わたしの社稷洞(サジクドン)、キム・イネ文、ハン・ソンオク絵・原案、おおたけきよみ(大竹聖美)、アートン、2004


図書館の棚で、こちらを向いている緑の家の表紙が気になっていた。韓国の絵本を読むのははじめて。物語は、ソウルの下町の一風景と、その喪失について。

ソウルにも韓国にも、まだ行ったことはない。

街が都会になる、いわゆる都市化の波が押し寄せるのは、おそらく世界のどこの街でもおなじ。絵本の感想に推測を含めていえば、ソウルの場合、民主化と経済発展が同時に、しかも欧米より短時間に進んだ日本よりもさらに急速に進んだ。

そして、背後では人々を支えていた儒教を軸とする家族観も一気に変容し、崩壊し、消失した。だから、そこにいた人々、とくに住まいや家族や故郷というものの原体験を重ねようとしていた若い世代には、トラウマのような喪失感を残したのかもしれない。

都市化の様子は、都市の内部と周辺でもだいぶ違う。日本では、1970年代に子ども時代を過ごした人の多くが、自然が失われていく過程を経験しているという説を聞いたことがある。

1960年代から70年代にかけて都市から郊外へ住宅地は広がり、小さな子どもをもつ若い夫婦は家賃の安い郊外のニュータウンへ流れた。そこで育った子どもたちは開発途上の造成地で遊びながら、失われていく自然を実感した。郊外住宅のフロンティアが漸進する限り、この体験は共有された。

ここでいう失われていく自然とは、緑や土だけでなく、伝統や慣習も指す。たとえば、私自身が小学校一年生で郊外宅地へ越したとき、各地から集まった大人は、夏祭りや子ども会などの伝統や慣習も一緒に持ち込んだ。そしてそうした風習はニュータウンの都市化、高齢化とともに徐々に消失していった。

都市の内部のほうが、こうした動きは急速だったのかもしれない。また、自分たちが移動するのではなく、同じ場所で風景が瞬く間に変わっていくことが、喪失感の重みを増しているのかもしれない

ともかく、この絵本では一つの街がなくなることが、どれほど人の心に重くのしかかるものか、鮮明に描いている。

街はなくなっていない。新しい街もあるし、古い街は心に残っている。そういうのは、たやすい。たやすい以上に、そういう「お話」や「慰め」や「励まし」に私たちは慣れきっている。そして、そういうたやすい言葉が、さらに彼らの喪失感を深いものにしていることにも、私は気づかないでいた。

もういないということがどういうことなのか、ほんとうにその重みがわかっているのか。もう街はない、と嘆く人に、たやすく何か言うことを、この絵本はためらわせる。

つまり、聴くことがここからはじまる。