1.友釣の起源 | |
2.近代友釣技法の発生と伝播 | |
3.現代友釣技法の発生 | |
(北斎 富岳百景) | 作成:2003/01/29 |
更新記録 | |
2003/02/10 2.にテグスの説明を追加 | 2003/11/19 2.に山下の風体を追加 |
2003/11/21 釣り愛好家による友釣に佐藤垢石との逸話を追加 | 2004/6/9 昭和時代の仕掛に 鈎、鼻環の図追加 |
2004/10/12 2.近代友釣技法の発生と伝播に 明治・大正~昭和初期の仕掛追加 |
2004/10/12 2.近代友釣技法の発生と伝播に 明治・大正~昭和初期の仕掛追加 |
2006/01/01 2.近代友釣技法の発生と伝播 伝説的狩野川漁師の軌跡 に、他国への初めての遠征を挿入 |
2006/10/05 3.現代友釣技法の発生に 「鮎釣り烈士伝(鈴木康友著)」を追記 |
2006/10/26 2.近代友釣技法の発生と伝播 テグスの説明に「由良のテグス磨き」へのリンクを挿入。 |
2007/05/25 1.友釣の起源に紀州日高川、駿河安倍川の記録を追記 |
1.友釣の起源
先人達の調査によれば、友釣は明治中期(1900年頃)までは、延竿と馬素(バス;馬の尻尾の毛)を使った京都八瀬川の延長線上の古典的なものであったらしい。
京都八瀬川(現在の高野川)の記録
元禄十年(1697)「本朝食鑑」; 「性常食沙及石垢故無餌不能釣惟喜蠅故遠州大井川邊漁俗以馬尾造蠅頭着綸頻釣之非妙手則不能釣其手熟者少洛之八瀬里民以馬尾之長而結定之投澗水臨岸畔草苔之間而繋鮎能捕之者一日獲五六十頭豫州大津水邊亦以細縄竹竿繋鮎此亦妙手者少」
性質は沙及び石垢を常食とするゆえ餌無く釣ること能わず。ただ蠅を喜ぶ。ゆえに遠州大井川辺の漁俗では馬尾で蠅頭を造り、綸をつけ頻りに釣るが妙手にあらざれば釣ること能わず、その手熟する者少なし。
洛の八瀬の里人、馬の尾の長きを以ってこれを結び定め、澗水に投じ、岸畔草苔の間に臨んで鮎を繋ぐ。よく捕ふる者は一日に五、六十頭をう。
予州大津(愛媛県大洲)の水辺にもまた細縄竹竿を以って鮎を繋ぐ。これもまた妙手なるもの少なきなり。
(本朝食鑑は漢文で書かれている。 “これを結び”の「これ」が鮎かどうか定かではないが、後半の文と合わせて見れば友釣と解釈されるようである。“繋ぐ”はひっかけて獲る意。)
紀州日高川の記録(2007/05/25追記)
文政九年(1826)「乍恐奉願上口上」;日高川上流の組総代小屋村庄萬助以下四ケ村組総代から日高御代官所に各組の鮎漁について請願した文書。
「 一、 各組、川丈け在々にて鮎川殺生之内友掛釣之儀は農事に指障候趣・・・・・ 近年之時節柄網、鵜之儀は價高料に相掛り致度候ても小前共仕込出来不申、右等は組内重役の者共の業而己にて難渋者之稼に相成不申、友掛釣之儀は道具價四五分にて一人川立仕手馴之者一日に五六匁之働き仕右にて家内渡世仕實に難有狩り申儀に・・・・・」
要約すると、難渋の小百姓にとっては農業の合間に鮎漁で稼ぐのは生活の助けになっている。友掛釣は釣道具も四五分で、手馴れたものなら一日五六匁の稼ぎが得られ、小前百姓にあった漁法である。網漁、鵜飼漁は元手も高くて小百姓達には出来ない漁法であるから、友掛釣を禁じ網・鵜漁を許すのは小前難渋者を抑え組内重役富裕層に味方する結果となる。しかしながら、わずかの元手でできる友掛釣を許せば小作農らが農作業をせずに鮎漁に出てしまうことになる。それは体制にとって好ましくない。藩として友掛釣を禁止して網・鵜漁に代えようとするのは当然の政策である。というような内容である。
伊豆狩野川の記録
狩野川畔の瀧源寺草庵の虚無僧法山(安政九年[1780年]没)が野鮎が合い争う様を視ていて友釣を考案し漁師に教えたと伝えられているが、その後友釣で鮎漁をするものが増え、その漁獲もかなりのものであったようで、
天保三年(1832)「頼書一礼之事」(伊豆大仁村名主杉浦家、韮山役所へ提出した書状の控え)では「一田方狩野大見簗附村々より御願申上候ハ・・・ 友釣ト唱候新規之釣漁仕中々夥敷儀ニ・・・」;
要約すれば、年々鮎の漁獲が少なくなったので、代官所に年貢を納めるにも苦労している。この原因はもともと大仁ほか八ケ村の人々がヤナ漁によるアユで生活の糧を得ていたのだが、新規釣法の友釣による漁獲が増え、ヤナを設置している村々では運上金を支払うのにも差し支えると、各村連判で友釣禁止を訴えたものである。さっそく差し止めしていただいて一同ありがたい幸せに思っておりますという役所への礼状である。
致候共,諸入用者勿論何事 |
『願書一札之事』 |
利根川の記録
弘化二年(1845)「阿左見日記」(群馬県沼田市);利根川ニ於イテ鮎ツリ始ル 右ノ儀ハ同国桐生辺ニテツル風聞有之右ニ付 沼須村 金子豊吉始ル 年二十才 弘化三年ニ至リ桐生ヨリ名人来ル
駿河安倍川の記録(2007/05/25追記)
嘉永七寅年(1854)七月「友釣り禁止上申書/白鳥文書」(静岡市);門屋村の名主惣右衛門らが安倍山中36ケ村を代表して「友釣り禁止」の触れを出すよう現静岡市の「紺屋町御役所」に再提出した上申書。
文書の要約は、「近年鮎の友釣りという漁法が流行し困っています。農業を打ち捨てて友釣りに興じている者や、それを見物する者など数多く、農業の妨げとなっています。若者の中には、これを職業とする者もあります。ぜひとも、もう一度、友釣り禁止のお触れを出してください。」
平成8年4月39日静岡新聞で「静岡人のアユ友釣り好き 昔も今も 江戸末期に禁止令」という見出しで白鳥家古文書が紹介された。
長良川の記録
安政五年(1858)
「美濃国長良川鮎漁取調書」
鮎掛針一名倶釣トモ云ウ禁令ニ相成ル
此漁方ハ當国ニ発業スルハ漸ク嘉永三四年(1850~51)比ヨリ以来ナリ
然ルニ此漁方ハ親鮎ヲ糸ヲ以ッテ括リ又糸ニ釣針ヲ数多附テ之ヲ川瀬ニ流ス時ハ
群集スル鮎大イナル分親鮎ニ寄添ヒ或ハスレ争フテ自ラ此針ニカカルヲ補魚ス
然ルニ此針アユノ皮肉ニヲレ込ミナカラ逃レタルヲ鵜之ヲ捕ル
其手負タルコトヲ知スシテアユ鮓製スルノ際漸ク之ヲ発顕セル
此針鍜ヒ能ク至テ折レヤスキモノニシテ衆人ニ害ヲ醸スコトアラント堅ク之ヲ禁止ラル
(長良川では倶釣(友釣)が上記の理由で禁止されてしまったが、献上アユに針が刺さっていては大変なので友釣りを厳しく取り締まって欲しいという訴状が出されており、鮎の鵜匠と鮓所が関係していたのではないだろうか。)
参考;鵜匠という呼び名は織田信長によって名づけられた。その後、鵜匠制度が成立し、漁業特権と経済的援助を与えられるものも出た。特に長良川の鵜匠は尾張徳川藩の庇護を受け、鵜匠を12人とし禄米120石を与え、鵜匠頭三人には苗字を許した。
鵜匠を保護した最大の理由は、献上品としてのアユといわれる。鵜が一瞬にして嘴で挟み殺したアユが最も美味とされ、長良川のアユも江戸の将軍家や、京都の御所へ献上された。この時代、献上品を江戸まで運ぶのに五日間を要したといわれ、アユは鮮魚ではなく鮎鮓(アユズシ)などとして送られた。
長良川の鵜匠十二人が尾張藩に上納したアユは毎年五万匹といわれている。
献上アユとしては、鮨鮎の他に、火乾、煮乾、煮塩、塩塗、漬塩、押、内子鮨、氷魚(アユの仔稚魚を塩茹でしたもので、近江、山城が産地)などがあった。
明治までは鵜飼は重要な漁法であって、かって鵜飼が行われた場所は日本全国で百五十ヶ所に及んだという。
現在では、長良川、宇治川、江の川(三次)、仁淀川などに観光鵜飼として残っている。
天竜川の記録
〔明治十二年九月 県宛下伊那郡採魚・漁場取調報告〕
第二 友釣
強勢ノ友魚ヲ以テ其鼻孔へ張釜ノ輪ヲ貫キ其尾端ノ左右二一箇ツツノ釣針ヲ垂レ之ヲ長弐間余ノ竿二付シ水中二遊泳セシムルニ類魚来テ抵抗セントスルニ体中何レノ箇所ヲ不問竟二針ニカカル、最モ該業ハ魚補生長当地方ニテハ夏至ノ頃ヨリ漸次始メ寒露頃二終ル(以下略)
(内務省勤農局/各県に対する文書による照会の回答 長野県史近代史料編第五巻(四)所収)
2.近代友釣技法の発生と伝播
さて、近代的な友釣(ともずり)は何時何処で発生し、どのように各地に伝播していったのだろうか。
各地の川漁師のなかで、狩野川の釣り師こそが、馬素に代わるテグス、鉛オモリの友釣への使用、針の改良、オトリ鮎の糸括りから撞木、鼻管への考案、ハリスの吹き流しから尻鰭通し、逆針の考案、延竿から継竿への進歩、と従来の漁方を一変させていったとされる。それは、生活をかけた激しい釣師間の競争から生み出されてきたものといわれている。
伊豆の釣師達が、その近代技法を各地に伝えたことより、友釣の発祥は伊豆狩野川という説が一般に信じられるようになったようである。
伝説的狩野川漁師の軌跡
狩野川の釣師鈴木久吉が上州利根川に入ったのは明治四十三年(1910)で、
飯塚利八が美濃長良川に入ったのが大正七年(1918)のことであった。
(狩野川職漁師が初めて他国へ遠征したときの「聞き取り記録(by常盤茂雄)」)
四間(7.2m)以上の継竿と砥石を懐中に、馬素に代わるテグス、ハリは二本チラシ、吹き流しに代わる尻鰭の縫い通しの先進的技法を駆使する伊豆の釣師の前には、大きなオモリをつけ馬素の三本縒りの先に小さなハリを一本つけた吹き流し仕掛けを使う地元釣師など及ぶべくもなかった。地元釣師の漁は一日平均300匁位で、500匁(1.875kg)をこえる者はなかったのに、伊豆の釣師はその3倍から5倍の鮎を捕ったといわれる。
「俺は十五日釣って家へ百円送ったら、家では盗んだ金ではないかと心配したもんだ」と飯塚利八は語ったと伝えられている。
新技法を身につけた狩野川の釣り師が、他国での鮎釣りがよい稼ぎになるのを知り利根川、長良川など各地の大河へ大挙して繰出して行ったのである。川筋の農家は釣師の宿になり、地元の農民や職人の多くが仕事を休んで金になる友釣を習い始めていった。
(大正年間(1910年代)に諸職の日当が弁当持ちの一円から一円五十銭位の時に、長良川、郡上八幡の旅館代は弁当付きの一円で、アユの値段は三十匁(約112g)前後の揃ったもので百匁(375g)一円二~三十銭であったという。
郡上で鮎が高く売れたのは戦前の昭和7、8年頃までといわれる。伊豆から職漁師が出稼ぎに来ていたのもその頃までで、役場の職員の給料が10円位の時に、彼らは鮎を釣って150円位仕送りをしていたという。これからも窺えるように、釣師間の釣技の競争は熾烈で、鮎を多く釣ることが即大きな収入を得ることとなったのである。)
大正の半ばすぎ、奇しくも伊豆の二人の釣師が東の利根川、西の長良川に移り住むことになる。
大正10年(1921)、利根の人となったのは、伊豆でもすぐれた腕を持った釣師であった土屋嘉一で、奥利根で列伝の釣師を育て、越後魚野川、会津只見川、信州千曲川と旅していった。伊豆の嘉一と名を轟かせた彼は、前橋竿の都丸義郎氏のところへ何度も講習に通い並継ぎ竿の技術を習得して友竿を作っており、利根、信州、越後の漁師達が買い求めたという。推量のいきを出ないが、これが上州竿とよばれたものではなかろうか。
大正11年、長良の人となったのは、山下福太郎で郡上、飛騨の釣師に初めて「山下竿」という継竿を教え、やがて木曽川、神通川の釣師も「山下竿」を使い始めた。
昭和六年、祖師野の釣り師に乞われて和良川と馬瀬川の出合う祖師野の八幡神社で開かれた山下の友釣講習会には六十人を超す農民漁師が会場の外にまで集まっていたと伝えられている。山下福太郎は長良川から馬瀬川、益田川と遍歴しながら、最後は紀州北山川の上流の山村で生涯を閉じたという。
山下福太郎によってもたらされた山下竿から、今や伝説に近くなった郡上竿が生み出されたのである。
狩野川が生んだ近代友釣技法は、この二人を主軸としながら東と西に伝播していったのである。当時、友釣りはあくまでも漁が主体の釣りであった。
( 昭和一桁(1926- )の年代は、「昭和の恐慌」が吹き荒れた時代であった。昭和2年の銀行取付騒ぎから始る金融恐慌が起き、昭和4年ウォール街株暴落に端を発した世界的経済恐慌に日本も襲われたのである。日本の主要輸出品であった生糸は輸出総額の4割を占め、その9割以上はアメリカへ輸出されていた。金解禁による円為替の高騰と、大恐慌による需要減とが重なり、生糸輸出は激減しその価格は70%以上も大暴落した。金解禁というデフレ政策と世界恐慌により企業倒産と失業者が街にあふれた。都市失業労働者の不満反抗を緩和するために、昭和5年政府は意図的に米の大豊作予想を流すのであるが、これが米価の大暴落を呼び、それにつられ他の農産物も暴落し「豊作飢饉」とよばれる状態が出現した。この年から農業恐慌が全国的となり、東北農村を中心に娘の身売り話がいたるところで聞かれるようになり、農村は悲劇的な窮乏へ突き落とされたのである。
このような状況であったから、出稼ぎに来ていた伊豆の鮎漁師は土地の農民や職人の羨望の的であったろう。鮎釣りを習い、伊豆の鮎漁師の何分の一かでも鮎を釣り現金収入を得たいと思うのは無理からぬことであった。)
友釣用の竿も、各河川の漁師や竿師がその土地の竹を使い職漁師向けに作っていた。なかでも長良川の郡上竿が全国的に有名で、この他に利根川の上州竿などがある。職漁師のなかには6間竿(10.8m)で500匁(1.875kg)もの竿を使いこなす者がいたといわれている。
近代友釣技法と竹継竿を駆使した職漁師の活躍は、鮎の養殖技術の普及に伴う鮎価格の下落により、昭和50年代を最後に衰退してしまった。
昭和55年のアユの漁獲高は、1位利根川1,157㌧、2位四万十川846㌧、3位長良川643㌧、4位那珂川、5位九頭竜川、6位天竜川、7位球磨川、8位江の川、9位仁淀川、10位紀ノ川である。同じ昭和55年の養殖アユは7,989㌧でアユの全収穫量の35%であった。
2003/02/1
テグス:天蚕糸と書き「てぐす」と読む。「てぐすいと」に同じ。英名=silk gut
ヤママユガの楓蚕(ふうさん)・楠蚕(くすさん)の幼虫の体内から、繭を作る前に、絹糸腺を取り出し中の液状絹を酢と食塩水を混ぜたものか、数%の酢酸に浸し、急激に引き伸ばし繊維化させ、乾かして精製した白色透明の糸。
天蚕糸蚕(てぐすさん)である楓蚕(ふうさん)・楠蚕(くすさん)からとったものを本テグスという。他に、真珠蚕、家蚕からも作られた。
テグスは、元禄時代(1680~1709年)にインド、中国産のものが、広東の薬草とともに(薬草の包みを縛った紐糸)、オランダ商人により出島を経てもたらされたのが始まりと聞く。
このテグスを釣りに使い始めたのは大阪の漁師であったようで、その後、四国阿波堂ノ浦の漁師がマダイ、スズキ、ハマチなど高級魚の一本釣りに使いめざましい効果をあげた。大阪にテグスを扱う問屋ができ、堂ノ浦の漁師たちがそこから仕入れ、瀬戸内海一帯でテグスを売りながら一本釣りの技術を広めていった。
津軽采女による「何羨録(かせんろく)」享保八年(1723)にテグスの記述がある。
「西国にて魬など云へる大魚を釣る。四斗俵を釣ても切れずといへり。西国にて商い、江都へも阿波塩船、ならびに大坂の檜垣船の船頭持て来たり商売する事有」と書かれている。
が、そのテグスの正体についての記述は伝聞の域を出ない。
「テグスは漁師が釣るときに用いる筋である。虫から作るという。外国から来る。」
「テグスは広東でできる。伝えによるとこの物は水中ででき、長さは二丈ばかりである。」
日本最古の釣本「何羨録」が書かれた時は、テグスが日本にもたらされてから何十年も経過していたのだが、その正体は依然秘密のベールに包まれたままであった。
当時の釣り糸は菅糸(絹糸)か麻糸が一般的であったようであり、「どちらも適当に渋うるしを引き、テグスを継いで使う」と記されている。テグスはハリスとして使われたようである。
2004/10/08追記
『日本水産捕採誌』(農商務省水産局明治十九年企画、同二十八年(1895)完)のテグスの記述は
釣りに使う天蚕糸は欧州スペイン産は白色透明で最も強靭であるが輸入量が少ないので実際の使用者に使われることは無い。わが国で使われる天蚕糸は、すべて中国から輸入の楓蚕糸である。テグスの輸入額は三、四十万円に達し総中国貿易額の一、二番になるであろう。(明治十四年の輸入額は五千七百四十二斤(3,445kg)で金額十万円内外の統計記録が出ている。1斤=600g)
輸入されるテグスにはカントン、マテグス、ヘチマ、アイスの四種類がありカントンが一番よくマテグスが二番である。・・・・・
テグスは清国では楓蚕から取るが、しかしわが国では「楓」をカエデと訓読しており、本来の楓という木はわが国には産しないので、楓蚕の代わりに、楠虫から取る。しかし産額がたいへん少なく品質が良くないのが残念である。わが国のテグスの欠点は水中に入れると、早く膨張することで、これが張力を弱くして、実用にならない点である、と述べられている。
また、クスムシを図解してクスムシからテグスを取る方法が記述されており、わが国でテグスを産出する土地は、阿波、美濃、筑前、肥後、武蔵、薩摩、岩代、信濃、土佐、日向、丹波、下野、越後、常陸、三河、越前の諸国である。嘉永、安政年間にこれらの諸国から多く産出したが、今は微々たるるものである。と記述されている。
(輸入されたテグスは中央が太く両端が次第に細くなっていたので、太さを均一にする磨きテグスが紀伊、淡路辺りで多く製造され、現在は大阪でも作られると日本水産捕採誌に記されている。 淡路由良の磨きテグス製造は昭和まで続き、昭和8年7.18の大阪毎日新聞で「淡路由良のテグスがヨーロッパ、殊にフランスで品質といい値段といい非常な好評を博し、最近三万円の注文に業者はてんてこ舞、ストックは全部出払ってしまってもなお足らず」と報じられた。)
2006/10/26追加
「由良のテグス磨き」について、『無公害絹釣糸を求めて―夢よ、もう一度―/シルクの新しい世界』で実演写真入りで解説されています。国産テグス、人造テグスについても製法の説明があります。(シルク情報ホームページで閲覧できなくなりました。貴重なものなので保存してあったものを表示させてもらいます。Internet Explorer でご覧下さい。2008 Oct. IE7で保存したwebページがIE9以降では文字の羅列しか表示されなくなりました。貴重な資料ですのでPDFファイルに変換したものを掲載しました。2013/09/22)
テグスの号数:本テグス5尺(約1.515m)の長さ当たりの重さを単位として決めたもので、これを分、厘、毛で表していた。(1匁=3.75g、1分=0.375g、1厘=0.0375g、1毛=0.00375g)
昭和34年(1959年)より1厘を1号、1分を10号、1厘5毛は1.5号というようになり、現在に至っている。このとき1厘の本テグスの太さが直径0.165mmであったことから、現在のナイロンラインの1号が0.165mmの規格に決められた。ただし、当時の糸の太さにはバラツキがあったので、太さの許容範囲があり、太さの直径の違いの上限、下限が前後の号柄の標準直径を超えなければよいとした。例えば、1号の標準直径は0.165mmだが、その前後の号柄は0.8号が0.148mm、1.2号が0.185mmなので1号の太さの許容範囲は0.149~0.184mmになる。釣り糸を号数で呼ぶのは日本だけである。
明治・大正~昭和初期の仕掛
「日本水産捕採誌」(現代語訳 「釣りの原典」) より
十二 鮎友釣
鮎の成長がなかばを越す頃になると各地で友釣ができる。友釣は、囮鮎を水中に泳がせて、他の鮎が来て戯れるのを掛け鉤で掛けて釣るものである。この釣り方は急流でやるもので、流れの緩いところでは効果がない。その一例を書いてみよう。
伊豆の国狩野川筋の鮎友釣の釣り期は6,7月の頃が最良である。
竿は長さ三間半くらいのまっすぐなものを選んで使う。
道糸は渋引きの生糸の長さ一丈五、六尺でその先にテグス二尋を継ぎ、鉤(ハリ)を付ける。鉤の数は川の様子によって多い少ないがある。水底に大石があるところでは、鉤は一、二本使う。鉤数が多ければ石に掛かる恐れがあるので少ない方がよい。鉤数が少なくても水勢で鉤が回るので魚の掛かりには影響がない。もし水底に小石が多いようならば〈図61〉の右のように鉤二本あるいは三本を組んで使う。また左のように段々に二、三本を連ねて付けることもある。
鉤の上の方に囮の鮎をつなぐために、長さ二寸くらいの枝糸を付けその先に縫い針の五、六分の長さに折ったものを結び(撞木鼻環として)、これを鮎の鼻に通し、魚の頭の上のほうに重さ三、四匁くらいの鉛のおもりを付ける。この枝糸を付ける所と鉤元(チモト)までの距離は必ず囮鮎の体の長さよりも若干長くする。もし距離が等しいか短いと、鉤が囮鮎に掛かって傷つける恐れがある。
釣り方は瀬に囮鮎を放し、少し上流へ竿を進めて泳いでいる囮を引き昇らせる。この間に他の鮎が来て戯れて掛けバリに掛かる。強い衝撃を手に受けるから魚の掛かったのがわかる。しかし、ここで慌てて引き上げようとすると糸が切れるばかりでなく、魚も失ってしまう。それで、道糸を弛めぬように注意して川下に向かって歩きながら、静かに竿を引き寄せ、竿を後方に向け右の肩に担ぎ、右手に竿とともに玉網を持ち、左手で道糸を引き、玉網ですくう。
囮鮎はなるべく早く取り替えるのがよい。囮鮎が弱ってくると、鮎の掛かりも少なくなる。もし、その代わりがない時は、囮鮎の鼻の先に付けているおもりの重さを重くする。また、生きた囮鮎がない時は、死んだ鮎の口を開き、中に竹を差し込み、石を腹の中に入れて生き魚のようにする人がいるが、よほどの熟練者でなければできない技である。
友釣をするには必ず囮箱、魚籠、玉網、ヤスリを持参し、鉤の代わりを持っていかなければならない。玉網は直径が八、九寸、柄の長さ五寸、網の深さ一尺二寸のものがよい。ヤスリは鉤が石に触れてハリ先が傷ついたときに砥ぎ直すためのものである。このヤスリは常に玉網の柄に付けたひもに吊るしておく。
この釣りは朝十時から十一時頃までがもっともよく、午後は四時からがよい。また川水が濁ってから澄み始めるときがよい。
狩野川筋の友釣の例を読むと、すでに水中糸にテグスが使用されており、基本的に現在の釣り方と全く同じである。
この頃すでに、二本蝶針、三本錨針が川漁師の間で使用されていたことが記録されている。
狩野川筋では、この少し後の明治30年代には、竿はのべ竿から三本継ぎ四間一、二尺の継ぎ竿に変わっていく。仕掛も、吹き流しから二本チラシの尻びれ通しとなり、次いで丸鼻環、逆針が使われるようになる.。ここの例では書かれてはいないが、〈図61〉の左側の鈎の図を見ると「尻ビレ通し」の鈎と同じ形なので、伊豆の鮎漁師は当時の編纂・調査員に「尻ビレ通し」のことを話さなかったのかもしれない。
また、ヤスリに替わって仕上げ砥石が使われるようになるが、砥石は大正末までのしばらくの間は伊豆の鮎漁師だけの秘密であった。
玉網は、昭和50年代まで狩野川筋、安倍川筋の鮎師が使っていたものと寸法が同じである。タモ網を麦わら帽子にかぶるようになるまでは、日よけの傘をかぶり腰に巻いた太紐にタモ網を差していたそうである。
日本水産捕採誌では鮎釣り漁として友釣の他にも、十 小鮎餌釣(相模の国酒匂川筋)、十一 鮎蚊鉤釣(毛ばりでの瀬釣とあんま釣)(武蔵の国多摩川筋)、十三 鮎懸(ゴロビキ)(相模の国厚木川筋)、十四 鮎てんから釣(ボラの引っかけに使うような錨バリでの掛け釣)(加賀の国金沢地方)、十五 覗釣(水眼鏡で水中を覗きながら竹筒の先に1尺ほどの道糸を付けた錨針で引っかける)(上野の国渡良瀬川筋)の仕掛と釣り方が説明されている。
日本魚類図説 明治39年(1907年) 東京多摩川の仕掛 撞木上顎通し、 二本枝バリの吹き流し |
釣り方図解 大正14年(1925年) 丸鼻環仕掛けが説明されているが 逆バリの説明はない。 掛けバリは1本バリの吹き流しである。 左端の図は金沢の両ヒゲ仕掛の原型か? よほど鮎がウジャウジャいるような場所でなければ、この仕掛ではそれほど釣れなかったのではなかろうか。 |
「鮎を釣るまで」 藤田栄吉 昭和七年1932年 相模川の仕掛では、撞木鼻環糸の末に結びコブを付けるのは鮎の大小に合わせるためとし、 イの鈎を腹ビレに刺すのは釣りバリが河底に沈まないようにするためと説明書きしている。 逆バリは枝素に付けている。 尾ビレから掛けバリまでの距離は一寸。 道糸てぐす1りん半=1.5号 a→b六七寸 昭和後期に自動ハリス止めが使われるようになるまでの間は、相模川の仕掛のように鼻環ハリスに結びコブを付けるか、狩野川仕掛の例のように鼻環に巻きつけるかの方法で長さを調節するのが一般的であった。 狩野川の仕掛では、逆バリが書かれていないが、逆バリが付けられていない場合は尻ビレ通しが行われていた。 トロ場ではオモリは付けずに、竿を立てて釣っていたという大正時代の記録がある。 鼻環にハリスを巻きつけて長さを調節するやりかたは、昭和後期に移動式鼻環編み付けの方法が一般化するまでは、静岡、愛知、岐阜地方では広く行われていた。 伊豆型の鈎は、明治40年頃に大仁の板垣島吉が従来の友釣の鈎に改良を加えて伊豆袖型を作ったと伝えられている。 狩野川で逆バリ仕掛けが一般化していたことは、九頭龍川の仕掛の説明で、「左.伊豆地方に倣ふて作りたるもの.緩流をつるときに逆ハリを尾ヒレに止める」と書かれていることで分かる。九頭龍川へ遠征した伊豆の釣師が教えたものと思う。 従来のものはくりげ馬尾である。 (馬尾をハリスにして逆バリを付けると、鮎が掛かった時に逆バリのところから切れてしまうと佐藤垢石は説明している。) 逆バリについて、“相模川仕掛けでは腹ビレに刺す”と書き、九頭龍川の仕掛では“尾ヒレに止める”と書いている。藤田栄吉氏は逆バリを実地に使用したことがなかったのではないか? |
「鮎の友釣」 村上静人 昭和八年(1933年) (A)瀬を釣る仕掛 吹き流しで逆バリは無い。 (B)トロや岩舐釣一名見釣では逆バリが必要と説明。 (C)は掛けバリの種類を載せている。 A:一本鈎 B:二本鈎 C:蜻蛉結 D:二重蜻蛉結 E:錨結 F:逆鈎付錨結 G:蜻蛉一本鈎 H:枝糸二本鈎 I:鈎素附二本鈎 |
「鮎の友釣」佐藤垢石 昭和九年(1934年) 佐藤垢石自身の仕掛。 多年にわたって各国各川の仕掛を使ってみたが、この仕掛が最も成績がよいし、最も進歩的だ。 実に逆鉤の効果は絶大である。逆鉤をつけたのとつけないのでは成績に大きな差が現れる。 と、書いている。 佐藤垢石:明治21年(1888)生まれ 昭和31年(1956)没(享年68歳) |
明治、大正、昭和初期の仕掛をみてくると、現在使われている仕掛の原型は全てこの時期までに出揃っていたことがわかる。 |
釣愛好家による友釣
昭和(1928年以降)初期までは、友釣は《漁師の釣り》とされ、鮎釣り愛好者の間では沈み釣(ドブ釣り)が盛んであった。大正から昭和初期にかけて鮎毛鈎の種類は二千数百種類があったといわれ、加賀、播州、土佐がその生産地であった。
興趣を楽しむ友釣愛好者が川に入るようになったのは一般的には昭和(1928年以降)に入ってからといわれる。
その当時、釣好きのいわゆる旦那衆や文士が職漁師の手ほどきで友釣を始めたわけだが、素人が遊興で鮎釣をするには職漁師の友竿はいかにも重すぎた。
それで、大正末~昭和以降江戸東作一門の和竿師をはじめとし各地の和竿師により、素人にも扱える軽い友竿が作り出されていった。3間(5.4m)までは4-5本、4間1尺(7.5m)までは5-6本、4間半(8.1m)までは6-7本継ぎくらいが適当とされた。鮎竿は軽ければ軽いほど良いのだが、和竿の場合、その重量は4間1尺(7.5m)で百七十匁(638g)が標準とされた。
竿師が手間隙掛けて作る友釣継竿はとても高価であったので経済的に余裕のある裕福な人か、川の近くに住み安価な延竿を肩に担いで出かけられる人以外には友釣を楽しむということは難しかった。
そのような時期、随筆家で奇人ともいわれ無類の釣好きであった佐藤垢石が「鮎の友釣」を出版したのは昭和9年のことで、それ以降も数冊の友釣の本を著し友釣を一般に広めたということから、友釣中興の祖などともいわれた。
鮎の友釣りが一般の釣り愛好家でも楽しめるようになったのは、昭和30年代(1955年以降)後半にグラスファイバーの鮎竿が釣り竿メーカーより発売されてからのことである。この頃には釣り糸もテグスからナイロン糸に変わっていた。
蝶針や錨針が一般に使われるようになったのは昭和40年代後半からで、それまでは2本チラシや松葉仕掛けが使われていた。
掛け鈎としては、矢島型、きつね型、長良型、入間型、伊豆ソデ型など古典的な鈎が長い間使われてきた。
古川トンボ(本名;正幸)氏が考案した古川トンボ型が出てから、がまかつの改良トンボ型とか鬼印の藁科型などの新しい形の鈎が出始めた。がまかつの新改良トンボはそれまでの鈎に比べ、掛かりの良さは秀逸であったと記憶している。その後しばらくして、“はやがけ”型が開発されてから以降多数の新型掛鈎が各メーカーにより開発された。
グラスファイバー製振り出し竿の出現は、経済の高度成長期とマイカーの普及とも重なり、友釣愛好者の数を急激に増やしていった。(グラス振り出し竿は、昭和40年代後半でも4間~4間半(7.2-8.1m)のもので700g~1000g位の重量があった。)
しかしながら、友釣の技法は伊豆狩野川の漁師が広めた近代友釣技法の域を出るものではなかった。
その理由の一は、友釣りに関する本はあったが、内容は入門書、案内書的なものがほとんどで、名人といわれる鮎釣師達の釣技を理論付け体系化して説明するようなものは無かったからである。また、専門家による鮎の研究も漁業資源や職漁師のためのものであって、友釣愛好家のためのものはほとんど無かった。(研究者の論文の中には、藻を食む頻度と時間とか、アユの時間ごとの淵と瀬の出入りなど友釣に関連する貴重な情報があったのだが、釣り人が知る機会は少なかった。)
その理由の二は、その頃までは、友釣の上手な人達の多くには職漁者の気風が伝わっていて、釣技や川、ハミ跡の見方などは自分だけの秘密にしており、なかなか他人に教えようとはしなかったのである。なぜなら、職漁師でなくても彼ら上手な釣師達は釣った鮎を旅館や料亭などに卸している者が多く、秘密を教えると自分の稼ぎが減ってしまうと考えていたからのようである。友釣のノウハウを公開し、広めるという気風がなかったのである。
ただし、還暦を過ぎたような老釣師は、友釣の要点や勘所を案外気楽に教えてくれたことを記憶している。
昭和時代(中後期)の地方の仕掛け(「アユ 生態と釣法」世界文化社(昭和59年)より)
以前はいろいろな仕掛けが各地にありました。
昔は、他の土地の仕掛けや道具を見るのも楽しみの一つでした。
朱太川は北海道の日本海側。 三十年ほど前に尻別川へ釣行した際も これとほぼ同じ仕掛けでした。 針の位置はもう少しうしろで、 尻鰭と尾鰭の中間位でした。 |
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両ヒゲ仕掛けは、 一度試してみたい仕掛けです。 一度に二匹掛かれば、 嬉しさも2倍になります。 |
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宮川は岐阜県を高山本線に沿って流れ下り富山県で高原川と合流し神通川と名を変える。 自動ハリス留めが一般化する以前は 鼻管糸に結びコブを作り、 掛け鈎をから結び(投げ縄結び)かチチ輪で接続した。 |
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松葉仕掛けは、 イカリが一般化してから あまり使われなくなりました。 別名“蛙又”とも呼んだ。 |
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私が友釣を始めた頃は、 2本チラシの吹き流しが瀬釣で結構使われていました。 「オトリの口にクサビ・・・」は、 ルアーの潜行板のような効果でアユを沈めるのだそうです。 (5号以上の錘を必要とするような激流ではアゴの蝶番が外れた様になり口が大きく開き逆効果になります。) |
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撞木仕掛けは、他の地方でも昔から使われていました。 背に通す他に、撞木を鼻に通す使い方も一般的でした。 撞木針は、昭和時代から数年前まで 「がまかつ」社が販売していたが、 現在は販売中止となっている。 |
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この目通し仕掛けで 球磨川の尺鮎を 釣ってみたいと思いませんか。 アユを吊る支点が目の上というのが、オトリを自然体で泳がせる道理にあっているのだそうです。 |
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昭和50年代に岐阜県釣行の際に 購入した、背バリ仕掛けです。 カギ針を頭の少し後ろに刺して使います。 カギ針は編み付け移動式です。 |
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昭和50年代までの代表的掛け針 (がまかつカタログより) “矢島は掛りが良いが身切れしやすい” “狐は掛りは遅いがバレない”などといわれました。 |
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上段:昭和の時代に使われていた鼻環 ①フック式10mm、 通常は金メッキのフック式8mmが多く使われた。 ②洋銀9mm、大鮎用 ③銅8mm ④銅8mm藁科型中(私の愛用で大中小があった) ⑤撞木針全長22mm ⑥、⑦は平成に入り一般化したワンタッチ鼻環7mm、6.5mm (左の図は、実寸より大きく表示されています。) 昭和50年頃までは、1mmの銅線、燐青銅線を③のように環状に曲げて自作する人が多かったように記憶しています。 |
この他にも、地方独特の仕掛けがあると思います。お知らせいただければ幸いです。
昭和30年代の友釣の道具(アユの博物誌:写真/桜井淳史)
3.現代友釣技法の発生
現代友釣技法は何時頃出てきたのか、小生の友釣との出会いと経験から推測してみたい。
これは、あくまで個人的な見解であって一般に認められている事ではないことを予め断わっておく。
友釣りノウハウの情報公開のきっかけになったと思われるものに、静岡新聞社が昭和40年代後半に新聞に連載した後、昭和50年に単行本として出版された「静岡の友釣り」(上)(下)がある。上巻では「技術の極意と上達法」と副題し、アユの習性、天然アユと放流アユ、釣り具、仕掛けとその工夫、石アカの見方、オトリの扱い方、竿の操作、取り込み、釣り場の見方・選び方とアユの友釣りに関するノウハウが余すところ無く述べられていて、当時としては画期的なものであった。下巻は静岡県下の各河川のアユ釣り場の案内で、川、道路、オトリ屋、ポイント(瀬、淵、トロ)の解説がされており、初めての川でも安心して釣行できるものであった。この本を読んで、先輩たちに川原で話されたり教えられたりした事が、初めて自分で理解でき納得出来るようになったことを記憶している。
カーボンロッドを駆使した競技選手が生み出した現代友釣技法
鮎友釣技法に関する状況が大きく変わったのは、昭和40年代後半に「オリムピック釣具」社が初めてカーボンファイバー製の友釣竿を世に送り出してからのことである。
このカーボンファイバーの友竿は驚くほどに軽くシャンとした張りがあり、和竿のように魚信も明確で、しかもグラスロッドと同じように釣行後の後始末も簡単というこのうえもない竿であった。ただ、発売当初の値段は和竿と同じ位高価であったように記憶している。その後数年を待たずして各社からカーボンファイバー製の友釣竿が発売され、価格も急速に下がり一般サラリーマンにも手の届くものとなっていった。
カーボンファイバー製の友釣竿が世に出たから、現代釣技が出来た訳ではないが、現代友釣技法が生み出されるには軽くて長いカーボンファイバー製友釣竿の出現が必須であった。
昭和52年「がまかつ」社が主催する「全日本アユ釣り選手権」のアユ釣り競技会が始り、その5年ほど後に「ダイワ精工」社が後援する「全日本アユ釣り王座決定戦」も始った。これらの競技会は、それまでの大会には無い厳格なルールで実施され、全国から予選を勝ち抜いた選手により決勝戦が行われ、真の友釣実力NO.1が決められた。以来、きちっとした競技ルールで新聞社やメーカーの主催、後援するいくつかの全国規模のアユ釣り競技会が毎年場所を変えて開催されることとなった。
近代釣技が伊豆の釣師間の競争によって出来上がったのと同様に、現代釣技は全国各地から集まる各競技会出場選手達の創意工夫、研究と切磋琢磨によって生み出されていったのである。
それと同時に友釣竿に限らず、鈎、ハリス、水中糸、仕掛けが年々改良改善されたのは、競技会出場選手達を通じての各メーカー間での開発競争が行われたからである。
これら全国規模のアユ釣り競技会から現在のアユ釣り界で名をはせる重鎮達が輩出し、彼らの開発した現代釣技が釣り雑誌や本で公開されたのである。泳がせ釣りの永井茂氏や大西満氏、瀬の泳がせイナズマの鹿嶽茂氏、イナズマ釣りを完成させ引き抜きを広めた村田満氏などである。
そして、アユ釣り競技会での上位入賞者の竿、仕掛け、釣技が釣り雑誌や本で公開されたことにより、全国の友釣愛好者の間に同時並行的にその情報が広まったのである。
東日本、特に静岡県の友釣愛好者のなかには、「泳がせ釣り」は狩野川、安倍川筋を中心として「立て釣り」(別の土地では「這わせ釣り」ともいわれた)という名で昔から行われていたものと同じだと云う人もいると思うが、それらは外見的にも釣法としても似ているが、両者の間にはかなりの違いがある。
「立て釣り」は理論化も体系化もされておらず、土地の職漁者や上級者の間で口伝によってその技法がゆっくりと広がっていったのに対して、「泳がせ釣り」は理論化され体系化されておりその技法と理論が本(新しい友釣り:大西満、釣の友社 昭和54年)や雑誌で全国に公開されたのである。そして、この泳がせ釣りは、そのネーミングの良さもあって(名づけ親は、報知新聞社釣り欄担当をしていた佐古田修一氏)全国の友釣り愛好者に試され、その釣技の優秀さと威力が証明され一世を風靡したのである。郡上の漁師達に使われていた“おばせ”という言葉が全国に広まったのもこの時からである。
この泳がせ釣りを研究開発した長良川の永井茂氏は、その完成した泳がせ釣りで、土地の職漁師の五倍、十倍と釣り上げて度肝を抜いたとも伝えられる。
以来多くの友釣技法が発表され、今も道具の進歩と共に年々その進化を続けている。
近代友釣釣技と現代友釣釣技の違いは何なのか。
竿、ハリスなど友釣の道具は昭和50年(1975年)以降それ以前とは比べ物にならぬほどに進歩してきたのだが、それらの原理そのものは以前と大きく変わるものではない。しかし、軽いカーボンロッドと強靭な極細糸の使用によって近代友釣から抜け出した新しい考え方による現代友釣技法が生まれてきた。
近代友釣釣技と現代友釣釣技の大きな違いは、オトリ操作における発想の転換である。
近代友釣釣技では釣り手が自分で判断した好ポイントへオトリ鮎を引いていき、あるいは誘導して釣ったのに対し(「オトリを引く」という言葉が今も使われている)、現代友釣釣技ではオトリ鮎をオトリ鮎の意思で自由に泳がせあるいは演技させて野鮎のナワバリ意識を触発して釣るのである。しかも、オトリ鮎は常に釣り手の管理下でコントロールされており、その管理範囲内でオトリ鮎は自由に泳ぎ、あるいは演技して野鮎を挑発しているのである。詳しくは現代釣技の名手たちが出している本を読んで確認して下さい。
現代友釣釣技は、普通の友釣愛好家にとっては理解するだけでも大変なもので、それを会得するとなると生半可なことではできそうにもない。それは、日曜釣師が十年二十年とやっていても会得出来ないかもしれないほどの繊細で高度で集中力を要する釣技だと思うのである。
現代友釣技法の黎明期から以降の現代釣技については、 「鮎釣り烈士伝(鈴木康友著)」(2006年7月、つり人社より出版)に 列伝の名手達により開発された、村田満の”カニ横釣法”から伊藤正弘のソリッド穂先(オートマ釣法)まで、 新しいアユ釣り技法が詳しく紹介されている。 ご一読いただけば、今日のアユ釣り技法に至る過程がお分かりいただけるものと思います。 (2006/10/02追記) |
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全国の河川で冷水病が猛威を振るうようになり十年以上になる。その対策として湖産稚鮎の放流が減り人工産の放流が増え、近年は全放流量の半数を超えるまでになってきた。
以前とは性格の異なるアユに合わせ友釣技法にも変化が出てきた。“泳がせ釣り”から“引き釣りへ”の回帰である。30年以上も前に主役であった“引き釣り”がその技と装いを新たにして友釣釣技の主役に復活してきたのだ。その主体はメタルラインや新素材複合メタルラインと高感度カーボンロッドによる引き釣りである。ある人達はソリッド穂先とハイテクラインが良いと言い、一方では長竿チューブラ穂先とナイロンラインでの引き釣りが良いという人達もいる。しかし昔のように手尻を一ヒロ以上とるようなことはないし、荒瀬・早瀬だけで釣るということでもない。昔は大きいアユを瀬で釣るための引き釣りであったが、今は数釣りのための引き釣りに変化している。
追い気が弱く群れやすい人工産を効率良く掛けるには“引き釣り”の方が効果的らしいのだ。”らしい”というのは、近年アユ釣りトーナメント優勝者の多くが引き釣りを得意とする選手で、雑誌の記事やカタログ説明でもそれが主に書かれているからである。
あと何年かして、冷水病ワクチンが完成して湖産放流がまた復活するようになると、その時にはまた別の釣技が出てくるのかもしれない。(2005
June追記)
と、”現代引き釣り”について思っていたのだが、つり人社鈴木康友氏は「鮎釣り烈士伝」で以下のように述べている。
『発売当初は、つなぎ目やキンクですぐ切れるといわれた金属ラインが、「編み付け接続法」やラインの改良により、0.1号とか0.07号(ゼロゼロセブン)という超極細で20cm位までなら引き抜けるということで、釣り人の間に定着したのです。
(金属ラインは)「上飛ばし泳がせ」は不向きということで、この金属ライン登場を境に、アユ釣り技術は「泳がせ釣り」から次第に「引き釣り」全盛へと変遷していきます。
そしていまでは、金属ラインのオトリ感度を最大限に生かす竿が主流になり釣り方もオトリの動きを釣り人が管理する「管理引き釣り」の時代になっています。』 と。(2006年秋追記)
鈴木康友氏をして{金属ラインは「上飛ばし泳がせ」には不向き}と云わしめたのだが、
それを克服する、ソリッド穂先のテンションを利用した新たな泳がせ釣法が出てきて、友釣の技法は年々歳々その様相を変え止まる事を知らない。
先ずは釣りは風流の道なり (『釣客伝』三河屋改め黒田五柳:江戸末期)
日曜釣師の友釣愛好家は、現代友釣釣技に神経質になる必要はないし、それが出来ないからといって心配しなくてもよい。実際のところ、それほどのことをしなくても鮎はそこそこに釣れ、友釣を充分楽しめるのである。
時と場所に恵まれれば、師匠格の先輩よりも多く釣れることさえも間々ある。
遊興の釣においては、釣マナーを除けば、こうでなければならないということは何一つ無い。
最も大切なことは、数釣りを競う事ではなく、釣り人がその一時を川で楽しめることだと思う。
たかが友釣、されど友釣!
友釣で最も大切なことは、川を見、ハミ跡を見て、今鮎がどこにナワバリを作っているのか・作ろうとしているのかを判断する眼力を養うことである。たとえ釣れた鮎が少なくても、自分の川見が的中した時の法悦の境地ともいえる満足感を、多くの人に味わってもらいたいと思う。
川を愛し、川見の眼力を養い、鮎を愛しみ、自然を愛する心があれば一生涯友釣を楽しむことが出来るだろう。