図書館で、気に入っている絵本作家の未読作品を見つけた。
『やまとゆきはら』で知った関屋俊隆は、『ぼくらは知床探検隊』、『まぼろしのデレン 間宮林蔵の北方探検』と、北方の探検ものを選んで読んできた。本書は、知床の探検のような、しかし、そこに暮らす人々には特別ではない出来事。
どうして道もないところに住むのか。なぜ、寒いところにいるのか。映画『八甲田山』を見たときも、同じことを思った。軍隊が万全の装備で演習する場所にも、住んでいる人がいる。この人たちはなぜ、「こんなところ」に住んでいるのか。
この疑問は、問いと答えの順序が間違っている。寒いところに住んでいるのではない。住んでいるところが、偶々、寒いだけ。それ自体、不幸でも異常でも、遅れていることでもない。
物語は、老人の一生が幸福だったか、不幸だったか、決めつけるようなことはしない。淡々と、男の一生を描いている。
『チキン・サンデー』も、老人の暮らしを描いている。彼らは子どもに囲まれ、人々との直接的な関わりのなかで暮らしている。
でも、彼らはずっとそこで暮らしてきたのではない。理由もなく暮らしていた場所から、理由もなく連れてこられたり、理由をつけて飛び出してきた人たち。
何があっても、何がなくても、生きていく。たいていの老人には、頑固なところがある。それは、生き残ってきたしたたかさの不器用な表現なのかもしれない。
ポラッコは、『彼の手は語り継ぐ』のほか、著者の少女時代を回想した“Thank You, Mr. Falker”(Philomel Books, 1998)も書店で立ち読みしたことがある。本書も、自身の子ども時代の記憶を題材にしている。
どの話も短くて、難しい話ではない。それでいて、アメリカ社会の複雑さが簡潔に描き込まれている。本書でも、宗教や宗派が違えば日曜日の過ごし方が違うことや、名前の響きが出身地を表すことが、さり気なく織り込まれていて、物語に重みを与えている。
どれほど他人には複雑にみえても、彼女にとっては、いま暮らしている場所が、偶々、そういうところに過ぎないのだろう。
さくいん:関屋敏隆