昨日 夕食を,少々食べすぎたせいか,お腹をこわしてしまった。朝食は,おかゆだけにする。
09:40 ホテル発。 カシュガルからずぅ~と乗ってきたバスは,コルラで窓ガラス修理のため,わたし達のトランクを積んで一足先にトルファンへ向かう。運転手のチーさんとは,しばしのお別れ!
クチャの観光は,代って,ローカルガイドの李さんとドライバーはアメティさん。
バスは市街地を抜けて,郊外へ。
両側にトウモロコシ・麦・きび畑や葡萄・桃・杏の果樹園が広がるポプラ並木道を過ぎて,20分ほどでゴビ灘に入る。この間,李さんがクチャの町を紹介してくれた。
メモ 「クチャ(庫車)の豆知識」
○ 人口40万人,天山南路最大のオアシス都市。海抜1,100mの天山南麓に開けた高原の町で,かつては亀茲国が栄えたところ。
クチャは ”十字路” と言う意味。年間降雨量70mm。2月には雪が降る。
○ 亀茲国は前漢時代(紀元前202年~紀元08年)から10世紀頃まで,天山の雪解け水を集めて流れるクチャ河の恵みを受け,東西貿易の中継地として繁栄した。
○ 3~6世紀の時代,中国は五胡十六国時代で,西域北道には東からトルファンの高昌国・車師国,カラシャールの焉耆国,クチャに亀茲国が並び,北方の騎馬民族と東方の漢民族のせめぎあいの中で,それぞれが覇権を競い合い戦乱が絶えなかった。
○ 亀茲国は,後漢時代には西域都護府が,唐時代には安西都護府が置かれ西域支配の中心地であった。
○ すぐれた仏典翻訳者・鳩摩羅什(クマラジーバ)の生誕地としても有名。
近郊に残る多くの仏教遺跡(キジル千仏洞・クムトラ千仏洞・クズルガハ千仏洞・センサイム千仏洞・オンバシ千仏洞・カラクアイガン千仏洞・スバシ故城など)の存在は,3世紀中葉以降の仏教東進史上,この地が重要な役割を果たしたことを示している。
○ 唐代の安西都護府跡は亀茲古城として,僅かに城壁が残るだけ。キジル千仏洞へ向かう途中の町中で,バスの窓からちらりと見えただけ。
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クチャから北へ向かう国道217号は,天山山脈を越えて北疆のイーニン,アルタイへ通じる道である。玄奘三蔵が天山越えしてジュンガル平原へ向かったのはこの道ではないかと思う。
10:15 塩水渓谷
やがて,テーブル台のような形の不思議な地形が広がっている地帯に出る。
ヤルダン(YARDANG)地形である。
柔らかくて,かつ粘質な堆積物(例えば粘土質砂岩など)が風蝕作用で侵食され高さ6m,幅40mくらいの小山が並んだ地形が造られる。
ポットホールみたいな10~10cm位の丸い穴の並んだ岩も見える。
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ヤルダン地形 |
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ポットホール? |
剥き出しになった荒々しい岩山,次々に変化するギザギザの地層の重なる渓谷にかかる橋際でストップして,写真タイム。(わたしは,岩陰を探して青空トイレタイム!)
塩水渓谷は8月の増水期以外,水は無く川床は乾いて塩で真っ白。
両岸は褶曲した地層(およそ2億年前)が重なり合い奇岩怪石があちこち・・・・・・造山運動の激しさを生々しく見せてくれる。
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塩水渓谷 |
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頁岩層の褶曲構造 |
褶曲した頁岩の一木一草も生えていない岩山を縫うように蛇行する塩水渓谷に沿って進むと,対岸に形がチベットのポタラ宮に似ているという崖がある。本物のポタラ宮を見たことないので,似てるって言われても分からん・・・・・・・・って感じ
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ポタラ宮 |
10:40 右「天山神秘大峡谷73km」という表示のある分岐。こちらが多分天山越えの道だろう。
左の道を,広漠とした荒地平原を更に25分ほど走り左折,ガタガタ道を10分ほど進むと,天山山脈の南斜面から出て東流するムザルト川(渭干河)の向こうに先ほど通ってきた荒れ山(ウイグル語でチャール・タグ山と云う)が見え,急坂を下ったところがキジル千仏洞入り口。
11:05 キジル千仏洞に到着
クチャから北西に70km,ムザルト河を見おろす南向きの断崖(地質は固結度の弱い砂岩)に,西区・谷中区・谷東区・後山区の四つに別れ,3kmにわたって339もの石窟(もっとも大きいもので高さ27m)がある。
古代シルクロードの真珠と言われたキジル千仏洞は,3世紀頃から8世紀末ごろまで造られた西域最大の石窟寺院である。
ただ不思議なことに,三蔵法師が著した「大唐西域記」にキジル千仏洞に関する記載が何も無い。インドへの往路,すぐそばを通っている筈なのに何故か?
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キジル千仏洞&鳩摩羅什像
外観は敦煌の莫高窟に似ている。3世紀頃から9世紀後半に渡って造営された中国で最も古い石窟である。
石窟の半数は,僧侶達の住まう僧房窟,残りの半数が彩色鮮やかな仏壁画が描かれた礼拝窟。
壁画の題材は,釈迦の誕生から涅槃までを描いたものと釈尊が生前において何度も生まれ変わり,その度に善根を重ねて仏になるといういわゆる本生譚がメイン。 西域の各民族の人々の暮らしを反映しているものも多く描かれている。
しかし,13世紀イスラム教徒による破壊,19世紀西洋の探検家による略奪によって,飛天や仏の顔はすべて無惨にも削りとられていたり,すっぽり剥がされていたりそれらの表情がどの様だったか判らなくなってしまっているものが多いのが口惜しい。
鳩摩羅什(kumarajiva AC350?~413)
は,インド人の貴族を父に,亀茲国王の妹を母としてクチャで生まれた。7歳で出家し,その後西域各地を巡り,数々の経典に触れ仏教の教えを深く理解した。52歳の頃,後涼の都長安に迎えられ,各国語に精通していた彼は,数々のサンスクリット経典を漢訳した。以降,中国仏教が大きく発展した。
日本仏教にも強い影響を与えている。日本の仏教は,鳩摩羅什仏教にほかならないと極言する人もいるほどである。ちなみに「色即是空 空即是色」や「極楽」と云う言葉は彼の翻訳語である。
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入場してすぐ右手のショップに荷物を預ける。ここは,カメラ,メモ用具・懐中電灯・身の回り品以外はすべて持ち込み禁止である。 (入場料 35元)
わたし達が見学したのは,8,10,17,27,32,34,38の七窟である。
石段を登って先ず入ったのが
第8窟(十六佩剣者窟)
7世紀のもので中心柱窟
「1913・第十六佩、日語窟名・劍者窟、16供養人(流失海外)」と書かれてある。
カマボコ型状の天井には,月の神(周りに十六星)・太陽・風袋を携えた風神・四頭白蛇をくわえた双頭ガルーダ。
壁面には,五弦琵琶を奏でる伎楽飛天が描かれ,後室の壁には沙羅双樹が描かれ涅槃台がある(涅槃像はイスラム教徒に破壊されたという)。
釈迦の坐像は剥がされインド,ベルリンに持ち去られた。
右図にある前室は,殆どの窟で,崩れてしまって今は無い。
キジル石窟は「青の石窟」と言われている。窟内は,文字通り”青”が氾濫している。
様々な動物,仏陀,楽器を奏でる天女たちに,そしてそれらすべての背景に青い色がふんだんに使われている。青の顔料は”ラピスラズリ”だ。古代にはアフガニスタンでしか採れなかった,当時は黄金に匹敵する程の貴重な鉱物である。
中国や日本では”瑠璃”と呼ばれた。ちなみに緑色は孔雀石,赤は朱砂(鉛丹)。
壁画は,砂岩の上に泥を貼り付け更に石膏を塗りその上に描かれている。
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五弦琵琶を奏でる飛天 (絵葉書より) |
第10窟(僧坊窟)
石のベッド,かまど,煙道(ツバメの巣跡も)が見られる。
ル・コックやスタインの著作を読み,韓楽然と云う人が1964.6.5 ここを訪れ,壁画の芸術性の高さに心を打たれ,大部分が外国に持ち去られた後ではあったが,何枚かを模写した・・・・・という内容の文章が残されている。
第17窟(菩薩天井窟)
6世紀末 隋代 中心柱窟
正面は釈迦像,アーチ型や菱型の背景は,須弥山を現し,釈迦の前世や現世の物語が描かれている。右天井には,本生譚(象,猿などの化身の絵)。入り口上にはインドガンダーラ様式の交脚弥勒菩薩。
アポロン(馬)とか,ペガサス(翼)などギリシャの影響が随所に見られる。
しかし,目がくり抜かれたり,潰されている像が多い。
第27窟(壁龕窟)
7世紀 中心柱窟
回廊が壁の中に入っていて,平坦な天井面に蓮の花が描かれていた。
第32窟
5世紀 南北朝時代 中心柱窟
菱形格因縁図(釈迦の前生での善行や因縁説話をテーマ別に一つ一つ菱形の中に描いた図)有り。
床にも絵が描かれていた。
中央に新品?の仏様が鎮座していた。
第34窟(瞑想する太陽神窟)
5世紀 天井はアーチ型
雲の中に小龍(蛇),うさぎのいる月と周りを囲む星。月や雨などの神々が描かれている。
菱形格因縁図の壁画がある。
第38窟) (音楽洞,楽天窟)
3~4世紀(キジル千仏洞で一番古い) 中心柱窟
かまぼこ型天井。入口上に交脚弥勒菩薩像(東方のビーナス)。横笛・笙・ハープ・五弦琵琶・ひちりき・手鼓などの楽器や散花踊り用飾りひも・鏡などをもつ菩薩像が並ぶ。
四天王と10人の弟子・菩薩象。側壁には摩尼宝珠・魚・蛇・鴨・蛤・怪獣・西欧から伝わったという翼を持った天使が描かれている。
涅槃図はよく残っていた,が目がくり抜かれている。仏舎利塔の容器はパオの形(遊牧民族の影響?)
1時間足らずの見学を終える。
顔のない飛天,目をくり抜かれた菩薩,四角形に切り取られ地山むき出しの壁・・・・・痛々しいかぎりだ。仏像は一体もない,盗まれたか壊されてしまったのか?
こんな悲しい光景の中だからこそ,ラピスラズリの鮮明な”青”が,瞼に残った。
13:30 敷地内のレストランで昼食
わたしは,まず,トイレに駆け込む! 「ウン」 ここは比較的きれいだし明るい,例の開放的な中国式トイレだが,もう慣れてしまってあまり気にならない。
お昼のメニューは,ラグ麺・豆腐の炒め物・トマトの卵炒め・スイカ・・・・・・・・・。
わたしは,麺と豆腐,卵のみ少量食す。
14:20 来た道を戻って,塩水渓谷経由で国道134号に出る。左折して東に向かいすぐまた左折,ゴビ灘の中の未舗装路と云うか,わだち跡みたいな悪路を約20分走る。
15:40 クズルガハ千仏洞着
えっ 月世界みたい!
一面茫漠とした塩水渓谷の乾いた谷間の両岸に並ぶ46の石窟がわびしそうに迎えてくれた。
クチャの町から西北へ12km,皇族や貴族が礼拝した窟といわれているが,地震やイスラム教徒による破壊などで保存の良いものは38窟,壁画が残っているのはわずか11窟のみ。しかも安全面で,6つの石窟のみが見学に耐えうる。
クズルガハとは・・・娘よ留まれ・・・という意味があるとか,なにか悲しい伝説のありそうな所?
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クズルガハ千仏洞
4世紀に造られた仏教遺跡で左右二つの丘に分かれた洞窟群からなっている。造られた年代は,キジル千仏洞よりはやや遅い。
仏陀の本生説話と因縁説話・捨身飼虎図などの他,飛天や菩薩を描いたものなどがある。
いずれの洞窟も13世紀にイスラム教徒によって仏像が破壊され,さらに今世紀になって紅衛兵によっても破壊され痛々しい姿になっている。。
僧房が多いのも特色で,したがって壁画を描いた窟が少ない。
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7人ずつの二グループに分かれて,16,14,11,13,27・28,32,30窟の順で見学する。
第16窟
6世紀 中心柱窟
一番大きな洞窟でここに釈迦の大きな像が祀られていたが,地震で自然に崩れたという。後室に,釈迦の涅槃台と枕の部分が認められるが涅槃像は無い。自然崩壊か,イスラム教徒の破壊によるか?
天井の一部には,赤や緑の絵具で蛇・ガルーダ・・猿、鹿、熊、虎、鳥などのたくさんの動物や須弥山が描かれているが,自然崩壊が激しい。
第14窟
6世紀 ここも破壊され,いたいたしい姿になっている。
入り口上部の壁には弥勒菩薩(顔が無残に削られている)。三層説法図,馬に乗って仏舎利を運んでいる分舎利図。後室に釈迦の火葬図がかすかに見える。
正面にはたくさんの穴が開いているが,ここに木を差し込み仏像を取り付けていたそうだ。
第11窟
7世紀 中心柱窟 かまぼこ型天井
天井には,太陽の神・馬車に乗った月の神(車輪の脇に馬の首と前足が描かれている)・人間の顔をしたガルーダ・風神の四つの画が残る他はほとんど剥落している。
正面に釈迦の坐像があったが,イスラム教徒によって破壊。供養菩薩・釈迦の説法と本生伝の壁画・仏舎利図などもあったが紅衛兵によって破壊,僅かに飛天図が少し残っている。
涅槃台の後ろの火葬図に”亀茲服”の供養人が描かれている。
第13窟
6~7世紀 中心柱窟
二層説法図。 釈迦立像あり。
第27・28窟
6~7世紀 僧坊窟
27窟は広く,僧たちの勉強する講堂。100人くらい入れそう。座禅台・ローソク台・煙突とかまどの跡があり天井が煤けている。
28窟は,保存庫?小さく壁を削って経典などを置く本棚が造られている。
二つの窟は内部で繋がっている。
第32窟
6~7世紀 方形窟(3.5×5m)の礼拝堂
地震による崩壊の跡あり。天井は,ドームではなく三段の三角隅持ち込みの天井(イラン方式)になっている。中央に蓮の花,青い色で海を表している。
第30窟
7世紀 中心柱窟
前室の天井は地震で剥落して何も無い。ここ一帯の地層は,シルト岩と砂岩の互層がほぼ水平に重なり合っているので天井部分は,地震がなくても剥落しやすい条件にある。
後室の天井画が素晴らしい。八人の飛天が4弦の琵琶・笙・横笛・クコ(ハープ)を奏でる姿や花を撒いたり踊っている女性の姿が見られる。
飛天の顔はまたしてもイスラムに削られている。
回廊内には亀茲服の供養人の姿あり。
16:50 寂寥感ただようクズルガハ千仏洞に別れを告げ,3kmほど南にある烽火台へ
16:55 クズルガハ烽火台
前漢時代(約2,000年前)の亀茲国の烽火台。
その頃,クチャには西域都護府が置かれていて,北方の匈奴との戦いや諸オアシス都市との抗争が頻繁に繰り返され,最前線における情報伝達のために多くの烽火台が築かれた。そのなかでも最も古い部類に入りかつ最も大きな(高い)烽火台と考えられている。高ければ高いほど遠方から望見出来る。このような烽火台は約10里(前漢時代の1里は400m余り)に1箇所作られたという。。
高さ13.5m,南北35m,東西5.6m。2001.6.25国重点文物保護単位(日本で言う国宝)に指定されている。上が展望のための台になっており,階段は外部に設けられていたという。
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最上部には見張り台回廊があったらしく木製の梁材が残っている。 |
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本体は,土を20~30cm厚さずつ,木の板などで叩いて固めながら積み上げていくいわゆる版築工法で作られている。壁体に木の棒が突き刺さっている,鉄筋ならぬ木筋で補強したものと思われる。2000年以上も前によくぞ造ったものだと感心することしきり。
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17:40~18:20 市内に戻り金曜バザールを見物
イスラム教徒の多い街ではモスク付近にバザールが開かれることが多い,ここクチャもしかり。
臨時バスセンター兼駐車場になったモスク前広場に,やっとバスを乗り入れ下車,さっそく市場に繰り出す。
近郷近在からやってきた小型トラック,マイクロバス,ロバ車,路線バス,自転車,タクシー,リンタク,バイクそして老若男女が,いっしょくたになって人民路を行き交っている。身動きできないほどの混雑でそれはそれは賑やかだった。
市の西を流れる河にかかる団結大橋付近の河原一帯がロバ車の臨時駐車場化し,市もたっていた。
食べ物の屋台をはじめに,家具・日用雑貨・衣料品,家畜から鳥・ペットの類までありとあらゆる生活用品が集まっている。
果物と野菜が専門のもう一つのバザールが別にあるというが,わたし達はここだけにして,目印のモスクを目指して集合場所に戻る。
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売り手も買い手も近郷近在から集まって大賑わい |
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河川敷がロバ車の臨時駐車場 |
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スイカとハミ瓜 安いよ~
前に転がっているのは大型ニンニク |
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生地を物色するおばさん達 |
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お祝い用の赤いゆで卵 |
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羊の頭 どうやって食べるんでしょうか? |
20:00 ホテルレストランで夕食。
メニューは,牛と玉ねぎの炒め物・ウリ炒め・ポロウ・シシカバブ・鶏とじゃがいも炒め・厚揚げの炒め物・スープ・ラグ麺・スイカ・・・・。
わたしのお腹の調子は,ほぼ回復。用心のため”腹3分目”くらいにする。
食後,妻は,連れ立って町中の足裏マッサージへ。わたしは早めに就寝。
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