森有正対話篇表紙

昨年、森有正の全集を買った。まず『対話篇』から読みはじめた。

『対話篇Ⅱ』のなかに、自死について遠藤周作の興味深い発言を見つけた。

キリスト教がなぜ自死を大罪と考えるのか、その理由の一端がわかった気がした。

遠藤 たとえば拷問に耐えられなくて自殺をするということ。自殺をしないということ。これがぼくはやはりキリスト教の非常に深い感覚だと思いますね。そういう中で最後まで自殺をしないという感覚のほうが裏切りの問題よりもはるかにキリスト教的ではないかと思いますが、その問題はどうお考えになりますか。
森 (前略)私個人としては、自殺しないほうがいいと思うんです。たとえ結果において生きていて裏切らざるを得ないことが起こるかもしれないけれども、私はやはり裏切らないために自殺するというのはどうか。これは私だけの考えだし、また私のキリスト教的な考え方が非常に影響しているかもわからないけれども、それでも、そのときたとえ裏切るような結果、転ぶような結果になっても自殺しないほうがヒューマンだと思います。
遠藤 よりキリスト教的ではないでしょうか。ですからレジスタンスのときにキリスト教徒であるのとキリスト教徒でないのを区別する一つの線は、裏切り行為ももちろんありますが、自殺するかしないかという問題にぼくは最後はかかってくると思うんです。
遠藤 (前略)結局キリスト教が教えていることは、裏切りよりも生きろ、生き続けろということに終局なっちゃうのじゃないでしょうか。裏切りをしてはいけないということは、日本なんかでもいろいろな形で武士道なんかにもあるでしょうし、必ずしもキリスト教だけが教えた考えとは思いません。しかし、生き続けろ、どんな屈辱を受けても生き続けろという考え方は最もキリスト教的な考え方だと思うんですがね。

遠藤の議論は非常に明快。この論理はわかる。ここでの前提は迫害され拷問されたとき、どういう行動をとるか、であり、社会生活において精神的に追い詰められ視野狭窄に陥った場合は想定されていない。この前提でこの教義ということならわかる。

現代において自死は、思想信条に対する迫害よりも、過労やハラスメントなど、社会生活上の苛烈な状況を前提に考えなければならない。精神的に追い詰められた状況にある人に「生き続けろ」と諭すならば、その人を視野狭窄に追い込んでいる状況を取り除くなり、そこから脱出させるなりのサポートが必要だろう。

さらに遠藤はこの鼎談の5年前に発表された『沈黙』がキリスト教界、とりわけカトリック界で議論を起こしたことに触れたうえで、自身のキリスト教観を述べる。

遠藤 (もしイスカリオテのユダが最後に自殺しなければ)救われるのじゃないでしょうか。キリスト教が教える最大の、ただ一つの罪は絶望ということでしょう。ほかには罪はないということでしょう。ですからユダの罪というのは、キリストを裏切ったということでなくて、救いに絶望したということにあるのじゃないでしょうか。これは私個人の考えですが。
遠藤 (前略)しかしぼくは、もしキリスト教の教義に従って生きるならば、イエス自身何のために十字架を捨てなかったかということと、何のために最後まで自殺しなかったか、この二つを考えると、キリスト教の最大の教えは、裏切るなとか、そういう二次元的な問題じゃなくて、この人生を決して棄てるな、どんなにいやなことをしようが悪いことをしようが、最後まで絶望せずに棄てるなということの一言に尽きるだろうと、だんだんそういう心境になってきているのです。

ここを読んで、スピッツの「チェリー」の一節、「ズルしても真面目にも生きていける気がしたよ」(草野正宗作詞)を私は思い出した。

「生き続ける」ことの大切さはよくわかる。これは『自殺の思想史』にも書かれていた。原題の"Stay"がその主張を示している。問題は追い詰められた人が「生き続ける」ために、どのように「逃げてもいい」「休んでもいい」と諭すか、というところにある。教義である「生き続けろ」と支援とは常にセットでなければならない。

森有正も自死については厳しい見方をしている。『二十歳のエチュード』(原口統三)に寄せた文章「立ち去る者」では「罪の意識の欠如」を強調している

  かれには罪悪の意識が徹底的に欠如していた。これが究極の点である。ここにかれが人生に背を向けたいっさいの秘密が宿っている。自己の罪性を意識するものはけっして自ら己れを殺すことはできない。古来責任自殺ということがよく行われるが、これは真実の罪の意識が成立していない場合にのみ起こることである。

では、罪とは何か。鼎談のなかで森は次のように発言している。

よくわからないのですけども、罪というのは、法を犯すというものではなくて、ほかの人の、自分でもいいのですけれども、その魂を傷つける、あるいはそれを殺す、抽象的にいえばそういうことだと思いますね。

魂を傷つけることだから自死は罪である、という論理になるのであれば、森は遠藤と意を同じにしている。このあと、罪とは人の人生を横切ること、原罪という意味で、最も罪深いことは愛すること、とまで言っている。

キリスト教の自死観が少しずつわかってきた気がする。先に書いたように、現代においてはただ「生き続けろ」と励ますだけではなく、窮地に立っている人へ適切な支援が必要だろう。そういう意味では、読後に違和感があった『自死と遺族とキリスト教』に付された副題、〈「断罪」から「慰め」へ、「禁止」から「予防」へ〉は現代の状況に即した、適切なものだったと思い直した。


さくいん:森有正遠藤周作自死