今年は敗戦から80年。昭和100年。さまざまな特集番組がテレビやラジオで放送された。たくさんある特集番組のなかで、今年はこの番組だけを集中して聴いた。この番組を聴きはじめると、あまりの重さに、ほかの番組を見たり聴いたりする心の余裕はなくなった。
すべての体験談を聴くことはできないし、すべての戦跡を訪ねることもできない。支援活動でも同じ。すべての語り部を一人で受け継ぐことはできない。自分が関わるべき場所を見つけられた人は幸せと言うべきだろう。
『夏の庭』でこの番組を知った。夜、目を閉じる前に聴くにはちょうどよいさわやかな話だった。次も楽しみにしていたところ、まったく雰囲気の違う話が始まったので驚いた。
壮絶、というほかに感想が浮かばないような話だった。毎晩、部屋を暗くして目を閉じて聴いた。朗読だから最後まで聴けた。本だったら最後まで読めなかっただろう。その朗読でさえ、聴いているのが辛い夜もあった。
沖縄の戦跡には学生時代に行った。それこそ、今回の原典を出版した高文研が出している『観光コースでない沖縄』を片手に南部の戦跡や平和祈念資料館を回った。そのとき、ひめゆりの塔へは行かれなかったけど、資料館でたくさんの体験談を読んだ。
今回の朗読を聴いて、平和祈念資料館の見学して沖縄戦を知ったつもりになっていたことに気づいた。知らないでいた史実がまだあった。
著者がおそらくは几帳面にメモした記録のおかげで、卒業式の延期から3ヶ月に及ぶ激しい戦闘が詳細に語られる。
次々と人が亡くなっていく描写が辛い。隠れている壕のすぐ外で、壕から壕への逃亡中に、命令を隣の壕へ伝える伝令の途中で。艦砲射撃の砲弾で、手足が吹き飛ばされたり、内臓が飛び出したり、木っ端微塵になって亡くなる人もいる。
爆撃を受けたときの様子について、著者も、阿鼻叫喚、地獄という表現を何度もしている。こんなにも簡単に人の命は奪われてしまうものなのか。
亡くなった学友たちの名前がフルネームで紹介されていたことが印象に残った。一人一人の命を慈しむように著者は彼女たちの名前を呼んでいる。
それにしても、16歳の女生徒たちを看護補助として動員する事態は異常というほかない。そもそも看護教育も受けていない生徒たちに包帯の交換から排泄の補助までさせていることにも驚き呆れる。その上戦況が悪化すると、何の救済策もないまま「解散」の一言で生存は自己責任にさせられてしまう。使うだけ使っておいて、戦況が悪化したから解散とは、政府や軍は子どもたちを一体何と思っていたのか。
そのような事態になるまで戦争を長引かせた責任は大日本帝国の政府と軍部にある。戦時とはいえ、一般住民もまとめて攻撃対象にして空襲を行い、沖縄では地上戦を展開し、広島と長崎には原爆を投下した米軍にも憤りを感じる。
一方で、軍国教育を受けた女生徒たちは従順で疑念の一つも抱かずに任務についている。教育は恐ろしい。子どもを従軍看護師にすることも兵士にすることもできてしまう。著者もそう述べている。現代日本において、「平和教育」は盛んに行われているけど、権力が暴走しはじめたときに"No"とはっきり突き返す力は養われているだろうか。自分はどうか。正直、心もとない。
第18回。海岸線まで逃げたところで、ついに米兵に捕まってしまう。銃撃で亡くなる同級生もいた。「捕虜になると辱めを受ける」という教育を信じて手榴弾で自害した友人もいた。著者は手榴弾を米兵に奪われて自害できず、奇跡的に生き延びた。
「運命の分かれ道」という言葉で済ませるにはあまりに悲しいそれぞれの生命の道ゆき。生と死が紙一重の世界で生き延びることの尊さと重さを思わずにはいられない。
本書では沖縄戦終結日も終戦の日の様子も書かれていない。それはおそらく、著者にとって戦中から戦後が地続きだったからではないか。一日で何かが大きく変わることはない。逃亡生活と収容所生活が続いていただけ。
池間夏海のことは知らなかった。朗読は落ち着いていてとてもよかった。23歳というからひめゆりの少女たちとそう変わらない。沖縄県出身というから特別な思いもあっただろう。時折、感情を込めて肉声の部分を読む以外、感情を抑えて淡々と読み進む朗読は胸の奥まで届いた。
朗読を聴いていてふと気づいたことがある。16歳のときの回想を23歳が朗読していると、まるで少女がいま見てきたことを証言しているかのように瑞々しく、また生々しい。これは朗読の声の若さだけではなく、文体の影響もあると思う。
16歳が見た鮮烈な光景は、記憶の底に、いや、頭や心だけでなく身体全体にそのまま固着していた。それを思い出そうとするとき、著者が何歳であっても、記憶は16歳が見たままに回想され、証言される。
このような強烈で岩盤のような記憶は、どうすれば語り継いでいくことができるだろう。言語化して記録に残すのも一つ。それを朗読という生々しい表現を通すことで、記憶は鮮明に聴き手に伝わる。本作は、読書でなく朗読で接してとてもよかった。
単に記録を残すのではなく、声によって「語り継ぐ」という営為が大切ということが朗読を通じてよくわかった。