台北を旅行している間、ホテルで寛いでいるとき「教育格差」についてのコラムをネットで読んだ。ソファに座りぼんやりと家族について考えはじめた。
教育格差について考える時、ついミクロな視点になる。
同じ大卒両親のもとで育った兄弟にも差は出る。
サラリーマン家庭で収入が少ないときに育つ第一子と昇給してから受験する末子の間にも差はある。 同じ高学歴地域でも進学する者としない者がいる。
こういう差は何が理由で生じるのだろう?
難関大学に行けるか、いわゆるFランに行くかはマクロな視点では霞むが、一つの家族の中ではわだかまりや不和、葛藤を残す。
さらには、同じ高学歴家庭でも一人だけイジメの被害者、非行、ひきこもり、自死などに至る場合もあり、そういうことが家族を崩壊させる。
さまざまな要因で家族はあっけなく崩壊する。
それでも、崖っぷちで一人一人が耐えて崩壊を押しとどめたり、崩れかけた家族が何かをきっかけに復興する場合もある。その「何か」は大きな犠牲を払ったもので、家族が自責の念を共有することで絆を強めている場合も考えられる。
逆境に対する家族の耐性は何で決まるのか。
それは「生まれ」や「経済的余裕」だけでは決めつけられない。「偶然」 でも片付けられない。あるいは、「偶然」で済まさなければやりきれない気持ちのままだろうか。
いつも同じ疑問に戻る。
政策論では見えない一つの家族の中で生じる格差がどうしても気になる。こういうことは個々の事例ーーあるいは個別の「症例」と言うべきかーーを見ていかなければわからない。
上に書いたことは、自分の家族を念頭に置いて書いている。
私の家族は、私が思春期を過ごしたあいだ、ほとんど崩壊していた。それでも、ギリギリのところで崩れ去ることはなかった。それは父と母の努力による。
大人になり、新しい家族を私は作った。家族を大切にしようと常に思ってはいても、新しい家族にも崩壊の危機はあった。この数年間は私の病気が家族を危機的な状況に陥れていた。
いまは落ち着いている。娘と息子のあいだに格差はない。幸い、二人は同じ高校に通い、学部こそ違うものの同じ大学に通っている。小中高のあいだ、大きなトラブルに巻き込まれることもなかった。
そして、祖母も一緒に家族で海外旅行へ行けるくらい、それぞれに家族を大切にしている。とても有り難い。
さくいん:自死