友竿の変遷              友釣の話へ



友竿(トモザオ)
鮎の友釣に用いる竿を友釣り竿といい、これを略して友竿という。
また、友竿は、おとりアユを用いて釣る竿ゆえ、おとり竿ともいう。
(和竿辞典 : 5代目東作とうさく(松本栄一)
昭和41年より)


   (北斎 一筆書譜)
 更新記録
2004/10/17 2.釣り愛好家のための友竿に
  竿の注文(佐藤垢石)を追加
2004/10/25 1.職漁師の友竿に
  郡上竿の誕生を追加
2006/05/13 カーボンナノチューブ量産成功追記


1.職漁師の友竿
 友釣(ともずり)の起源でも述べておいたが、伊豆狩野川の漁師が継竿を各地に伝えるまでは、漁師がその土地の竹で作った簡素な延竿が用いられていた。多くのものは、刈り取った竹の先に石を付けて木につるし乾燥させた後、火で簡単に癖を取った程度のもので1年ほどの寿命だった。
 伊豆狩野川の漁師が各地に伝えた継竿は、それぞれの川でその川にあった竿に発展していった。
これらの竿は、土地の鮎漁師とか他の職をもった者が生業のかたわら職漁師のために作ったものであった。もちろん、釣り具商や竿師も漁師むけの継ぎ竿を作ってはいたが、自ら鮎釣りをする者が作った竿でなければ四、五十匁以上もある鮎を奔流から釣る用をなさなかった。
 今も、その名が知られているものに、郡上竿、上州竿などがある。
 鮎友釣の起源と技法に述べた山下福太郎の兄定次郎は、生業の床屋のかたわら鮎竿を作っていて河津竿と呼ばれた。素材は土地のヤダケで重く強く野趣に富んだ竿だったという。定次郎の河津竿は昭和20年代、天城峠を越えて河津川へ出稼ぎにきた狩野川の職漁師によっても盛んに使われたという。

郡上竿
素材には矢竹、真竹が使われ、節は抜かずにアマ皮を取る程度でそのまま使用される。
四、五、六本継ぎが主で、スゲ口には真鍮の管が巻かれ、胴には絹糸で段巻きを施し漆塗りで仕上げる。実用としてカシューを塗ったものも多く使用された。
郡上竿は穂先と穂持ちが命といわれ、穂先の太さは割り箸ほどもある強いもので、アユがかかりしぼられた時には竿全体が手元まで曲がるしなやかさをもった竿である。
4間半(8.1m)で約350匁(1.3kg)という重い豪竿であり、瀬、トロ、ドブ用に3、4種類が作られた。この郡上竿は、漁師が使用して10年は使えたといわれている。
掛けたアユは、瀬では郡上抜きで、トロ、ドブではためてタモ(約9寸〜1尺径)に取り込んだ。

郡上竿の誕生
 昭和に年号が変わって間もない頃、美並村の若い釣師・福手俵治(明治36年生れ)が友竿作りに興味を持ち、当時八幡町でただ一軒竿作りをしていた釣り具屋・三原屋で竿作りの基礎を習った。郡上の竿師も釣師も、伊豆狩野川筋の職漁師が持ち込んだ三本継ぎか四本継ぎの竿を初めて見てから間もない頃で、継ぎ竿を作るのは初めてのことであった。
 三原屋と福手俵治が継ぎ竿を作り始めてから数年後の昭和七年、伊豆から大和村河辺に移住していた山下福太郎が美並村深戸へ住まいを移した。山下は三〜四本継ぎで手元から三番までの差し込みにブリキを巻いた伊豆式の継ぎ竿を作り、郡上近辺の漁師達に売っていた。彼の竿は穂先の太い胴でためる竿で、山下ザオを使った釣師は使いよく丈夫な竿だったと異口同音に答えたと伝えられている。
 三原屋は鮎釣りをしなかったので竿の調子をどう整えれば良いのかが分からなかった。福手俵治は鮎釣りで知り合っていた山下の作業場へよく通い、郡上の奔流で40、50匁の鮎を掛けるための、竿つくりを教わった。その頃、もう一人の若い釣師安田幸太郎(明治41年生れ)が竿作りを教えて欲しいと三原屋と福手のもとにきて三人で竿作りを始めた。安田幸太郎は初めて差込に真鍮の金具を付けたり四本継ぎを五本にしたりし、石突きや笛巻きの改良なども行った。
 ここに初めて福手俵治、安田幸太郎の二人によって郡上竿が作り出されたのである。二人は郡上竿師として、また鮎釣り師としても郡上きっての名手となった。その後この二人は、山下とは鮎掛けから竿作りまで教えたり教えられたりする仲になったという。
(「釣り文化」15号1985、16号1986、「伊豆狩野川の鮎の友釣り技法の伝播;常盤茂雄」に基ずく)

郡上竿 by 福手 福手俵治の息子福雄氏(昭和10年生)が郡上市美並町三戸(旧郡上郡美並村三戸)の福手釣竿製作所(電話:0575−79−2283)で現在も郡上竿を製作、販売している。(2009年現在)
 郡上竿製作映像


(平成11年夏郡上八幡を訪れた際に、旧八幡町役場から一つ下の宮ヶ瀬橋の上で、近所の吉田川畔にお住まいという上品な老紳士にアユ釣りの話を伺うことがあった。この老紳士のお名前を伺うのを忘れてしまったが、郡上では有名な故「古田の萬サ」(古田萬吉氏)と郡上竿師(渡辺安氏?)を、かなり以前にNHKテレビで世に紹介した人であり、若い頃には列伝の郡上釣師達と吉田川や長良川でアユ釣りをされたそうである。たぶん、郡上名人最後の生き残りである安福康次氏とも友人なのだろう。老紳士は「若い頃の私でも、郡上竿を持って一日アユ釣りをすると腕がパンパンに張って痛くなったものです。それを萬サ達は毎日漁でやるんですから。」、「もう年なので郡上竿で鮎釣りをするというわけにはいかないが、当時使っていた竿は今もとってあり、出してくればすぐに使える。」といまにも愛用の郡上竿を出してきて釣りを始めたいような語り口であった。
「“郡上の鮎”とは、そこの役場のあたりから上流1キロくらいまでの間で釣った鮎のことをいうのです。お盆の頃になると石に青い苔が付くようになり、その青い苔を食んだ鮎は香りも味も最高のものになる。」と教えて下さった。また、「昔はお盆頃にもなると100匁位で腕くらいの太さがある鮎がいくつも釣れたものだ。」とも語ってくれた。)閑話休題


2.釣り愛好家のための友竿(和竿)
 友釣の起源にも述べてあるように、友釣愛好者のための鮎竿は、大正後期から昭和中後期にかけ江戸東作一門の和竿師をはじめとし各地の和竿師により、釣り愛好家のための友竿が多く作成された。
 江戸和竿師のなかで、あゆ竿で有名なのは東吉(本名宇田川吉太郎S32年没)で、あゆ竿にその生涯をかけた竿師といわれる。アユ竿を研究、洗練させ、軽くて調子のいい東京式アユ竿を確立し、東吉のあゆ竿は竿作りの手本ともいわれた。
 前橋竿の都丸(トマル)は自らも友釣を行い、真竹のうきす竹を用いて勝れた友竿を世に送り出した名人肌の竿師といわれた。大正末奥利根に移り住んだ伊豆の嘉一も友竿作りの講習に幾度となく都丸のもとに通ったという。
 都丸の友竿は、佐藤垢石(昭和9年「鮎の友釣」著者。友釣中興の祖などといわれる。)が“魚が掛かってからの調子に例へられないうま味が生ずる”といい愛用したことでも有名である。
 佐藤垢石は「つり姿」(昭和17年)の中で、次のように書いている。


    竿の注文

 友釣竿をそろそろ注文してもいい時期がきた。私等のやうに多年鮎の友釣をやってゐる者から見ると、竿はどうしても輕いうえに胴にやはらか味を持ったものでないと、大物が掛かった時に、逃げられる率が多いやうに思う。それぞれ各地の竿を扱ってためしたが、利根川式乃至狩野川式のものに及ぶ竿はないやうである。
 利根川では四間一二尺から六間位の長さのものを多く使ってゐる。しかし大體において四間半から五間半位のものが使ふのに手頃である。四間半から五間半位の長さはあっても、目方は百三四十匁から百七八十匁、どれでも二百匁以下のものを使ってゐる。本當に輕いものだ。しかも、胴に一種の柔軟性を持ってゐて、魚が掛かってからの調子に例へられないうま味が生ずるのである。
 利根川地方は、八月の舊盆から六月にタケノコとなって出た新竹を切始め、十一月頃まで切續けるが、元竿にする材料は、時に二年子を使ふことがある。そんな關係で、利根川式の竿は、扱ひが荒いといたみやすい。
 東京で出来た重い、そして肉の厚い竿と同じやうに見て、亂暴な取扱ひをすると、折れる場合が間々ある、であるから、利根川式の竿は駄目だといふ人もあるが、それは利根川式の竿の本質と扱ひ方を知らない人の言葉であって、本當にこの竿の質を知ってゐたならば、無闇と折れてしまふものではない。また狩野川式の友釣竿も新子の篠をきってきて作るのであるからこれも素敵に輕い上に、竿全體の調子にまことやはらか味がある。
 主に長さは、四間から四間半のものであるが、この竿を使って見ると、東京の竿師、つまり友釣の何たるかを解しない職人が作ったものは、釣りの實際とは、全くその質に縁が遠くて興味が薄いのである。利根川方面でも狩野川方面でも既に切ってきた竹の脂を二度も抜いたから材料はでき上がってゐる。
 これから竿の製作にかかる季節である。理想的には竿は注文したからといって直ぐ出来上がるものではない。早くとも三四箇月はかかる。今のうちに地方の竿師に注文して置かないと、釣りの季節がきてもその時の間に合はぬことになるのだ。それに古い竿を持ってゐる人も寒中に火を入れて置くと、竿の生命が長くなるものである。持ちたし、そして自分に手なれた竿は、大切に手入れして置くべきものであると思ふ、竿は釣人の生命だもの。

(利根川式といっているのは都丸義郎の友竿と思われる。垢石は「つり姿」の別の一節で、奥利根後閑上流の月夜野橋下流で百匁以上の鮎を釣ったことがある、と書いている。ダムが出来る前、昔の奥利根の激流で百匁(375グラム)以上を取り込む垢石の腕は並々ならぬものであったことがうかがえる。)

 友釣用の竿は、軽ければ軽いほど良いので、その素材としての竹は“うきす(浮州)(矢竹)”または“半身(淡竹)”と呼ばれる半分しか身が入っていない竹を使用した。“うきす”も“半身”も、当年生えた竹を身が入らない夏の頃に刈り取り晒し竹にしたものである。
 3間(5.4m)までは4−5本継ぎ、4間1尺(7.5m)までは5−6本継ぎ、4間半(8.1m)までは6−8本継ぎくらいが適当とされ、2本仕舞というのが定法になっていた。したがって、仕舞寸法は短いもので1.05m、長いものでは1.5m位ある。
 江戸和竿の素材は、穂先には節のつんだ野布袋(野生の布袋竹)の古竹を用い、穂持ちから三番までは矢竹の半身または中半身を用い、三番が太くなる四間半物では俗にお化けと称する矢竹と女竹の交配竹の半身または中半身を用い、二番と手元には淡竹の半身または中半身を用いている。
 鮎竿は軽ければ軽いほど良いのだが、江戸和竿の場合、その重量は4間1尺(7.5m)で百七十匁(638g)が標準とされた。一般には3間半竿で400g前後、4間半竿で7〜800g前後の目方があった。
 五代目東作『ドブ竿や友竿のように特に目方を重要視するものの場合には、掛け目(納めたまま竿を秤ではかった目方)と、持ち目(継ぎ上げた竿を手に持って感じる目方)ということが、よく問題になるが、竿の軽重を選ぶには後者による方が本筋とされている。
一般に掛け目を提示して軽い竿を求めたがる傾向が強いが、軽量の竿はそれだけ竿力が劣るのであるから、馬瀬や千曲などに類する大川のアユを狙う場合には、体力の許す範囲で目方のついた竿を用いるべきである。ただし、その選択にあたり持ち目を考慮に入れることはいうまでもない。』
と述べている。
 持ち目とは、継ぎ上げた竿のモーメントの大小のことで、竿の先端部(穂先、穂持ち、三番)へ行くほど軽量な物はモーメントが小さいので、同じ総重量の竿でも先端部の軽い物は手に持った時に重さをあまり感じないということを述べているのである。

 ちなみに昭和40年頃の和竿の基準では、友竿に適する仕掛けは、ナイロン道糸0.6−1.5号、ハリス1−1.5号、オモリ5号位までとされており、竿力は目方400g位までの負担に耐えられるものとされた。
 竹竿のなによりの利点は、オトリの動きやアタリがきわめて鋭敏に手元に伝わることである。
竹竿は野アユに追われるオトリの動きまで釣り人に知らせ、野アユが掛かった時には肘までその響きが伝わったと云われた。

 竿師が親方となり、職人、徒弟を養成して竿づくりを専業に大量生産するものもいたし、顧客や釣り具商からの個人注文を受けて誂え品だけを作成するものもいた。前者は並竿師、後者は上竿師と呼ばれた。
 上竿師がその竿づくりの技術を習得する修行期間はきわめてながく、竿師のもとに徒弟として住み込み、それからまる7年の年季をつとめあげて一人前の竿師とみとめられた。
 いずれにしても竹を素材とした釣り竿は、職人によって素材が吟味されその素材に合わせて釣り手の好みも考慮し手仕事で作られた。特に長尺物で軽さを要求された友竿は(その工程は180にもおよぶ)、非常に高価であった。
*****
5代目東作(松本栄一):大正4年生まれ、昭和47年没(享年57歳)


地方の友竿
(1).足助竿
矢作川支流の足助川の竿(愛知県足助町で弓矢製造の鈴木武雄氏(1938年生まれ)の祖父が三河竿を参考に6,7本継ぎに工夫し完成した。)で、いろは竹工所(〒444-2424 愛知県東加茂郡足助町足助落合13-20 電話:0565-62-0113)で現在も製造販売されている。
素材には淡竹、ヤマト竹、矢竹を使い、穂先より手元に向けかなり急なテーパーで太くなり、元と元二番に尻金を付けた二本仕舞に納める。
足助竿は、3間半〜4間の硬調子で、道糸を竿尻より10〜20cm短くして用いる。それは、オヤ(おとり)を空中移送でポイントへ一気に投げ入れる方法を取るからである。取り込みも、その場で竿をしぼり、アユを水面より一気に抜き上げ、腰のあたりに構えたタモに受ける。この取り込み方は矢作川の“振り子抜き”ともいい、手尻が短いので竿を立てるだけでアユが手元に来て、タモに収まる。

竹竿の扱いは、水に濡らさぬようにすることが、なによりも肝要で、釣り場でも竿を水に濡らさぬように心がける。もし水に濡れたら、乾いた布で水分を良く拭き取り、特に差込口を丁寧に拭いて日陰の風通しの良い場所で十分乾かし、植物性の油を布につけて拭く。


3.グラスファイバーを使用したグラスロッドの出現
 昭和20年代後半になり、グラスファイバーと合成樹脂を素材としたグラスロッドが日本でも作られるようになり、エビス、オリムピック釣具、NFTなどの釣り竿メーカーから次々と売り出された。自然の竹の代わりに、化学製品を材料としていたので当初はケミカル竿と一種軽蔑の念をこめて呼ぶ人もいた。
 グラスロッドはおおよそ次の様な工程で作成された。
@ グラスファイバー(直径5−10ミクロン)の撚り糸で織られた縦糸の多いクロスを設計に応じて所要の形に裁断する。この裁断されたクロスをパターンと呼ぶ。
A パターンに樹脂(フェノール、ポリエステル、エポキシ)を含浸させたものを、マンドレールと呼ばれる芯金に巻きつける。
B 芯金に巻かれたパターンの全面にセロテープ(糊はついていない)を巻きつける。これは、クロスに含浸された樹脂の流出を防止するとともに、炉内におけるセロテープの収縮を利用してクロスをしっかり締め付ける役目をする。
C それを炉に入れ、高熱を加えることにより、クロスに含浸されている樹脂を硬化させる。
D 硬化後、芯金を引き抜くと中空の竿の素材が出来上がる。表面に巻かれたセロテープを除去し、所要の長さに切断する。
E 塗装がしやすく、きれいに仕上がるように表面を研磨し、塗料を数回塗って仕上げる。

 実は、このグラスロッドの出現は、釣竿界における産業革命だったのである。
和竿は職人が自然の竹を吟味し手仕事で一本、一本作られたのに対し、ケミカル竿とよばれたグラスロッドは工場で設計通りに均質同一のものが大量生産されたのである。
これを期に、竿つくりは、経験と勘の時代から、物理と化学を使った工学の時代へと変わるのである。

 グラスロッドがはじめて出た頃は、腰が無い、魚信が伝わらない、ペナペナだなど、とかく評判は芳しくなかった。メーカーもそれらの不評を払拭するために研究、改善を重ねたのである。評判の良くないグラスロッドも安価で水にも強く丈夫であることから多くの釣り愛好家に受け入れられていった。
 海釣りにおいては、当初評判のあまり良くなかったグラスロッドがほどなくして主流になり、竹の和竿は一部の愛好家が使用する程度となっていった。

 アユ釣ではどうだったろうか。ドブ釣りにおいては、伸縮が自在に出来るグラス振り出し竿がその機能性と取り扱いの簡便さによって、あっという間に主流になった。エサ釣り、毛鈎のチンチン釣りにおいても同様であった。
 友釣では少し事情が違って、化学材料を素材とした竿が和竿にとって代わるためにはカーボンファイバーの民生利用と釣竿への応用まで待たなければならなかったのである。
 友釣りはオトリ鮎をつかって野鮎を掛け針にかけて釣るという、他の釣とは全く違う釣技ゆえに、友竿ではオトリ鮎やかかった野鮎からの魚信を明確に伝えることが重要であった。
 オトリ鮎からの魚信を伝える感度という点では、グラスロッドは完全に落第であった。
当時はほとんどが瀬釣り引き釣りであったが、オトリがどう泳いでいるのか感じがよく掴めず、野鮎がかかった場合でも、竿先がグーンと曲がって初めて気付くようなことが多かった。《腕が悪かったんだろーって?多分そうだったのでしょう》
 グラス友竿は、振り出し竿と並継ぎ竿があり、4間半(8.1m)で700g−1kg位の重さがある持ち重りのするものだった。5間をこえる長いものでは、目方は1.2kg以上もあった。

 重く感度が悪いにもかかわらず、グラスロッドは庶民の友竿として、3間半から4間半のものが、おおいに利用された。それまで職漁師と一部愛好家のものであった友釣が、安価なグラスロッドの出現で庶民でも友釣を楽しめるようになったのである。昭和40年代後半になると友釣人口が急速に増え、川で友釣をする人の7、8割は庶民の友竿グラスロッドでアユ釣りを楽しんだのである。
かくいう私も、庶民の友竿を持って嬉々としてアユ釣りに出かけた一人である。
(グラスロッドは安価で丈夫という点から職漁師にも使われていたことを付け加える。)

4.カーボンロッド友竿の出現

 1971年(昭和46年)東レが世界で初めてカーボンファイバー(トレカ)の量産化に成功した。この翌年(1972年)「オリムピック釣具梶v社が、夏の新製品として、東レのカーボンファイバーを素材とした鮎竿「世紀」を初めて世に送り出したのであった。
このカーボン友竿「世紀」は、従来の竹竿やグラス竿と比べて圧倒的に軽く(4間半で200g以上軽かったと記憶している)、細く、感度も良く、ピンとしていて張りのある竿であった。カーボンロッドはカーボンファイバークロスを使用し、グラスロッドとほぼ同じ製法で製造された。
当時はカーボンファイバーが開発されてから日が浅かったので、素材のカーボンファイバーそのものがとても高価だった。したがって、カーボン竿の値段も当然高価であった。
 カーボンロッドの発売は、とにかく軽い竿が出たということで、友釣愛好家の間にセンセーションを巻き起こした。
 参照;「トレカの活躍 釣り竿
この時すでに竹の和竿とカーボンロッドとの勝負はついてしまったのである。
なぜなら、職漁師の時代から、“鮎竿は軽ければ軽いほど良い”からであったし、カーボンロッドの感度と張りは竹竿に近いものだったからである。
 このカーボンロッドの好評により、シマノ、ダイワをはじめ釣針メーカーのがまかつなど多くの釣り具メーカーからカーボン友竿が次々と発売された。カーボン友竿の価格も年々低下し、昭和30年代から庶民の友竿として活躍したグラス友竿はほどなくしてその姿を消した。
 和竿は一部好事家の間でわずかにその命脈を保つものとなった。昭和から平成に時代が変わる頃には川原で和竿を目にすることは稀になってしまった。
 また、皮肉なことに鮎の養殖技術の普及によって鮎の価格が下がり、昭和50年頃を最後に職漁師の活躍は衰退してしまうのである。
 時代の背景もあるが、カーボンロッドは友釣愛好家のためにのみ出てきたともいえる。
グラスロッドの項でも述べたが、友竿つくりは物理、化学と工学技術によって科学的、理論的に開発や改善がなされ現在に至っている。にもかかわらず、カーボン友竿の重量を初期の重量の半分に減らすまでに四半世紀も要したのである。
また、掛かりアユを抜き上げて取り込むのを容易にするために手元が伸縮するズームモデルも開発された。
21世紀となった現在は、数万円から数十万円の範囲で幾種類ものカーボン友竿が売られており、どれを選んだら良いのか困るほどである。
 友竿の性能として考えると、現在一番安価な竿であっても、カーボン友竿が出る以前の友竿と比べてみると、トータルの性能は遥かに良いのである。
 “鮎竿は軽ければ軽いほど良い”のであるが、いたずらに“掛け目”の軽さのみを重視してはいけない。友竿を選ぶにあたっては、自分の体力と腕力、アユ釣りのしかた(どこで、どのような釣りかたで、どの位の大きさのアユを釣るのか?)に合った、“持ち目”の軽いものを選べば良いだろう。
この友竿の選択基準は、竹の和竿の時代から同じである。

 今後も、さらに軽量、さらに高性能を求めた竿が追求されるだろう。
現在の友竿は、カーボンファイバーというそれまで使用されなかった新素材を使用することによって生み出された。
 新規の機能を持った友竿は、今まで使用されたことの無い全く新しい素材を用いることによって生み出されるのではないだろうか。例えばカーボンナノチューブなどである。

――――――――――――――――――――――
 2006年5月12日 追記
 興津川、狩野川の解禁まで後一週間となった5月12日、朝日新聞朝刊に、(03年に上に書いた)カーボンナノチューブの量産に成功の記事が出た。
 現在の生産能力は、日産1gだそうだ。
 カーボンファイバーなみの製造量になるのは何年後だろう。
 東レが世界で初めてカーボンファイバーの量産化に成功したのは1971年のことだ。 カーボンファイバーが初めて量産された時は、日産どのくらいだったのだろうか。

 ■単層カーボンナノチューブで高強度繊維の紡糸に成功
 (産総研:プレスリリース 2006年5月11日 発表)



  2008年3月9日 追記

 カーボンナノチューブ:マウスに中皮腫 形状、がん誘発か
    −−国立食品研確認

 電気製品などへの応用が期待される筒状の炭素ナノ材料「カーボンナノチューブ」を投与したマウスに中皮腫ができたことを、国立医薬品食品衛生研究所などが確認した。厚生労働省はナノ材料の安全対策や製造現場での予防策について報告書をまとめる方針。

 カーボンナノチューブは、発がん物質のアスベストと形状が似ていると指摘されている。ただ、アスベストをマウスに吸入させる実験では中皮腫が発生しにくいため、研究チームは腹腔(ふくくう)内に注射する方法を採用した。

 マウス(生後9〜11週)を4群に分け、粒径が平均約100ナノメートル(ナノは10億分の1)で長さの異なるカーボンナノチューブ、アスベスト(青石綿)、炭素ナノ材料で球形の「フラーレン」、何も含まない液体を注射。

 カーボンナノチューブ群では、腹腔内に中皮腫が16匹中14匹にできた。青石綿でも18匹中14匹で見つかったが、フラーレンと液体の群では腫瘍(しゅよう)は見られなかった。腫瘍の近くにはカーボンナノチューブや青石綿が沈着。研究チームはカーボンナノチューブの細長い形状やマウス体内での分解しにくさなどが影響したと分析した。

 同研究所の菅野純・毒性部長は「今後の製品開発ではこうした性質を考慮し、労働者が工場内で吸い込まないよう大量生産前の現段階から予防策をとるべきだ。人での影響を予測するには体内でどのぐらい残留するのかが重要だ」と話す。【下桐実雅子】

 ◇津田洋幸・名古屋市立大教授(発がん毒性)の話

 腹腔内投与という現実に起こりえない方法で評価した。製造過程でどの程度吸入する可能性があるのかを調べ、人へのリスクを評価する必要がある。

毎日新聞 2008年3月7日 東京朝刊

関連語: ナノ(nano)とは、単位につける接頭語で10-9(10のマイナス9乗:10億分の1)を意味する。この場合はナノメートル(nm)のことで、10-8〜10-9m(10〜100nm)のサイズの微小な物質を扱う技術を総称して、ナノテクノロジー(以下、ナノテク)と呼んでいる。
 参照:ナノ粒子の安全性評価」、 ナノマテリアルについて(日本化粧品工業連合会)

 厚労省、ナノマテリアルの安全性を評価する検討会をスタート
   2008年3月5日 10時37分
 厚生労働省は2008年3月3日、カーボンナノチューブやフラーレンなどのナノマテリアルの安全性などを審議する検討会の第1回合同会合を東京都千代田区の合同庁舎で開催した。ナノマテリアルの人への健康影響の評価や安全性の評価について今後検討を進める。今回の合同会合は「ヒトに対する有害性が明らかでない化学物質に対する労働者ばく露の予防的対策に関する検討会」と「ナノマテリアルの安全性に関する検討会」がそれぞれ第一回会合を合同で開催したもの。

 「労働者ばく露の予防的対策に関する検討会」は厚労省の医薬食品局長が、「ナノマテリアルの安全性に関する検討会」は労働基準局長が、それぞれ設けた検討会であり、第1回から第3回までを合同開催し議論する計画だ。両検討会の委員長には中央労働災害防止協会・日本バイオアセッイ研究センターの福島昭治所長がともに就任した。委員は、労働安全衛生総合研究所や産業技術総合研究所、物質・材料研究機構などの公的研究機関、慶応義塾大学や杏林大学などの大学などの有識者22人が就任した。