メトロポリタン美術館正面

日経新聞の書評欄で本書を知ったのは昨年の9月。図書館の予約で順番が回ってきて、ようやく読むことができた。

本書を読みながら、ずっと前に読んだ文章指南の本、『人生の物語を書きたいあなたへ』を思い出した。その感想で私は「パーソナル・エッセイ」と呼ぶべきジャンルの文章について、自分なりにまとめてみた。

   ところで、本書では過去を振り返り、記憶を第一の資料としながらも、ただの回想録ではなく、一つの文芸作品に仕上げた文章を「パーソナル・エッセイ」と呼んでいる。私が好んで読む文章は、著者が「パーソナル・エッセイ」と呼んでいるジャンルかもしれない。私自身はこれまで「自伝的小説」と呼んでいた。
   「パーソナル・エッセイ」の特徴は、作者個人の体験を起点にし、作者のもつ知識や洞察力を動員して、何かしら普遍的な精神に近づくこと。そうした普遍的精神は、必ずしも明示されるわけではない。暗喩のままで読者に解読をゆだねるものもある。
   重要なことは、作者自身を含めて読み手が「パーソナル・エッセイ」を通じて、作者と語らい、そして自分自身と語らい、そうした交流を通じて自分自身が変わること、少なくとも変わりはじめることに気づくこと。

本書はまさに上に書いたとおりの「パーソナル・エッセイ」。過去を振り返り、現在を見つめて、未来へ歩み出す。

そのあいまに、メトロポリタン美術館に展示されているさまざまな作品との対話があり、働くことについての考察があり、悲しみや喜びなど、家族にまつわる感情がある。

とくに家族については、喪失と再生、死別と誕生が全編を通じて大きな主題となっている。その点で、本書は優れた文学作品ということができるだろう。著者がフラ・アンジェリコ「キリストの磔刑」の前で気づいたこと。

その優美だが衰弱している体は、またしても私たちに明らかな事実を教えてくれる。私たちは死すべき存在であること、苦しむ存在であること、その苦しみのなかでの勇敢な行動が美しいこと、喪失は愛情と悲しみを引き起こすこと、である。(「13 持ち帰れるだけ」)

私が注目したのは、警備員という静的な労働と美術作品との対話が、著者にとって兄を喪失した悲しみを癒すグリーフワークになっていたこと。「博物館浴」という言葉を最近聞いた。静かに美術館や博物館をめぐることに気持ちを落ち着かせる効果があるという。その効果についても著者は書いている。

まずは、その広大な全体に身を浸す。つまらない考えなど玄関に置いて美術館に出かけて、自分が無数の美しいものの間に浮かぶ取るに足らないちっぽけなシミになったような気分を心地よく味わう。(「13 持ち帰れるだけ」)

本書はさらに踏み込んで、静かにじっくりと美術作品を見ることが、グリーフケアにとても有効なことも示している。私も日々、実践していることなので、その気持ちはよくわかる。

著者が対話する美術作品で印象に残ったものは、北宋時代の郭熙「樹色平遠図」とそれに付された奥書。漢字の読めないアメリカ育ちの筆者が東洋文化に惹かれていく様子が丁寧に書かれている。

著者のウェブサイトを訪ねると、本書で紹介されている作品へのリンクが掲載されている。ニューヨークには簡単には行けないけれど、一人家に閉じこもっていても、美術館の作品には出会うことができる。便利な世の中になった。

私の一番好きなジャンルの文章。こういう本にもっと出会いたい。

上の写真は、2020年の冬、パンデミック前に、息子がニューヨークを訪れたときに撮ったメトロポリタン美術館。


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