東洋文庫ミュージアム、モリソン書庫

本書は、しばらく前に銀座教文館で見つけた。近所の図書館にはなく、別の自治体の図書館から借りてきてもらった。

書名の通り、本書は森の文章を丁寧に読み解いていく。精読と呼んでいいほど緻密な読みが展開されている。

森有正の思想を体系的に説明することは容易いことではない。「感覚」「経験」「変貌」など、カギとなる言葉はいくつかある。しかし、それらの言葉はあまりにも頻繁に登場するので定義は難しい。そのうえ、森は何度も定義し直し、操作し直している。だからそれらのキーワードに直接あたろうとすると「経験とは経験としか言いようがないもの」といった堂々巡りに終わりかねない。

著者も、その危険を知ってか、「感覚」や「経験」などの言葉を正面からは扱わない。その代わりに、森が「感覚」や「経験」を定義するために使用した言葉、いわば森有正が用いる語彙の第2グループにあたる言葉に注目する。

注目している言葉は以下のとおり。これがそのまま章立てになっている。なお、リンク先は拙作の森有正エッセー集成 索引

  1. ことば——表現体としての
  2. 自己
  3. 書くこと
  4. フランス語学習の問題
  5. ノートル・ダム
  6. ミノトール(または について)
  7. 音楽
  8. アブラハム
  9. カルヴァン
  10. 翻訳の問題

上記の言葉に注目し、著者は縦横無尽に森のエッセーや日記から引用をしながら、緻密に読みを進めていく。何度も読み返してきたはずのこれまでの自分の読み方が、まったく表面をなぞっていただけだったと思い知らされるほど、著者の読解は微に入り細に入っている。

しかし、著者は、森有正の思想の体系的な紹介を試みているわけではない。むしろ、体系的であることを拒む体裁で書かれたエッセイや講演録をもとに、森有正の思想の運動、すなわち積み重なりや往復、展開、思いがけない概念間の接点などに注目している。

また、特筆すべき点がある。それは、著者が直接、森有正と知己であったにもかかわらず、あくまでも森が書いた文章についてのみ考察を行なっていて、彼の私生活や人間性については極力言及していないということ。あくまでも再読であり、森有正回想ではない。この態度は潔い。この姿勢は終始揺るがず、森への思いが先走るようなこともない禁欲的な筆致が本書を客観性の高い専門書にしている。

本書を読んで、あらためて、森有正は言葉を大切にして真摯に思索を深めた人ということがわかる。精読に耐えられる文章表現というものは決して多くはない。それぞれの概念がきちんと定義づけされ、論理的に配置されて、初めて思索の伽藍ができあがる。

森有正は、私的な日記も含めて、膨大な量の文章を書き残している。そのどれもが定義づけられた概念が論理的に結びつけられ、強固な文章世界を作っている。それでも意図の不明瞭な表現や、謎めいた言葉遣いもないわけではない。

著者は、そうした森の文章世界に散在する深淵を覗き込み、天空の星々から星座の物語を紡ぐように、森の意図しようとした真意を探っていく。その作業は、ミステリーのトリックの解明や古代文字の解読のようにスリリングな読書体験をもたらしてくれる。

多くのインスピレーションを与えて、森有正の再読を本書は促してくれる。

なかでも、私自身がかつて引用した「忘却」について森が記したある日の日記を、著者も引用していて、「信仰」の観点からカルヴァンの見解——不可能だが私たちがなすべき勤めとしての赦し、それが「忘却」によって可能になるという微妙な消息(第10章 カルヴァン)——を詳しく教えてくれたことはとてもありがたいことだった。著者に感謝したい。

もっとも、私にはまだ許すことのできない怒りが心の底でくすぶっている。その矛先は自分自身にも向けられている。「忘却」の末に神に「赦し」を委ねる日は遠い。

一つ、心残りがある。それは森有正とカトリックとの関係。いわば改宗問題ともいうべき問題について。本書では、晩年、森がカルヴァンに傾倒していたことを強調しているけれど、日記で何度も触れられている改宗の問題については語っていない。

森有正はカルヴァニスムとカテキズムについて、どう考えていたのか。教義とともに日仏の教会事情にも詳しい著者に問いかけたい気持ちが残った。


さくいん:森有正銀座