七里ヶ浜の黄昏

2011年9月に読んだ記録が残っているけれど、感想は書き残していない。

前回読んだときは、聖書研究者である著者が聖書"それ自体"には、「自殺は罪」と書いていないことを論証する部分だけを読んだ。その後で読んだ『自死と遺族とキリスト教』で、教義としてはまだ自死はほかの死と区別されていることを知り、残念に思った。著者の立場はまだ少数派ではないだろうか。

その章を挟んでいる彼自身の自死の死別体験は、辛い気持ちになりそうで読まなかった。

今回は、前回読まなかった部分をゆっくり読んでみた。

どんなに篤い信仰をもっている人でも、自死による死別体験がもたらす悲嘆は、信仰をもたない人と同じということがわかった。同じように悲しみに打ちひしがれ、罪悪感に苛まれ、答えの得られない問いを続ける。

だから信仰に意味がないとは言わない。むしろ、著者は自死遺族は信仰によって救われるという強いメッセージを伝えようとしている。本書はエピローグでは信仰が悲しみを和らげたエピソードで締めくくられている。

キリスト教徒ではない私にとって、教義が自死をどうとらえているかは直接的には問題ではない。それでも、世界的な宗教が、いまだに公式の教義で自死を大罪とみなしていることには嫌悪感がぬぐえない。

私はいま、信仰と呼べるようなものは持っていないし、霊的(スピリチュアル)なものにも特段関心はない。だから、本書のように信仰を起点に悲嘆を緩和する道は選べない。

まずは心理療法的な方法、それもカウンセリングのように誰かの協力を得るのではなく、自分一人で自死遺族として、悲嘆とともに生きる道を模索する。


さくいん:悲嘆自死・自死遺族