本書は日経新聞の書評欄「著者に会いたい」で知った。
当初「手塚治虫の画業全体」を論じるつもりが、『ブラック・ジャック』だけでも論じる価値が十分にあると考え、テーマを絞ったという。
「隅から隅まで全集を読むうちに、最もオリジナリティーとエネルギーがあるのはこの作品だと感じた。(医師でもあった)手塚さん自身が日々生きている現実社会を題材にして描いたものだから」
『ブラック・ジャック』に手塚マンガの真髄が凝縮されていると考える点に異論はない。さらに、『ブラック・ジャック』を読み解く鍵はB・Jとピノコの関係にある、という著者の見立てにも同意する。
ピノコはB・Jにとってかけがえのないパートナー、私もそう書いたことがある。
それでも、本書を読み終えて何か物足りなさを感じた。あえて言えば、手塚讃歌に終始していて批判的な視点が欠けている。
今の時代に手塚治虫を論じるのであれば、彼の女性観を避けることはできないだろう。
言葉を換えれば、もし、『ブラック・ジャック』が原作のまま、「今」発表されていたらたいへんな批判を浴びるのではないか。
批判の矛先はジェンダーと小児愛にある。
もちろん、手塚治虫が現役で描いていた時代には時代の制約があった。現代から一方的に批判したところで意味がない。だからこそ、批判すべきは「描いた手塚」ではなく「読み取る読者」の方になる。読み手が現代の目で作品を読み解かなければ、真の批評にはならない。
21世紀に『ブラック・ジャック』を読むためには21世紀の「多様な性と恋愛のあり方」を抜きにすることはできない。
如月めぐみは子宮と卵巣を切除して「女を捨てて男になった」ことになっている。しかし、現代では子宮も乳房もなくても女性の人は現代には数多くいるだろう。「子宮・卵巣摘出=女でない=男」ではない。
そういう見方をすると、如月めぐみを愛していたはずのB・Jは、子宮と卵巣がないという理由で彼女を見捨てた、と読み取ることもできる。
また、仮に如月めぐみが男性になったとしても、彼女(彼)と別れる理由にはならない。相手が同性であっても恋愛も結婚もできないわけではないから。
B・Jと如月めぐみの関係は、現代では多様な愛のあり方の一つでしかない、男女の性愛を基準にしている。そう言わざるを得ないだろう。
手塚治虫を擁護するならば、「めぐり会い」を描いたことで70年代にはごく一般的だった恋愛観や結婚観を書き残してくれた、とは言えるかもしれない。
物語としては、如月めぐみの性別が何であれ、彼女をパートナーに設定することもできた。でも、手塚はそうしなかった。彼はB・Jのパートナーに幼女の姿をしたピノコを選んだ。
奇形嚢腫の内側とはいえ、18年間、生きてきたピノコはなぜ幼女の形に入れられたのか。この点についても本書はとくに掘り下げているわけではない。
ここで手塚作品における小児愛を掘り下げることもできるだろう。専門知識もなく、手塚作品を一部しか読んでいない私にはこの問いは重すぎる。
代わりに、物語でのピノコの位置付けを考察してみたい。
結論を急げば、ピノコの存在とB・Jとの関係は手塚治虫の少年誌に対する挑戦状だった、と私は思う。
『ブラック・ジャック』は「少年チャンピオン」に連載された。内容が奥深く、社会風刺なども込められたこの作品が少年マンガと並んでいたとは、今ではちょっと想像しづらい。80年代以降であれば、いわゆる青年誌に連載されていただろう。
少年誌に掲載される作品の多くは主人公と、ほぼ同じ年齢のヒロインが設定されて物語が展開する。すれ違いのロマンスもあれば、ドタバタのコメディもある。
そういう設定を『ブラック・ジャック』はあえて拒んだ。物語を定型の恋愛モノにしたくなかったのではないか。
少年マンガでヒロインが登場しない作品もある。たとえば、高校生が主人公の野球漫画、水島新司『ドカベン』。学校の場面はほとんどなく野球以外の挿話もほとんどない。『ドカベン』は『ブラック・ジャック』と同時代に「少年チャンピオン」に連載されていた。
もう一つ、同じ頃に「少年チャンピオン」に連載された、搭乗人物の設定が特異な作品がある。それは松本零士『銀河鉄道999』。
主人公の哲郎はたぶん15歳にもならない少年で、ヒロインのメーテルは母の面影がある、はるか年上の女性。メーテルは松本零士が得意とした長髪でまつ毛の長い細身の美女の姿をしている。
我田引水のところもあるが、私が思うに、当時の「チャンピオン」は競合誌「ジャンプ」に対抗するため、定型の設定ではない奇策を作品に用いていたのではないか。
さらに言えば、手塚治虫は『999』の逆張りをした、とも考えられる。ヒロインが年上の女性である『999』に対抗して幼女をヒロインにした。そう考えるのは行き過ぎだろうか。
ヒロインという意味ではメーテルはその役割を果たしている一方、ピノコはB・Jに子ども扱いされているから、ヒロインという役柄とは少し違う。
ピノコは最も重要な脇役ではあるものの、主人公に対するヒロインではない。
ここで『ブラック・ジャック』執筆の背景から考えてみる。
『ブラック・ジャック』は崖っぷちで連載が始まったとよく言われる。虫プロが倒産して、若手の漫画家が台頭するという厳しい状況の下、失意と苦悩を抱えた手塚治虫は起死回生をかけて『ブラック・ジャック』を描きはじめた。長編ではなく、いつ打ち切りになってもいいように一話完結の形式とった。
この「一話完結」という点にピノコが18歳の美少女ヒロインでない理由が隠れている。
一話完結の短編には毎回、違った登場人物が出てくる。物語も説話のようなものから社会風刺を狙った話もあれば、恋愛モノもある。B・Jは幾多の登場人物たちが繰り広げる物語をメスでさばいていく。
つまり、『ブラック・ジャック』の主人公は実はブラック・ジャックではない。一度きりしか登場しないエピソードの役者たちこそが物語の中心にいる主役で、B・Jは彼らの物語を進める狂言回しの役割を担っている。
ピノコが典型的なヒロインではなくても、B・Jとロマンスを演じるヒロインがいなくても何も問題はない。恋愛は短編の物語のなかに溢れているから。
しかも、登場人物たちは手塚作品に慣れ親しんだ人たちにはなじみの顔ぶれ。この手法は「スターシステム」と呼ばれる(『BLACK JACK 300 STARS' ENCYCLOPEDIA』)。同書にもB・Jは「狂言まわし」という表現がある。この本の書名にもあるように、『ブラック・ジャック』には300ものキャラクターが登場するらしい。
結論。ピノコが幼女であり、B・Jとのロマンスの相手でもない理由。
手塚作品のキャラクターが存分に舞台で演じることができるように、あえて典型的なヒロイン像とは違うキャラクターとしてB・Jと共に物語を展開させる。
本書が主張する、『ブラック・ジャック』は「B・Jとピノコとの愛の物語」という解釈は正鵠を射ている。ただし、二人のパートナーシップは連作短編の前面に出ることはない。それでも、すべてのエピソードの底に見えないように流れている。
その見えない、背景音楽のような二人の関係は連載時代の最終話「人生という名のSL」で読者に開示される。ここで初めて、ピノコは18歳になり、B・Jの恋のパートナーとなる。
見事な構成と終幕と言えよう。