MODE ACTUEL MODE ACTUELLE

 

 

 

 

 

 

 

HHJ

 

 

 

 


Updated 2003 2.7

 

海外Websiteに気軽なアクセス

 

長い間インターネットをやっていても、探したいサイトに苦労しない到着するのは難しいにちがいない。HHJがサーチ機能の代わりに興味をそそりそうな海外サイトに案内しよう。

FRANCEinfo

---http://www.radiofrance.fr/chaines/info2000/accueil/index.php

国営のラジオ・フランスのターミナルサイト。ここに入れば、フランス国内のさまざまなラジオとヴィデオTV、ル・モンドやフィガロなどのプレスサイト、世界中のブロードキャスティング・メディアにクリックで簡単に行ける。

comfm---http://www.comfm.com/

インフォから行けるが、フランス語や音楽をたっぷり聴きたい人はコレスポンダンス(乗り換え)しないで到着できる。TV-Radioプレイヤーが出たら、後は好きな放送局を選べばいい。

JAZZ VALLEY---http://www.jazzvalley.com/

フランスでのジャズ・プレイを聴きたいという人には、エキサイティングなサイト。パリの中心的なスポット〈 ル・プチ・ジュルナルLe Petit Journal〉と〈サンサイドSunside〉のライブ・スケジュールも載せている。ジュルナルの店はモンパルナス駅のそばにあって、第1次大戦後ロスト・ジェネレーションのヘミングウェイが遊んだ場所として有名である。もう一方の店はつい最近再び名前を変えたが、知識人の多い楽しいライブハウス。

musicsteps

---http://www.musicsteps.com/main.asp?channel=indiejazz&l=y&sc=true

シアトル市にある〈ミュージシャンのためのミュージシャンによる〉Webサイト。ジャズやブルースその他多くのジャンルが聞ける。            

                                

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 


Updated 2003.2.14

 

偽造犯罪集                                    H

UNE SERIE DE CONTREFAÇONS

 

1995以来HHJは行政機関の公文書を見る機会が多くなった。ちょうど秋田県の食糧費不正流用が組織的な裏金作りの疑惑へ展開していた。この背景は感覚が鈍るほど日常生活の話法や動きに染みついた全体主義的なもので、日本の個人とはせいぜい浮き彫り像の段階でしかないと考えさせられた。悪いことにその存在は全体の中に消えて自分の欲求を満たそうと努力する。そして、それは道徳観に合致するので、国際的に悪名高い無責任体系が壊れないのは当然なのである。

公文書の書き換えや偽造は方々で話題になったが、HHJは懐疑の目を向けても決定的な明証を得たことはなかった。ジャーナリストを罠にかける陰険さを警戒して、関係者の人権と記事の真正さに重点を置いた。失敗を隠して自縄自縛に陥ったライターが少なくないのじゃないか、と思う。彼らが経験で知ったことを主観的な事実としてでも書き表わせば、行政の恐るべき謀略性が民主主義的な方向へ向かったにちがいない。外国人ジャーナリストの記事で想い出したが、自然の摂理で論理的に仕上げられた脳と身体が極東のでたらめな行政に関係するのは不可能である。偽造犯罪の実例を並べよう。

1 国会 :〈演劇集団コッカイ〉の看板がふさわしい人類初の劇場。

2 行政・司法 : 政治屋と一緒に作った機械で自分の頭も狂わせた。

3        通貨 : 2000年から急増した1万円札と千円札の偽造事件は香港マフィアの暗躍。黒幕は北朝鮮・国際テロ組織だろう。

4        マス・メディア : 喜怒哀楽を与えてくれる偽造のメカニスム。

5        音楽・文学・美術 : 偽造組織がコピー商品製造で荒稼ぎ。

6        教育機関 : 親子の頭の悪さにつけ込んで偽文書を売っている。

H

 

行政機関の迷路を見る

▼ 事実から真実へ

 

▼ HHJのバイオ・テロ騒ぎ日記

 

      

 

 

 

 


Updated 2003 2.10

 

日本海の悪夢                                                     

 

言葉に唾を吐いた結果                  D

110日北朝鮮がNPT(核不拡散条約)脱退、国連の制裁を牽制した。14[TBSi] アメリカのフライシャー(Ari Fleisher)報道官は、北朝鮮との対話再開をめぐって、「北朝鮮は堂々巡りをしている。 北朝鮮は世界を脅しのゲームに 引き込もうとしているが、 そうはいかない」 と警告した。25日北朝鮮はヨンビョンの原子力発電所の再運転を告げた。核爆弾製造に必要なプルトニウムを生産できる施設である。フランスは、監視活動を停止されている国連原子力査察委員会(AIEA)との対話を呼びかけた。6日[NBC]ブッシュ大統領はコリン・ パウェル国務長官が国連安全保障理事会で生物化学兵器製造と国際テロ組織とのコネクションに関するイラク・フィクションを証明する演説をした後、〈The game is over.Saddam Hussein will be stopped.〉と敢然と告げた。その日AIEAはサダム・フセイン大統領に大量破壊兵器査察への思い切った全面的協力を求める最後通牒を送った。フランスとドイツは、アメリカとイギリスの攻撃に反対して平和的解決と査察遂行の意志を決めた[France info avec AFP]。ロシアは旧大陸の隣人であることを示した。

7日ル・モンド(東京特派員Philippe Pons)の長い記事によれば、ピョンヤンとワシントンの間の〈レトリックによるエスカレート (escalade dans la rhétorique)〉は妥協のチャンスが遠ざかった。アメリカが爆撃機24機を極東地域の最前線に配備して警戒態勢を強めたからだ。記者は〈北朝鮮の核の脅威の知覚〉で一触即発の危険が高まることを憂慮する。ホワイト・ハウスの報道官は〈アメリカ軍はあらゆる偶発的な出来事(toutes les éventualités)に備えている〉と語った。

この事態は東京とソウルを動揺させている。アメリカの不意打ち的な展開はハイライトのイラクに対する慎重な裁判外交と正反対なので、ゲームの終わりとは極東地域の観客へ向けた宣告だったように思える。しかし、不安なのは北朝鮮の侵略か?誰と戦うことになるのか?アメリカや国連が極東フィクションを告発するのを恐れるのか?面子が気になるのか?政治関係者は頼るものが見つからないので、混迷状態から出られない。

東京特派員は朝鮮半島の南で起きた垢まみれのスキャンダルに目を向ける。現代商船が20億ドルを2000年6月のキム・デジュン大統領とキム・ジョンイル総書記の歴史的会談の前日北朝鮮に送り、サミット要するに平和を金で買ったというものだ。韓国の野党議員によれば、その金の一部は〈北の軍事施設の増強〉に使われた。しかし、キム・デジュン大統領は真相解明を拒否した。この〈キャスロール〉の相続は、韓国の世論とアメリカに対して言い訳が難しい。フランス人が言うキャスロールの意味はシチュウ鍋の他に淫売婦、警察の犬。日本の植民地時代の懐かしい歌謡曲が闇の中では廃れていないということだ。朝日の輝く国では、その不正送金の暗流がヘッドラインをにぎわせている。例えば、1月逮捕された韓国人グループ経営の地下銀行からは半島に72億円。自民党は公費悪用の真相解明を裏で潰して国会でも知らん顔を決め込んでいたが、集金システムを廃止する気はないだろう。拉致問題では長い年月無関心を続けて、憲法が描く国家と人間の普遍的概念をあざけり笑っていた。裏金の行く先が北朝鮮の核と軍事施設だとしたら、世界平和と自由と生命愛に対する卑劣で無責任な無言の裏切りである。言葉に唾を吐くのは終わりにしなければいけない。                                                   

                                       

 

狼役の俳優は生きているか ?           H

日本海の東と西の正常な交流は、拉致問題の感情的な対立で完全に行き詰まっている。冷戦構造に代わる新しい世界観を準備しなかったために、これからどんな構造化を試みるべきか、日本の政治は混濁の中である。ヨーロッパとアメリカから見れば、状況喜劇である。

HHJは、政府の行方不明者調査リストの欄外にもう一人の所在確認の追加を要望したい。NHK人形劇〈ブーフーウー〉で狼を演じていた在日朝鮮人の俳優である。このぬいぐるみ人形劇はは黒柳徹子の番組進行で昭和35(1960)から昭和42(1967)まで続いた。NHKHPを検索すると、進行役は里見京子、狼役は高橋悦史と記されている。故意か過失か、間違いだろう。狼役の俳優は、その番組が終わった後だと思うが、NHKのドラマに出て不良青年の役を巧みに演じた。それから、北朝鮮帰還運動に誘われて祖国に帰った。テレビ朝日は北朝鮮情報を他のどの放送局よりも多く提供するが、その俳優に関する情報はHHJが見たかぎり一度もなかった。金正日(キム・ジョンイル)総書記が映画マニアであるというだけに、《情報の欠如》が気になる。愉快な人形劇を記憶している無数のファンで、あの俳優が強制収容所で苦しんでいなければいいが、と願わない人はいないだろう。NHKは取材に乗り出してもいいのではないか?                                         

                                       

 

 

 

 

▼ 北朝鮮に帰った俳優の消息 2003.6.12

▼ 狼役の声優のそれから  2003.12.29

▼ これは人質の秘密情報戦か?  2004.1.20

▼ 無意味な破片: テレビ朝日の失敗  2002.10.10 

 

 

 

 

 

 

 


HHJ  Vol.86  2002.7.1

 

大館市議会の責任放棄

 

大館市議会は去年各種委員会に議員が就任することを自主的に禁止した。椅子が消えたのは、温泉審議会、農業委員会、バス運営委員会、国保運営協議会、土地開発公社。大館新報によれば、その理由は〈行政の政策形成段階から議員が委員としてかかわる場合、議決機関の一員としての役割の中で好ましくない〉同じような議会の動きは県内他市でも起きているという。権力強化を願う首長にはうれしいことだ。しかし、農業委員会を例に考えると、これは住民の意思の代表である議員が委員らの結論の適切さを判断するために必要な資料から遠ざけられることに他ならない。住民の代表者はプロセスにおいても発言権を持つべきである。 

 

 

 

 

 

 


HHJ  Vol.86  2002.7.1

コバルト60に魔の手

 

去年、大館市が主催した環境展の講演テープを聞くと、女性アナウンサー木元教子が士幌農協のガンマ線減菌施設の話をしていた。ジャガイモの長期保存が目的で、ポテトチップの原料になる。二プロ(二井田工業団地の医療機器メイカー)の資料には、コバルト60はカナダから輸入されるとある。日本での管理は、操り人形が行なうらしい。        

 

▼ 危ないタマゴ

 

 

 

 

 

 


Updated 2002.7.1

 

武力攻撃事態法案に対して

レジスタンス                      H

 

 

 

1章 目的…武力攻撃事態への対処のための態勢を整備すること、武力攻撃事態への対処に関して必要となる法制の整備に関する事項を定めること。我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資すること。

?―目的は三つある。国民の安全を最後に置くのは、アクセサリー(付随品)扱いの意識から来る。作者は、檻の中でも安全一番だす、と思っている。国民の多くも《絶対安静》を願っている。しかし、少なくとも民主主義を維持しようとするなら、国民の平和と独立並びに、と書き換えるべきである。それによって、日本の国家機関は国民の平和と独立を外国の脅威から守ること、国民の平和と独立を国家機関の侵害から守ること、国民相互の平和と独立を尊重することが自覚される。

 〃 定義…@武力攻撃とは我が国に対する外部からの武力攻撃。

A武力攻撃事態とは武力攻撃(武力攻撃のおそれのある場合を含む)が発生した事態又は事態が緊迫し武力攻撃が予測されるに至った事態。

?―脳の思考領域に()障害がある。攻撃のおそれとは、その予測が客観的に成り立つことが条件でなければならない。これには当然のように野党から修正案が出された。削除するべきだ。事態という言葉は出来事への関係意識が希薄なので、責任回避の日本人向きである。

〃 定義…E対処措置とは、武力攻撃事態を終結させるために実施する次に掲げる措置。(1)自衛隊が武力攻撃の排除のために実施する武力の行使、部隊等の展開その他の行動。

?―部隊等には私服を着た特殊任務の組織が入るとすれば、不正と混乱を引き起こさないために明記するべきである。

〃 定義…E(3)自衛隊の行動並びにアメリカ合衆国の軍隊が、アメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約に従って武力攻撃の排除のために実施する行動を効果的に国と地方公共団体と指定公共機関が実施する物品・施設・役務の提供その他の措置。

?―指定公共機関とは日本赤十字社や日本放送協会(NHK)その他の公共的機関や通信・電気・輸送などの公益的事業法人とあるが、民間の放送機関と新聞雑誌も含まれるらしい。基本理念に述べるとおり、国と地方公共団体と指定公共機関の連携協力は必要であっても、憲法が保障する自由と権利を〈不当に〉制限してはいけない。人権を無視するあらゆる制限は正義に反すると言おう。                  H

 

 

 

 

 

 


HHJ  2002.4.14   VOL.85

 

花が咲かない

行政支援事業の裏に

            

 

 

大館市議会インサイド・リポート  

     石垣昇市議(当時)語る

                           

 

           

高橋松治は3期で辞めると言っていたけれども、最近八神が辞めたら、また選挙の事前活動をはじめた。彼は林野出身です。雪沢の炭鉱ボーリングで吹き出た温泉熱を利用したスカシユリ栽培をしたらどうか、ということで中山間事業に石田忠美さんという元々バイク屋をやっていた人が乗り出しました〔注;平成9 1997〕。12800万円、これは国および県から補助という形で出てくる。しかしながら、ランニングコストの計算ができなかったことに墓穴を掘らざるを得ない状況が出てくる。

ランニングコストとは、つまり、電気量があまりにも高い。1か月20万、途中で電気を入れないと、それでも18万前後、深度の深い所にポンプを設置すると、どうしても圧力が必要になります、そうすると、多大な電力が必要になります。なぜ、それじゃ強深度のポンプを設置しなけりゃならなかったのか、と言うと、高い温泉熱をもってくることによってエネルギー効果を最大限活用するという名目だったわけですよ。耳障りはいい、しかし、スカシユリを作るに当たって40度も45度も必要ないわけですよ。だいたい10数度、常温で145度前後あればいい。普通ツルミ社かアメリカのグルンドフォス社のポンプを使う。だいたい350万です。しかし、アメリカのレーダー社のポンプを使い、これが2000万前後する。その設置者、工事請負業者が八洋ボーリング、当時の畠沢一郎議長の弟の会社ですね。鉄管などの資材の会社は新和産業というさらにその弟の会社です.元々鉱山の試掘ボーリングをしていたところが、いい熱源があると言うので、中山間事業に当てたらどうかと、そこから悪巧みが始まった。設備投資(イニシャルコスト)はもらえる、ところがランニングコストの借金は銀行からもどこからも相手にされなくなって、大館市にどうしたらええかと組合長の石田忠美さんが言っても、もう少しがんばりなさいと耳を貸さなかったばかりか、あそこの排水の暗渠が古くて、土壌が粘土で谷地のような所だから、土壌の入れ替え工事にものすごく金がかかったんですね。それで湯は漏れる、排水はうまくいかない、というわけで、スカシユリの栽培どころじゃなく、とんでもないところにはまってしまった〔注;平成1012月〕というのが実感だったろうと思います。

そうこうしているうちに、多額の融資をしてもらっているわけだから、明日の開花を夢見て一生懸命がんばったんでしょうけれども、精根尽き果て結局いくばくかの生命保険に入ってるわけだから、自殺に及んだ。遭書を、日本共産党の松橋日朗が読んでおります。それによると、自分は大鎗市に殺された、と。高橋松治が石田さんに接近して、市も悪いようにしないから、ということで、最後まで面倒見てくれるような触れ込みで接近し、議員と地域とネットワークの傘下にある企業からよってたかってふんだくられてしまったというのが現実じゃなかろうかと思います。要は、工事ができればいい、そこに金が落ちれば、その段階でピンハネもできるし、キックバックもできるし、バックマージンも生じるという搾取の稗造があったわけですね。補助金事業は搾取の梼造だということは、もう推して知るべしであります。大変気の毒な結果になりました。

 ユリ栽培の失敗は市の部分的損害賠償で決着がついた。小畑市長は〈農業でありいろいろな条件により絶対成功ということについては市としても責任を負えない〉と議会で答弁したが、少なくとも自然条件に愚痴をこぼす場合ではない。政治の土壌がじめじめしている。

 

; 大館市議会インサイド・リポートの関連する部分を掲載。

 

 

中山間地域農村活性化総合整備事業

平成6年度~10年度 温泉熱利用園芸ハウス事業費内訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 


事件が起きた地域を見る

■ Selection 13 大新沢川

 

 

 

 

 

 


HHJ  2002.4.14   VOL.85

農地転用事件のこれから

 

46日、最高裁は小畑惣一郎元市議の上告を棄却、被告の有罪が確定した。売却した土地の現状を追認するか、農地に戻すか、という難問について大館オンブズマン(荒川昭一代表)は声明の中で、有罪の佐藤秀明農林課長(当時)と小畑元市議、農業委員会の長である小畑元市長、土地を購入した重機リース会社カナモトが原状回復の費用を負担するべきであると述べた。HHJはその意見を支持する。理由は、土地が絡んだ脱法的な行為はコピーを作りやすいから。

概要を知るために

▼ あんぱさん・あんこーる

 

 

 

 

 

 


HHJ  2002.4.14   VOL.85

 

バイオ・テロ騒ぎ日記 続編        

 

HHJは大館警察署警務課三浦の不審郵便物の処理のまずさを高橋昇署長に手紙で訴えた。1227日警務課田中から電話があった。封筒の所有権は放棄したと三浦は判断した、という。届け出た証拠品の取り扱いに関する規則はないと言い張ったが、しつこく責められると、占有権を移す規則があることを認めた。封筒の〈処分〉は田中本人がアコムの社員に指示した。警察は権力を守るのが仕事。

 

▼ 偽造犯罪集

 

 

 

 

 

 


HHJ  2001.12.15   VOL.83

 

HHJバイオ・テロ騒ぎ日記

 

1017日、市販の白い封筒がアトリエのポストに入っていた。差出人は〈清水〉と姓だけ書いてある。直感的に警戒しながら、封筒を開けると、内容は大町のアコムの支払い金額減額通知書。今まで会社名入りの封筒以外の封筒を使用したことがないのに、なぜ今?18日、アメリカに次いで東京でのバイオテロ騒動が報道され、大館警察署生活相談課(柳谷)に電話で怪しい郵便物の件を届け出て厳重注意を求める。19日、新聞で不審な郵便物対策マニュアルを読み、編集長は保健所に持って行くべきだと考えを変えて市内の保健所に自転車で行く。しかし、郊外の総合センターに移っていたので、三の丸の保健センターに届け出る。職員が電話で〈医師会〉の担当者に取り次ぎ、長々と話をする。怪しい封筒を県の横関に送るから持ってくるように、と極めて消極的に応じる。しかし、22日、医師会に行くと、誰も知らない態度だ。職員が保健所に問い合わせ、次長三浦と電話で話をして19日の電話の声と分かる。

三浦―19日連絡を聞いて、アコムに確かめ、清水という社員から話を聞いた。今回はそういう封筒を使ったということだ。嫌がらせだとしても、法律違反にならない。こちらで検査する気はない。HHJが被害者だというのは決まったことではない。

 編集長は、嫌がらせは法律違反だと反論した。被害者かどうかは検査すればはっきりすることだと言ったが、果てしない議論の後、意味不明の沈黙を挟んで用事を理由に電話を切られる。大館市生活環境課から保健所に問い直させると、次長は〈持ってきてくれれば、よかった〉と答えた。〈普通は医師会を通じて、警察の警務課が対応すること。〉警務課に電話すると、いきなり強い調子できわめて重大な科白。

三浦―(ノン・バンクから金を借りている事実を)知られてもいいのか?

 別に横わないと答えると、三浦はアコムで事実関係を調べると言った。1115日、その結果を聞くと、〈白い市販の封筒を使うのは、会社の方針で、そういう封筒を送ることがあるということだ。(悪意があったかどうかについては)何も言わない。(不審な封筒の所在は?)会社の人が取りにきたので、他の者が渡した。誰か、分からない。〉不審な封筒を検査したか?いや、と三浦は答えた。借金の事実を知られたくないという心理につけ込んで送ってきたと考えられるが?三浦は無言だった。

16日、魁新報に不審な郵便物情報の記事。県警警備一課によれば、県内の届け出件数は20件。19日、県警警備一課に問い合わせると、HHJの事件も含まれているという。大館警察署がアコム社員に返した封筒の返却を求めると、大館警察署から回答させるとのこと。26日、大館警察署で三浦に会うと、(もう処分した)ということだ。証拠湮滅だ、封筒はHHJの所有物だと非難した。

三浦―HHJがもう要らないと言って置いていったものなので、差出人に返した。(受け取った人間の)所有物じゃない。

29日、アコムで取材すると、清水は〈警察から処分してくれと話があった。(三浦かどうか)分からない。〉バイオテロ騒動という状況から見て、不審な封筒を使ったことを悪いと思わないか?清水は〈確かに…(意味不明の呟き)〉と認める。会社の内部規則を証拠として見せてもらった。〈必要に応じて無地(白色)封筒を使用し、個人名で郵送する。)どんな必要か?会社の人間か他の者にそうするように命令されたのじゃないか?

清水―そういうことはございません。あの、今月のお支払いは?

 

本性剥き出しの喜劇

▼ バイオ・テロ騒ぎ続編

 

 

 

 

 

 


HHJ VOL.79  2001.2.14

 

政務調査費は無駄      D

 

議員政務調査費一人当たり月額2万円交付は妥当であると大館市特別職等報酬審議会が答申した。市義会が議決すれば、4月から実施される。議員政務調査費とは新地方自治法が規定したもので、議会活動に伴う旅費・書籍購入・資料作成などに使用される1

〈大館市政の概要〉によれば、これまで委員会行政調査旅費として支払われていたのは、常任委員会単位の視察に対して一人当たり14万円、特別委員会と議員個人の調査費として年額10万円である。議員政務調査費年額24万円が支給されると、代わりに議員個人の調査費は消える。議員は14万円の増加に見合うだけの活動をするだろうか?議会が民主的に機能するためには議員の思考力と良識を高める必要があり、それには不断の情報収集と学習が欠かせない。

しかし、財政面から考えれば、この政務調査費には問題がある。第一に議員調査費と違って使わなくてももらえる金である2。第二に収支報告書は情報公開請求しなければ、公にならない。第三に価値のある書籍購入は、現状を見れば、議員個人の判断力では難しい場合が多い。したがって、国会図書館や武蔵村山市の例を参考にして市議会付属の図書室を創設すれば、無駄が省けるに違いない。議員が要望する本は揃えなければならないという規則で。

         長木川上流特派員 ダレナニ

 

1 政務調査費の規定は地方自治法第100条にある。

2 その後、使用しない分は返還することに条例で改められた。

 

秋田県のそれも見る

▼ 無意味な破片 2007.3.15

 

 

 

 

 

 


HHJ  1998.4.16  VOL.61 

 

市長の強権

 

323日、小畑元市長は農地転用事件の証人として法廷に立った。土地収容法の適用が違法であるという認識があったとすれば、有罪だが、市長はその判断を当時農林課長の佐藤秀明被告に任せたという。建設省時代に宅地関係の企画補佐の経歴がある市長が、密接に係わったはずの法律の解釈と運用に殿様的な態度を取ったとは、信じられない話だ1

大館市民は、これまでの小畑市長の政治手法から彼が強引な指導力を発揮する市長だということを知っている。それが最も端的に現われた例は、東大橋の南の袂にある完成して間もない長木川南町内会館を住民の反対を抑えて解体し、1993(平成5)年老朽化した市営アパートの新築を強行したということだ。イタリアン・アール・デコの猿真似建築は無知な田舎者を感心させたけれど、都市工学の専門家である市長が彼らに向かって豪語したようにその建築が新しい都市のモデルになったかと言えば、横柄な真似っこ精神だけが流行した。HHJが美について論じたのは、町内会館が審美的に好ましくないという趣旨の小畑市長の暴言がきっかけだった。

 

検察側の尋問には料亭の場が2度出てくる。大館新報の記事とオンブズマンの会の傍聴記によれば、平成7年農地使用貸借契約に取りかかってから締結直前の11月中旬小畑市長と被告の小畑惣一郎市議と鈴木洋一県義が市内の料亭〈北秋くらぶ〉で会った。市長の証言は、〈よもやま話、市政全般についての話をした。農転問題だけのことではない。進捗状況については話した。〉11月中旬と言えば、14日の日に今もなお市民の記憶に甘やかに残る〈リヴァーユートビア妨害工作〉の第1弾がHHJ43号に載った。それが青ざめた3人を料亭に集めたのじゃないか?偶然にしては、おかしな符号だ。

2度目は平成95月オンブズマンの会(代表 故小池栄一)が住民監査請求をした後で、市長は栗盛助役と一緒に大館警察署の幹部(署長)と市内料亭で懇談した。これで右翼の役者と舞台が型通りに揃った、という感じだ。

 

玉林寺裏の怪談話、事件の曲がり角にこんな疑問が湧く。

a 被告の小畑惣一郎市議は所有する農地から得られるさまざまな名目の補助金を捨てても、農地が売れる確実な見込みがあったか?…冒頭陳述によれば重機リース業の会社と土地購入の話がついていた。

b 小畑市議は農地売却以外に借金返済の手段を思いつかなかったか?…被告は料亭を使うほど交際が広く、市内の土建会社の社長だった裕福な県議が相談に乗ってくれたはずだ。

c 農地売却は農業潰しであるという認識が小畑市長・小畑市議・鈴木県議にあったか?…秋田県と大館市は最近郊外の水田地帯を近代的に改良する事業を大規模に実施している。言うまでもなく、明るい明日の日本を支える農業振興のためだ。農地転用が許可されると思うのが、そもそもどうかしている。

 

1  大館オンブズマンの会傍聴記より

 

概要を知るために

▼ あんぱさん・あんこーる

 

 

 

 

 

 


HHJ  1995.6.18  VOL.39

 

文化という言葉                        

 

文化という言葉は、広い意味では環境世界の中で人間精神が造り出したものすべてを指す、と考えたい。したがって、社会とそこにあるものはみな文化という創造物である。行為に重点を置くと、個人の知的な洗練された創造が文化である。文化的な生活は、数量とはまったく関係がない。大量生産が20世紀の現代的な新しい様相になったが、これは一般大衆の生活の質を高める《目的》があったからだ。機械工業による資本主義の必然と民主主義の理想が一致して消費者の質的向上を求めたのだ。大量消費は、その結果として起きたもので、広い意味での現代文化の特徴ではあっても、知的な洗練された創造としての文化的な生活の本質であるとは決して言えない。

 その錯覚に気づいた人達は、画一性を嫌って個性化を求め、芸術・教養・スポーツなどでヴァライエティに富んだ生活を《コーディネイト》するに違いない。しかし、それはテキストとカタログが準備したライフ・スタイルになりがちである。形の模倣だけでは《より多くの人生》を演じる役者のようなものだ。創造的な生活には《より多くの精神》がある。つまり、知識と経験を使い捨てにしないで、時間をかけて熟成させることである。

 

ところで、個人の知的な洗練された創造が文化であると言うことには、いくらか抵抗があるに違いない。野球のゲームを見て、これが文化だと思う者はいない。ヴァレリー(P.Valéry)の詩を読んで、それこそ文化だと思う者はいない。しかし、それら個々の行為と表現はアメリカ文化とフランス文化を代表する一つとして普通に取り上げられる。なぜなら、そこにはイデア(理念)が十分に反映されているからである。そのイデアは社会に特有の性質にすぎない場合もあれば、地域牲を越えて国際社会に共有される普遍的な性質であるかもしれない。といっても、そのイデアが何か、言葉で明確に捕らえるのはどれも難しい。社会の文化が必ずしも自覚的に造られるものではないからだ。

歌やドラマが人気を呼ぶのは、そんな時だろう。その中には人々が何となく感じながら表現できない状況とか情念があって、巧みに認識させるのである。言葉のない単なる楽器による演奏は、さらに深い世界を表現するかもしれない。いずれにしても、個人の洗練された創造には過去・現在・未来が含まれ、共感者にとって単なる慰めを越えて進むべき方向を示しているように見える。それは、例えば、アール・ヌーボーやアール・デコの工芸運動、シュール・レアリスムやロシア構成主義などの芸術運動のように意志的に文化の創造として社会との連動(engagement)を始めるだろう。そういう作品には明瞭な共通性がある。アール・ヌーボーには生命の不安と希望を表わす植物的な曲線が多用され、アール・デコには機械の力強い直線が知性の凱歌のように用いられる。優れた作品は、しかし、思想だけで造られるわけではない。それは環境世界が人間を通して形作る奇妙な花のようなものである、と言ったほうが真実に近い。

 

さまざまな分野で奇妙な花が開くためには、どんな条件が必要なのだろうか?危機意識があること、自由であること、経済的なゆとりがあること…そして、良質なものを創造しようという意思があること、である。環境世界はそのとき、何か表現のように浮かび上がるに違いない。君は、記憶に焼き付けて《知的資源》の加工を考えればいい。カメラを向けるか、紙にさっとクロッキーするか、言葉を捕まえるか、ピアノの鍵盤に触れるか…だが、それ自体が芸術作品のような欧米の街にいるのでなければ、そんな出会いは滅多に起きない。

 そう書きながら、ぼくは大館にいることを嘆く。この街も《知的資瀕》がない。今まで描いた絵は唯一つ片側に古い欄干が残った大館橋だけ…それも記録する目的があって。もっとも、東京時代に書いた小説《日付のない日記》では、半円形のバルコンと川が若い主人公の出会いの場になっていた。不幸なことに、ジャ―ナルは奇妙な草花だ。主観的な結論を言えば、芸術文化は創造者の悲劇の美しい廃墟である。

 

▼ 表現する者の権利の問題…a

 

 

 

 

 

 


HHJ  1994.5.20  VOL.28

 

数知れない虐殺の象徴、それとも…

 

 

最近、プロレタリア文学作家小林多喜二の文学碑を建立する計画が大館市民の有志の間で進められている。米代川と長木川の合流点の西北、生地の川口には多喜二の生誕碑があるが、新たに文学碑を市内の土地に建てる、その理由は何か?北鹿新聞には、石川琢木の文学碑が全国に百以上あるのに、多喜二のそれは彼が育った小樽に一つあるだけで少なすぎるからだ、とあった。こんな浅薄な理由では、作家が草葉の陰で嘆くだろう。

 ぼくは彼の小説を読んだことがないけれど、映画その他の断片的な知識で考えてみると、小林多喜二は全体主義の犠牲者として後の数知れない虐殺の象徴である。侵略されたアジア諸国(特に朝鮮と中国)の被害者達と罪もなく殺された日本人達の無残な運命を予告した犠牲者である。彼は共産主義者として人間として、全体主義の権力と闘った。それが無駄に終わったことは、日本の悲劇と言うしかない。悲劇の内部的な要因をざっと思いつくままに並べてみよう。

 

1 明治憲法が規定の曖昧な天皇制絶対主義と民主主義の折衷だった。

2 政治と軍隊と財閥が結び付いた。

3 民主主義思想が浸透しないで、民族主義的な反動が強まった。

4 一般国民の生活が貪困だった。

5 資源がなかった。

6 侵略と植民地経営の他に国家の発展の道がなかった。

7 諸外国との交流があらゆる分野で限られていた。

 

 新しい悲劇を繰り返さないために、小林多喜二の優れた精神と生き方、その時代と結末を忘れないようにすること。それについて考えること。しかし、文学碑にはどんな意義があるのか、ぼくは疑問に思う。小説家の願望は小説ができるだけたくさんの人達に愛読され精神や社会の形成に役立つことであるに違いない。単なる記念物は、後世との間に置かれた扉なのだろうか?なるほど、それを見て、好奇心で実際に本を開いてみる者もいるかもしれない。しかし、文学碑のような記念物はなかなか開かれない扉だろう。なぜなら、一般に作る方も見る方も観光目的にすぎないせいだ。多喜二の文学碑がそうでなければいいが、と憂えないわけにはいかない。

 

多喜二の小説を読んで

▼ 文学への一瞥

 

多喜二に関連する歴史

▼ 長谷川一族の風景 

 

         ∫  ∫  ∫  ∫  ∫  ∫  ∫

HHJ  1994.11.15  VOL.33

 

選挙制度を支える精神

 

1節 [省略]

 

むかし大正デモクラシーの運動が実って、大正14年(1925年)普通選挙法が議会で可決された。国民は女性を除いて貧富に関係なく選挙権を持ち、明治時代にはなかった政党内閣(憲政会と政友会)が続き、民主主義の理想に一歩近づいた、と思われた。だが、その一歩を踏み出してみたら、待ち構えていたのは泥沼の戦争だった。小林多喜二が描いた昭和2年(1927年)の共産党員全国的大検挙から昭和3年の関東軍による張作霖爆殺事件、昭和6年の満州事変と翌年の満州国建国、そして昭和12年の慮溝橋事件による日中戦争の本格化へ、大陸情勢は歯車仕掛けのように急展開する。

 なぜそうなったか、と考えてみれば、普通選挙法と同時に治安維持法が可決された、という事実を無視することができない1。これは共産主義を根絶するための法律だが、現実には、ただでさえ乏しい言論・思想の自由が暴圧された。より多くの国民の意思がより一層平等に政治に反映するという民主的な目的を不可能にする仕掛けだったのだ。政治家やジャーナリズムの反対が少なかったのは、共産主義に対して保守派や軍部と同じ態度だったからだ。

 石橋湛山が当時批判した通り、それは〈護憲の二字を裏切る〉悪法だった。〈あるいはいう、護憲とは読んで字のごとく憲法を擁護する意味であって、民主政治を伸長するの義を含んでいないと。それは皮肉か、しからずんば詭弁である。〉2

 

小選挙区比例代表制の善し悪しは脇に置いて、歴史を虚心に見れば、選挙をする国民の精神を問題にしないわけにはいかない。ドーデ(Alphonse Daudet)の《月曜物語》にある短編《葡萄酒が水になった話》は、良い参考になる。学校の先生が他に移ることに決まったので、村の父兄達が一つの大きな樽にそれぞれ葡萄酒を注いで贈ることにした。しかし、村人は皆自分一人だけ水を入れても分かるまいと考えた。だから、先生が樽の栓を捻ったとき、流れ出て来たのは水だけだった。民主主義は自由意思を重んじる約束でしかない。それを一人一人が守ろうとしなければ、いつの間にか予期しない反対の結果になってしまう。現実には、最初から自分の瓶に葡萄酒が入っていると思い込んでいる場合が多い。自家製でなければ、ラベルを信用するしかあるまい。だから、戦前の国民は教育に欺かれた。現代は種々雑多な情報を懐疑的に見て、それを越えて考えなければならない。危険なのは、安楽な生活の中への逃避である…終りに、CIA560年代自民党に選挙資金の援助をしたという戦後史の裏面を暴くニューヨーク・タイムズから得た朝日新聞の最近の情報を付け加えよう。

 

1 1925年(大正14)

2 読本 憲法の100年:作品社

 

∫  ∫  ∫  ∫  ∫  ∫  ∫

HHJ  1994.11.15  VOL.33

 

文学への一瞥

 

10年前に辻邦生の《春の戴冠》を読んで以来、日本語の小説から遠ざかっていた。そんなになるか、と想い出したのは、小林多喜二の小説を読もうとしたときだ。ぼくはヨーロッパ文学と哲学を滋養にして育った人間なのだが、米代川ドキュメンタリー撮影で多喜二の故郷(川口)を通過する以上、代表作の《蟹工船》と《1927315日》ぐらいは目を通さないといけない、と鬱陶しい気分で本を開いたのだ。内容はかなり陰惨で、いわゆる糞リアリズムで資本主義の実態と全体主義の凶暴さを暴いている。底辺で虐げられる労働者達や拷問よりも知識人らしく帝国のメカニズムが実際どのように機能するか、もっと多面的に書くべきだった。

 それからまもなく、94年度のノーベル文学賞が大江健三郎に授与されるという二ュースがあった。ぼくは前衛派として安部公房の小説が好きだったが、意外な評価に驚く。実存主義思想や人類学に関心を持っている作家にしては、それが創造の中に生きていない。どのように書くかが、問題なのだ。

 

 

 

 

 

 


HHJ  1993.4.10  VOL.16

 

死刑に反対しなければならない理由

 

つい最近、34ヶ月ぶりに死刑が執行された。死刑は法務大臣が執行命令を出さないと、執行されないが、後藤田正晴法相は〈国全体の秩序〉を守るために命令を出した、と読売新聞で語っている。そして、無実の人間が処刑される惧れは、〈現実にはまずありえない〉と。

 ぼくは、死刑に反対する一人として制度そのものを残念に思う。残酷な犯罪であろうと、国家が死刑という手段で復讐するべきではない。これは国家による殺人を法的に正当化することである。戦争肯定に繋がる制度である。社会が良心の呵責を感じないで済む〈道徳〉みたいなものだ。間違って無実の人間が死刑を執行されたら、どうするのだろうか?       

 死刑賛成論者は、犯罪の防止を理由に挙げる。死刑の恐怖が犯罪の増加を末然に防いでいるか?あいにく手元に客観的な資料がないが、これは本当らしくない。そのうえ犯罪が個人の心理的な動機だけで起こるような先入観があって、社会は犯罪の原因に少しも関係していないと思い込みたがっている。社会には悪いところがないのだから、犯罪者が責任をすべて負って当然なのだ、と…

 しかし、社会と無関係に生きることができた犯罪者はいない。生活と同じく、犯罪にも社会が深く係わっている。それを無視して、原因が結果を裁くような仕打ちに何ら罪悪感を覚えないのは恥ずべきことである。

 

人間は単独で生きているのではない。家族、友人、仕事上の人間関係などの他に、消費する物を通しての匿名の人間関係がある。普段ほとんど意識されないこの関係は今や地球全体に拡がっている。誰も、倫理的な責任を免れられない。

 

ある死刑廃止論者は言っている。

―人を殺す刑罰でなく、人を生かす刑罰でなければならない。

 国連の死刑廃止条約に加盟しながら、おかしなことに日本はいまだにそれを批准していない。承認しない一方で、平和の維持という大義名分で自衛隊を海外に送っている。何かあれば、外国人が犯罪者並みに扱われるかもしれない。平和のために、と言われても、ぼくは信頼しないね。

 

 

 

 

 

 


HHJ  1993.4.10  VOL.16 

 

内部の仕掛け

 

時計やオルゴールの歯車の運動が見える…そういう製品が流行してから10数年経つが、内部の仕掛けが手に取るように分かるのは一種の快感だ。なるほどこれがこうなっているから、それがそうなるのか、と各部分の関係の仕方が、言い換えれば構造と機能が、単純明快に理解できる1。因果関係が複雑に入り組んで、解明が非常に難しい現代社会においては、とかく誠実でない因果関係を拵え上げて満足するが、そうでない場合は、内部の仕掛けが見える製品が知的な欲求不満を満たしてくれる。

 必然性がなぜ快いか、と言うと、たぶん人間の精神と身体組織がそういう風に機械的にできているからだろう、としか言いようがない。しかし、逆に、自分がその中にいると、必然性が苦痛なときがある。陳腐な比喩にあるとおり、歯車の運動は恐るべきもの・嫌なものに感じられ、逃げることができれば、どこかへ気晴らしに逃避して偶然の楽しみを味わいたくなる。

 ところで、フィクションは言葉によって社会や人間の内部の仕掛けを理解させる一種の仕掛けである。

 

1 機能という言葉を補った。

 

 

 

 

 

 


HHJ  1992.8.20  VOL.9

 

生きられた世界の再現1

 

ロブ-グリエのシナリオ《不滅の女》について

 

■ブラインドの縞模様が、船上の女の青と白の縞柄のセーターヘ移行する。このいわば転換が記憶か想像かは分からないが、物質(目に見えるもの)の自律的運動なのかもしれない。人間達はいずれも風景と化しているか、商品のようだ。したがって、ヒロインのLが売春婦らしいかと思えば、観光案内嬢のようだったり、絵葉書の中のモデルとして〈出現〉したり、自動車事故で死んだにもかかわらず、生きている…といった〈再生産〉が何度も繰り返される。壊れた自動車が新車に変様するように2、というよりむしろ、これは表象の廃棄物の再利用と再創造なのだ。

 

■音―車の衝突音、歌声、船のエンジン音、波、ドック、こおろぎ、その他の種々雑多な音は、イマージュ(記憶か想像かに係わりなく)を喚起したり、映像に主観的な変化を与えたりして、デュオのように絡み合う。視覚と聴覚の2重奏。

 

■ロブ-グリエ(Alain Robbe-Grillet)のシナリオと音楽の親近性―明晰であると同時に言葉で言い表わせない曖昧さをもって、始まり、感動させ、終わる…〈現前〉に立ち会っているが、音楽と同じように、それは、個々の現象は、何も語らない。意味付けを拒む。時間が流れたことだけは疑いえないが、スクリーンの中の時間は、時計の時間と違って脈格もなく映り出る。そこに一定の論理を探せば、睡眠中の夢と同じ時間作用があることに気づくはずである。[上記 1982年]

 

■〈さらに、私が彼(アラン・レネ3)の作品に認めたものは、純粋に心理的な時間と空間―おそらく夢の、あるいは記憶の時空であり、感情的な生の全体的な時空である―を構築する試み、それも慣習的な因果関係の鎖や、物語の純粋な時間的な経緯には気を取られすぎることのない、時空世界構築の試みである〉…()…〈それこそ私たちの…()…《生》の時間だからだ〉

アラン・ロブ-グリエ 《去年マリエンバートで》〜序

 

生活の中の様々な道具のように安定した過去があれば、未来はそれの延長として自分の思い通りに描くことができるだろう。歴史や物語(フランス語では同じ、Histoire)は、だから、権力者ばかりでなく三文作家と保守的な一般市民にとっても、《ありがたい虚構》である。前者は支配と自己正当化のために嘘をつき、後者はなぜか知らないが自分を欺く。過ぎ去った世界の〈真実〉は、ちょうど〈作文〉や日記あるいは言うまでもないが公文書におけるように、見捨てられたり、忘れられたりしている。なぜかと言うと、それが自分を脅かすからだが、しかし、誠実な態度で考えようとしても、忘却された時間を言葉で再構成するのは簡単ではない。文章以前の途切れ途切れの単語が、どこからか分からないが、浮かび上がるだけだ。これは時として、役に立たないけれども手放したくない所有物のようなものである。夢の破片とか、壊れた部品とか、廃墟とかのように自分に何かを囁き、夢想に誘う…世界と一体だった時の霧にかすんだ想い出、とでも言おうか。このことについては、《とろんぷ・るいゆ》で既に詳述したので止めよう。

重要なのは、こうして生きている現在の忘却された時間をどのように具体的に描くか、である。だからといって、現代の流行のようにテープ・レコーダーやヴィデオで自分自身の思考と外面を同時間的に記録しても、機械に対象化された自分と外界は、実際に生きられた世界の再現ではない。そこに現われる〈世界〉は、ナルシスを嘆かせた水面に似ている。

〈ぼくと君を隔てているのは、ただの透き通った水面なのだ。〉

オウィディウス(Ovid)は《転身物語》でだいたいそんな意味の科白を語らせている。自分と他者は同一の関係にある。時間の鏡もやはり、逃がれやすい存在を決して捕らえさせないだろう。人間が精神的な生き物である以上、生きられた世界は内的に把握されなければならない。

 

1  生きられた世界(le monde vécu) :フランスの哲学者メルロ・ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の用語。

2  変様 : modification = 変形、様相化、修正。

3        アラン・レネ:Alain Resnaisフランスの映画監督。《ヒロシマ、我が愛》《ミュリエル》など。《去年マリエンバートで L'Année dernière à Marienbad》はロブ-グリエとの共同作品。1961年制作。ヴェネチア国際映画祭金獅子賞。

 

 

 

 

 

 

 


Atelier Half and Half