたという指摘もあると、平野謙の解説にあった。

もっとも敬虔な信仰を持ってさえいれば必ず救いがあるとも言えない。信仰を持つことでさらに苦しむということも、特に信心を持つ人に冷たい現代では大いにありうる。


一つ、言えることは、作者である島崎藤村は、この作品を書き上げることで一つの救いを得ただろう、ということ。

家族に精神疾患者を持っていると世間の偏見だけでなく、遺伝の不安を抱く。それを拭い去ることは易しいことではない。そのような家族史を書くことについても、大変な 苦しみが伴うことは想像に難くない。

藤村は実父を虚構の登場人物にして描き、小説に閉じ込めることで「自分も精神病に罹るのではないか」という不安を払拭できたのではないだろうか。

これだけの大作を書き上げたのだから、それくらいの報いがあってもいいだろう。

私はそんな風に想像する。


さくいん:島崎藤村斎藤美奈子