友釣の話        ホームへ 

おとり鮎(♂)

1.鮎友釣の起源とその技法

2.友竿の変遷

3.友釣初級者への助言




2003/1/29作成 2003/4/12「友釣の面白さ」追記

 世にも稀なる釣技「友釣(ともずり)」は誰が、何時、どのようにして創めたのだろうか。
1.「友釣の起源」に文献に現れる友釣の記録をいくつか載せてみたが、各地にある古くからの言い伝えのほうに近親感が湧くのはどうしてだろうか。
 静岡県では狩野川河畔瀧源寺草庵の虚無僧が友釣を創めたと伝えらている。彼は、日長一日橋か土手の傍らで、野鮎の追いつ追われつする様を飽く事も無く眺め暮していた末に、これを思い付いたのだろうか。
 各地に同じような言い伝えがあるにちがいないが、寡聞にして知らない。


 友釣の面白さ
 友釣は「釣りのなかで最も面白い釣りだ」といわれる。川漁師でさえも友釣は面白いという。
自分も、渓流でのヤマメ、イワナ釣り、湖沼でのフナ、マス釣り、海での磯釣り、投げ釣り、船釣りなど色々な釣りをしてきたが、鮎の季節になると「釣りは友釣りしかない」という状態になってしまう。
 なぜこうも友釣は面白いのか?その面白さを考察してみよう。

 釣り方が独特
 友釣は、オトリのアユを道糸の先に付けて釣るという世界で唯一日本だけの独特の釣りである。
海から遡上してきたアユが成長すると、自分の餌(コケ)を確保するために縄張りを作る。
 友釣は、この野鮎の縄張り習性を利用して、掛け鈎を付けたオトリのアユを泳がせて縄張りアユの攻撃を誘って釣るという、他の釣には全く見られない、特殊な釣法である。
生きたアユを道糸の先に付けて操作すること自体が難しいと共に面白さがある。
 オトリが野アユの縄張りへ入って行くと、野アユがオトリに体当たりをして掛け鈎に掛かり、オトリを引きずったまま流れの中を疾走する。その時のオトリと野アユとのやりとりや、鈎に掛かった時の衝撃ともいえる感触が竿を通じて釣り人に伝わってくるのだからこたえられない。
 この当たりと引きは、友釣を経験した人でなければわからないが、なんとも云えない痛快さがある。野アユが掛かってから、4間(7.2m)以上の竿と毛髪より細い道糸で野アユの走りをいなして取り込むまでのスリルが、これまた面白い。
 アユは居場所を教えてくれる
 陽射しが川面を照らしているときには、アユが身を翻してコケを食む時に陽光を受けてキラリキラりと光る様子が見て取られ、どこに縄張りを持っているのか教えてくれる。
身を翻して光るのが見えない場合でも、アユが住み着いている石には「ハミ跡とツヤ」があり居場所を教えてくれる。
したがって、友釣の経験を積むと、その日の釣果をある程度は予測できるようになる。
 友釣の上手な人は川を見ただけで「この石とあの石で何匹、あの瀬では何匹」と釣れるアユの数をおよそ当ててしまう。また、ハミ跡を見てそこに居るアユの大きさも当ててしまう。
 アユのハミ跡と石のツヤを見て、“ここでどれ位の大きさのアユが何匹位釣れる”と予想出来るようになれば、友釣の面白さもさらに増してくる。
 腕が上がれば釣果も上がる
 友釣の経験と技術が、その人の釣果となってはっきり表れる。
ポイントの選び方、仕掛け、竿やオトリの操作、釣れたアユの取り込みのしかた、これらの総合力が釣果を左右する。
上手な人と未熟な人が一緒に鮎釣りに行くと、釣れるアユの数は、その腕の差だけはっきり出てくる。
これほど経験と技術が釣果の差となって表れる釣は他には無いと思う。
 友釣は、“上達の度合いに応じて釣果が上がっていく”ことも釣り人を夢中にさせる理由の一つである。
 芳香を放つ川魚の女王
 アユはスイカかメロンのような香りを放ち、「若鮎のような」と形容されるように姿・形も美しい。
天然のアユは「川魚の女王」ともいわれ、食べて美味しく、価値のある魚である。
 釣り方が面白く、しかも釣れる魚に値打ちがあるということが、友釣に惹かれる要素にもなっている。
 清流と緑の自然を満喫
 初夏から盛夏にかけて、濃い緑に覆われた山間の清流にアユは住み着き成長する。
清らかな大自然のなかでの友釣は、気持ちを爽快にしてくれる。
 清冽な流れに立ち、緑のそよ風に吹かれ、木々の間からもれくる小鳥の囀りや蝉の声を聞きながらの鮎釣りは、炎天の消夏方としても最高である。たとえその日の釣果が少なくても、“また来るぞ”という気になるから不思議である。
 技を極める 難しさがまた魅力
 友釣はアユ釣りの中で最も難しく、この道何十年のベテランでさえ“難しい釣りだ”という。
自然も川も、年々その姿を変化させていくし、アユもその年によって様子が異なる。1年の中でも長雨とか日照りなどその時の天候で川の様子が日と共に変わり、アユの居つく場所も変化していく。
 経験を重ねる度に、新しい疑問が生まれ、それを解決できたと思った頃にはまた新たな疑問や問題に突き当たる。十年の釣暦で得られた知識は、十五目年で古くなり、二十年目でまた新しい事がわかってくるというように際限がない。
 友釣の技は、職人の技に相通じるようなところがあり、何年やっていても奥が深くて釣技を極めるということが出来ないともいわれる。
 職人の技を極めるということが至難の技であるのと同様に、友釣もある段階に達するとその奥があり、そこへ到達するとさらに奥があるとういように、常に未知の世界が待っている。
 友釣は、どこまで行っても求め極めるものがあるということが、多くの人々を夢中にさせてしまうのだろう。