伊豆狩野川の鮎の友釣り技法の伝播
―狩野川技法の特長と伝播の要因―
常盤茂雄
「釣り文化 11号(1983年)〜16号(1986年)」釣り文化協会
―まえがき― で、常盤茂雄氏は次のように書いている。
今日、鮎の「友釣り」の愛好者の数は、五十万とも七十万ともいわれている。そこには当然さまざまな技法の工夫がなされているにちがいないが、近代「友釣り」の技法そのもののルーツが伊豆狩野川にあることを知る釣り人は、意外と少ない。
それは無理からぬことではあった。「友釣り」の専門書に類するもので、このことに触れたものはほとんどなかったのだから。例えば、上田尚氏の「釣り方図解」(1925年8月刊)にも、藤田栄吉氏の「鮎を釣るまで」(1932年4月刊)にも、村上静人氏の「鮎の友釣」(1933年4月刊)にも、伊豆狩野川の釣り師についての消息は一切記載されていない。これらの釣研究者たちが狩野川の釣り師たちの活躍ぶりを知らなかったはずはないのに、わたしには、なぜか不思議に思われる。
狩野川の釣り師たちの模様を伝え初めは、佐藤垢石氏の「諸国釣自慢」(1933年『水の趣味』誌12月号)ではあるまいか。氏は、「利根川へ伊豆の職業者たちが遠征するやうになってからもう三十年以上も経過するであろう。いろいろの事を利根川の漁師に教へた。」といい「交通が便利になってからというものは五十人百人と隊をなして武洲(埼玉県)の荒川、上洲(群馬県)の利根川、美濃(岐阜県)の長良川というように、鮎では有名な大河へ遠征するようになった。」ともいっている。当時から「三十年以上」も昔といえば、一九○○年代(明治三十年代)のことになろう。
わたしは、狩野川の釣り師たちの活躍に興味をもち、地元狩野川から岐阜長良川、飛騨川筋、群馬県利根川筋に、かれらの足跡をいささか渉猟してきたのだが、かれらのおもかげは、今やまぼろしの伝説と化しつつある。
一九○○年代のことを語る釣り師はすでになく、一九ニ○年代(大正期)に入ってからの模様さえ、すでに古希を過ぎた釣り師たちから聞きとることができるだけである。
それでは、近代友釣技法黎明期の様子に想いを巡らして下さい。
(PDFファイルを開いてから、見やすい大きさに拡大してご覧下さい。)
「釣り文化 12号(1983年) P44〜52」
初めて遠征した狩野川の釣り師・鈴木久吉
狩野川の釣り師・鈴木久吉.PDF へのリンク
伊豆狩野川から初めて他国に遠征したのは鈴木久吉であった。
他国へ遠征するきっかけとなったのは、明治43年(1910)8月の台風による大洪水で狩野川の鮎が壊滅的な打撃を受けたことである。当初、信濃川を目指したのだが川の状態が悪くて釣にならず、奥利根へと転進したのだった。
*誤植と思われる箇所があります。
P44−下段9行目:独野川→狩野川
P45−上段2行目:独野川→狩野川
P46−上段7行目:日本梅→日本橋
P48−下段2行目:NMK→NHK
P49−下段5行目:湖上→溯上
「釣り文化 14号(1985年) P28〜40」
飯塚利八 長良川へ行く
飯塚利八長良川へ行く.PDF へのリンク
大正の初め長良川郡上の大アユが東京日本橋のアユ問屋に入荷し始め、味と形が高く評価された。
狩野川のアユを多く扱っていた日本橋のアユ問屋「大松(だいまつ)」が修善寺のアユ仲買人らと計らい、狩野川のアユ漁師を郡上八幡へ送り込んだ。
このとき鮎釣りの腕を見こまれて名指しされたのが飯塚利八であった。
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