山下福太郎の風体
昭和33年(1958)井伏鱒二60歳のとき、春から1年ほど、外房、甲州、長良川、奥日光など各地を旅行し見聞記をまとめた『釣師・釣場』の一編「長良川の鮎」に当時の山下福太郎について岐阜市の釣師から聞いた話が書かれている。
長良川を鱒二が訪れたのはこの時が初めてで、文の出だしに伊豆河津川の釣師に教わった鮎の餌釣の仕掛けと釣り方をこんどは長良川でやってみようと思って出かけて行ったと書いており、その後1頁半ほど餌釣の説明が書かれている。その頃の餌釣ではまだコマセ用のラセンは使われておらず、“コマセのシラスを口でかみ砕き川の水を口に含んで一緒に吐き出す”と書かれている。
( あー、鱒二じゃないけれど、アユの餌釣をまた堪能したいなー。昔の仕掛けも餌鈎も道具箱に入っている。)
その後次のように続く。
長良川の鮎
・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・
私は長良川へ行くのは初めてなので、先ず岐阜市に行ってこの川の釣場や釣方について聞くことにした。どこの川筋でも、その川に向くような釣魚法が発達しているものである。岐阜市には水野後八さんという釣の達人と、伊藤貞一さんという釣の先生がいる。それで中部日本新聞社の岐阜支局長前田寅次郎さんの紹介で、後八さんと貞一さんに会って長良川の状況を伺った。
「この川の上流、郡上八幡から、その少し川下の相生のあたりは絶対です」と後八さんが云った。「六月二日現在、十五匁、二十センチの大きさですから、相生あたりならば、ハリスは六毛、または四毛で宜しいでしょう。一日、四十尾は保証します。初めて釣る素人でも、ねばれば十尾は釣れますね。」( 注;六毛=0.6号)
これは友釣の場合であって、長良川にはアユの餌釣をする釣師はないそうである。
私は貞一さんに友釣の仕掛の見本を見せてもらった。
カケ鉤を結ぶのはテグスではなく黒い馬尾である。私は笛吹川でも相模川でも馬尾を使っている釣師がいるのを見た。馬の尻尾だから弾力と浮力があって都合がいいわけだ。
「なるべく馬尾は太いやつがいいです。」と貞一さんが云った。「二本よりなら、大きいのが来ても切れません。カケ鉤を取替えるときも、ぴんとしているので馬尾のほうが便利です。」
「鉤を取替えるときには、囮の鼻環をはずしした方がいいですね。」と後八さんが云った。「それから、初め鉤を附けるとき、糸にたるみをつけないようにするべきです。馬瀬川の山下という男なんか、箪笥の抽斗に糸をかけて、ぎりぎりに張って鉤を附けています。これには私も感心したことでした。こいつは、神技のように友釣のうまい男です。」
山下という釣師は伊豆の狩野川筋で生まれた男だが、二十年前に木曽川水系の馬瀬川筋に流れて来て、貧乏後家のところに入り込んで現在に至っている。年は六十幾つ、六尺ゆたかな大男で、五間半の不細工な自製の釣竿を使い、人の前でも素裸で釣っていた。
「普通の人間では持てぬ重い竿です。」と後八さんが云った。「しなって、重くて、私なんかには調子がわかりません。大きな淵に胸まで入って、フリダマで釣っているのです。荒瀬で釣るのですから、パンツ一つだけでも水の抵抗を少なくするためですね。」
「あの山下という人が釣りに来ると、あたしたちは川に行っていても逃げてきます。」と傍にいた女中さんが云った。
この山下という流浪人が、二十年前に岐阜県に来て馬瀬川上流に定住し、初めて友釣をこの川筋の人に教えたそうである。だから木曽川筋の友釣の歴史はまだ新しい。
「ドブ釣は、四十年前に初めて長良川に移入されました。当時は丸玉に糸を通して、根元に鉤をつけて一本鉤でしたが、子供のときの私たちにも相当に釣れたものでした。友釣の方は、だから長良川では、ドブ釣よりも二十年おくれて移入されたわけですね。」
「山下という裸の釣師は、冬は何をしているのです。」
「冬は山稼ぎです。炭を焼いたりしています。」
「五間半の竿で、仕掛は普通のものと違いますか。」
「やはり馬尾です。そうして一本鉤です。この仕掛では、ヘソ鉤は使いません。竿は、初めのうち手元に出して、釣っては出し、釣っては出し、だんだん沖に出て、胸まで水につかるといった按配です。」
五間半の竿で強引に釣っている姿が偲ばれた。
・・・・・・・・・
この後もいろいろ友釣の話をし、翌日後八さんから教えられた岐阜から十里ほどの相生の釣場で同行の丸岡、丸山の両君と友釣をした様子が書かれている。草鞋に履きかえて川に降りるなど当時の友釣の様子を垣間見ることができる。
山下福太郎の記述はいささか当を得ない伝聞が書かれている。
このとき鱒二がせめて郡上八幡まで足を延ばしていれば、山下福太郎と郡上の釣師との交友から生まれた郡上竿とか郡上鮎などについても書いてくれたことだろうが、残念なことに郡上や馬瀬あたりのことは全く書かれていない。
(以下2004/10/12改訂)
この文(岐阜市の釣師の話)からすると、長良川(岐阜市)でドブ釣が始ったのは大正七年(1918)ころで、山下ら伊豆の釣師が岐阜県にきて伊豆友釣の技を教えたのは昭和13年(1938)ころということになっているが、伊豆の釣師飯塚利八が美濃長良川に入ったのが大正七年といわれており、山下福太郎が伊豆から郡上八幡隣の大和・河辺に移り住んだのは大正11年のことで、馬瀬川へ移住するのはずっと後昭和15年のことである。
鱒二と座談した岐阜市の釣師たちの伊豆の釣師や山下についての知識はかなりいい加減で、長良川筋に新しい友釣の技を教えてくれた伊豆の釣師達に感謝の念を持っていたようにはみえず、彼らに敬意を払うということもなかったようだ。また、昭和30年頃になっても伊豆の友釣技法をあまり理解していなかったようである。
(2004/10/12追加)
岐阜県萩原町の大坪屋旅館のご主人が高校生の頃まで何度も山下超名人を実際に目にした時の様子が「日記・エッセイ No.13の「06/14伝説の山下超名人」と題して書かれていますのでご一読下さい。