運用方針案内所ホーム

このページはアーカイブページです。厚生科学研究の成果として発表したものを無修正で公開しています。更新は行っておりませんので、ご注意ください。

食品中の残留農薬分析….

添加回収率が100%を越える!ピークがふたまたになる!

こんな現象でお悩みの皆様に,参考にしていただきたいページです

ガスクロマトグラフィーにおけるマトリックス効果

2000年7月26日更新)

    1.どんな現象か

    2.なぜ起こるのか

    3.どんな化合物で起こるのか

    4.どうしたらいいのか

    このページを作成した経緯

 


マトリックス効果とは

ガスクロマトグラフィーにおいて,試料成分に含まれる高沸点または不揮発性成分によって,分析対象化合物のピーク形状や面積が変動する現象のことです(1).脂質をはじめとする夾雑物の多い試料から微量の吸着性物質(農薬等)を分析する際によく見られます.

具体的には,添加回収率が100%を越える,分析操作中のロスが無いのに試料添加化合物の回収率が100%に満たない,ピーク形状がブロードになったり,非対称になったり,頂点が2本以上に割れる,保持時間がずれる,標準液中の農薬より試料液中の農薬の方がピークがシャープ….等の形で現れます.

すなわち,マトリックス効果によってピーク形状が改善されて見かけの定量値が過大にある場合もあり,逆にピーク形状が劣化して見かけの定量値が過小になる場合もあります.

(1) Grob,K: "Split and splitless injection in capillary GC" p.362, Huthig (1993)


マトリックス効果の原因

 ガスクロマトグラフィーにおけるマトリックス効果の原因はいくつか考えられています.

 最も支配的と考えられている原因はクロマトグラフィー系による農薬の吸着です.溶融シリカキャピラリーカラムは近年表面処理技術が飛躍的に進歩し,吸着はほとんど問題にならなくなってきましたが,インサート部への吸着はまだ完全に解決されてはいません.そのため,有機溶媒のみに溶解した農薬標準溶液では吸着が起こって,レスポンスが小さくなるのに対し,試料マトリックスが存在すると吸着が妨害されて本来のレスポンスが得られるといったことがあります.吸着が起こる場合,農薬の有機溶媒溶液を外部標準として添加回収率を算出すれば100%を超えることになります.

 また,脂質の多い試料液を注入すると試料成分がカラム液相と同様の働きをしてクロマトグラフィーに影響すると言われます.これは,しばしば有機溶媒のみに溶解した農薬よりも試料液中の農薬の方がピーク形状が良いという現象をもたらします.

 以上は主にプラスのマトリックス効果の原因ですが,マイナスのマトリックス効果の場合は,繰り返し注入された試料中の不揮発性成分がインサート内壁等に層状に蓄積し,次に注入された試料を一時的に保持して,ある遅れをもって再放出するため起こると考えられています.この場合,ピーク形状はブロードになり,高さは減少します.また,標準液よりも試料液の方が液滴となって汚れの層に吸着されやすいため,試料液中の化合物のピーク面積が標準液のそれより低い結果になる場合があります(1).

 さらに,熱分解も考えられます.Erneyら(2)は,吸着も熱分解も主にインサート部で起こるため,インサートに留まる時間が長いスプリットレス注入でオンカラム注入より顕著にマトリックス効果が見られるとしています.外海ら(3)は,キャプタン,キャプタホル,ホルペットがGCの注入時に試料成分と反応して分解されると述べています.

スプリット注入においては,試料成分の共存によるスプリット比の変動も考えられます.

(1) Grob,K: "Split and splitless injection in capillary GC" p.362, Huthig (1993)

(2) Erney, D. R., Gillespie,A.M., Gilvydis, D.M., Poole,C.F.: J. Chromatogr., 638, 57-63 (1993)

(3) 外海泰秀,津村ゆかり,中村優美子,松木宏晃,伊藤誉志男:衛生化学,38, 270-281 (1992)


マトリックス効果の実例

これまでに報告されているマトリックス効果の実例をまとめました.

マトリックス効果の疑われる農薬リスト

マトリックス効果の疑われる化合物リスト(農薬以外)

参考文献

 農薬分析に関する論文は数多く発表されており,それらの中に回収率が100%を越える例はかなりの頻度で見られます.しかしなぜそのような回収率が得られるかを検討した報文は少なく,その改善を試みた例もほとんどありません.

 Erney(1)はマトリックス効果に取り組んでいる小数の研究者の一人ですが,彼は乳製品中の有機リン系農薬をFPD−GCで分析して,バター脂中のアセフェートが標準溶液中でのレスポンスの1.36相当を与えた事を報告しています.これはスプリットレス注入の場合で,オンカラム注入では全般にマトリックス効果は少なかったとしています.

 Carson(2)は米国FDAのトータルダイエットスタディにおける7つの食品群中の7種有機リン農薬の分析をパックドカラムを用いて行い,豆類中のエチオンで133%,DEFで126%といった回収率を得ています.Carsonは,標準溶液より試料溶液中のピークの方がテーリングが少なくピークサイズも大きいと記述しています.

 奥村(3)は,水道水中の農薬及び酸化生成物30種をガスクロマトグラフ質量分析計のSIMモードで分析した場合,62〜750%の回収率になると報告しています.奥村もCarsonと同様,標準溶液より試料溶液中のピークの方がシャープであると述べています.

 Ferriraら(4)は赤ワイン中の11種類のアルコールとエステルをキャピラリーFIDで分析し,スプリットとスプリットレスの2つの注入法を比較しています.スプリット注入ではヘキサノールとラウリル酸エチルで1.27相当のレスポンスになりました.これは不揮発性物質の混在でスプリット比が変動するためではないかとしています.しかしスプリットレス注入でもフェニルエタノールのレスポンスが0.82等レスポンスが減少する方向でマトリックス効果が見られました.

(1) Erney, D. R., Gillespie,A.M., Gilvydis,D.M., Poole,C.F.: J. Chromatogr., 638,57-63 (1993)

(2) Carson,L.J.: J.AOAC, 64, 714-719 (1981)

(3) 奥村為男:環境化学, 5, 575-583 (1995)

(4) Ferria,V., Escudero,A., Salafranca,J., Fernandez,P., Cacho,J.: J.Chromatogr. 655, 257-266 (1993)


マトリックス効果を解決するには

1.試料の徹底的なクリーンアップ

2.安定同位体希釈法

3.クロマトグラフィー系への吸着防止措置

4.試料溶液に目的化合物を添加したものを標準溶液とする

5.標準溶液に極性物質を添加する

6.内部標準を加える

この中である程度成果を上げているのは,試料溶液に目的化合物を添加して標準溶液とする方法ですが,未だ根本的な解決には至っていません.

解決法1

第一の解決法は,試料を徹底的にクリーンアップしてマトリックス効果を減らすというものです.これは最も正当な考え方ですが,現在公表されている残留農薬分析に関する論文のほとんどは最適なクリーンアップの方法を追求した内容であると言っても過言でなく,その上でなおかつ生じるのがマトリックス効果です.高度なクリーンアップは必ず目的成分のロスを伴うというジレンマを抱えています.

外海ら(1)は,キャプタン,キャプタホル,ホルペットの分析において,試料の精製度を高めるに連れマトリックス効果が減少する例について報告しています.

(1) 外海泰秀,津村ゆかり,中村優美子,松木宏晃,伊藤誉志男:衛生化学,38, 270-281 (1992)

解決法2

第二は安定同位体希釈法です.分析対象の農薬分子中の12Cを13Cに置換した安定同位体を用いて添加回収実験を行い,その回収率によって定量値を補正します.この方法は試料抽出段階でのロスも補正することができ,優れた方法であることは言うまでもありません.しかし,世界各国で流通している農薬は600種類以上と言われ,これら全ての安定同位体標準品を日常分析に供することはコストの上からおよそ非現実的です.また安定同位体の検出はFPD,ECD等では不可能で,必ずGC/MSのSIMモードを用いなければなりません.

最近になって,試薬メーカーが安定同位体の農薬標準品混合溶液を市販する動きが出てきました.

解決法3

 第三の解決法は,クロマトグラフィー系を改良することです.スプリット及びスプリットレス注入においては,ガラスインサートのシラン処理で農薬の吸着を防ぐことができます.木川ら(1,2)は,シラン処理しないガラスインサートではシラン処理した石英インサートを用いた場合に対してカプタホルで0.03,チオメトンで0.303相当の低いレスポンスになるとしています.また,試料マトリックスを繰り返し注入することによる活性部位のマスキングも試みられています.Erneyら(3)は精製処理を省いたミルク抽出物にコーン油や大豆油を添加した物をGCに注入し,不活性化を試みました.しかし一連の分析において効果は変化して行き,安定な結果は得られなかったとしています.

 オンカラム法を用いればインサートへの吸着は問題にならず,熱分解に起因するディスクリミネーションも軽減されます(4).しかしオンカラム法はリテンションギャップの頻繁な交換や再キャリブレーションを必要とする方法であるため(5),食品のような夾雑物の多い試料に適さず,普及に至っていません.ルーチン分析はスプリットレス法で行い,農薬が検出された場合のみオンカラム法を用いることも提案されています(4).

(1) 荒井香陽子,近藤亮子,木川寛:第28回全国衛生化学技術協議会年会要旨集,p.36 (1991)

(2) 近藤亮子,荒井香陽子,木川寛:第29回全国衛生化学技術協議会年会要旨集,p.22 (1992)

(3) Erney, D. R., Gillespie,A.M., Gilvydis,D.M., Poole,C.F.: J. Chromatogr., 638,57-63 (1993)

(4) Stan,H.-J., Goebel,H.: J. Chromatogr., 314, 413-420 (1984)

(5) Matthew S.Klee著,細川秀治訳:ガスクロマトグラフの注入口と試料の導入,横川電機 (1990)

解決法4

 第四に, standard addition(標準添加法)があります.これは分析対象の試験溶液を複数個作製し,それらに複数の既知濃度の目的成分を添加し,添加濃度とクロマトのピーク面積(または高さ)との関係から試料中濃度を算出する方法です.ただしこの方法は1検体の定量値を求めるために複数回試験液を調製し分析する必要があるため,たいへん煩雑で,残留農薬分析に実際に応用した例はほとんど見られません.

 一方,分析対象の農薬を含まないことを確認した試料から抽出液を調製し,これに農薬標準品を添加してクロマトグラフィーの定量用標準液とする方法は多くの実施例が見られます.特別な機器の改良や特殊な試薬を必要とせず,容易に行うことができるためです.たとえばChichila(1)はミルク中のキャプタン,キャプタホル及びそれらの代謝物の分析において,標準液としてアセトン溶液を用いると回収率が100%を越えるため,試料に添加した標準液を用いています.同様にしてErney(2)は乳製品中の29種有機リン系農薬を,斎藤ら(3)はレタス,トマト,いちご中の65種の有機リン系,カルバメート系農薬を分析しています.

 しかしこの方法も,単一から数種程度の食品のみを分析する場合は良いにしても,何十という種類の食品を分析する場合には相当な手間がかかり,ルーチン分析に用いるためには煩雑です.その上,標準溶液を調製する試料と分析対象試料のマトリックスの同一性が(たとえ同じ種類の食品であっても)完全に保証されているとは言えません.さらに,目的とする農薬と同じ保持時間に妨害ピークが表れた場合は定量値を算出できません.

(1) Chichila,T.M.P., Erney,D.R.: J.AOAC, 77, 1574-1580 (1994)

(2) Erney,D.R.:J.High Resolut.Chromatogr., 18, 59-62 (1995)

(3) 斎藤勲,山田貞二,大島晴美,早川順子:農薬誌.20,109-118 (1995)

解決法5

 第五の解決策として,第四の方法を一般化して,試料マトリックスと同じ効果を特定の物質で得ようとする発想があります.非常に極性の高い物質を農薬の標準液に添加すれば,試料成分と同様の働きをするためGCレスポンスが上昇する場合があります.奥村(1)は水道水中の30種の農薬について,ポリエチレングリコールを用いて,ある程度良好な結果を得たとしています.ただしクロルピリホスのオキソン体の回収率は221%等,全てに適用できる方法とは言えません.Erneyら(2)もミルク中の有機リン系農薬について,グリセリン,ポリエチレングリコール等6種類の物質で同様に検討しています.しかし,マトリックス効果の現れ方は食品の種類によって異なっており,単一の物質で全ての代替とすることは困難なため,根本的な解決には至っていないのが現状です.

(1)奥村為男:環境化学, 5, 575-583 (1995)

(2)Erney, D. Ronald ; Poole, Colin F.J. High Resolut. Chromatogr. , 16, 501-503 (1993)

解決法6

 内部標準法も試みられる場合があります(1)が,大きな成果は上げていません.その理由は,内部標準物質と分析対象物質とでマトリックス効果の現れ方が異なる場合が多いからです.内部標準物質は一般的に目的物質と保持時間が近いことを基準に選ばれますが,保持時間が近くても吸着性が似通っているとは限りません.内部標準物質の選定には,分析対象と共通の吸着性の基を持つことなども基準にする必要があります.マトリックス効果がマイナス方向にもプラス方向にも現れることを考え合わせれば,内部標準物質の使用はむしろ誤差を増大させる場合もあり得ます.

(1) Grob, K. "Split and splitless injection in capillary GC", p374, Huthig, (1993)

 


このページを作成した経緯(厚生科学特別研究事業について)

このホームページは,平成8年度及び9年度の厚生科学特別研究事業「残留農薬分析のGLP対応に関わるクロマトグラフィー手法の研究」の一環として作成しました.本研究の主任研究者は津村ゆかり(国立医薬品食品衛生研究所大阪支所厚生技官),分担研究者は中川照眞先生(京都大学薬学部教授),研究協力者は柴田正,外海泰秀,中村優美子,吉井公彦(国立医薬品食品衛生研究所大阪支所)です.

厚生科学特別研究事業とは,「厚生科学の新たな進展に資することを目的とする独創的な研究並びに社会的要請の強い諸問題に関する先駆的な研究」に対し,厚生大臣が研究費補助金を交付するものです.本研究は,平成7年より本格的に我が国の食品衛生関連検査機関に導入され始めたGood Laboratory Practice (GLP) 支援研究として認められました.


トップへホームへ


管理者:津村ゆかり yukari.tsumura@nifty.com