X(旧Twitter)で日本政治思想史研究者、河野有理に興味を持ったので、彼の論文が所収されている講座本を借りてきた。
河野の論文は「「演説」と「翻訳」——「翻訳合議の社としての民六社構想」」。
阪谷素を中心に明治期の知識人が、西洋文化、とりわけ政治、宗教、法律の分野の輸入にあたり、訳語を考えるだけでなくその概念を吟味し、あるべき姿までを構想した理想主義を描く。
明治期の知識人たちが西洋の概念を豊富な漢籍の知識を頼りに日本語に作り変えたことは知っていた。その際に、言葉の中身までよくよく考察し、日本社会における理想形を模索していたという指摘は私には「発見」だった。
以前、スピーチをテーマにした小説『本日はお日柄もよく』(原田マハ)を読んだときに、その感想のなかで、現代日本では、名文はあっても名演説・名スピーチはほとんどないことを指摘した。
河野によれば、福沢諭吉が輸入し、日本で普及させた「演説」は明治初期から民権運動の時代まで盛んだった。日本の演説文化が廃れたのは、いつ、どうしてなのか、という疑問が残った。
ほかにも2本、興味をひいた論文があった。一つは、「近代日本における「基督教」」(新保祐司)。もう一つは「人格主義と教養主義」(高田里恵子)。
「近代日本における「基督教」」(新保祐司)は明治期の「基督教」は元武士、すなわち、士族階級が「基督教」、とりわけ「清潔」を重んじるピューリタニズムに武士道との共通点を見ていた点で現代日本の「キリスト教」と著しく異なっているという大胆な指摘をしている。
近代日本の知識人でキリスト教に入信した人は多くはないものの、まったく影響を受けなかった人もほとんどいない。夏目漱石のような文学者から、田中正造のような社会運動家、哲学者の西田幾多郎、果ては軍人の山本五十六まで、キリスト教と親しい関わりがあったと読んだことがある。
内村鑑三のようにキリスト者になった者と、知的関心を持ちながら入信しなかった人とのあいだにはどのような違いがあるのだろう。そこには「武士道的基督教」の存在が何らかの影響を与えただろうか。
内村のような影響力のある人が「武士道的基督教」を信奉していたとすれば、ほかの知識人たちも「キリスト教」を「武士道精神」と関連づけて認識していただろうか。彼らが見ていた「キリスト教」は現代のそれとどう違っているのか。興味は尽きない。
もう一つの疑問。武士道精神には「切腹」という責任自殺の伝統がある。一方、キリスト教は自死を原則として禁じている。罪という見方もまだある。「切腹」は殉教と同列には語れない。「武士道的基督教」において「切腹」はどう解釈されていたのだろう。
「人格主義と教養主義」(高田里恵子)は、明治から大正時代にかけて、青年たちの精神的主柱となった「人格」と「教養」の背景を探る。
本論文の主旨として論者が引いている竹内洋の言葉を孫引きする。
かつての教養主義は、進歩や成長の歴史意識のもとに誕生したものだと思います。人格主義というのは、社会の進歩の個人版、つまり人格の進歩ですから。だから当時は本を読んで人格を高めていくということが自然に納得できたんですね。今の学生にとっては社会が進歩し、成長していく実感がないことと、自分の人格を高めていくという実感がないことは並行しているのだと思います。教養主義の没落は、進歩と成長の歴史意識の衰退によるものだと思います。(『大学転落物語』)
竹内が直接言及しているのは、敗戦後日本の若者をとらえた教養主義について。本論文は、順序が逆で、近代日本の青年たちが傾倒した「教養」と「人格」の隆盛が敗戦後の日本社会にも見られる、という議論をしている。
重要な指摘は「主義」としての「人格」や「教養」は、近代、戦後、どちらの時代でも常に批判にさらされていたということ。典型的なのは、読書至上主義。読書のみが教養を深め、人格を養うという考え方を、「教養」と「人格」を称揚する多くの者は否定する。
「主義」としての「教養」「人格」を批判することが、論者の言葉を借りれば「人格主義と教養主義」の本領」だから、ということになる。
この議論も興味深い。現在でも同じような光景が見られるから。竹内の言葉とは裏腹に「教養主義」は完全に没落したわけではない。「一冊で身につく教養」といった本はいまでも書店に並んでいる。ほんとうに「教養」を身につけている人の多くはそうした本を読むだけでは「教養」は深まらないと唱えるだろう。
歴史は繰り返す。廃れたはずの「主義」としての「教養」は、何度でもよみがえるだろう。それが手軽に「教養」を手に入れたい人々の求める「教養」だから。