冬の木立

きっかけは『ブラタモリ』。北海道の美瑛を特集したとき。大正時代に十勝岳が噴火して開拓していた田畑は泥流に埋もれてしまった、開拓者たちは泥流の上に盛り土をして新たに田畑を作ったという逸話を聞いた。そこで三浦綾子の小説『泥流地帯』が紹介された。そのときなぜか、「読まなければならない」と思った。

三浦綾子の作品を読むのは35年前、中学三年のときに『塩狩峠』を読んで以来

「取って読め」という霊感はその記憶から発していたのかもしれない。


この作品は旧約聖書「ヨブ記」と重ねられることが多い。貧しい上に災難に見舞われる主人公の家族を苦難を強いられた敬虔な信徒との間には確かに共通点はある。それでも、私にはそれがこの作品の主題には感じられなかった。

「ヨブ記」には神に対する怒りがあり、論争があり、和解がある。本作品では、そもそも主人公たちはキリスト教徒ではない。だから神への怒りも論争も和解もない。物語の構成はそのように読むことができるとしても、それは物語の表層でしかない。


それではこの作品の主題は何か。

ネット上で本書の感想を読むと人生の不条理を描いた前編を高く評価して、『続』を付け足しと見ている人が多い。私は二作で一つの作品とみる。

そして本書の主題は「真面目に生きるとはどういうことか」という問いかけではないかと思う。装丁の紹介文にも「「真面目に生きても無意味なのか?」と書かれている。

前編は貧しい小作百姓のつましい生活や主人公の兄弟二人の性格を描写した場面が多く、福子が置屋に売られること以外、大きな事件は起きない。もちろん貧困、災害、置屋などの不幸が後編の物語の伏線になっていることは言うまでもない。

「真面目」について、前編の終わりで、十勝岳からの泥流を見つめながら兄、拓一がつぶやく。

もう一度生まれ変わったとしても、俺はやっぱりまじめに生きるつもりだぞ。

この一言が続編の主題になる。弟、耕作は「まじめに生きる」とはどういうことか、前編とは打って変わって立て続けに起きる出来事を通じて考えていく。


真面目に生きる。耕作はまず権力や規則に従うことが真面目と思う。だから学校でも心の中では抵抗しても教員には刃向かうことはできない。ところが、権太の言葉にはっとする。

「あんな耕ちゃん。父ちゃんが言ってるよ。叱られても、叱られても、やらなきゃならんことはやるもんだって」

この言葉を聞いて耕作は思う。

(そうか、先生に叱られても、自分で正しいと思ったことは、した方がいいんだな)

では、「自分が正しいと思ったことをする」ことが真面目なのだろうか。もし、そうなら置屋を営む深城や嫁をいじめる富の姑も、意地悪な教員、益垣やも真面目になってしまう。誰もが「自分が正しいと思っていること」をしているのだから。これは耕作の求める真面目ではない。「真面目」はいつか貧困や差別をなくすものでなければならない。


「真面目に生きる」とは一体どういうなのことか、その答えはいつでも耕作の身近にいる拓一が言葉ではなく、身をもって教えてくれる。

耕作が復興施策に反対する深城が放った暴漢に襲われそうになった夜、拓一は身を呈して耕作を守った。拓一は足に大怪我をした。

人のために生きる。大切な人は自らの命を賭けても守る

この姿勢は、前編から一貫して拓一の態度や行動に現れている。福子を自由にするためにわずかでも金を少しずつ貯めていること、妹の良子に木彫りの人形を作ったこと、厩の扉を開けた失態を耕作をかばって自分のせいにしたこと、そして、危険をかえりみずじっちゃんたちを助けに泥流に飛び込んだこと。

読者は耕作の目を通して拓一を見ているので、耕作がそうであるように「真面目に生きるとはどういうことか」、それが拓一の行動に現れていることになかなか気づけない。

人のために生きる、という姿勢は『塩狩峠』の主題にも通ずる。

この点でも、本作品が下敷きにしている聖書の逸話は旧約のヨブ記であるよりも新約の「よきサマリア人」やマタイ伝のよく知られた言葉

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。(第25章40節)

ではないか、と私には思われてならない。

つまり、一言で言えば「」がこの小説の主題となっていると言っていいのではないか。ただし、著者はあえてそれを明示していない。


人のために生きることは容易いことではない。とりわけ自分が病気であったり、逆境のなかにいると、まず自分の身を案ずる、今の言葉で言えば「自分ファースト」になってしまいがち。

耕作がそう思ったように、拓一の生きる姿勢をとても真似ができるものではない。

人のために生きるには、自分が健康で充足していなければならない。拓一はもとから頑健な男で肝もすわっている。病弱な、他人を頼りにしなければならないような人はどうすれば他の人のために生きられるか。生きているだけで誰かのためになっていると言い切れるか。

このあたりから私の思索は五里霧中になってしまう。


ところで、本書を読みながら、兄弟の性格の書き分けが住井すゑ『橋のない川』の誠太郎と孝二のそれに似ているような気がした。

真面目で頭で考える前に行動に出る闊達な兄と聡明だが考えすぎて行動が一歩遅れる弟と。

この偶然は興味深い。こんな風に性格が異なる兄弟が多勢なのだろうか。


さくいん:三浦綾子タモリ