HALF AND HALF JOURNAL

 

 

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言葉の樹

 

 


 

 

 

 

 

 

                      

歴史と現在〜麦の味

 

寺の沢川は鳳凰山の麓から流れ、長木川に注ぐ。最近合流地点の苔むした滝のコンクリートが新しい農業用水路に換えられ、周辺の自然がかなり荒れている。といっても、誰がわざわざこんな針葉樹の地味な自然を楽しみに来るだろうか?

 岩神山の麓宮袋地区から一の渡り橋の向こうへ行くには、杉の林を通って寺の沢川の少し上流を歩いて越えるか、もっと上流の橋を回って山道を通るか、その2ルートがある。流れの石を飛び跳ねる野生的な道はずっと崖に沿うが、薮のせいで通り抜けたことはない。橋のある方は、それに較べると、車が走れる幅の快適な散策路だ。菅江真澄は江戸末期長木川を山沿いに歩いて小雪沢に行く様子を〈おがらのたき〉で簡単に述べている。橋が架かっていない時代は、崖の上か玉林寺跡の散策路か分からないが、それが生活ルートだったのだろう。今は、一の渡り橋側に自動車解体修理場とラブ・ホテルが並んでいる。橋の袂の台地には戌辰戦争のとき官軍が造った鬼ケ城跡があるというが、標識はなく、鬱蒼とした杉林と木洩れ陽の他には何も見えない。

 菅江真澄(17541829)の紀行文を読むと、大館の町に関する記述が全然ないことに気づく。津軽藩に貴重な書き物を没収されたために、城下町には普段よりも神経を使ったようだ。真澄も触れているが、ロシアの侵略に備える武士隊が物々しく街道を歩くような北国の情勢だった。

 今年の4月その有名な文人が長谷川家の祖先と歌を読み交わしていた事実が明らかになった。本家の蔵書が4年前安藤昌益の時代の研究で公表されて世間を驚かせたが、その中にあった。祖先とは6代目長谷川伊右衛門貞顕(さだあき17661847)で、北鹿新聞の記事を信用すれば1、この人は綴子(つづれこ)の佐藤家から隣村太田(おおだ)の長谷川家に養子に入った。綴子には長谷川家の菩提寺宝勝寺がある。家業の染物屋から呉服屋に転じて田畑の所有面積を広げ、事業家として優れた手腕を発揮した。そのうえ、麦原尺長というペンネームで文筆活動も精力的に行ない、《太田新田村由緒記》《癸巳ヨリ丁酉マテ天保凶飢見聞記》《年代豊凶録》などを出版2、和歌や狂歌にも手を染めた。真澄の歌は《手造哥集》の中にある3。尺長が太田を訪れた文人に贈った和歌は、

 かん竹とその名も高き笛竹の遠うへ国まで鳴り渡りけり

 返歌は、

めずらしと聞もはつかし笛竹のあたなる音のミ世にしたつれハ

 

 自分に文学的才能の血が流れていたとは、夢にも思わなかった。いろんな思いが湧く。麦原尺長という冗談半分のペンネーム、見聞記と歌集の題名のモダンさと独創性。長谷川の家の伝統だな、と実感するのは、戯作者式亭三馬の弟子古今亭三鳥も宿泊したという点だ。芸術的才能の保護には有名無名に関係なく熱心だった。乏しい時代には珍しくなかつた。例えば、こまどり姉妹の母親や斎藤京子が一時祖父母の世話になっていた。街中の玉林寺山門の仁王像を作った彫刻家は、何という名前か知らないが、我が家の裏の一軒家に寝起きして仕事をした…

 これで、米代川流域の歴史を再認識する最近の動きに役立つかどうか?どこにいるかという現在の認識にはなるだろう。煩わしく思いながら書いたのは、自分の中て漠然と錯綜したストーリーを少し整理してみる必要があると考えたからだ。もちろん疑問が浮かび上がる。《癸巳ヨリ丁酉マテ天保凶飢見聞記》を書いた麦原尺長が忘れられたのは、自然な成り行きだったのか?何と言っても、子孫の一人が長谷川喜作なんだから、似たようなところがあっても不思議ではない。

さて、焼きたてのパンを味わうか。ホーム・ベーカリーから香りが流れると、じっとしていられない。

◇ ◇ ◇

1   安藤昌益の地域と時代 : 愛知教育大教授 三宅正彦

2 癸巳(きし 天保4年 1833)  丁酉(ていゆう 天保8年 1837)      見聞記と豊凶録は孫の屋政(いえまさ 李亭 1816~1901)との共著とされる。後者は徳川幕府の始まりから幕末までの意外にジャーナリスティックな記録で、《仮面について》の考察に貴重な視点を与えた。見聞記とともに松橋栄信の校注翻刻によって現代人が読めるように改められて、《天保飢饉見聞録》の表題で1982年鷹巣町の成文社から出版された。

3        長谷川貞顕と菅江真澄・古今亭三鳥 : 三宅正彦

  三鳥については未詳だが、江戸の戯作者式亭三馬の弟子と言われ、宿泊のおりに狂歌を残している。

 

こまどり姉妹の母親

▼ 双子の歌

 

☆ HHJ  VOL.59  1997.12.15

 

 

遠景前景

1818(文政1)

1821(文政4)

1825(文政8)

1828(文政11)

1830(天保1)

1832(天保3)

1837(天保8)

1839(天保10)

イギリス人ゴルドンが浦賀に来て貿易を求める。

日本各地で風水害。蝦夷地を松前藩に返還する。

異国船打ち払い令。

シーボルト事件。

伊勢お陰参りが流行。

大飢饉。  ~1837

大塩平八郎の乱。[見聞記の最後を飾る大阪のニュース]

蛮社の獄。渡辺崋山・高野長英らが逮捕される。

 

 


             

 

遺伝子よりも環境

長谷川画伯〉と新聞の見出しにあるので、ぼくのことかと思ったら、横浜で亡くなった長谷川善四郎の回顧展だった。大町のはせがわ化粧品店の2階で、去年。あそこが遠縁の家だと聞いたのは一昔前だが、帝国美術学校出の下手な絵描きと繋がりがあったのか。源流の2代目屋増(いえます)は絵師と仏師(仏像彫刻家)を志して宝勝寺に作品を残した人だから、自然と言えば自然だ。8代目の李亭(屋政)も宝勝寺と大館の遍照院に彫刻作品を残している。

ぼくの美術的才能は父方の影響だと思っていた。それも父が設計建築した食堂の環境に養われたので、環境の力を重要視した。だが、同時に母が作るおいしい料理を忘れてはいけないだろう。

 

 --- HHJ  VOL.61  1998.4.16

                      

 

 


系譜

 

長谷川家の遠祖は簗田三右衛門(~1678)といい、会津若松の住人だった。17世紀中頃、大館城下に移住して医者となった。津軽浪人長谷川三郎兵衛を婿として以来、長谷川姓に改めた。浪人の姓に変えたのは、普通ではなかったのではないか1?北秋田地方に来たのは1636年の島原でのキリシタンの反乱に続くキリスト教禁止令と関係があるのではないか、と直観的に思う。北国の鉱山に逃れたキリシタンは珍しくなかった。

三郎兵衛の次男伊右衛門屋永(1653~1676)は、大葛金山の手代(支配人)を勤めた。長谷川伊右衛門家の初代とされるが、24歳の若さで死去する。菩提寺は大館の浄土宗一心院。

2代目屋増(いえます 1675~1741))は染物と農業を生業として太田に移り住んだ。この代から綴子村の宝勝寺に葬られるようになる。屋増と3代目の屋久はともに熱心に回国巡礼をして、天皇や公家の書などを収集した。浄土信仰と尊王思想が結びついている、と三宅教授は言う。

1784 (天明4)は悲惨な年だった。隠居の4代屋武夫婦と長男、5代屋治と長男の5人が次々と死去する。原因は明らかでない。当主の妻が一人残され、綴子の佐藤家から貞顕(さだあき)を婿養子に迎えて6代目にする。5代屋治と6代貞顕( 1768~1847)は仮肝煎に就任した2。後者は〈中興の祖〉と言われている。人物については《麦の味》を参照してほしい。

8代屋政(いえまさ 1816~1901)は李亭の号を持ち、ヒューマニズムの見本のような人である。HHJ エセー《仮面について》は屋政の《年代豊凶録》の勇気と批判精神に満ちた稀な記述に啓発され、それを何度か引用した。徳川幕府の末期に起きた鉱害は、旧ソ連政治の終焉に最後の一撃を加えたチェルノブイリ原子力発電所の事故を連想させるが、その大惨事を公表したとすれば、ジャーナリスト屋政は幕府と佐竹藩から煙たがられたにちがいない。しかし、この事件は徳川の中央権力と地方の統治者の関係に複雑な変化をもたらしたかもしれない。後者が明治維新のとき薩摩・長州・公家の率いる近代化運動に参加した動機を考えれば。

1968(明治1,慶応4)の戊辰戦争では、奥羽列藩同盟の南部軍が北秋田地方に侵入した。戦線が二ツ井のきみまち坂に接近すると、佐賀藩を主軸にした新政府軍の反撃が始まる。9代家孝(1836~1889)は、歴代の教養人と違う面を見せて明治政府軍に兵糧諸品を供給、さらに大館の西の門板沢で南部軍が〈計策〉を図っていることを知らせて、勝利を導いた。その功労で、家孝は明治10年長坂村・早口村の村長に、明治13年綴子村の村長に任命される。長男家寛は10代目を継ぎ、次男用助は太田で別家を構えた。大館長谷川家は用助の三男喜之助から始まる。

 

長谷川家歴代の系譜は、貞顕と屋政と家孝が《当家歴代集》にまとめた。これは詳細な記録だが、上に述べた系譜の事実は用助以降を除き、三宅教授が北鹿新聞に発表した家寛と現在の当主12代啓司編纂の《若松氏世系》に基づく簡明な記述に従っている3。歴代の著作物は、埋没させるべきではないだろう。主要なものを紹介する。

1 太田新田村由緒記---貞顕著 文政4(1821)D自序。寛永4(1627)より文政11(1828)に至る村の土地関係の文書と記録の集成。

2 癸巳ヨリ丁酉マテ天保凶飢見聞記---屋政著 内題は天保凶飢見聞実録。天保8(1837)後識。 天保4(1833)より同8(1837)に至る凶作と飢饉の記録。近代的なリアリズムが見られる。

3 年代豊凶録---貞顕・屋政共著 慶長元年(1596)より慶応三年(1867)までの農作と時事的な出来事の記録。参考に安政2年の記録から興味深い記事を下に載せる。

4 道中記---屋増・屋久・家武著

5 日記---家孝・家寛著

 

1        会津は1644年以後三代将軍家光の弟保科正之の領地となる。

2        肝煎(きもいり)とは一般に江戸時代の村の世話役や村役人(庄屋・名主役)をさす。近代の首長に当たると考えていい。

3 安藤昌益の地域と時代 別編 

比内文化の伝統  19935

            三宅正彦 愛知教育大学教授日本思想史

 

■■年代豊凶録の記事より■■

天保14

一、当夏中、世評甘酒婆と申化生物、越後辺より此方え横行致、人の家え入、甘酒有之哉と問、右のものえ答候ものは、則()座に悶死致候由。右化生物除け候には、札張候得ば入不申由、右甘酒婆小繋辺迄参候由にて、誠に騒々敷取沙汰有之申候。右札赤き色紙え書張候由。御城下並に大館杯は赤紙売切れ候よし。右札左に

甘酒無御座候。唐がらし有、

  亭主留主、家内皆聾。

右の通書付張申候所、其後御役屋より厳敷御廻文を以はぎ取候様被仰付、はぎ取申候。後承り候得ば、御上様を非訪(誹謗)致候落書の由恐入奉存候。

 

安政2年 

一、八月十六七頃朝より曇り西風さっと吹候処、天地四方霧霞のごとく、或は山焼などの煙のごとく、もやもやと草木の色も霞み候よふにて風になびき、匂ひも有之煙の匂ひ同様なり。終日右もやつき不晴候。誠にむせ候程の事に候。ケ様(かよう)の事無覚と衆人申合候。如何様天地不正の毒気を発し候事かと申合申候。八月中諸方痢病大流行、何方村にても大小人不少病死いたし候。                                                                                        

                       

一、近年異国船度々渡来致候に付、松前於箱館に御陣屋被居(すえ)置、御奉行河内三郎太郎様御詰合被遊候由。右に付蝦夷地御警固の為、従御公儀様御当国へも御加勢御番兵被仰付候由にて、当秋中彼地御陣屋処御見分御用筋に付、志賀伊三良様・平元貞治様松前へ御渡海被成候。其後太縄織江様も御出被成置候。其後十二月廿九日渡部泰治様・佐藤時之助様松前へ御出被成置候。来春は御太勢彼地へ御出張被成置候趣に御座候。扠々於御上様莫大の御物入奉恐入候。

 

*校注;松橋栄信

Updated 2003.8.30

 

 

 

銅像が語ること

有栖川宮が大正時代に高松宮と名を変えたと知って、 徳川派の影が近代史の曲がり角に浮かんだ。広岡裕児の《皇族》によれば、明治元年奥羽越列藩同盟は、6月江戸から会津に逃れた北白川宮能久(よしひさ)親王の盟主就任を決定した。独立政府の構想があったが、9月には降伏する。能久親王は一時皇族の身分を剥奪される。明治28年日露戦争のとき有栖川宮熾仁(たるひと)が大本営のある広鳥で病死。北白川宮は台湾征伐で病死。明治35年皇居北の丸の近衛師団兵舎前広場に帝都の守護神のように銅像が建てられる。2年後徳川慶喜が大政奉還の功績で公爵に。有栖川宮の騎馬像は麻布にいつ建てられたか?

 

▼ 有栖川宮の騎馬像について

                       HHJ  2002.2  VOL.84

 

 

 

 


系譜を読んで考えたこと

 

系譜を読むまで、栄町の長谷川の本家は太田にあるという事実以外に、ぼくは歴史的な話は何も聞かされたことがなかった。この沈黙は祖父の喜之助と祖母ハルが住居の中には一冊の本も置いていなかった理由を漠然と暗示した。二人は教養を軽んじていたのでない。同じ屋根の下で生活する孫が大学生になったときに贈るために万年筆を買って、そう教えたくらいだ。そして、大館で二番目に昭和33年テレビを置いた、はせ川食堂と生活の場でもある木工所の居間に。これは知性と感性に深い影響を与える機械だった。

疑問を開く鍵は、家孝の孫である喜之助の人生にあるように思える。喜之助は1895(明治28)日清戦争の年に生まれた。ぼくが父秀之から断片的に聞いた話では、太田の家が貧窮で綴子村の宝勝寺に預けられた。小学校を卒業すると、国鉄の線路工夫として働いた。大男だった。たぶんその時代に下川沿村川口の踏み切り番だった鷹巣の成田ハルと知り合ったようだ。結婚した後、大正時代と思うが、小樽に行ってシベリアに一人渡り森林伐採の仕事をした。記念はフランス語の文字が刻まれた懐中時計で、それを孫に見せて、〈ロシア人と喧嘩して取ったものだ〉と威張ったことがある。ハルはその間小樽で暮らしたので、下川沿村生まれのプロレタリア作家小林多喜二(1903~1933)と同じ通りを歩いていたことになる。祖母は話し上手だったが、そういう昔話はしなかった。大学生のために万年筆を大事にしまっておくことも、いつの間にか嫌った。

家孝の次男用助の家に喜之助が生まれた頃、本家の当主家孝はもちろん曽祖父の屋政も生きていた。しかし、徳川時代末期の飢饉や鉱害を記録した貞顕・屋政の生き方とそれを受け継ぐ明治維新の功労者で村長をした家孝は、意外なことに用助の困窮を支援できる状態にはなかった。富国強兵を急ぐ明治政府の権力にとって、彼らのヒューマニズムはすでに好ましい思想活動ではなかったのだろう。有栖川宮熾仁は喜之助が生まれた年に世を去ったので、明治政府は軍事的な徳川派の巻き返しでバランスを崩していたにちがいない。革命で倒された王族(旧権力)と革命を支える市民の対立は、フランスの19世紀を激しく揺さぶったが、それと似たような動きが日本でもあったか? 〈銅像が語ること〉は、そういうアングルから歴史の微動もしない事実を眺めて書いた。

★ ★ ★

銅像が語ること:追記

東京都港区役所提供の資料では、有栖川宮熾仁の青銅の騎馬像は1903(明治36)1010日三宅坂の旧参謀本部構内、現在の市ヶ谷自衛隊敷地に設置された。発起人は薩摩藩出身の大山巌元帥と有志。制作者は大熊氏広。騎馬像は昭和36年有栖川宮記念公園に移された。

有栖川宮記念公園は、1896(明治29)有栖川宮威仁(たけひと)親王の新邸造営の用地とされた。江戸時代には南部藩の下屋敷があつた土地である。しかし、跡継ぎの栽仁(たねひと)王が早世して、1913(大正2) 威仁親王も病死したために有栖川宮家は廃絶となる。大正天皇はこれを惜しみ、有栖川宮家の旧称高松宮を復活して第三皇子に祭祀を継承させ、用地も同家に引き継がれた。昭和9年東京市に寄付され、11月有栖川宮記念公園として開園した。   

有栖川宮熾仁は、王政復古後、新政府の総裁に就任、戊辰戦争の東征大総督、元老院議官・議長、西南戦争の征討総督、陸軍大将、参謀本部長、などを歴任する。創設期陸軍の代表的人物であり、皇族として軍事統帥権を掌握する天皇の代理人の役割を果たした。[平凡社 世界大百科事典より]

        

日清戦争後の動きで興味を引くのは、北白川宮と有栖川宮の銅像の建立に続いて徳川幕府の最後の将軍慶喜が公爵になったことである。名誉回復のためだとしても、旧権力の政治的復権を意味する。明治政府はみずから選択したヨーロッパの科学と思想の成果を日清戦争で味わったので、旧権力者を寛容に扱うだけの自信を深めたのだろうか?徳川の影響力の大きさと歴史の流れとその暗い遠景を視野に入れると、この考えには否定的だ。よくあるように過去の事実の価値付けは将来を方向付ける決意宣言になるということだ。徳川時代への批判は難しくなったにちがいない。

Updated 2003.912

 

▼ 消えた川 : 明治の守護神とリヴァー・ユートピア

 

              

              

 

 

 

Updated 2005.7.21

大正時代の東京で

 

喜之助とハルは、1923(大正12)91日の関東大震災のとき東京で生活していた。それを何かの機会に、たぶんテレビ番組に刺激されて、孫に一言打ち明けた祖母はその当時看護婦をしていた。包帯の巻き方が非常にうまいのは、当然だった。喜之助は、妹キンの末娘である母スミに聞いたところによれば、冷蔵庫製造会社に勤めていた。この冷蔵庫は、ぼくが少年時代に盛んに作られた木製の電気冷蔵庫と同じタイプだっただろう。

祖父母 喜之助とハル

最も若いときの一枚の記念写真。年月日などの説明がないアルバムなので、いつどこで撮影したかは明らかでない。大正時代後半あたりではないか?

喜之助が社会主義に共感していたと思えるのは、土地の所有を嫌ったという事実だけである。その後国と秋田県などからもらった多くの表彰状が筒の中に入ったままだったということは、むしろ心理の問題だろう。二人とも明治時代の保守的な国民のように天皇崇拝者であり、天照大御神に始まる歴代天皇の系図を記した掛け軸を家に残した。それは喜之助を右翼の独裁者であると戦後生まれの孫に考えさせる文字どおり材料となったが、保存の仕方は無造作だった。

 

 大正デモクラシーの東京をドラマチックに想像すると、大地震直前まで東京市長の座にいた岩手県(水沢藩)出身の後藤新平を背景に置かないわけにはいかない1。台湾の民政長官、南満州鉄道の初代総裁、鉄道院総裁。帝都壊滅後には山本権兵衛内閣で内務大臣に就任、復興を指揮して、それから2年後の1925(大正14) 東京放送局(後のNHK)が新橋の愛宕山に設立されると、総裁として第一声を電波に乗せた。長谷川屋政の孫で家孝の甥である喜之助には、南部鉄で作った真っ黒な機械の響きが聞こえたのではないだろうか?後藤新平の斜めうしろにいるのは、岩手県(南部盛岡藩)出身の陸軍中将東条英教の子英機であり、同じく板垣征四郎である。このA級戦犯の陸軍軍人二人は、満州を暴力で支配して恐怖の帝国建設計画に夢中になる。

 明治維新の歴史がよみがえる。戊辰戦争で奥羽列藩同盟は、官軍と手を組んだ秋田佐竹藩を攻撃した。岩手県側の戦線では水沢藩が角館と横手を攻めて敗退した。盛岡藩は大館と扇田と鷹巣を攻略したが、反撃されて降伏した。その結果、今の鹿角市と小坂町に当たる重要な鉱山がある地域は秋田県のものになった。米代川の町から眺めると、1980年代半ばに安比スキー場がオープンして以来岩手県側のイメージは明るくなった。しかし、70年に花輪線で初めて岩手県に入ったときに見て取った風景に漂う霊的で陰惨な空気は、長い歴史の裏から洩れていたにちがいないのである。それは、ぼくには昭和のファシズムに通じるネガ・フィルム的な世界のように思える。

 

1 小学館世界大百科事典、HPクリック20世紀、他

 

 

 

EN PASSANT

発見者 

水色のカーテンの翳り

原宿伝説

 

 

 

 

 

 

 


■    ■     ■

 

 

遠景 / 前景

 

1912(明治45) 

4.13          石川啄木、死去。

1912(大正元)

7.29                   明治天皇、崩御。大正天皇、即位。

1913(大正2)

7.10         威仁親王、病死。有栖川宮家、廃絶。天皇の第三皇子、旧南部藩下屋敷跡の有栖川宮新邸建築予定地(後の有栖川宮記念公園)を継承、高松宮復活。

1918(大正7)

9.29          初の平民宰相 政友会総裁原敬内閣成立。

1920(大正9) 

11.11         宮中某重大事件。

12.27         後藤新平、東京市長に就任。(〜大正12.4.27

1921(大正10)

10.27        バーデンバーデンで永田鉄山と東条英機ら青年将校グループ結成。

11.4                  原敬首相、東京駅で暗殺。

11.25        皇太子裕仁、摂政に就任。

1922(大正11) 

11.29        北白川宮成久(北伯爵)、箱根丸でフランスへ出発。

             徳川義親、マルセイユまで同乗、ロンドンへ。   

1923(大正12) 

4.1         北伯爵、フランスで自動車事故を起こして死亡。

            大杉栄、パリ滞在。   

9.1         関東大震災。大杉栄惨殺。後藤新平、山本権兵衛内閣内務大臣に。首都復興に尽力。                           

1925(大正14) 

3.1         東京放送局(後NHK)、新橋愛宕山に設立。後藤新平、初代総裁に就任。ラジオ放送開始。 

小林多喜二、北海道拓殖銀行小樽支店に就職。

4.22          治安維持法公布。 

5.5           普通選挙法公布。

1926(大正15)

12.25        大正天皇、崩御。

 

 

 

 

 

 

 

 


謎めいた綴子の政治感覚

 

県知事リコール運動が能代で始まり、佐々木喜久治知事が公費悪用の責任を取って辞任を表明した。知識人たちは秋田県民の模範的な民主主義の努力を絶賛した。ところで、戦後日本で最初にリコール運動を起こした自治体はどこか、知っているだろうか?あの世界一の大太鼓で有名になった綴子村である、と地元の人が書いている。  綴子は、18世紀初め我が家の先祖が塾を開いた深い因縁があるところだ。あの頃〈王朝崇拝〉とは倒幕派の疑いがあるが、民主主義は遺伝子にないな。

 

HHJ   VOL.53  1996.12.6  RIVER UTOPIA

 

注記; この記事は、朝日新聞が社説で秋田県のリコール運動を〈教科書通り〉と不快げに述べたことへの批判である。言うまでもなく、リコールは地方自治法に規定されている。大館市葛原出身の佐々木喜久治200858日運命に書かれたように死去した。

 

▼ 旭川のページ

 

 

 

 

 

 

                                                              

 

                       

 

 

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