今日は夕方になってから一人で軽く歩きに出てみた。庄内川の橋の上から見た夕景色が美しかった。
2009年08月27日(木) 小論文をNewUp!
この半年間取り組んできた小論文、「アーベル・ルフィニの定理」を、自分のHPにアップデートした。
これはある意味自分のライフワークであって、動機は十代にまで遡る。自分の人生の目的のひとつは、この定理を理解することだったといっても過言ではない。もちろん、まだ完成ではないが、とりあえずアップしておいて少しずつ改良していくつもり。
せっかくなので印刷もしてみた。
この定理は、「五次以上の方程式は代数的解法が一般的には不可能である」というもので、19世紀初頭のノルウェーの大数学者アーベルによって初めて完全に証明された。つまり「アーベルの定理」なのであるが、彼以前の多くの数学者たち(ルフィニもその一人)の努力の賜物であることを示す意味で、象徴的にこう呼ばれる。一方、「アーベルの定理」という名称は、アーベルのどの仕事を指すのかわかりにくいので(彼は享年26歳という早逝にもかかわらず多くの数学的発見をしている)、五次方程式についての仕事ではルフィニを引き合いに出してこう呼ばれているらしい。これはルフィニにとって名誉なのかどうか・・・
とにかく身辺的にはこれで一段落なので、しばらく休んでいたブログも小論文のアップを機に再開したい。
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週末のウォーキング(「散歩」と称す)は、我ながら感心するくらい続いている。土日は大体7〜8kmずつ、行きつけの喫茶店も出来て、そこのモーニングを楽しみに出かけるのだ。
このごろは平日の夜も歩いている。ちょうどわが団地を1週すると1kmなので(測ってみました)、これを5周というのが日課になりつつある。とても調子がいい。時々は走ってみるが、たちまちへばるので、やっぱり歩くだけにしている。上の小論文を書いているときも、アイデアが出ることが多い。何か課題を抱えながら歩くと、閃くというほどではないが、ちょっとしたことを思いつくのだ。これはとても面白いことだ。
2009年03月10日(火) HP大改造
開設以来のHP改造をした。全体をブログ中心の構成に変えた。最初の画面もブログの最新ページになるようにした。ただ、小論文や評論は今までのままとした。
動機はなによりもまず自分が更新したくなるような画面にしたかった。これまでのものもそれなりに好きだが、できるだけ更新を増やすにはやはりブログを前面に出すべきだと思ったのだ。
これまでこのブログには自分以外の人はほとんど訪れていない 。それはそれでいいという気持ちがどこかにあって、あまり熱心にHPに向き合ってこなかった。でもやはりこれからも自分はここでしか表現できないんだと思い、気持を引き締めたのだ。
何かのきっかけでここを訪れてくれた方々、これからもよろしくお願いします。
2009年02月23日(月) 祝!増設メモリ
長く本体メモリを512MBのままPC(デスクトップ)を使ってきたが、意を決して2GB(1GB×2)に増設した。なんと4倍! もっと早くそうすればよかったと後悔するくらい早くなった。一つにはメモリの値段が安くなった(アマゾンで¥5,930)ことによるが、もうひとつはまだこのまま今のPC(e-machine J3034)を使っていこう、VistaにはしないでXPのまま次期OS(Windows7?)の開発状況を見ていこうと思ったから。それに今度自分のを買うときはMacにしようかなという気持ちも多分にあるので、Windows系は仕事に必要な程度で済ませようという思惑も。
2009年02月20日(金) 数学夜話(2)
毎週木曜日、NHK総合で「Q.E.D.〜証明終」というドラマを観ている。ちょうど我が家の夕食時でドラマが始まるとカレーの皿を持ってテレビの前へ座るくらい毎週楽しみにしている。昨日は「ポアンカレ予想」が数学のエピソ−ドとして使われていた。これはポアンカレという数学者が20世紀初頭に提出した問題で、「単連結な3次元閉多様体は3次元球面S3に同相である」『ウィキペディア(Wikipedia)』(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E4%BA%88%E6%83%B3)より)というのであるが、私にもまったく意味が分からない。ドラマの探偵役の燈馬想(中村蒼)はこの問題で謎の“海賊ジャック”(袴田吉彦)と黒板に数式をいっぱい書いて戦うのだ(?) この「予想」はウィキペディアにもあるように2003年に解決されたことになっていて、ジャックはロシアの数学者に「先を越された」形になっている(それで海賊になった?)。袴田くんは、子供がそのまま大人になったような役どころを持ち味として好演した。ただ、最後に高校生たちから去っていく時にリムジンが迎えにきて部下と思しき人物に「会長が来日中とはつゆ知らず失礼を」と言わせているのは夢を壊した(数学者が大金持ちになるのはあまりいいものではない)。
それはともかく、数学上の難問というのは本当に大変なもので、才能ある人間の一生を台無しにしてしまう魔力を持つらしい。有名な「フェルマーの最終定理」は300年間数学者を苦しめた。現在でも解かれていない問題も多い。「ゴールドバハの定理(推測)」などは問題そのものは簡単であるため(「2より大きい偶数は二つの素数の和で表わされる」)、格別人を狂わせる。
有名なギリシアの「作図3大問題」は、「1.一般角を三等分する」「2.立方体の体積を2倍にする」「3.円と等しい正方形を描く」というのであるが、いずれも定規とコンパスのみで作図することは不可能とされている。ところが、未だにこれらの問題に貴重な人生を浪費している人もいるという。
私も中学生の時、図書室の本でこれらの問題に出会って夢中になった懐かしい思い出があり、今でも愛着を持っている。角の三等分では「解けた!」と思って数学の先生のところに持ち込んだこともある(同じような経験者は多いようだ)。私の「解法」は次のようなものであった。
![g0251.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0251.jpg)
これは「弧の三等分になっていないからダメだ」と言われて不満ながらすごすご帰ってきた。 その後、数学への関心は方程式に移って、3次、4次方程式をがんばって理解したあと「5次以上の方程式は代数的には一般に解くことはできない」という記述に出会う。なぜ「5」なんだ? なぜ限界があるのだ? なぜやってみなくてもわかるのだろう?…ずいぶん不思議に思えたものだ。いや、一応は理解したのだ(と思っている)。今でも、なんだか「5」という数に神秘的なものを感じてしまう。ここにも弁証法が顔を出している。物には限界があり、量的な発展は質的な飛躍をもたらすのだ。この問題を十分に解決したガロアは文字通り代数学を根底から変えてしまった。彼の理論(ガロア理論)以後、代数学の対象は方程式の解法から群、環、体といった代数体の研究に移っていった。
2009年02月11日(水) 「建国記念の日」
今日は「建国記念の日」だ。うちでは「赤旗」(日本共産党中央機関紙)を購読しているが、毎年サービスでくれるカレンダーに今年初めてこの祝日名が記入されていた(ただしカッコ付きで)。これまでは数字こそ赤だったが何も記されていなかったのだ。去年の2月11日は日曜日だったので翌日の欄に「振替休日」とだけ記されていた。何も知らない人には落丁としか思えない。ちなみに4月29日「昭和の日」も去年は日曜だったので同様の扱いだったが、今年はちゃんと「昭和の日」も(カッコなしで)記入されている。なにも揶揄しているのではない。歓迎である。これまで「建国記念の日」(と「昭和の日」)だけ書き込まれていないことにやはり違和感があった。法律で制定されている(「国民の祝日に関する法律」(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO178.html))ものは書いてよいと思う。カッコ付きも主張が感じられて良い。
「国民の祝日」には以前からメーデーと8月15日を加えてほしいと思っている。特にメーデーは、これが制定されるということはそれだけ国民(労働者)の政治に対する参加と関心の度合いが高まってきたということになるから、ぜひ実現したいものだ。今は特に不況を理由とした労働者の首切りが平然かつ大規模に行われているのだから、メーデーの祝日化は労働者の尊厳を高め、首切りを行う者たちにその手の血糊を自覚させるに効果があると思う。もっとも、だからこそ絶対祝日化はやらないだろうが・・・。 さて、我が家の休日は散歩で始まる。今日は一家3人で庄内川堤防を歩いてきたが、風もなくいいお天気でもうすっかり春といってもいい。まだあの「春は名のみの風の寒さや」(「早春賦」)の季節だというのに、まごうかたなき地球温暖化である!
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上の写真は庄内橋南下の小公園にいたネコで、友だちなのかケンカ仲間なのか恋人なのか親子なのか夫婦なのかわからないが、2匹が微妙な距離を置いて佇んでいた。散歩ではよくネコ、犬、ハト、スズメ、ヒヨドリ、カラス、トンボ、サギ、カモ、ウなど、多くの動物に出会う。人間よりもそれらの方をよく覚えている。ネコは必ずカメラに撮る。犬はたいてい飼主さんと一緒なのであまり撮らないが、はっきりいってネコほどは面白くない。人間に近すぎるせいだろう。スズメも好きだ。これも人間との距離が微妙で、決してなつかないが人のいないところにはスズメもいない。ヒヨドリはスズメを駆逐するので嫌いだ。カラスはなぜかはわからないがわりと好きである。あの大きさで人の近くに住んでいる野鳥はカラス以外にない。色もいい。髪は烏の濡れ羽色、なんて今どきの死語(古語か?)も思い出す。
鳥といえば去年の11月、T子(妹)との散歩で鶴舞公園を横切っていたら人だかりがするので行ってみると、「オオタカが餌を食べている」と教えてくれた。見物人の半数の人が大きなカメラを構えていた。市街地での野生のタカは珍しいらしい。
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オオタカのおおきな画像はWikipediaでどうぞ(参考:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8f/H%C3%B8nsehauk.jpg)。
2009年02月09日(月) 地デジとFMアンテナ
世は押し並べて地デジ対応である。わが団地にも地デジの波が押し寄せ、昨年11月から室内のアンテナ端子が地デジ対応になった。うちのテレビは既に地デジ対応だったが、これまではたまたまこれまでのアンテナでも拾える地デジチャンネルしか見られず、CBCとかTVA(テレビ愛知)などは映らなかった。それがやっと全部見られるようになった。どうもアンテナを新設したのではなく、STARCAT(http://www.starcat.co.jp/)というケーブルテレビ会社のCATV導入によるものになったらしい。STARCATのHPでもわが団地が「CATV対応集合団地」に含まれているのを確認した。おかげですべての地デジチャンネルが視聴可能になった。
それはいいのだが、一方で大変困ったことが起きた。FMファンなら同じことをやっている人も多いと思うが、これまでアナログの室内アンテナ端子から分波器でFMチューナにつないでFM放送を聴いてきた。VHFアンテナは最高のFMアンテナでもあったのだ。それがCATVになってからだめになった。入るには入るがひどい雑音である。とても音楽はムリ。CATVはFM放送には対応していないのだ。まあ誰に文句をいうわけにもいかないので、仕方なくFMアンテナを購入し(YAGIFMアンテナF-P2B-B。アマゾンで¥3,366)、ひとまず自室の天井付近に設置。ところがその時はいいかと思ったのだが、やはり時によって雑音が入り、せっかくのお気に入りの録音が台無しになることも。結局FMアンテナ用ケーブルを20m買ってきて(近くのケーズデンキで¥1,870)、アンテナをベランダに設置し直し、ベランダから私の部屋まで延々引っ張り込んだ(内緒だけどこの時押入れの隅に小さな穴を開けてしまった…)。それが昨日で、ようやくクリアな音が蘇った。
![g0193.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0193.jpg)
CATVによる地デジ対応では若干の局のチャンネル番号が変わった。これがなかなか面倒だった。チャンネル合わせはテレビとビデオ、それにデジタル・アナログ放送それぞれで行う必要がある。最近のテレビやビデオは家電というよりはパソコンに近いから、一人暮らしのお年寄りなどにはまず無理だろう。そういえば、地デジ対応の工事後、妙な連中が団地の一軒一軒を回って「テレビの地デジ対策はうまくいきましたか?」と聞いていたそうだ。地デジ工事の回覧板では、STARCATはチャンネル切替の電話相談は受け付けていたが、各戸別に回るとはいっていなかった。おおかたチャンネルの切替をチャンスに法外な報酬をせしめようとしているのかもしれない。今のところ被害は出ていないようであるが。
2008年09月25日(木) 数学夜話(1)
今日から(不定期に)数学について思いついたことを書いていきたい。
以前にもここで弁証法のことを書いたが、数学は物理と並んでもっとも弁証法的な学問である。通常、数学でもっとも一般的な論理学は形式論理学であろう。しかし数学の二つの異なった分野の形式論理学を結んでいるのは弁証法的論理である。たとえば、自然数は加法について閉じた数の集合体であり、加法は形式論理学の基礎中の基礎といっていい。しかしひとたび加法の逆演算(=減法)を考えることで自然数は閉じた集合ではなくなり、それは整数へと発展する。これは形式論理学では説明ができない。弁証法ではこれを対立物の統一としてとらえる。つまり、自然数の中で加法を考えると、それは必然的にその対立物(反対物)である減法を自ら生み出し、相互作用によって統一性を持とうとする。その運動が自然数のカラを破り、整数を生む。その中でこそ加法と減法は対立的に統一できる。この中でこそ加法も(減法も)その形式性を完成させるのだ。
ここまでいえば当然に、では乗法と除法もそうではないかと類推できる。その通りで、自然数の中で閉じていた乗法がその反対概念である除法を生み、そこから分数が生まれ、整数との統一体として「有理数」が確立される。有理数はいわゆる四則の閉じた空間としてもっとも小さな集合体である。数学でもそういうもの(四則の閉じたもの)として「体」と呼ばれている。
では、四則以外の演算、たとえば累乗(例:2^3=8)からは何が生まれるだろうか。累乗も自然数内で閉じた演算であるが、その反対の演算=累乗根ではまったく奇妙な数を生み出す。それは無理数と虚数である。
2乗して4になる数は±2であるが、2乗して2になる数は有理数にはない。結論からいえばそれが実数であるが、実数の誕生には有理数のとてもダイナミックな営みが必要である。
もっとも著名な理論としてデデキントの「切断」を挙げる。デデキントは19-20世紀のドイツの数学者で、カントールとともに実数論の確立者としても名高い。彼は、有理数を「ある所」で、一方は他方より小さくない(大きくない)ものとして二つに分け(=切断)、この分け方自身を「実数」と呼んだのである。すなわち、「有理数の切断を実数という」と定義したのだ。
吉田洋一著「零の発見」(昭和38年第33版[第1刷は昭和14年]岩波新書) 歴史的名著。この本の後半に「直線を切る」がある。
この奇妙かつ大胆な発想はまさに弁証法的である。すなわち彼は既に大昔から知られているルート2やπなどの「実数」を公理的に導くために、形式的論理学ではなく、概念の飛躍をもって新しい数を確立したのである。この方法は、弁証法としては常套手段であって、自然数から負の数を導くときと同様の飛躍を行っている。自然数の世界では2から3を引くことはできないのであるが、仮に「2から3をひいたもの」をある記号で定義し、それに新しい名前(=概念)をつければそれは「新しい数」となるのだ。そして次には自然数そのものがその新しい数の一員となっていくのである。
デデキントの発想は、直接には、直線(=実数)が左から右にまっすぐに伸びていて、それがどこで切っても必ずそこに「点」がある、言い換えれば「数」があるというるイメージから来ているようである。しかし、その発想の根底には「数の概念の飛躍」がある。
実数に比べると、虚数は形式的である。つまり、ルート2やルート3と同様にルートマイナス1という形で生み出されたように見える。虚数はその名前が示すように長い間得体のしれない、訳のわからないものとして考えられてきた。歴史的にその地位を確立するまで多くの時間がかかった。ガウスは虚数の本質をもっとも早く見抜いた数学者で、そのお陰で多くの定理や理論を残しているが、そのことを公にするに多大の注意を払った。例えば彼の数学者としての出発点となった有名な「正十七角形の作図」の発見にも、虚数が活躍しているが、かれの論文には虚数は非常に形式的にしか出てこない。
虚数は、嘘の数とか幻の数どころではなく、現実世界に実在する数といっていい。「じゃ、見せてみろ」と言われたなら、いわゆるガウス平面(普通の座標平面で、x軸が実軸、y軸が虚軸となっている)を示せばよい。2+3iという虚数(複素数)は座標が(2,3)になっている点である。「そんなのインチキだ」と言われるかもしれないが、そうではなく、数はすべてそういうものである。自然数さえそうだ。リンゴ一個をもってしてこれが「1」だといえばやはり「そんなバカな」となるであろう。
虚数の弁証法的なところは、その出自的なところではなく、むしろあらゆる数を結びつけているその本質による。誰だったか「i」と染め抜かれた風呂敷を持ってきて「愛i(=虚数)はすべてを包む」といったそうだが、とても意味深長な逸話である。「複素数」は数の完全体である(高木貞二著「代数学講義」第1章「付記」。1994年改訂新版25刷)。
弁証法的な世界は、形式論理学と異なり、(悪の)無限性を持たない。それは有限で、かつ発展的であるためそれを打ち破って新しい形態を持とうとする。数学は現在すでに数ではなく「構造」を対象にしている。「抽象数学」といわれる。それは数からはじまり数を越えていったのである。
2008年09月20日(土) 三連休(2)
連休2日目(14日)はS子(妻)も一緒にお馴染み大曽根コース。41号を清水まで南下し、そこから名鉄瀬戸線の高架下を大曽根まで。途中「ぱせり」という喫茶店に寄る。時々利用する所。よくあることだが4人席に一人客という状態の「満席」だった。「合い席で」といわれたが、「あ、いいです、いいです」といったん外へ出た。S子さんがちょっと不満そうだった。僕も未練気に振り返ると2人のお客さんが帰って行くところだった。続いて店のママさんが出てきて「大将、空けてもらったけど、行く?」と声をかけてくれた。もちろん戻った。
この辺の気持ちを詳しく説明するのもナンだが、まず、自分ひとりならともかく家族3人で他の人と合い席は無理だろうし、つぎに4人席に1人で座っている人に他の人との合い席を頼めば、それでその人が帰るハメになったら、われわれが追い出したことになってしまう。だからまずこちらが引くところを示す、それで誰かが席を空けてくれればそれに甘える。もし誰もいなければそれはそれで仕方がない…そんなことを一瞬で考えたのだ。結果的には誰かが帰ってくれたことで朝食にありつけた。いまどきひとり300円でコーヒーにトーストと卵が付く。
さて、あとひと息で大曽根だが、駅の手前にユニー大曽根店があり、いつもここに寄って涼んでいく。時々は買い物もする。この日はT子(妹)用に折りたたみベッドを見つけ、購入を決めた。実は、今使っているベッドに猫がおしっこをしてしまい、今度は折りたたみがいいなと話していたのだ。3匹のうち誰が犯人なのかわかっていないのだが、限りなくクロに近いのがしろである(これが言いたくて書いてみた)。
ユニーを出るとあとは帰りのバス停まで炎天下を歩く。ずっと日陰だったがここだけはしかたがない。バスに乗ればまた涼める。ただ、時刻(行き先)によって自宅の最寄りのバス停が違っているので降りてからまた歩く場合もある。ありがたいのはT子の福祉乗車券のお陰で二人までは無料なこと(お陰でかなり遠くまで散歩に行ける)。
この日は午後、今度はクルマでユニーへさっきの折りたたみベッドを買いに行った。ところが商品が展示品しかなく、それも傷があるということで結局取り寄せということになった。こういう面倒なことは中々我慢しないほうだが、今日はこれからもうひとつ買い物を予定していたので渋々承知した。
それは、dysonのDC16という掃除機だ。前から自室の掃除用にハンディタイプの掃除機が欲しかったのだ。あの自信たっぷりのCMもさることながら、敬愛する森博嗣先生の「MORI LOG ACADEMY」の2008年08月28日のHRを読んでから決めていた。正直言って予算的にかなり苦しかったが、「これを買うまでは部屋を掃除しないぞ」というアホな決意でみるみる部屋が汚れるのを見て、もう二度と使わないつもりでいたクレジットカードを使ってしまった。この使用感についてはまた後日に。
充電中の dyson DC16
最後の3日目(15日)は、T子と二人で春日井の八田川沿いを歩いた。以前一人で朝宮公園まで行ったことがあったが、この日は二軒屋橋までで、そこから如意申町、宮町から名鉄小牧線の春日井駅へ出て味鋺まで電車で帰るというコースになった。これは正直言って道に迷ってのことで、初めて携帯電話のナビを使った(地図を忘れた)。春日井市の道はまだ慣れていないので方角を間違えたのだ。かすかな不安と妹を連れているというプレッシャーに、いつもはない冷たい疲労感を覚えた。この「道に迷う」という感覚はある意味貴重で、駅を発見した時の安堵感はクルマでは味わえないものだと思う。
とはいうものの、この日以後体調をくずし、1週間たってもまだ調子が悪い。季節の替わり目というやつか。
2008年09月18日(木) 三連休(1)
今月13日から久しぶりの三連休があった。この頃は休みとなれば散歩、ウォーキングで、この時もT子(妹)と二人でよく歩いた。
初日(土)は枇杷島まで歩き、帰りは城北線でという計画を実行した。41号線から庄内用水に沿って南西下し、西区の枇杷島スポーツセンターまで行き、ここで一休みしてから県道67号で庄内川の枇杷島橋を渡った。(写真は枇杷島橋から名鉄線を跨ぐ立体交差橋を望む)
![g0179.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0179.jpg)
JR枇杷島駅をゴールにしようと近づくと、そこら中工事中で駅の東側から線路をくぐる歩行者用トンネルが通行止めでそのまま北へ流され、やっと線路の下をくぐり、駅の西側から到着。結局大廻りで1キロ位余分に歩いた感じ。達成感より疲労感の方が強かった。時間的にちょうどいいと当てにしていた城北線の電車が目の前で行ってしまい、1時間も待つことになった。遅い朝食でもと喫茶店を探したが、駅の西側は工場とマンションばかりで何もない。500mくらい歩いて名鉄の二ツ杁という駅まで行くと、コンツネというスーパーがあったのでそこで御幣餅を買って食べた。これはおいしかった。
城北線は枇杷島と春日井の勝川間のたった6つの駅の間を走るディーゼル機関車で、ほとんどが高架上を走り、眺めはいいが、枇杷島−勝川間430円とやや高い。写真は城北線のホーム。向かい側の電車はJR東海道本線の普通列車。
![g0181.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0181.jpg)
(城北線自体の電車は撮り損ねたので興味のある方は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のこちらを(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:TKJ-Kiha11DC.jpg))。帰りはこの電車であっという間に春日井の味美まで戻り、そこから歩いて自宅へ。歩行距離は合計で12km。これまでで最長かもしれない。
この日の夜、歩いて庄内川岸へ虫のすだく音を聴きに行った。月がきれいで写真も撮った。翌日の新聞で前夜が仲秋の名月と知って納得した。
写りは良くないが一応クリックで拡大可。
2008年09月05日(金) 権力の構図
我が家で一番の老猫のすずが病気のようなので医者に連れて行った。いつも涎をたらしていて食べるのが辛そうである。体の毛もまるで毛玉のオバケだ。もう14歳になるのでトシかなと諦めていたのだが、先生の話では「口内炎です。あとは特に悪いところはないですよ」とのことで、注射を2本、あと体中を首と尻尾だけを残してバリカンで刈ってくれた。雄ライオンかプードルみたいな何ともいえないおかしい格好になったが、本人(猫)はいたって元気で一安心(今の写真はかわいそうなので昔のかわいい盛りの一枚を)。
![g0163.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0163.jpg)
この子は塾の生徒だったK子という子が拾ってきた3匹の仔猫のうちの一匹だった。なんでも公園の屑かごに捨ててあったという。ちょうど「家なき子」というテレビドラマが人気だったころ(今ネットで調べたら1994年だった)で主人公の名前が「すず」という名前だったのでそれにあやかった。すずは当時私が描いていた4コマ漫画にもよく登場した。まだほんとに乳離れもしていない状態で来たので、毎日S子(妻)が哺乳瓶で牛乳を飲ませた。哺乳瓶はうちで買ったかK子が持ってきたか記憶がないが、K子が授業のたびにチーズを持って来たのはよく覚えている。離乳食のつもりだったようだ。
元気がよく、すぐ家じゅうを動き回るようになった。怖いもの知らずで年長猫のミーコさん(当時5歳くらい)に飛びかかるようになった。親だと思っているのかも知れない。面白い見ものではあったが、ミーコさんには迷惑なことだ。我々も夜よく寝られない日が続いた。夜中にお乳欲しさに顔の上に乗ってきたりするのだからたまらない。
お乳を飲むときは両手(前足?)でしっかりと哺乳瓶を掴み、かっかっという調子で力強く飲む。これは見ていて感動する。命そのものという感じがする。
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その後、「しろ」という猫が加わり(これはS子が尾頭橋で拾ってきた猫で、今このブログの冒頭で舌を出して寝ているやつだ)、3匹になった。すずは自分より小さい猫が来たことで多少は大人になったようだ。やがて我が家は引っ越すことになり、そのどさくさでミーコさんが脱走してしまった。そして再度の引っ越しで現在の団地に来た。4年前アテネオリンピックの年に来た子猫に「あてね」という名前を付け、それが死んで、しばらくしてまた拾ってきた仔猫に同じ名前を付けたことはこのブログにも書いた。そして現在に至っている。
![g0173.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0173.jpg)
この写真は今年6月のものだが、左がすず、右がしろ、真中で一番威張っているのがあてねである。まさに今の我が家の権力の構図を表したものとなっている(S子は3匹に自分の席を追われ、フレームの外にはみ出している…)。
2008年08月31日(日) 洪水時のイメトレ?
8月も今日で終わり。久しぶりに一家3人で散歩。清水駅から大曽根へ回り、そこからバスで帰宅。暑さもやや納まり、すじ雲が見える。ただ、昨日おとといは県下大変な豪雨で、岡崎では死者が2人出た。あっという間に深さ2mもの濁流が家の中に入ってきたという。翌日には水は引いたが、家そのものが使えなくなったところがある。今まで自分がそういう被害に会うなんてあまり実感を持たなかったが、今回は初めて恐ろしいと感じた。実際28日の深夜の豪雨はすごかった。ザーッという雨音が恐怖を伴うのだ。それが長く長く続くととても不安になってくる。
2000年の9.11東海集中豪雨のとき、自分ではそれほどに感じていなかった。あとでそのひどさを知ったのだ。今でも記憶に鮮明なのは、夕方退社後、すでに冠水が始まりひどい渋滞の国道19号線を車で走ったこと。左端で動けなくなっている車が何台もあり、その車内で必死に携帯電話をかけている人影を見たこと。行く方向がだんだんひどくなっているのを見て反対車線の方がまだましとUターンし、こちらもひどい渋滞の中をなるべく道路の中央をノロノロと進みながら当時の自宅(中川区富田町)へ帰ったことだ。帰ってからいよいよ雨がひどくなった。確か停電もあった。
今回も深夜になってから激しい雨が続き、次々に出される警報や聞きなれない「土砂災害警戒情報」などが一層不安をあおった。地域広報スピーカーが雷雨の中で初めて実際に使われるのを聞いた(いつも毎月1日の夕方にテストで流されていたのだ)。避難勧告がでたら速やかに避難するように、という内容だったと思う。一、二度玄関から外へ出てみたが、降りはすごいが団地の構内や駐車場などはまだ浸水していないようだったのでこの辺の川はまだ大丈夫だと思った。もし団地の構内に水が来るなどということがあれば、これはすぐ南を流れる庄内川の堤防の決壊を意味する。そうなったらもう命がけである。ベランダは地面から1m以上はあるが、2mを超える水が来たら部屋の中はもう逃げ場がない。家を捨てて団地の上階へ逃げることになるだろう。買ったばかりのテレビやパソコンの中のデータが消えてしまう。何をもって逃げようか、取りあえず現金と通帳と印鑑、保険証か。テレビやパソコンはテーブルの上に乗せておこうか。しかし、そんなヒマがあるだろうか。最後は家族3人の命が大事である。忘れていた、猫も3匹いるのだ。さあ、どうする…。
2008年08月25日(月) Tちゃんのお母さん
今夜はBSで「ジャイアンツ」という映画を観た。いろいろな意味で懐かしかった。確か3度目だ。うろ覚えだが、たぶん最初は自分が生まれ育った家の、近所の幼馴染の家でテレビを見せてもらったのだと思う。僕の家はとても貧しく、テレビなどは昭和の40年代にやっと中古を買ったくらいだったが、この幼馴染の友人、仮にTちゃんとしよう、Tちゃん家にはもう30年代前半にはあったと思う。彼のお母さんがやさしくまたきれいな人で、早く母を亡くした僕をかわいそうに思ったのか、いつも親切にしてくれた。テレビを見せてもらうだけではなくずいぶんいろんなことで世話になった。
Tちゃんは長男で、下に弟が2人いた。この3人が僕の幼馴染の友達だった。他にもいたとは思うが、付き合いの濃さが違っていた。Tちゃんは僕より1つ下だったので学校では会わないが、帰ると彼以外に遊ぶ友達がいなかった。僕は子供のころずっとひどい脱腸で、それでずいぶん惨めな思いをした。学校ではいじめられ、銭湯では好奇の目で見られ、喧嘩をすると必ず「だっちょ、だっちょ」と囃される。ところがTちゃんたち兄弟は一度もそんなことを僕にいったことがない。たとえ喧嘩をしてもだ。今思うとこれはTちゃんのお母さんの教育というか、「M男君(私)に絶対そんなこといってはいけません」と言い含めていたと思う。子供のころにはわからないことを大人になってから気づくことはよくある。Tちゃんのお母さんはそういう人だったと今でははっきりわかる。
彼の家はそのころは炭屋さんで、薪とか竹などを販売していたので、木片がいっぱいあってそれでよくチャンバラをした。Tちゃんは何をやっても僕より少し上で、チャンバラでも3回に2回は僕が負けた。将棋も彼のお父さんに一緒に教えてもらいよく指したが、これも3回に2回は負けたものだ。さらに大人になってから囲碁もやるようになったが、Tちゃんは囲碁でも僕よりちょっとだけ強かった。ほんとに憎らしい奴である。
今はもう見かけないが、Tちゃん家にはサイドカーの付いた自転車(確か「横付け」といった)があって、それでお父さんが炭や薪をお得意さんに配達するのだが、時々Tちゃんたちがそれをお手伝いする。そんな時には僕もお供した。お手伝いというより遊びだった。一人が「三角乗り」という乗り方で運転し、他の者が押して走る、炭を届けたら帰りは交替で荷台に乗ったりペダルをこいだりして帰る。そういえば僕は家に自転車がなかったのに、いつの間にか乗れるようになっているが、これもTちゃん家のお陰だろう。
この横付けにはもうひとつ思い出がある。Tちゃん家の2軒隣に鉄の廃品回収業をしている家があって、そこにわれわれよりいくつか年上のお兄ちゃんがいて、彼がこの横付けに僕たち3人を乗せて、アクロバティックな運転で喜ばせてくれた。近くの小川に掛っている橋の上をサイドカーの車輪が橋からはみ出して急ブレーキで止まったときなどは、町中に響くような絶叫で喜んだものだ。今では考えられない遊びだ。
Tちゃん家では、長さ20cm位の薪を10数本針金で結えてそれをひと束として売っていた。針金は最初から輪になっていて(どこかから仕入れていたようだ)、それに電気のこぎりで長さを切りそろえた丸太をまず鉈で適当に割って薪にし、それを順に丸く詰めていき、最後の一本を他の薪で叩き込んでひと束にする。Tちゃんたちもそれをやるとひと束1円のおこずかいがお母さんからもらえた。僕も手伝ったような記憶がある。この薪作りの仕事を頭の大きな障害者と思しき人がよく来てやっていた(というか生業にしていたと思う)。一日に何十束と詰めて夕方お母さんからお金をもらって帰って行くのだ。僕たちがかーぶんすと呼んで気味悪がっていた人に、Tちゃんのお母さんはやさしい言葉をかけていたのを思い出す。
この町に50年住んでいた僕は、Tちゃん家とも50年の付き合いだが、だんだんと疎遠になっていった。何故だか理由はむつかしいが、僕が大人になるにつれて僕の方で距離を置くようになったのだと思う。あんなにお世話になったTちゃんのお母さんにほとんど何のお礼も言わないまま、僕はこの町を出た。もちろん挨拶には行ったが、その時の僕の「お世話になりました」には、こういう気持ちは込めていなかった。もう一度、それが言えるときが来るだろうか。
2008年08月22日(金) 我が家にも地デジが?
今年の4月にやっと薄型テレビを買った。地デジ(地上デジタル放送)や衛星放送が観られるやつだ。ところが衛星放送はちゃんと映るが、地デジが一部しか映らない。いま住んでる市営住宅の共同アンテナが地デジに対応していないようだ。あれだけ地デジに替えろと宣伝しておきながら、自治体が対応に遅れているのだ。ここの団地で国策
に応じて地デジ対応のテレビを買った人は一部しか観られないことになる。アナログも付いているだろうというのはごまかしである。なぜならアナログを観るためにテレビを買ったわけではないからだ。しかも地デジに移行するならアナログチューナはいらないのに、それも買わされているのである。
まあ2011年7月24日までには市営住宅のアンテナは何とかしてくれるのだろうけれど、たぶんこの調子では大ぜいのテレビ難民が出ることだろう。つまりアナログ放送が終わるまでにテレビを買い替えない人たちである。一方で、大量の役に立たなくなったアナログテレビが粗大ゴミとして出てくる。それこそ何千万台という膨大な数である。リサイクルの可不可も大問題だが、まだ使用できるものを千万台単位で廃品にしてしまうあたりパソコンに似ているなと思う。パソコンの場合は自分で使おうと思えば使えるものを自ら廃棄するのだが、アナログテレビの場合と比べてどっちが罪深いだろう。
そんなこんなの地デジ移行であるが、完全移行して何年もしたら「あのなつかしのアナログ映像」などといって、今まで観て来た映りの悪い画像が別の価値を持つようになるのでは? ちょうどSPレコードの雑音をなつかしむように。これなどはさしずめ今流行りの「昭和懐古趣味」風潮に通じていくと思う…。
さて、これだけ嫌味を言ったあとでやや気が引けるが、地デジや衛星・ハイビジョンの画像は本当にすばらしいと思う。この映りのいいテレビに興味を持ったのは、2年前北区の瑠璃光町にあるサウンドオンで、ハイビジョン放送中だった相撲を大画面で観た時だった。特に相撲が好きなわけでもなかったが、土俵の土のリアルさに思わず見入っしまった。それ以来いつかは買うぞと決意していた。
買った機種はSONY−BRAVIA(KDL-40V3000)で148,000円だった。現在のネットでの価格を見てもそんなに変わっていないのでお買い得だったと思う。買って16日間はWOWOWやスカパーも無料で観られ、WOWOWではちょうど「敬愛なるベートーヴェン」をやっていてラッキーだった。これらはやがて観られなくなったが、NHKはすぐ衛星契約にしたので以来ずっとハイビジョンを楽しんでいる。。今一番気にいっている番組はNHK-BShiの「世界ふれあい街歩き」(参考:http://www.nhk.or.jp/sekaimachi/)である。外国のある街を文字通り歩いて巡るだけの番組であるが、やはりハイビジョンならではの臨場感がいい。
衛星放送は地上放送に比べ、教養番組が多いせいかNHKでも民放でも質が高い感じがする。朝のワイドショーがないだけでもいい。今後もどうか今以下にならないようにお願いしたい。
2008年08月21日(木) 猛暑は自分のせい?
やっと暑さも峠を越えたらしい。朝夕が涼しくなった。半端でなく暑いときは暑いことについて考えるものだ。地球温暖化、ヒートアイランド現象、自分の体力など。
地球規模のことはともかく、いわゆるヒートアイランド現象は、自分の子供のころ(約50年前)と比べても明らかだ。夏は暑かったが、これほどではなかった。その原因として、室内冷房の排気熱を考えた。もちろん原因はほかにもあるだろうが、これが一番身近だと思う。つまり、自分でも家でエアコンを使うようになったので、その分外が暑くなったのだと思う。クルマにも乗るようになり、夏にはエアコンを入れて走る。だから降りた時は異常に暑いのだ。
そう考えると、何とかしてエアコンを使わないようにしようと思うが、これが中々むつかしい。7月の中頃までは我慢してきたが、とうとう根負けして使い始めるともうダメだ。その快適さに、もう無しではいられない。毎年同じことを繰り返している。ここからの脱却が課題である。
体力は、相変わらず週末の散歩(ウォーキング)を続けていることで、かなり自信をつけてきた。もちろん熱中症に気をつけながら、日陰を拾い、水分を補給し、適度に休憩を取りながら歩く。炎天下を歩くのはもちろん良くない。見る見る体力がなくなり、めまいや脱力感がひどくなる。だから7、8月のうちはK公園のまわりか、41号線や瀬戸線の高架の下の日陰の歩道を歩き、日陰がなくなったところからバスで帰宅する。
下の写真は、瀬戸線清水駅近くの高架下で毎月10と7の日に立つ朝市(いつも立ち寄る喫茶店の人に聴いた)。
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感心したのはT子(妹)だ。いつも散歩に付き合うのだが、弱音を吐かない。イヤな時は露骨に顔に出るのですぐわかるが、決して嫌がっていない。むしろ喜んで付いてくる。S子はさすがに無理で、家から41号の高架下まで行く途中でネを上げる。一度は黒川まで頑張ったが、やはりそこからバスで帰って行った。決してムリをしてはいけないので賢明な措置。
決して人には勧められない。趣味として安上がりというより、貧乏くさい。汗まみれになってユニーなどに駆け込み涼んでいる初老の兄妹の姿など、人目にも異様だ。もっとカッコよく決めたいとは思うが、まあ、おいおい考えよう。
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上の写真は、お盆休みの初日、うす曇りだったので定例コースをやめ、久しぶりに八田川を昇った時見た赤トンボ。しばらく見とれ、なぜか涙が浮かんだ。
2008年04月06日(日) 年年歳歳花相似・・・
半年ぶりのブログ更新。
きのう、今日と五条川で花見をする。
きのうはアピタ大口店(http://www.uny.co.jp/store/apita-ooguchi/index.html)に、今日はヨシヅヤ大口店(http://www.yoshizuya.com/store/store.html#ooguchi)にクルマを停めさせてもらい、お寿司かおにぎりを買って川沿いを散策する。お酒なしの地味な花見だが、最近はこういうやり方も多くなってきたように思う。バーベキューやキャンプのように賑やかにやっている人たちもいるが、一昔前のように必死で場所取りをしたり花寒のなかを無理に夜桜見物して風邪を引くなどということは段々減ってきた。これはとてもいいことで、お花見が上品になった。今日のように一番の花盛りに来ても、スーパーマーケットには楽に駐車はできるし、歩いていても座るところはすぐ見つかる。近年にない、いい花見である。
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しかし、これが鶴舞公園や名城公園のように、川沿いを散策というのでなく、一定の場所を占有して長時間過ごすような所では相変わらずどんちゃん騒ぎになっているのだろうか。新入社員の初仕事などといって花見の場所取りをさせるところがあるそうだが、会社の組織で花見をするというのは、流行りの言葉でいえばその会社の「品格」を疑うところだ。
若い時は、桜の花などそれこそ飲み会の口実くらいにしか思っていなかった。桜が毎年同じように咲くのに、自分は段々年をとっていくということが自覚されることで、初めて桜を観る目が変わってくる。「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」である。この劉庭芝の詩では、桃の花を表しているようだが、今の日本人はやはり桜でこの興を感じている。7世紀の唐の詩人が詠んだ興を、我々も同じように味わっているのか、それはわからないが、日本人の桜好きにはそういう諦観的心理が根底にあるように思われる。西行法師の「願はくは…」にも、落語の「長屋の花見」にも、それは見られるだろう。
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上の写真は、ヨシヅヤにほど近い、有名な「桜塚古墳」の三本桜。
2007年09月17日(月) 残暑・酷暑・惨暑!
この3連休は酷暑だった。何でこんなに暑いのだ!(聞いているのではなくて感嘆文) 今日などは33℃! しかも湿度が高い。
昨夜は久しぶりに徹夜で飲んだ。同じ団地のS木さんと。8時くらいから11時まではY老の滝で、そのあとS木さん宅で4時まで。朝刊が来たのを見てヤバいと思って帰る。それから昼12時まで爆睡し、散歩へ。この残暑の中、公園では少年たちが野球してる。大丈夫かと思う。しかし、そういっている自分が大丈夫か。
結局、1.5時間くらい歩いて帰る。木陰を選って歩いているのでそれほど参らなかったけれど、帰宅途中の歩道上は炎天下! 紫外線対策で長袖シャツなのだが、いつも脱いでしまいたい衝動にかられる。人から見るとちょっとアブナイおじさんで、前から歩いてきた若い親子が避けていく。いけない。もうすこしルックスを考えないと。
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2007年09月12日(水) 安倍さんの辞任
今日、安倍さん(首相)が辞任を表明した(こういう時事ネタはまめに書いていくとあとで見たとき何かと参考になる)。特に感想はないが、とにかく「テロ特措法」は打ち切って欲しい。これは切に願う。10月で期限が切れるせっかくのチャンスである。私は「ペシャワール会」(http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/)の会員であるが、アフガニスタンで20年以上医療活動や灌漑・水利事業を続けている中村哲先生たちの安全のためにそれを切に願う。このまま自衛隊がアメリカ軍への給油活動を続けていけば、日本はアメリカと同列のアフガン侵略国であることがますます明らかになり、アフガニスタンの人たち、特に反政府勢力の日本に対する感情を悪化させ、ひいては現地日本人に対するテロの危険性も増える。それどころか、最新の「ペシャワール会報」(中村先生の報告)によれば、『難民強制帰還政策」が性急に進められた余波を受け、「難民診療機関」と目されるPMS(ペシャワール会医療サービス)基地病院も、閉鎖に追い込まれる可能性が出てきた。』というのである。何という非道理! 20年以上もアフガニスタンの人たちのために活動してきたPMSを、親米政府がつぶそうとしているのだ。
最近の小沢さん(民主党代表)は、まるで共産党みたいだ(ジョーク)。「テロ特措法」を延長しないという、それだけで十分。ぜひそのままがんばって欲しい。絶対裏切らないでね。ただ、自民党は同法補則4項(参考:http://www.cas.go.jp/jp/hourei/houritu/tero_h.html)に基づき別法により「効力を延長」することを狙っているともいわれる。姑息ではあるが、小沢さんがしっかりしていれば大丈夫ではないか。
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今日、社会保険庁から「年金請求書」が届いた。満60歳になったら手続きをしろという。何かと取りざたされることの多い社保庁であるが、ちゃんと僕のところに届けてくれた。しかも内容的にほぼ間違いはない。僕はサラリーマンではなかったが、金額はともかく受給権利を認められた事が単純に嬉しい。若い人がぜひ将来年金が受けられるよう、つまりまともな仕事に就けるよう、国や会社はがんばって欲しい。わずかな利益のために従業員の社会保険料をケチるような会社があると聞くが、言語道断である。ネットカフェ難民などという言葉が生まれるような社会で、どうしてその国の未来があるといえるのか。
2007年09月09日(日) 何人かの天才
9月になって初めてのブログだが、ここしばらく自分のHP全般を修復・改良していたので、それが終わってから書こうと思っていたら今日になってしまった。
相変わらずHTMLのタグを自分でテキストで書きながらHPを作るのだが、フレームの作り方を覚えたのが改良の動機といっていいかも。難しいものと思っていたが、案外簡単だったので、いっそのこと全ページごとフレームにしてしまおうとして時間がかかってしまった。
いつもながら思うがHTMLのタグを作った人は天才だ。HTMLと同様にタグを使ってどんな数式でも作ってしまう「TEX」を作ったクヌース先生も天才だが、世の中には本当の天才が何人もいる。僕が天才というときは、仕事が鮮やかで誰にでもわかりやすいことが条件である。ガロアも天才だが、彼の仕事は当時の一流数学者にもわからなかった。しかし、今は大学で誰でも学べる。しかも鮮やかさにおいて他の数学者の仕事の群を抜く(これは彼の「ガロア群」に掛けたダシャレ)。また、日本の高木貞治先生の「類体論」もわかりにくい。しかし、これはきっと先生のいうように「類体論の明朗化は、恐らくは、新立脚点の発見に待つ所があるのではあるまいか。」(「代数的整数論」序)だとすれば、この「予言」もまた天才的といえるかもしれない。
天才といえば、今、マーラーの「巨人」を聴きながらこれを書いているが、彼も天才の一人だ。自分のHPでいくつかのクラシック曲について批評を書こうと思っているのだが(現在のところ、1曲だけUP)、印象的なことはともかく、キチンと書こうとすると、資料を渉猟するだけでも多くの時間が必要になり、つい二の足を踏んでしまう。で、こういうところで適当なことだけ書いてお茶を濁している有様である。
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昨日は妹を引っ張り出していつもの公園へ散歩に行ったが、今日は(同じ所はイヤだというので)一人で行った。体調があまり良くなかった上にとてもムシ暑く、参った。 もう秋なのに(上の写真はその公園のコスモス)、この暑さはどうだ! 森博嗣先生も「名古屋が暑くなるのは、これから秋にかけて、つまり残暑である。」と8/24のMLAに書いておられる。歩きながらこの言葉を思い出して、ここにも天才がいたな、と思わずつぶやいた。
2007年08月23日(木) 自棄的発言?
我慢し切れなくてクーラーを使い出したらやっと少し涼しくなった。しかしどうも夏バテらしく、元気が出ない。熱中症でなくなった人が大勢いる。中には散歩から帰って倒れ、そのまま死んでしまった30代の人もいた。ちょっと怖くなった。年寄りの冷や水ならぬ年寄りの暑さ我慢はやはりよしたほうがいいようだ。
この暑さは地球温暖化の影響に間違いない。そうでない説もいろいろ取りざたされているが、あきらめた方がいい。地球温暖化のせいである。従って今年だけではなく、来年も再来年ももっと暑くなるだろう。そして我もわれもとクーラーを使い、ますます暑くなるのだ。やがて電気の使用量が供給量を超え、パンクする。クーラーがいっせいに止まる。暑さのせいでばたばた人が倒れる。社会問題、政治問題化するが、誰もどうすることもできない。…ところが、不思議にもその後急に涼しくなる。クーラーの使用をやめたおかげでヒートアイランドが収まったのだ。考えても見ると、一人ひとりのいる小さな空間をクーラーで冷やしてその中の熱を外に出せば、平均した温度は昔と変わらなくても「外」は暑くなる道理だ。もし冷やしたいのであれば全体を冷やすことを考えなくてはならない。自分のいる小さな空間だけを快適にするために、外を暑くしてもかまわないという考え方が間違っているのだ。ただ、今はもう自分を「外」の熱気から守るためにクーラーが必要である。そこまできてしまった。人間が賢くこの状況を変えられないのなら、自然が強制的に法則を貫くことで人間に思い知らせる以外にない。
北極の氷がこれまででもっとも少なくなったそうである。理論的には、もしすべての北極の氷が解けても海面は上がることはないはずだが、北極の氷が解ければグリーンランドの陸上の氷だって解けて海に流れ出すし、南極の氷も解け出すだろうから、海面は確実に上がる。海岸線が上昇し、日本は何パーセントか国土を失うかもしれない。
私たち団塊の世代はこれから数十年、年金問題だけではなく、環境的にも大変な時代を迎えることになるだろう。人によってはとても悲惨な晩年を送ることになるかもしれない。大地震か、巨大な台風か、あるいは熱波、反対に極寒の中に身を置き、それらと戦い、人類の未来に絶望しながら死んでいくのかもしれない。もちろん、私もその中の一人としてとてつもない苦痛を味わうことになるのだ…。
私がこんな自棄的なことを書いているのは、文字通り「我亡き後に洪水来たれ」の心境になっているからか。共産党だ、弁証法だ、数学だ、などと言いながら好き勝手な生き方を貫き、還暦を迎えてもう十分生きたからあとはご随意に、といっているのだ。私は人より格別恵まれて生まれたわけでもなく、より幸せな人生を送ったとも思っていない。でも自分に出来る限りの力で今の人並みの生活を築いてきた。それをよしとしているだけだ。
今の自分に出来ることは、これからの人類の未来を出来る限り見届けることだろうか。
2007年08月18日(土) 花火と送り火
大須へは行ったものの、それ以外はどこへも行かず、長い休みをホントにグータラで過ごした。とてもよかった。本を読んだり、数学を研究したり…のはずが、何もせず、ひたすらベッドの上で寝てばかり。ただ、ハンパでない暑さには参った。今年からクーラーを使わないことを決心していたのに、とうとう負けてスイッチを入れてしまった。
8/13に関門海峡で花火大会があるというのをNTTのHPで知って、当日ネットでの生中継を楽しみにしていたのにぜんぜん繋がらなかった。他のライブ中継は見られたのでやはり関門海峡ばかりにアクセスが集中したせいだろうか。同じNTTのライブ中継で、8/16に京都の『五山の送り火:「大文字」「妙法」 』があるというので、今度は絶対見ようと、同日は朝から繋ぎっぱなしにしておいた。苦労の甲斐あって今度は無事見ることが出来た。関門の花火大会も五山の送り火もNHKが生放送でやっていたそうだが、ネット配信のほうが音がなく、よけいな人や話がないので良かったように思う(関門海峡の花火の方はテレビで見たが、明らかに人や話が邪魔だった)。この送り火を見ながらディナーという企画のツアーがあるそうだが、S子(妻)の手作りのカレーを食べながらこれを見たのですごい贅沢をした気分である。インターネットの醍醐味といっていいだろう。
これは中継画面の一部だが、実際はもっときれい。
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久しぶりに森博嗣先生の本を買った(正確には先生原作の本)。「女王」シリーズのコミックを2冊。原作は以前に読んでいたが、先生の作品の映像化というかビジュアル化されたものはどうしても捨て置けない。去年の9月の「カクレカラクリ」のテレビドラマ化を見損なったのをどのくらい悔しく思っていることか!(ただ、先月発表された「スカイ・クロラ」のアニメ化にはあまり興味はない)
スズキユカさんの絵は僕の想像してた「女王」の世界とかなり似ていると思った(ひとつ、ロイディだけは違った。僕の想像していたロイディはあんなにイケメンではなく、もっとマシン的で、服装もモビルスーツを曲線風にしたものを考えていた)。森先生の小説は読んでいてとても視覚的であり、地の文をそのまま想像すれば読んだ人はみなよく似た世界を描くのではないか。
あと、森博嗣原作のコミックでは「F」と「冷たい密室と博士たち」(ともに浅田寅ヲ・画)、「黒猫の三角」(皇なつき・画)を前に読んだ。繰り返し読めるほどに面白い。原作の奥深さが絵によく反映していて、現在の漫画の持つ表現力の奥深さを感じる。
2007年08月12日(日) 大須はどこへ行く
夏季休暇(お盆休み)の二日目。家族で大須へ(お盆は大須である!)。いつもはクルマで直接行くところを、今日は平安通にある塾(私が働かせてもらっている所)の駐車場までクルマで行き、そこから地下鉄で上前津まで行った。何といっても駐車場代がいらない。それに地下鉄はT子(妹)の福祉乗車券で二人までタダ。だから一人分の乗車券だけで済む。それもS子(妻)の買い置きのユリカを使って今日の交通費はタダ感覚(それをいうとS子は怒るが)。
昼食を取らないで来たのでさっそく「あした葉」でミニ天丼定食(¥830)を。ちょっと高いけどおいしい。となり席の仲良しカップルの彼が食べていたカレーうどんがいいにおいを立てていてそれもおかずになった。食後は定番の観音様にお参り。この暑いなか、境内の入り口に托鉢のお坊さんがお経を唱えていた。思わず合掌・喜捨…。「お体を大切に」と言われた。なんとなくありがたい気分に。
そのあと、ほんとに久しぶりに第2アメ横ビル→EDM(エンターテイメントデジタルモール)本店→第1アメ横ビルをざっと廻る。1年ぶりなのに(1年ぶりだから)ずいぶん様変わりしていた。古くからの店は相変わらず客がなく、だんだん寂れていく。ゲームセンターやパチンコ・スロットのような店が増えていた。大須はこれでいいのか? 10/20、21日「大須大道町人祭」に加納真実(参考:http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanoumami/")が来る。楽しみ。
今日はいい写真がない。大須では信秀廟(信長の父の墓所)の写真を撮っただけ。でもお墓の写真では何なので、
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困ったときのネコ頼み…。先月散歩中に出会った、ノラのような飼い猫のようないい面構え。
2007年08月10日(金) 明日から盆休み
広島・長崎の原爆祈念日が今年も過ぎた。まだ一度もこれらの地に行っていない。これは良くないことだ。せめて広島だけでも行きたい。8年前の新潟・国上山行きのときのように着いてすぐ帰ってくるような(宿泊なしで)やり方でもいいから行こうかと考えた。ただ、あの時よりかなり年月が経っているので体力が心配。人に迷惑をかけてはいけない。とするとその分お金をかけて実行するべきだろう。やはり宿泊すべきか。だったら毎年ある原水爆禁止大会に参加すればいいのだ。「広島」にはやはりこの方法で行くべきだ。何となく「日本原水協」には抵抗があるが、「広島へ行く」の一点では頼りになりそう。来年行こう。
今、参考にとネットのニュースで「原水爆禁止大会」を拾って見た。日本原水協だけでなく「原水禁国民会議」もまだやってるんだなあと…(感慨)。昔、民青にいたころを思い出す。Y幡学区地域を班の仲間と署名で廻った。お金も集めて、それで代表を世界大会に送り出して、けっこうまじめにやっていた。20歳のころか、いや、22歳?。わからなくなった。…もう、そういう年齢なのだ。
ところで、題にも書いたとおり、明日から16日まで休みである。少しだけ塾の夏期講座があるが、まあ久しぶりの長期休暇となる。いろんなこと考えているけど(広島行きもそのつもりだった)、結局、ぐうたらしそうである。
![g0103.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0103.jpg)
久しぶりのあてね。立派になった。目が本当にきれいだ。拾ってきたばっかりのときは目やにで目がなかったのに…それがこんなに大きくなって(涙)。
2007年08月05日(日) だてに散歩してるのでは…
やっと夏らしい日になった。が、蒸し暑い。この湿気が早く取れて欲しい。
週末の散歩も続いている。気候が良かったころには街中や郊外のいろいろな所へ行ったが、このごろは炎天下を歩くのはよくないので、近所の公園の散策路を、木陰を選んで歩いている。そこをぐるぐる廻っていると5〜6kmになる。家からの往復で2kmほどあるのでトータル7〜8kmは歩いていると思う(計測は万歩計)。公園では、炎天下で野球やテニスの練習をしている人、木陰でゲートボールをする老人会、遊びに来た親子・おじいちゃんと孫など、さまざまな人が休日を楽しんでいる。ただ、今日はゲートボールをしていた一人の女性が倒れ、救急車が来ていた。原因はわからなかったが、意識もあり、お仲間に謝りながら運ばれていったので大したことはないと思う。
あと、変わったところでは、近所(だと思う)から自転車でやってきたじいさんが、朝からカップヌードルを食べていたり、また、ホームレスと思しきおじさん(多分この公園が自宅?)が風通しのいいベンチで延々寝ていたりする。自転車のじいさんがカップを公園に捨て置いていったのにはがっかり。
いつもは野球かソフトボールの試合が行われるグラウンドで、今日は盆踊りの準備が始まっていた。今夜だろうか(そういえば昨夜わが団地内でもあったんだ…)。
毎週やってきていると、常連さんのような人がいることがわかる。年齢、服装などいろいろだが、面白いのは、コースは互いに逆周りで、散策路でも日の当たる所を避けて木陰の脇道(雑木林の中)を歩いていると、意外なところで出くわしたりして、思わず苦笑い。誰でも考えることは同じなのだ。
![g0101.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0101.jpg)
もくもくと歩いているだけではない。いろんなことを考える。意識的に考えるようにしているのは、今勉強している高木貞治著「初等整数論講義」の「イデヤル論」のこと。少しずつではあるが進んでいる(と思う)。イデヤルとは、「倍数」の概念の抽象化であり、倍数のある性質を捨象したものである(と思う)。だからイデヤルを倍数で表すことは出来ないが、その逆、つまり倍数をイデヤルで表すことはできる。だから倍数はさらに(イデヤルに)分解できるのだ(と思う)…。と、まあこんな調子である。
ついでなので、書いておくが、この考え方は、先日書いた「弁証法」の一例になる。自然数だけでは引き算が不便であることから整数が考え出され、同様に自然数での除法から分数(=有理数)が考え出されたように、整数の独特な性質(倍数・約数)をもっと抽象的にすることで(イデヤルが考えられて)「代数的な整数」における素因数の一意分解を実現したのだ(と思う)。こういう理論の発展の仕方は形式論理学や形而上的な考え方からは生まれ出ない。しかし、弁証法を知っていても、だからといってすらすらこういう風に考えが進むわけではない。理論の「飛躍」のためにはどうしても天才の努力とひらめきが必要なのだ。ここがむつかしい。
2007年08月02日(木) 幼虫が嫌いな人は要注意
8月になった。今は台風(5号が九州に上陸)が来ているから曇っていて蒸し暑い妙な天気だが、そうでなければもっとカラッとした穏やかな夏になるだろうか。そうなれば好きな季節である。
小学生の頃の思い出。何ヶ月か子供向けの学習月刊雑誌を父が取ってくれたくれたことがある。たぶん学校からの紹介があって私がせがんだのだろうが、あの父がよくOKしたものだと思う。それはマンガや絵を多く使って理科や社会の学習をさせるという雑誌で、メンデルやニュートンなど偉人の生涯をマンガで読んだのを今でも覚えている。理科の実験の絵で、炭酸ガスをひらがなで「たんさんガス」と書いてあったのを「たくさんガス」と読み違え、「ああ、たくさんガスが出るんだ」と思ったりした。
この本を、夏休みに青空の見える部屋の縁で仰向けになって夢中で読んでいた。ふと空を見ると遠くの入道雲の先端がもくもく湧き上がっているのに気づいた。10分も立つともう全然違った形になっている。見る見る変化していくそのダイナミックさは今でも夏が好きな理由のひとつである。その頃の夏はどこかさっぱりとしていて、炎天下は暑いが木陰やよしずの陰に入ると涼しかった。空も安定感があり、入道雲もやや遠い感じで穏やかだった。夏の定番のスイカやカキ氷もそれなりによく食べた。こうしてみると私も人並みに幸せな子どもだったように思えてくる。
(噴水ではなく、アカトンボを撮ったもの (○の中。右の写真は2023/09/15の復元で追加処理。拡大可))
芥川龍之介の「トロッコ」や、森鴎外の「安寿と厨子王」なども、この本で初めて読んだ。挿絵もあって楽しかった。のちにこれらの原典も読んだが、刷り込みというか三つ子の魂というか、この二人の作品の中でも格別のものになっている。
今、思い出したが、アルキメデスの生涯もこの本のマンガで読んだ。王冠の中の混ぜ物を王冠を壊さずに調べる方法を入浴中に思いついて裸で外へ飛び出したという有名な逸話もこのとき知った。だからアルキメデスも好きな歴史上の人物である。数学の話で「アルキメデスの公理」と呼ばれているものに、「a、b 二つの正数(a>b>0)があるとき、この二つがどんなに差があっても、あるnという自然数があって a<nb とすることが出来る」というのがある。「公理」というのは証明なしに用いられる定理のようなものである。彼はこれを用いて、現在なら積分で行うような計算(曲線で囲まれた部分の面積など)を2千2百年以上も前に解いている。
この「公理」がどのくらいすごいかというと、これを現在の数学で証明しようとすると、19世紀になってから確立された「連続性の公理」を必要とするのであるが、逆にこの連続性の公理を「アルキメデスの公理」で証明することができるのである。言い換えれば、この二つの公理は同じものなのだ。かれはそういうものを紀元前に発見しているのである。
今日の話は、子どものころの学習が如何に現在の自分に直結しているかを言いたかったのである。
クリックで動画再生(幼虫が嫌いな人は要注意)
↑ 散歩の途中、足元で見つけた。「アオイラガ」(青刺蛾)の幼虫か。(参考:http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/youtyuu/)
2007年07月27日(金) 暑い思い出、寒い思い出
…といっていたら今日、梅雨が明けた(昨日参照)。日中は会社のクーラーの効いた部屋でPCの前に座っているだけなので外の暑さがわからない。夕方、帰るときに「ああ、今日は暑かったんだな」とわかる。これは幸せなことなのか。
若いとき、夏は暑く、冬は半端なく寒かった。一番覚えているのは、ある零細企業に勤めていたとき(20代)、大阪への出張で某パンメーカーの工場のベルトコンベアを解体する仕事をしたときだった。真夏で、廃工場の屋根裏に上ってガス溶接機でコンベアを切断するのだ。すぐ上はスレートかトタン板の屋根が夏の日差しで焼けるように熱い!。そのすぐ下で、ガス溶接を使うのだから炎熱地獄である。1時間といられない。すぐ下に逃げ下りて自販機でジュースを買って飲む。500mlを12本飲んだ。丸2日その仕事だった。出張だから逃げることも出来なかった。
寒い方では、しばらく新聞配達で生活していたときの冬の早朝の寒さ。これは当然。それよりもまだクルマがなかった頃、遠い出先から帰るときにバス停で待っているときや、木枯らしの中を歩いて帰るときの寒さのほうが身にしみた。今でも真冬にバス停で待っている人を見ると何だか気の毒な気持ちになる。昔のほうが確実に寒かった。地球温暖化を肌で感じている。子どものときの手足の霜焼けや皸(アカギレ)は本当にひどかった。赤く腫れてかゆく、やがて紫色になり皮膚が破れてぐちゃぐちゃになった。母がお湯で温めてくれたのをおぼろげに覚えている。その母が死んでからは、私は学校へ行くときも靴下や足袋を履かずにいたので、登校途中、どこかのおばさんが靴下を一足くれたのも覚えている。
昭和30年代をノスタルジーを持って描くのが流行っているが、あれはいいとこ取りばかりである。確かに今から思えば懐かしいところもあるが、私には懐かしさよりは、忌まわしい思い出の方が多い。時々給食のない日の弁当で、ゴハンに醤油だけかけて持って行き、同級生に「それ、醤油だけじゃないか」といわれたのに対し、「これはうどんの汁だ」と言い返したこと。自転車が欲しくて、夜、友達の家の自転車を勝手に乗り回して見つかり、叱られたこと。土曜日の昼ごはんに、水で溶いたオリエンタルカレーを冷や飯にかけて食べたこと。友達の家でテレビを見せてもらって「さ、もう遅いから帰ってね」と言われて帰るときの寂しさ…。
日本が豊かになったことは間違いない。今の自分が大した努力もせずに今のような生活を送れるのが何よりの証拠。しかし、それであのときの自分が報われているとは思わない。今の自分を持ってあのときの自分を微笑を持って思い出すなどということはできない。それは永久に報われない。極端な貧乏は、子どもを卑屈にし、自信を失わせ、人を羨み妬むようになる。悪いことも色々考えるようになる。子どもには貧困は絶対的によくない。特に教育の場での不平等は決定的である。
話がそれるが、最近子どもの給食費を払わない親のことや、学校や先生に理不尽な要求を突きつける親のことがワイドショーなどで取り上げられているが、私は何故未だに給食費などを無償にしないのかがわからない。教育費をタダにすればこの問題は解決する。学校をタダにし、基礎的な学力を身につけ、人に迷惑をかけない人格を造ることを目的にした教育を行えばこうした問題は起きない。高校の義務教育化、教科書の無償(一部実現?)、筆記・絵画用具、体操服、そして給食等、教育の無償をなぜ名実ともに実現しないのか。教育にどんどん家計のお金を取られれば、親が自分たちの要求を出すのは当然である。カネを払っているのだからいいたいことをいうのだ。
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いつも思うけど、ネコには勝てないなあ…
2007年07月26日(木) 梅雨の末期にイライラ・・・
まだ梅雨が明けない。明らかに例年より遅いはずだ。冷夏の予想も出てきた。が、たぶん暑くなるだろう。なぜなら梅雨の今がとても蒸し暑いから。
このごろ会社でACCESS2003を使って開発の仕事をしているのだが、ひとつ、フォームのコマンドボタンの背景色が変えられないのに苛立っている。ネットで探してもやはりないようだ。ラベルかテキストボックスで擬似的にボタンを作る以外になさそう。でも、なぜコマンドボタンは背景色が指定できないのかがわからない。何か不都合があるか? ないと思う。不都合なら変えなければいいのだから。Me!Button_Name.Backcolor=xxxxxxと打っても構文エラーにはならないのに、実行したときに初めて「サポートしていません」というエラーになる。本当に腹が立つ。別にどうしても色を付けたいわけではないが、意地になっていたのだ。気がつくと午前中が過ぎていたから、仕事にも差支える。
結局ラベルを用いて擬似ボタンを作って色を付けたのだが、今度はその擬似ボタンのイベントプロシージャのVBAが書けない。実はソーステーブルのデータによっていちいちフォームを生成し、その中にボタンをデータごとに異なる数だけ追加したいのでそのたびにVBAも書きたいのだ。例えば擬似ボタンは、追加したときは「浮き出し」にしておき、クリックしたときに「くぼみ」になり、離したらまた「浮き出し」になるようにVBAを一つひとつのボタンに持たせなくてはならないが、これをボタンの追加のときにどうやったらいのかわからない。
まさか、コマンドボタンだけ背景色のプロパティを付け忘れたのか? だから理由もいえないのではないか。あの、グレーしか使えないコマンドボタンに腸(ハラワタ)が煮えくり返っている人はゴマンといるに違いない。
2007年07月19日(木) 新潟県中越沖地震
新潟・長野でまた大きな地震があった。わずか3年の間に2度も震度6強の地震に見舞われるなど、本当に気の毒なことだ。名古屋で思いつくのは「阪神・淡路大震災」のときの震度3くらいで、私は震度4以上は経験したことがない。だから被災地の人たちが6強を経験して、どれほど驚き、恐怖を感じたかは想像を超える。
これから自分が死を迎えるまでに巨大地震を経験する確率はかなり高いとみるべきだろう。一説には、次の東南海地震が2030年までに発生する確率は50%であるという(参考:http://www.jishin.go.jp/main/chousa/kaikou_pdf/nankai.pdf">「地震調査研究推進本部『南海トラフの地震の長期評価について』」)。この論文は2001年に出ているのだから、それから6年経った今、確率はもっと高くなっている。これはもう来るものと覚悟すべきだろう。では、どうすればよいか。家具の補強、防災用品の準備、いざというときの連絡方法など、人知の及ぶ範囲で為すべきことをなし、あとは運を天に任せるしかない。
阪神・淡路大震災のときもそうだったが、こんなことがあっても自分は普通に会社に行って仕事をし、帰ってからテレビを見て「気の毒になあ」といいながらご飯を食べているのだ。釈然としないとはいえ、仕事を捨ててボランティアに行くことができない。せいぜい小額の義援金を寄せる程度のことで自己満足するしかない。
人は、どうやって生きるべきかを考えるとき、自分が助けることができる力のあるうちは人を助けるべきだと思う。しかもそれを全力で行うのだ。人間はいずれは死ぬ、滅びることがわかっていてもそうするべきなのだ。それが生き物なのだと思う。人のために生きることで人は人生を全うできる。社会の仕組みを利用して、社会の歪によって生まれた我欲のために生きることは、そのことで他人の生を踏みにじってるのだから正しい生き方ではない。
2007年07月15日(日) 台風一過
台風4号は予想進路のもっとも南側を通って、本州直撃は逃れた。しかし、また死者が出た。しかも少年が亡くなっている。これは由々しきことだ。台風で子どもが死ぬことはあってはならない(大人ならいいという意味ではもちろんない)。今朝はまだ雨が残っていたが、やがて上がりそうなのは空模様でもわかった。とりあえず傘を持って散歩に出た。
友人がこんな日に横浜へ行くと言っていたのでどうなったかメールしてみると、予定通り新幹線は出たものの静岡でもう1時間くらい止まったままだそうで参った、という返事。台風が新幹線に追いついた感じ。気の毒に。
今日は名鉄小牧線に沿って歩く。時々クルマで通っている道だが、歩くと発見が多い。高さ3メートルもあるお地蔵さんや「今上天皇御駐屯地」(大正3年)など珍しいものを見た。
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これは芭蕉の句碑。こんなものがあるなんて思いもよらなった。句は、「いざともにほむぎくらわんくさまくら」である。立て札の解説によると「野ざらし紀行」行脚の途中、芭蕉が一夜の宿を願うと、農家の婆は新麦の穂を石臼で挽いた「青ざし」というものでもてなしたのを芭蕉が喜んで詠んだ句だという。
天気の方は、すっかり、晴れ。台風一過。蒸す上に日が差して暑くなってきた。当初、駅を2つくらい歩いてから電車で帰るつもりでいたが、なかなか駅が現れず、疲れてきた。どうもひとつ知らずに過ぎたようだ。「西行堂小橋」という興味ある名の橋もあった。なぜこんな所に西行の名が…。
この橋を渡ったら駅が見えた。「牛山」という駅で、やれ嬉しや時刻表ではあと2分で「平安通り」行きが来るらしい。切符を買ってホームに出るとすぐ電車が来た。これから名古屋に出るのだろうか、若者が多い。汗まみれの草臥れたオッサンが乗ってきて申し訳ないねと思ってしまうのはなぜか。駅は案の定、ひとつ通り越していたのを確認。1時間半かかって歩いてきた距離を10分で帰ってきた。
電車を降りて家路を歩いていると、さっきまで家から遠ざかるように歩いていたのと不思議な違和感が感じられた。これは普段クルマや電車で行く道を、テクテク歩いたときの違和感のちょうど逆なのだろう。大げさにいえばタイムマシンやワープ飛行の感覚に近いのでは?(どちらも経験ないけど…)
2007年07月14日(土) 台風接近
今日も雨。台風4号が日本を狙っている。進路予想はまさに名古屋を目指していて、現在、沖縄・九州がひどい目にあっている。このごろの雨の降り方は確かに異常だ。それにしても国民の危機感は希薄だ。マスコミも企業も言うほどには切羽つまっていない。自分でもそうだ。
私はもともと人間が地上最後の「最高生物」とは思っていないので(昔、ロボットが人類の後継者になるのではという小論文を書いたことがある)、別に人類が滅びてもかまわない。ただ、人類はそれほどバカでもないとも思う。人類が登場して300万年として、その99.7パーセントの原始時代を経て0.3パーセントの文明社会を築いた人類がそれで終わりということはないだろう。これまでにも絶滅の危機はあったが、なんとか乗り越えてきたのだ。
問題は「個人」である。交通事故とか、癌とか、冤罪とか、一人ひとりがひどい目に会うことはこれからもなくならない。誰がその籤を引くかは偶然であるが、きっと誰かは引く。必然は偶然を通して実現する。だから「運命」はありえないが、自分だけは大丈夫という自信にもまったく根拠がない。こういう悲劇をなくす方法は人間の社会的活動だけに掛かっている。交通事故を「クルマが人身事故を起こすこと」と限定して考えれば、クルマを無くすことで交通事故は絶滅する。しかし、クルマを無くすことはできないから、せめて事故を減らすことを考える。「減らす」とは、逆説的に言えば、ある程度は(犠牲者が出ても)やむを得ないという考え方である。昨日の日記の「近づく」話と同じで、目標を立てそれを打ち破るのだ。これがクルマを使うという条件のもとで交通事故を無くす最も科学的な方法である。
2007年07月12日(木) 嵐と弁証法
今日はひどい雨だった。朝、会社についたとたん「バケツをひっくり返したような」土砂降り。雷も鳴っていた。瞬間的な停電もあったようで、一度だけ全館の蛍光灯が一瞬消え、すぐ戻った。パソコンにも影響が出た。私はずっと会社で大丈夫だったが、夕方仕事を終えて帰ると玄関に安物の傘が見るも無残にぶっ壊れていた。聞かなくても想像はついたが、T子(妹)が「お医者さんの帰りに雨がめちゃめちゃ降ってきて風で傘が壊れてびしょぬれになったんだよ」とそのまんまの話。S子(妻)は「今にも雨がふりそうなのに薬の出るのが遅くていらいらした。案の定、外へ出たとたんにザーッよ!」と、空にではなく気の利かない(?)薬局にお怒り。妻は以前、「まさくん」という4コマ漫画でもあまりの降りに怒っていたことがあった。見たい人はこちら。
味美(アジヨシ)のあじさい
昨日の話の続き。「対立と闘争」と書いたが、本当に言いたかったのは弁証法のこと。弁証法とは何かを説明するのは大変だから、その言葉を使わないで書いていきたい。わかる人にはわかると思う。逃げているのではない。
例えば、昨日の文で「主観はどこまでも客観に近づける」と書いたが、この「近づく」とはどういうことかを考えてみよう。「AがBに近づく」とはAB間の距離が縮まることだ。でもこれは「近づく」を「縮まる」に言い換えただけある。正解は、「BがAとの間にどんな距離を実際に作ってもAはそれを打ち破ってその中に入ることができる」ということ。例えば、A=(0.1)nとし、このnをn=1,2,3,4,…と、どんどん大きくしていくと、Aは0.1、0.01、0.001、0.0001、… というようにいくらでも0に近づくことができる。これを証明するには、0の側で任意の正の数ε(イプシロンと読む)を築いたとき、εに対してある自然数Nが決定し、Nより大きいすべての自然数nについてA=(0.1)n
<εとすることができればよい。なぜなら0の側でどんなεのカベを築いても、Aはそれを破ることができるのだから、Aはどこまでも0に近づくことができる。(コーシーの収束条件)
以上は直感でも理解できることだが、計算で証明することももちろんできる。ここでも「カベを築く」とか、それを「打ち破る」など、「対立と闘争」の用語が出てくる。「対立と闘争」は弁証法の基本概念のひとつだ。
2007年07月11日(水) 主観と客観
この1ヶ月ほど、珍しく小説を書いていた。「引越しと殺人事件」というのだが、初めはこのブログの記事として書いていたものを途中から「小説」にしたもの。まあ、ブログの記事全体が虚構といえば虚構なのでたいした違いはないのだけれど、読む人の中にはそう思わない人もいるのではっきり「作り物」にしておこうと思ったのだ。
新聞の記事でもテレビの映像でも、それが事実をとらえたものではあってもやはり虚構になる。記事にはそれを書いた人の主観が入る。映像では撮影の時間的前後がカットされる。いや、直接に客観的事実を「見る」こと事態、すでに「虚構」である。古代ギリシャ哲学以来の主観と客観の問題である。しかし大事なことは、主観はどこまでも客観に近づけるということである。主観の極限が客観であり、主観は客観に収束するのだ。
議論は主観と主観のぶつかり合いだが、その中から客観が見えてくる。最近の人(若い人だけではなく)は議論をしないというが、それは議論のテクニックを誰も教えないからだ。教育の現場では、学生はお互い「みんな仲良く」「平和に」「楽しく」暮らすことを教えられ、テストや受験で激しい競争を強いられる。テストは主観(学生)どうしを議論させるのではなく、それらを「管理」するのが目的だから永久に客観には近づけない。表面的な対立を避けているだけであって「ぶつかり合い」は何らかの形で現れる。それが傷害や殺人などに至るのは言語道断としても、社会的な「勝ち組・負け組」に収束することもたいした違いはない。それは対立の絶対化を目指すものである。しかし「絶対的な対立」もまたあり得ない。そこからまた新たな闘争が始まる。
「対立と闘争」とは、今日では古いとされるイデオロギー的な概念だが、一方、科学的な概念でもあることは間違いない。
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写真は散歩の途中見つけたツバメの赤ちゃんたち。写真を撮る間、親ツバメに「早くあっちへ行け」と追い立てられた。ごめんね…
2007年03月24日(土) 夢(続き)
「夢」という題で書き始めたのだが、子どものころの家の話ばかりになった。さてそんなうちでも来てくれるという奇特なお嫁さんがいて、私は結婚したが、家のことは相変わらず無頓着だった。S子(妻)は裏庭の流しで洗い物をし、洗濯も盥(タライ)だった。コンロはさすがに七輪ではなかったが、ガスはまだ引いていなかったので、しばらく灯油コンロを使った(「ガスに負けない火力」という宣伝文句があった)。それから10年くらいのうちに、台所らしいものもでき、水道も家の中、洗濯機も冷蔵庫も買った。これらはすべて妻がやったのだ(冷蔵庫がなくて、鴨居にひもで吊るしておいたマグロの刺身を飼い猫に盗られ、妻がべそをかいているのを横で笑って見ていたのが私である)。
こうして最低限、人の家らしくなってきたのだが、長屋全体の老朽化は免れず、私もいつまでここに住めるのかは怖くて真剣には考えていなかった。
3軒長屋の真ん中の家でやもめ暮らしをしていたおばあさんが亡くなったことがきっかけで、いろいろあったが結局立ち退きが成立、私たちは市営住宅に引っ越した。始めは緊急ということで同じ区内に、それから現在の北区の市営住宅に落ち着いた。前の家の夢をよく見るようになったのはつい最近である。それがなぜか古い汲み取りのトイレの中や、壊されて屋根のない部屋でコタツに入っているところだったりするのだ。これはなぜだろう。またあるときは、家(前の)の近くの信号交差点の真ん中で空を見ていると、暗い空に不気味な得体の知れないものがいっぱい飛んでいたり、逆にきれいな星座がたくさん見えたりすることもある。今の家の夢はまだ一度も見ない。必ず前の家だ。登場人物は現在の家族(3人)のほか、死んで28年にもなる父もよく出てくる。母はさすがにでてこないが(母は今年で死後50年になる)。
生家はとっくに壊され、今は駐車場になっている。前に住んでいた所には何の未練もない。以前に比べれば今の生活は天国である。風呂はボタンひとつで沸く。ガステーブルや湯沸かし器もあるし、液晶テレビ、DVD、パソコン、クルマ等々。風呂に入りながら、「オヤジにもこの風呂にいれてやりたい」とよく思うし、母親がいたら毎日塾や会社のことを話して自慢しているだろう・・・などと考える。そのことと家の夢が関係あるのだろうか。今の生活がまた壊れて以前(の家)のような生活に戻ってしまうことへの恐怖心だろうか。
ひとことで言えば前の家は、「懐かしいが二度と戻りたくはない」ということだ。
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サクラがチラホラ咲いてきた・・・。
2007年03月22日(木) 夢
今のこの団地に引っ越してからもう5年になるが、いまだに生まれた家の夢を見る。その家は県道沿いの店舗付きの3軒長屋の一軒だった。最初に建ったのはおそらく終戦直後だろう。私がものごころついた頃、その家には私より20歳くらい上の異母姉にあたる人の所帯が同居していて、そこの子どもたち(つまり私の甥だが1つ2つ下なだけだった)とよく遊んだ。私と父母は3畳一間だったと思う。そこに妹が生まれ(自宅出産だった)、4人になった。小4くらいの頃、母が死んだが、そのころには姉家族たちはもう引っ越していなかった。そのあとなぜか建て直しがあり、行くところのなかった我が家は、近所の空き地にバラックを建て、そこにしばらく住んだ。今考えると信じられないが、電気もトイレもない生活だった。ランプのほやを掃除をした記憶がある。トイレは大家さんの畑の肥溜めを使った。さていよいよ完成して引越し、のはずが、立て直した家に入るとき大家さんと家賃でもめて、深夜にこっそり入り込んだらしい。かすかな記憶で詳しい事情はよくわからないが、その後も大家さんとはずっとうまくいかなかった。
新しくなったはずの家にも台所がなかった。確か水道も長屋で共同だったように思う。長屋の裏庭が通路になっていて真ん中の家の裏に蛇口とセメント製の流しがひとつあるだけだった。毎日何度もやかんで水を汲みにいった。ご飯のしたくは、七輪で火を起こし、共同の流しで米を研ぎ、鍋でご飯を炊くのだ(キャンプみたいでおもしろかったが)。いつまでもそれではというので水道だけは1軒に1つずつになったが、流しは相変わらず外にあった。雨の日の炊事は大変である。
便所はやはり外にあった。七輪でご飯を炊く真ん前に便所の戸があった。一応屋根はつながっていたが、雨のひどい日などは濡れずに済ませられない。これは引っ越すまで同じだった。年月がたって近所の家が全部水洗式になっても、うちだけはずっと汲み取り式のままで、月1〜2回は清掃局へ電話をしてバキュームカーに来て貰った。水洗になったのはかなり後のことである。(つづく)
2007年03月21日(水) 春分の日
久しぶりに一人でドライブした。といっても可児市までであるが。古い友人の住んでいるところで、会いに行くというよりもそこまでのドライブを楽しもうとしただけ。11時に出発。快晴。途中、「Timely」という名前のコンビニで昼食。「子守神社」というところが目的地。着いてから友人に電話してみると案の定お留守。いいお天気なので当たり前かも。近くのスーパーに駐車して辺りを散策。十数年まえに来た時より住宅化が進んでいると思った。行きは19号で、途中かなり渋滞(お彼岸なので潮見坂墓園のお墓参りのせいか)したが、帰りは41号ですいすいだった。
今週後半からは暖かくなるそうで、今日も確かに暖かかった。東京の桜開花宣言(全国初とのこと)やテレビ番組(フジ系「ザ・ベストハウス」)で桜の名所ベスト3などを見ていると、いよいよ花見の季節だ(ちなみにベスト3は、3位・長野県高遠城、2位・京都府円山公園、1位・奈良県吉野山だった)。
さて、我が家の末っ子あてね(黒猫♀・5ヶ月)の避妊手術は昨日20日の予定だったが、日が近づくにつれあっちゃんの食欲がなくなり、当日は体重不足で先生が「今日はやめましょう」となった。前日などは声もかすれていて風邪かなと思った。手術への不安がよほど大きかったのだろうか(誰が?)、帰ってきたとたんに急に元気になった。例のサカリのついたような声も医者へ行ってからは急に出なくなっていたのだ。不思議である。今はもう静かなもので、あの1週間がウソのようである。ほっとしているのは手術ができなくなったあてねだけではない。
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写真は、桜と並んで春の代表的な花、ユキヤナギ。いつも団地の庭に今頃咲く。
2007年03月19日(月) 数学のことも…(続き)
「ガロア理論」についてほぼ理解ができた今、次は何を目指すかというと「類体論」である。
類体論は日本が誇る世界的数学者・高木貞治(1875-1960)先生の創設になる理論で、代数的整数論のひとつの頂点をなしている。「クロネッカーの青春の夢」を肯定的に解決したとされるこの理論の成果は、著者をして「いずれも極めて簡単明瞭であるに反して、その証明法は、上記諸家の努力にも拘わらず、今なお紆余曲折を極め、人をして倦厭の情を起こさしめるものがある.」(高木貞治著『代数的整数論』序・昭和22年6月)と言わしめている(文中、「上記諸家」とあるのはArtin,Hasse,Herbrand,Chevally等、類体論発展に寄与した「若手」数学者たちを指す)。
数学の最大の魅力は、その難解さにあると思う。しかしもちろんただ難しいだけで魅力的なのではなく、美しいものが難解なことが魅力なのである。私はまだその美しさの一端さえ見えていないのであるが、「ガロア理論」の美しさをはるかに超えるものと期待している。それはつまり難解さも並大抵でないだろうという覚悟もしている。
高木先生には数学入門書としての数々の名著がある。「代数学講義」(1930)「初等整数論講義」(1931)「解析概論」(1938)等、初版以来半世紀以上を経た現在においても広く読まれ、今日の日本の数学水準を世界的レベルに引き上げている根底的土台となっているのは間違いない。また、「近世数学史談」(1933)は、19世紀初頭のヨーロッパ数学界におけるガウス、コーシー、アーベル、ガロアたちの人間味あふれるドラマで、先生のお人柄も垣間見られるこの上ない名著である。(この著書の中で先生は、アーベル、ガロアの天才的なるがゆえの不幸を、「時代を超越するにも程合いがあって、二十年、三十年の超越は危険である。」と述べている。)
私が高木先生の本に出会ったのは、鶴舞の大学堂書店で「初等整数論」の昭和21年発行(共立出版株式会社・第8版)を手にしてからだった(1995年ごろか)。この本は本文がカタカナ!という読みにくさにもかかわらず、無類の面白さで私を惹きつけた。私は当時覚えたてのTEXの練習も兼ねて、数式はそのまま、地の文はかなに書き換えながら勉強した。やがて94年発行の第2版28刷を手に入れてから、本格的に代数的整数論の勉強を始めた。そして「二次体の整数論」に至ってついに「イデヤル」論の端緒に着いた。このブログの2002年11月16日に、「イデヤルのわかった日」とあるから、ざっと7年かかっている。大学を2回卒業できる年月である。
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カタい話になったので、最後にS子(妻)の丹精を(写真で汗をぬぐっているのが奥さん、ではありません)。
2007年03月18日(日) 数学のことも…
今日の散歩も寒かった。しかしダウンは着ずにジャケットだけで十分だった。何しろ天気がいい。ただしマスクと帽子は欠かせない。花粉症ではなく、寒さ対策。口の回りを覆っておくと自分の息で暖かく、アゴも冷えない。メガネが曇るのが困るが。帽子は紫外線避け。
桜の芽も場所によって違うがかなり膨らんできた。これは庄内川の水分橋南の堤防下の桜。
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私の職業は「学習塾経営」だが、現在は単なるパートのオジサンである。二度の引越しと生徒の卒業で塾は開店休業状態。6年ほどまえから友人の紹介で入れてもらった会社でパソコンの仕事をしている。
学習塾は、もう30年くらい続けてきた。「数学教室」というベタな名前をつけたが、これは今でも気に入っている。4畳半の自分の書斎(?)で先生1対生徒1という原則を守って一人でやってきた。塾を大きくする気持ちはまったくなかった。経営よりも教えているほうが面白かったし、好きなことをやって食べていければいいと思っていたから満足だった。
数学とは40年くらい親しんできた。クラシック音楽にハマったのは中一だったが、数学は中三にハマった。現在でも中三の1学期に「因数分解」を習うが、これがわかったとき、数学の面白さに目覚めた(と思う)。それからは授業とは関係なく、学校の図書室で数学の本を次々読んだ。3次及び4次方程式の解法が出ていた本に「5次方程式は解けない」と書いてあったのを覚えている。その本に出ていた3次方程式は「x3−px−q=0」というもので、その解法自体はすぐ理解できたが、それ以外のことが何度読んでもさっぱりわからない。
というわけで、私の専門は方程式論になった。やがてガロアの名を知り、「ガロア理論」を理解することが目標となった。エヴァリスト・ガロアは19世紀初頭のフランスの天才的数学者で、わずか20歳で亡くなるが、その業績は実に画期的で、当時はその理論を理解できるものは誰もいなかったという。現在の大学でも専門課程に進まなければ学ばないところが多い。
天才の仕事は単純で応用範囲が広いというようなことをどこかで読んだが、まさにその通りで、この理論によってそれまでの数々の難問が「すらすら」解けるのである。例えば「一般角の三等分は定規とコンパスでは作図できない」という古代ギリシャ時代からの有名な問題は、「作図が可能であるためにはこれこれという3次方程式を解かなくてはならないが、この方程式は(ガロア理論によれば)そのガロア群の位数が2の累乗でない。よって作図は不可能である」として解決される。
2007年03月17日(土) クラシック音楽によせて(続)
先週の散歩で庄内川の人道橋上から見た猿投山の写真を載せたが、今日は同じ所から伊吹山と御岳もよく見えた。下の写真は伊吹山。手前の高架は名古屋高速。
橋は堤防と堤防をつないでいるので周りより一段高い位置にあり、見晴らしがいい。今日は晴れていながら風が強いため遠景がきれいだ。景色はほんとに日々違う。主に天候によるが、もちろん季節によっても違うのだろう。
昨日の日記は深夜になり眠くなったため尻切れで終わってしまった。そんなものをUPして申し訳ないが(誰に?)、このまま続きを書く。
土曜日はNHK-FM9:00a.m.の「名曲リサイタル」を録って聴く。この番組は演奏家本人の肉声も聞け、臨場感もあってよい。今日は名古屋からテノールの歌とピアノの演奏だった。昨日も書いた「トスカ」の「星はきらめき」や「トゥーランドット」の「
誰も寝てはならぬ」を聴いた。ピアノではベートーヴェンの「エロイカ変奏曲」他。「エロイカ変奏曲」は同じベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」
のテーマを変奏曲にしたものだが、交響曲「英雄」の第4楽章も同じテーマによる変奏曲になっており、ベートーヴェンは同じテーマで数十曲の変奏曲を書いていることになる。 モーツァルトに有名な「きらきら星」変奏曲(正式には『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』の主題による12の変奏曲』というらしい(by Wikipedia))というのがあるが、ベートーヴェンの変奏曲では「ディアベリの主題による33の変奏曲」というすごい曲がある。彼の曲のなかではあまりメジャーではないが、主題の単調さに比してなんとダイナミックであることか! 主題はまったく重きをおかれていない。いいかえればなんでもいい。彼はどこからでも、どこへでも自由にその楽想を広げていく。これに比較できるものは、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」だけであろう。ベートーヴェンはそれを意識してこれを作ったのかも知れない。これらは装飾変奏と性格変奏といった音楽学的な分析以上のものがあり、変奏曲という音楽形式の本質を知るにはいずれも欠かせない曲である。
2007年03月16日(金) クラシック音楽によせて
クラシック音楽を聴くようになってもう50年近くになる。 小学校の音楽の時間は特に好きというわけではなかったが、それでもいくつかの歌を楽しんでいた。低学年で習った「こぎつねこんこん」や「アマリリス」、高学年になってから覚えた「冬景色」「燈台守」などは今でも歌える。
中学生になってクラシック音楽に目覚めた。最初はやはりベートーヴェンだったように思う。中一の夏休み、音楽の先生が「よかったら学校へ来て好きなだけ聴いてもいいぞ」と言ってくれたのに甘えて、放送室でレコードを浴びるように聴いた。「運命」を何度も繰り返し聴いた。
当時、NHKラジオの朝8時に「音楽の泉」というクラシック番組があってこれをよく聴いた。学校に遅刻覚悟で聴いた記憶があるから毎日放送していたのだろうか。テーマ音楽がシューベルトの「樂興のとき」で解説が村田武雄さんだった。これは今でも放送されている(日曜日。解説は皆川達夫さん)。また、土曜日の午後「土曜コンサート」という番組もあってこれもよく聴いた。ベートーヴェンの「第7番」の第2楽章を聴いて言葉にならない感動を覚えた。これも形を変えていまでも日曜日の午後NHK-FMで放送されている(「FMシンフォニーコンサート」。テーマ曲は同じ)。
思い出はきりがないが、現在でも一日に大体4時間は聴いている。そんなに聴けるかと思うかもしれないが、NHK-FMの「ミュージックプラザ第1部クラシック」と夜の「ベストオブクラシック」は欠かさず録音して聴いている(本当は早朝の「バロックの森」も録りたいが録音タイマが1つしかないのだ)。今もそのうちのベートーヴェンの「英雄」を聴きながらこれを書いている。もちろん清聴ではない。何かしながら聞き流していることが多い。それでもちゃんと聴いている。
好きな作曲家は最初のうちはやはり古典派で、ベートーヴェン、モーツァルト、そしてシューベルト、ブラームスと広がり、現在はストラビンスキー、ブルックナー、マーラー、武満徹。それからベルリオーズ、フォーレ、そしてバッハ、ヘンデルも好きだ。要するにクラシックは全般に聴くのだ。演奏家はあまり選ばない。ただ、聴き比べたりはする。こっちのほうがいいという好みはある。そうそう、ドヴォルザークもいい。スメタナも、ショパンも。・・・きりがない。そうそう、ワーグナーも忘れてはいけない・・・
ドヴォルザークの「チェロ協奏曲」などはもう何曲録音しただろう。聴くたびだんだんハマっていく曲だ。ドヴォルザークはとにかくメロディがきれいで、この曲でもいたるところ美しいメロディが満ちており、彼独特の郷愁と哀愁があふれていてたまらない!
歌劇は以前はあまり好きではなかったが、このごろはアリアをよく聴くようになた。プッチーニの「トスカ」や「トゥーランドット」などいわゆる入門編で耳を養っているところか。去年ラジオでサルバトーレ・リチートラの歌うのを聴いて大泣きしたのも「トスカ」の「星はきらめき」だった。
演奏形態では管弦楽が一番好きだが、弦楽四重奏曲とかピアノ曲も好きだ。室内楽はブラームスが渋くてたまらない。
2007年03月15日(木) 春について
最近また寒くなった。三寒四温というより寒の戻りという感じ。あれだけ暖かい日があってからこうして寒くなるとやけに堪える(コタエル→常用外だけど使ってみた)。暖冬の春は寒いと誰かが言っていたと思うが、一度は仕舞い込んだダウンをまた着ている。これだと今年の桜は平年並みかな・・・。3月4日に撮った梅の写真がこれ。桜みたいである。先日の日曜(11日)にはもう散っていたから次はいよいよ桜の番。
「花に嵐」という言葉もあるように春は意外と荒れ模様の日が多い。しかし、唱歌「おぼろ月夜」で歌われているうっとりとした気分や「春宵一刻値千金」云々の蘇東坡の境地などはまさにこの季節以外には味わえない。暖かい春の夜は詩人でなくても夢見心地になる。花見は自分ではあまりやらないが、人のばか騒ぎをみていたり、そのそばを通ったりするのが好きだ。つまり人の花見を自分の環境の一部にするのがいい。一人だけで満開の桜をじっとみているのはあまりいいとは思わない。
自分のこうした性状は花見だけではなさそうだ。万事、人との付き合いは面倒だが、かといってひとり山の中で仙人のように暮らすのは嫌。親戚が多くあって節季や盆暮れの付き合いをマメにするのもいやだが、友達がいなくて酒も一人で飲むのはもっと嫌。要するにわがまま。
でも、還暦まで来たら人間好きなように暮らしていいと思う(S子(妻)に言わせるとこれまでもずっと好きなようにしてきたらしいが)。
2007年03月14日(水) 川内康範先生
けさ、いつもの「芋たこなんきん」を観たあと、他チャンネルに変えると川内康範先生のことを取り上げていたのでつい観てしまった。
川内康範先生は、我々団塊の世代には懐かしい以上の感慨がある人ではないだろうか。何よりも「月光仮面」の作者であり、またその後テレビ放映された「七色仮面」や小林旭主演の映画「銀座旋風児」などの原作者・脚本家である。もちろんその後の活躍は皆さんご存知のとおり。
大人になってからの私は、もちろん無節操に先生に迎合しているわけではない。ただ子どものころに観たヒーロー物に対する切ないまでの郷愁が、今でも先生を慕う気持ちを変えないのだと思う。これは理屈ではない。
われわれが子どものときは、そのお顔を拝することはまずなかったが、昨今、某有名歌手との「事件」(これは著作権問題である)によって奇しくもマスコミの格好のネタにされ、おかげで我々ファンは先生の爾来変わらぬ硬骨漢ぶりを拝見できて嬉しい限りである。その古武士のような風貌はとても魅力的であり、現代において数少ない「思想を体現した人格者」といえる。
今回のこの「事件」が先生のお体に障るのではと心配しながらも、あるいはひょっとしたら先生のさらなる元気の源ともなるのではと密かに期待もしているこのごろである。「いつまでもお元気で頑張ってください」とは、心からの気持ちである。
2007年03月11日(日) 強風注意報
きのうはまあまあいい天気だったが、夜から嵐のような雨。今朝は雨はあがったが強い風。日課(週末課?)の散歩は、こういうときこそ普段と違う景色が見られるので決行。案の定、庄内川に架かっている人道橋上はすごい強風。川の上は風の通りがいいのだろう。風速20メートルは超えているかも。橋げたの鉄で造った模様が風に唸って気味の悪い音を立てている。しかし悪くはない。遠景もいつもより鮮やか。写真の中央の山が猿投山(629m)か。
川面も今日は波が激しい。川上に向かって白波が立っている。昨日ここでのんびり素もぐりしていた鴨たち(当たり前か)も今日はどこかへ避難している。
橋げたにカメラを乗せて写真を撮っていたら、帽子を飛ばされた。昨日の散歩途中に買ったばかりの新調品である。こんなこともあろうかとケータイのストラップの挟みで帽子を留めておいたのだが、帽子は橋げたの向こう側にぶらりとなって肝を冷やした。
橋を半分わたって庄内川と矢田川の間の堤防を東に向かう。橋の上ほどではないが、それでも強い風で後ろから押されるように歩く。道の上で休んでいた大きなカラスが人をやり過ごすためか飛び立ったが、羽ばたいても少しも前に飛べないのが面白かった。むしろバックしている。仕方なしにUターンし、今度は風に乗ってあっというまに飛び去ってしまった。 午後から家族3人で大口町のAEONに行った。特に理由はないのだが、いい椅子があったら買おうかなと思っていた。実はお正月に大須の家具屋で「いい椅子」を買ったのだが、S子(妻))の今年の誕生日(3月3日)プレゼントにPC用デスクを買い、その椅子をあげた。決してそれが気に入らなかったからS子にやって、自分はまた別のを買おうとしたわけではない(結果的にはそうなったが・・・)。
強風にもかかわらずすごい人出。こんな田舎のショッピングモールなのに(失礼!)巨大駐車場が満員。結局屋上まで上がり、2回くらい巡ってやっと空きを見つけた。1F店舗に降りてみて混んでるわけがわかった。ホワイト・デーだ(たぶん)。今日は直近の日曜日だ。
ホワイト・デー関連の需要人口はバレンタイン・デーよりも少ないにもかかわらず、売上ではそれを凌ぐそうである(某FMラジオ番組からの受け売り)。みんな何を買っているのかはわからないが、どこのお店も人でいっぱい。でも女性が多いのはなぜだろう? ホワイト・デーは関係ないのか。それともカレ氏に付いてきているのか(どうでもいいけど)。
お昼は、2Fの「FOODPRAZA」で久しぶりに石焼ビビンバ(¥787)を2つ頼んで3人で食べた。なかなかおいしかった。
さて、日用品を買った後、ニトリで椅子を買った(¥4990)。今それにすわってこれを書いているが、すわり心地は微妙・・・。とにかく長くすわっていて腰が痛くならないことが絶対条件。また買うハメになりませんように。
2007年03月10日(土) あっちゃん、ついに・・・
昨年10月我が家にやってきたあっちゃん(黒猫・♀)が、ついに避妊手術を受けることになった。なぜそうなったかというと猫を飼っている人にはわかると思うが、いわゆるさかりが来たのである。普段の彼女はエサをねだるときの声でも「にゃー」などと、むしろ小さいくらいだったのに、2〜3日前から急に「アオー、アオー」というとんでもない声になった。これを一日中、夜中でもやる。あまりの大声に「うるさい!」と叱るとあら不思議、いつもの「にゃー」に戻って甘えるのである。まだ生まれて5〜6ヶ月だというのに、もう色気づいたのかと、軽くショックを受けた。
ゆうべはとにかくすごかった。家の中を行ったり来たりしながら一晩中のべつ幕なし「アオー、アオー」、である。自分たちが眠れないのもさりながら、近所迷惑が気になる。ここの集合住宅では犬猫飼育禁止である。実際はたくさんの人が飼っているものの、違反は違反。苦情がきたら弁解の余地はない。深夜2時ごろ、とうとう堪忍袋の緒が切れて(おおすごい!一発で変換した)、あてねの襟首をつかんでベランダから外にたたき出した、のではなくて、抱っこしてやると鳴き止むので、そのままソファにしばらく座っていた。不思議、腕の中ですやすやし出した。とたんにこっちも眠気に襲われる。そうだ、このままソファに置いていこう。 で、そっとソファに置く。とたんに「アオー、アオー」。しかたないので布団を取ってきてソファであてねと二人でくるまる。脇の下に入り込んでおとなしく寝ている。このままこっちも寝てしまえ・・・。 ・・・明け方、S子(妻)が起きてきて、「あら、どうも静かになったと思ったら」と寝足りた顔で笑っている。あてねも起きてきて小さい「にゃー」でお母さんに甘えにいく。
そのときの話で、さっそく今日、病院へ行こうということになった。避妊手術をしてもらうのだ。いずれはと思っていたが、こんなに早いとは・・・。S子さんの話では、今いる先輩猫のすず(茶猫・12歳)はあてねよりもっと早く手術にいって、先生に「妊娠してますよ」と言われてびっくりしたそうである。
おんぼろソファで寝たものだから体のあちこちが痛い。ねじれている感じ。S子さんに後を頼んで布団を抱え、自分のベッドに潜り込む。すぐ爆睡したのでその後あてねがどうなったか記憶がない(やはりすごかったみたいだが・・・)。
で、午後S子のパートが終わってからかかりつけの病院にいき、20日の手術を予約。ついでに「三種混合ワクチン」というのを注射したせいか、病院から帰ったあてねが元気がない。寝てばかりいるし、小さい「にゃー」もない。ありがたいがちょっと心配でもある。
2007年03月09日(金) 「月光仮面」(つづき)
きのうはつたない絵をここに載せてちょっと恥ずかしい。小学生のときに一所懸命練習してここまでになったのだが、そのままで止まってその後の発展はない。
「月光仮面」の第1部は「どくろ仮面」の巻であるが、この巻はテレビや漫画のほうは実はあまり覚えていないで映画を覚えている。。映画では、どくろ仮面がオートバイで追ってくる月光仮面に向かって、クルマの上から火を噴いていたのを鮮明に記憶している。どうやって火を噴くのか真剣に考えたものだ。この巻ではたしか「H・O蒸発爆弾」というのが出てきたはずだ。どくろ仮面の正体はこれを発明した科学者のライバルの科学者だったと思う。そのことが印象的だった。この爆弾は原作者の川内康範先生の”発明”だと思うが、第2部の「バラダイ王国の秘宝」編でも「メトン爆弾」というのが出てきて先生の爆弾好き(?)が面目躍如としている。
あと、「どくろ仮面」は小説でも読んだ。どうやって手に入れたかは例によって記憶にないが(たぶん友人H氏から借りた?)、石原豪人の挿絵がとても好きだった。まるで実写真のようで、ほんとうに月光仮面がいるような気がした。
さて、第2部「バラダイ王国の秘宝」編は、やはり「月光仮面」の中の白眉であろう。怪人「サタンの爪」は月光仮面の最大のライバルである。テレビでは正体が普通のオッサンだったが、桑田次郎氏の漫画では顔がお面ではなく完全に「サタン」だった。手も指がそのままとがった爪と化していた。まさに冷酷・非情な悪魔で(「スラバ・サタン」の末裔とのこと)、仲間でも警察につかまるとすぐに殺してしまう。こどもにはなかなか刺激が強かった。対する「月よりの使者・正義の味方、月光仮面」は、まことに絵にかいたようなスーパーヒーローで、いつでもどこでも現れ(このとき必ず『月の光を背に受けて・・・』というスローな「月光仮面の歌」が流れる)、覆面・サングラス・マントという格闘するにはさぞ戦いにくいだろうコスチュームにもかかわらずめっぽう強い。拳銃は百発百中。「たーっ!」という気合とともに地上から屋根の上にでも上がれる。
ところで、「月光仮面」で忘れてならないのは、名探偵・祝十郎である。月光仮面の正体は彼であるといわれている。確かにテレビでも漫画でもこの二人が同時に会ったことはないし、テレビではどうも月光仮面の声は大瀬康一(祝十郎役)のような気がする。でも決定的証拠はない。まぼろし探偵が実は富士進少年であることは、読者は常に知らされるのと好対照である。月光仮面が謎の人であることは「月光仮面」の最大のロマンである。
(このテーマ、まだまだ続けられるなあ・・・)
2007年03月08日(木) 「月光仮面」
長年の友人、H氏が昔懐かしのテレビドラマ「月光仮面」のDVDを大人買いした。といっても1枚500円のDVDが7枚だから大したことはない(「月光仮面 バラダイ王国の秘宝編 Disc1」発売元ArtStation)。しかし、我々団塊の世代としてはこれは画期的ニュースである。つい2〜3年前まではビデオテープににテレビドラマ1〜2本が入っているだけで何千円もしたものだ。これは著作権の期限切れと関係あるのか(よく知らないが)。
さっそくお借りして(買えよ!)全部観た。よく、こどものころ観て感動したものを大人になってから観ると幻滅すると言われるが、そういう歳は過ぎている。もう還暦も近くなると酸いも甘いも噛み分けていて、その辺は心得て観ているから、それなりに感動できるのだ。もちろん観るに耐えない部分はあるが、そこはDVDのいいところで飛ばし観できる。そして、あの時代によくまあここまでできました、と二重丸をあげたくなる場面もちゃんとある。たとえば東京駅や有楽町などの駅での撮影や、クルマとバイク(もちろん月光仮面の!)のカーチェイスなどは今見ても面白いと思う。
月光仮面の正体を簡単に祝十郎だというものがいるが、テレビドラマや漫画、あるいは川内康範先生の原作(先生、お元気でしたね。まさかこのごろのワイドショーでお目にかかれるとは!)にもそんなことはひとことも書いてない。月光仮面の正体を知っているのはこの「バラダイ王国の秘宝編」に出てくる「ハンチングの由」だけである。彼は死の間際の頼みとして月光仮面から正体を知らされ、「ああ、やっぱりオレの思ったとおりの・・・」といって死んでいくのである。当時、そのシーンをテレビで観てどれほどうらやましかったことか。
月光仮面についてはまた続きを・・・
こどものころ覚えたものは今でも描けるものだ。ちなみにH氏はもっとうまい。今度描かせてみよう・・・。
2007年03月07日(水) からくり儀右衛門−田中久重
今朝起きてテレビをつけると、NHKのBShiになっていて、ハイビジョン特集「万年時計〜江戸時代の天才が生んだ驚異の機械時計」というのをやっていた。幕末の天才技師田中久重の作った時計を再現するというプロジェクトを記録したものだ(再放送)。出勤前のことで、リモコンの「すぐ録画」を押しておいた。
まだずいぶん若いころ、やはりNHKのこども向けドラマで「からくり儀右衛門」というのを見た記憶があり、とっさにその人ではないかと思った。お寺の鐘突きを自動で行う機械を作ったという筋を覚えている(それも夏と冬ではちゃんと鐘を突く時間のずれを計算してのことだった)。
帰宅してからゆっくりとビデを観た。江戸時代の日本人の科学的・数学的水準は世界的にもハイレベルであったことは、当時の本(の復刻版)を見ても想像がつくが、まさかこれほどとは思わなかった。後の「東芝」の前身となる会社も作っているのだ。
太陽の年周運動や月の満ち欠け、二十四節気に合わせた時刻、それに西洋式の時計などがすべて同じ動力(真鍮によるぜんまい)によって連動し、想像を超える正確さで1年間休まず動く。
とにかく感心するばかりだった。それとともに何か心にふつふつと湧き上がるものがあるのが面白かった。何だかわからないが、やたらと「やる気」が起きてくるのだ。番組を観る人が先人の気概を学ぶとともに自分でも何かチャレンジするものを持てといわれているようで、まさに番組のねらいもここにあるのだろう。
では、自分はなにをすべきか? それを語ってしまうととても陳腐になってしまいそうなので述べないが、とてもいい刺激にはなっているのだ。おそらく明日からの自分に何か変化が現れるような気が・・・。
今日の写真はプラモのおもちゃ。左から右へ、右から左へ変身する。
操作は小さい子でもできると思うが、作った人はえらい!
2007年03月06日(火) 祝! やっと五十肩が・・・
もう1年半前になるだろうか、何がきっかけだったかもう覚えていないが、ある日突然(でもないか、段々かな。でも気づいたのは突然といってもいい)右腕が水平以上に上がらなくなった。無理に上げようとするととても痛い!。あれ?なんで? 上だけでなく、後ろにも、横にも腕を伸ばそうとすると強い鈍痛が来て、しばらく息もできないほど。左手で右の二の腕あたりをしばらくさする。やがて痛みが引いていき、何でもないようになる。で、またうっかりして、たとえば蚊がいてそれをパチン!と叩こう(これはハタクと読めるらしい。知らなかった)として、また痛い目にあう。
特に治療はしなかった。時々湿布したくらい。医者は嫌いなだけでなく、なんとなく信用していないので、一度も行かなかった(そのくせ、椎間板ヘルニアでは大変お世話になっているが)。ちょっと怖かったのは頚椎の損傷か何かだったらということだった。でも痛み方がなんとなく違うように思えたので、「まあ、四十肩だろう」と思っていた。四十肩・五十腰とは昔からよく言われていたからである。ところが、「家庭の医学」(保健同人社)によると、「四十肩」ではなく「五十肩」と出ていた。成程。加齢による関節の炎症らしいのだが、半年から1年くらいで自然治癒するとのことだった。それを信じて、始めたのが、散歩、である。
週末、土日の2日だけであるが毎回5キロくらい歩くようにした。これが以外に楽しかった。幸い近くに庄内川の堤防沿いの格好の散歩道があり、ここをできるだけ手を振って歩いた。街中でやるとちょっと恥ずかしいが、ここならむしろ誇らしい気がしてくるから不思議である。この写真はその途中。
![g0007.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0007.jpg)
その甲斐あってか否か、このごろになってやっと痛みが引いていることに気づいた。いろんなことで、「あれ?痛くないぞ」と思う。気づいたときの嬉しさ! 1年半だから普通より長かったのではないだろうか。ともあれ、めでたい。
2007年03月04日(日) 春を迎えて
昨年12月、友人のT中君が亡くなったという知らせを受ける。58歳であった。
彼とは幼馴染で、家も近かった。しかしなぜか話をするようになったのは大人になってからで、それからは急速に仲良くなった。一緒に(というか彼が言い出して)小さな同人誌を作ったり、その同人たちみんなで何度も奈良へ行ったりした。お互い古代史に興味を持っていて「古代史研究会」なども作った。古本屋を廻って「日本書紀」を一緒に探したのもいい思い出である。
お互い結婚してからは家も離れ、話すことも少なくなっていたが、年を重ねてからまた一緒に奈良へ行けたらいいなと思っていた矢先であった。
今年の春を彼なしで迎えることになった。
2007年01月08日(月) 還暦の年に
明けましておめでとうございます。
今年は今日が仕事始め。今日は朝からすごい雪で一時はクルマで出かけるのはムリかと思ったが、午後からは晴れて何とか大丈夫だった。
正月は、初詣は2日に真澄田神社、その帰りにH井宅に寄ってすき焼きをごちそうになる。3日の大須では駐車場が見つからずその日は退却、翌日もう一度でかける。この時、自室で使う椅子を新調した(¥12,800)。今もこれに腰掛けてこれを書いてる。今までのは食卓イスで1時間も座ると腰にずいぶん負担がかかったのだが、これはなかなかいい調子。机に向かって長居ができそう。今まで主にベッドで寝そべってやっていた数学の長い計算も机でできる・・・かも。
今日は図書館へ行ってきた。年末に池宮彰一郎「平家」上中下を借りていたのだが、半分くらいしか読みきれなくて引き続き中と下を借りてきた。それと「岩波講座・現代数学の基礎」という全34冊の全集の中から1冊を借りてきた。この全集にはすべて「寄贈」のスタンプが押してある。この図書館(市立楠図書館)に数学書の全集(しかもとてもハイレベルな)を寄贈するひとがいるなんてと驚いている。本の内容上あまりたくさんの人には読まれていないだろうけれど、まさにそういう本こそ図書館に置くべきだ。寄贈されていなければたぶん置かれなかったかもしれない。自分でも読みたいからといって図書館に要求はしないだろうし。とにかく感謝。
今年は還暦になる(正確には12月なのでまだかなり先だが)。団塊の世代の露払いというか真っただ中というか、常に世の中の大きな動きにかかわってきた世代である。還暦はともかく、2007年問題が巷間でも取りざたされているが、自分にとっても一大事である。というのは、もらえる年金がとても少ないから。
昨年、社会保険庁から「年金見込額のお知らせ」というのが届いたのだが、60歳から受け取れる年金額は月1万円程度。頼みの国民年金は65歳から(早めにもらうこともできるそう)なのでまだ5年はリタイアできない。ぼくの2007年問題は2011年問題になりそう。
夢と描いていた悠々自適の年金生活は文字通り夢と消えた。あれもこれもしたいと思っていたことはしばらくお預けである。
2006年11月06日(月) あっちゃん(続報)
あっちゃん(二代目)が来てもう2週間経った。あんなに汚くて臭くて死にそうだった子猫が、こんなである。
あくび。もう臭くない(そのかわり部屋全体がちょっと臭くなったかもしれない)。600gしかなかったのに、2週間で900gまで増えた。
よく食べる、走る、遊ぶし、ウンチもちゃんとネコのトイレでする、躾のいい子だ。これもひとえにS子(妻)の世話の賜物である。TVドラマ「セーラー服と機関銃」で、組長になった長澤まさみが子分を守ろうとして「子供のケツ拭くのが親のつとめじゃい!」というセリフをいっていたのをマネて、ウンチのたびに「赤ちゃんのおしりふき」(商品名)を持ってあてねを追いかけている。
そのかわり前からいる大ねこたちが大不満である。12歳のほうなどは自分も生後1〜2週間で我が家へ来て猫用の哺乳瓶で育ったくせに、新顔に対して嫌悪を隠さない。食事やトイレにも滅多にでてこなくなり、引きこもってしまった。もう一匹の10歳のほうは新顔の子猫がそばへ来るとすごい声でうなっていたが、割に早く慣れ、今ではしぶしぶだろうが一緒にご飯も食べる。
2006年10月26日(木) 國木田獨歩「武藏野」を読む
図書館の本(講談社『現代日本文学全集18」昭和55年)で國木田獨歩「武藏野」を読んだ。現代といいながらすでに古典と化している日本文学の中でも、獨歩は漱石や芥川に比すればマイナな作家である。ただこの「武藏野」はある意味作者よりも有名といってもよいくらい名が知られている。始めてこの地名を知ったのは50年前、手塚治虫の「鉄腕アトム」だった。どういう巻だったかは忘れたが、漫画の最後にこの獨歩の「武藏野」の本が出てきていたことを覚えている。その頃でもすでに昔の面影を失いつつある武蔵野を惜しんでいるようなそんな漫画だった。しかし本編(四百字原稿で四十数枚程度)を読んだのは今回が初めてである。
この全集は掲載作をできるかぎりオリジナルに近いように編集されていて、いまどきの文章を読み慣れた感覚では正直とても読みにくい。この「武藏野」という字もそうである(「武蔵野」ではない)。本文を一部書き出してみると、「昔の武藏野は萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らして居たやうに言い傳へてあるが、今の武藏野は林である。林は實に今の武藏野の特色といっても宜い。則ち木は重に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴る計りの新隳萌え出づる其變化が秩父嶺以東十數里の野一齊に行はれて・・・」(本編三章より)云々。こうした文章はしかしわれわれ団塊の世代にはとても懐かしいものでもある。この読みにくさやとっつきにくさは、言わばタイムマシンに乗り込むための訓練のようなものであり、それを味わうこと自体が魅力であり、一気に「古典」の世界に入ることができる。
本編六章の玉川上水桜橋から堤を散歩する夏の場面はもっとも美しい。季節外れに散歩に来た獨歩たちを「東京の人は呑気だ」と笑う茶屋の「婆さん」は文学における「典型」でなくしてなんであるか。獨歩がいわゆる後の自然主義の先駆者であるかはともかく、この一編において彼が日本の「現代文学」に忘れてはならない人であることが理解できる。
2006年10月22日(日) あっちゃん(二代目)が来た!
2006年10月20日の金曜日の朝、愛車(軽)で会社へ行くときいつも通る小学校の校門の前になにやら黒いものが落ちている。なんだろうとスピードを落として近づくと、子猫だった。道路の真ん中にうずくまってじっとしている。これでは轢かれてしまうのは時間の問題だ。クルマを降りて拾い上げ、抱っこしたままきわどい運転でUターンをしていったん帰ることに。抱いていてガリガリにやせているのがよくわかった。だめかなとちょっと考えてしまった。奥さんは仕事でいないので留守番をしているT子(妹)にあとを頼んでまた会社に向かった。会社からS子(妻)にメールしておく。仕事中なのですぐに返事はこないが、さぞ喜ぶだろうと思う。
実は今年6月にあてねという名のオスネコが急死して、とても寂しい思いをしていたのだ。他にまだ2匹、12歳と10歳のネコがいるが、あてねは1歳と8ヶ月、とても元気な、おおちゃくい、暴れん坊だったのでいなくなったあとの寂しさはなかった。叱るとき以外はあっちゃんと呼んでいたので、テレビでオリエンタルラジオの藤森クンが「あっちゃんかっこいい!」のネタをやっているのをみて泣いてしまったくらいだ。
夕方、S子(妻)が帰ってきて、子猫を見て喜ぶ舞妓とか! いや、喜ぶまいことか!かくかくしかじか経緯を説明するがろくに聞きもしない。顔もわからないくらい目ヤニや鼻汁が固まっているしアバラ骨が浮き出ている。そのうえとてもウンチくさい。なのに平気で抱っこしてうれしそうだ。
意外と元気そうでお皿からキャットフードも食べ、牛乳も飲んだ。ちょっと安心。翌日土曜日、さっそく行きつけの動物病院へ。待合室で診察を待っているあいだ、あまりに汚いので他の人たちにちょっと気がひける。お隣りのケースに入っている猫のぱっちりした眼が羨ましかった。注射と粉ミルク等で5800円。風邪を引いていて、お腹もこわしている、お腹にムシもいるが命は助かるとのこと。受付でネコの名前を聞かれ、真っ黒なので最初はクロにしようかと思ったが、死んだあてねの生まれ変わりということでやはり「あてね」になった。
来たばっかりの二代目「あてね」
2005年02月24日(木) 放蕩息子の帰宅
・・・なんて書いていたら、なんと昨日(23日)あてねが帰ってきた。
夕方、うとうとしていたら、T子(妹)が「帰ってきたよ!」といって起こすので、慌てて出て行ったら、T子が汚い猫を汚そうに持っていた。「やあ! ほんとだ、あてねじゃないか。よく帰ってきたなあ!」と私。 それにしても汚れている。臭い! この1週間、苦労したのがよくわかる。
帰ってきたばかりのあてね。20日の写真と比べると痩せてます。
とにかくご飯と水をやると、憑かれたように鳴きながら食べ、飲む。食べては家中を歩き回り、興奮状態で鳴きまくる。こっちも同じように興奮している。タオルで何回も拭いてやるが中々きれいにならない。T子の話では、なんか猫の声がして、ベランダの戸をガリガリやっているものがいるので見るとあてねだったとのこと。あいにく一番心配していた人間のお母さんが留守なのでさっそく連絡してやる。「えーっ、ほんと!? すぐ帰る!」と、電話の向こうで狂喜の声。どこにいるのか知らないが、回りの人がびっくりしているだろう。
それにしても生後5ヶ月の子猫が外で1週間もよく一人で生きていたものだと感心した。雨の日もあったし、ずいぶん寒い日もあった。誰か親切な人が面倒を見てくれたかもしれないが、本人に聞いてもよくわからない。帰れたのがうれしいのかやたら擦り寄ってニャアニャアとうるさい。ただ、大人の猫たちには大不評で、以前はそれなりにかわいがっていたのに、そばにくると「フーッ!」と毛を逆立てて本気で怒る。すっかり忘れられている様子。慣れるまでまたしばらくかかりそうだ。
2005年02月20日(日) 長期脱走
一番新しく来たネコがいなくなった。去年の9月に家の前で拾ったあてねである。すっかり大きくなってたびたび脱走を計っていたが、ついに成功。そのまま今月15日以来、もう5日も帰ってこない。
左が来たばかりの時、右が現在です。わずか5ヶ月でこんなに違う。
もちろん、彼(あてね=オス)はこの家が大好きで、家族の誰にでも(以前からいる大人の猫も含めて)甘え、あてねの方が大人のネコをおもちゃにしていたほど、我が家になついていた。だから帰ってこないのは彼の意志ではなく、帰れないでいるのだ。みんなでずいぶん探したが、今のところ見つかっていない。毎日家中に響いていたあてねのいたずらに対する私の罵声や、おもちゃにされていた大人のネコたちの悲鳴がなくなり、ずいぶん静かな家になった。いなくなってまだ3日だから帰ってくるものと期待しているが、手や足に残っている「引っかかれ傷」を見ると、胸のあたりがきゅうとなる。
2005年02月05日(土) L.V.ベートーヴェン
数日前から風邪気味で、夕べはいつもの夜更かしもせず、3日深夜に録画した映画「不滅の恋 ベートーヴェン」(メ〜テレ)も観ずに早く寝てしまったので、今朝目が覚めてからずっと観ていた。
ベートーヴェンは、自分にとって青春のメインテーマだった。中学一年生のとき、「運命」を聴いてからずっと彼について考えてきた。当時の自分はクラシックを自由に聴ける環境ではなかったけれど、NHK-AM放送の「音楽の泉」(いまでもやっている!)や「土曜コンサート」(これもやや形を変えていまでも放送中!)、「希望音楽会」(オープニング曲がラフマニノフで有名)などを毎週聴いていた。次々に彼の名作を聴くにつれ、憧れが強くなっていった。作曲家になろうと決心したのは16〜7才だったと思う。小説も読むようになり、小説家と作曲家のどちらになろうか迷ったものだ。
周知のようにベートーヴェンは30歳ごろから耳が聞こえにくくなり、音楽家として致命傷とも言えるハンディを持つのだが、彼の場合、そのことがその後の作曲の妨げになるどころか、明らかに数々の名曲の源泉になってさえいる。そのことがどう考えても不思議に思えてならなかった。もし神がいるとすれば、彼は、彼の曲をこの世に顕すために神が遣わした人である、そう考えたりもした。ただ、ただ、すごい!というしかなかった。
ベートーヴェンは多くの「名言」を残しているが、中でも「苦悩を通して歓喜に至れ」という有名な言葉を私は長く座右の銘と決めていた。今、若き日に持っていた情熱や感動や感受性など多くのものを失ったためか、昔ほど彼に惹きつけられる事がなくなってしまったが、今朝観た映画の中で、「第9」を指揮し終わったベートーヴェンがもう一人の指揮者によって聴衆の方に姿勢を向けられたとき、そこに熱狂するたくさんの人を見てお辞儀をするのを観て、久しぶりに感動した。この逸話をいろいろな本で読んだり見たりしていて、ほとんど自分の頭の中に長くイメージを焼き付けていたのだ。
多分、上述の「土曜コンサート」だったと思うが、「第7交響曲」の第2楽章を始めて聞いたとき、何という美しい音楽がこの世にはあるものか!と心から思ったものだ。(「第7」はテレビドラマののだめカンタービレで一躍有名になったが、第2楽章はドラマではほとんど演奏されていない)「不滅のアレグレット」などと呼ぶ人もいるとそのとき聞いたように思う。それから長い間、この曲をもう一度聴きたさに次々音楽番組を徘徊したことをよく覚えている。やがてFM放送が始まり、どこで買ったかもう忘れてしまったが、やっと手に入れたトランジスタラジオに文字通りかじりついて聞いた大晦日の「第9」に感動し、ほとんど一晩中泣いていたこともあった。いま思い出しても何と多くのわが青春の思い出が彼と結びついていることか。
音楽を「心の糧」にしてきたとつくづく思う。音楽はジャンルを問わず心の糧である。小説もそうだが、音楽は抽象的であるがゆえによけいそう思う。先ほどちょっとふれた「ラフマニノフの名曲」は「パガニーニの主題による狂詩曲」の「第18変奏」のことだが、これはきっと誰でも一度は聴いたことがあり、一度聴いたらもう一度聴きたい曲になり、何度も聴くことできっと忘れられない曲になるだろう、そして聴いていない人にはこれからその曲を聴くという幸せがあるといっていい。名曲とはすべてそういうものである。
2005年02月01日(火) 豊川稲荷
もうすぐ節分、そして立春、待ち遠しい。暖冬とか地球温暖化とか言われているが、今年はけっこう寒いなあと思っているのは私だけではないだろう。
1月30日、久しぶりに三河の「豊川稲荷」へ行ってきた。昔々、もう20年も前か、友人のT中君と、誰かにタダで貰った名鉄電車初詣切符で行って以来(たしか2月だった。帰りの電車が発車までずっとドアを空けていてとても寒かったことを覚えている)。
今回はもちろんマイカー。19号を北へ春日井インターから東名へ上がり、一路豊川インターへ。T子(妹・愛護手帳保持者)のお陰で高速は半額、往路800円で済んだ。
お稲荷さんに着いてすぐ見つけた駐車場に止めて(¥700)、さっそく入り口の「総門」から中へ。もう1月も最後だったから人手はいまいち。境内で猿回しをやっていた。今の猿回しはあの反省ザル「次郎君」の影響からか、コミカルなコントや一発ネタで笑わせ、曲芸は二の次という感じがする。そのお陰でただの伝統芸に終わらず現在まで続いているのだと思うが。あまり長くただ見しては悪いのでさっそく「御本殿」へお参りする。覚えのある、せり上がり風に板が敷き詰められた参道を上がって大きな提灯をくぐって拍手を打つ。なぜか前回の印象とはずいぶん違う、寂しいような気持ちを感じる。これは最近久しぶりに訪ねたところでいつも感じる思いだ。
今日のお昼は豊川稲荷門前町の「和食処松屋」で田楽・菜飯・稲荷寿司を食べた。我が家のいつもの日曜日なら「どんどん庵」か「寿がきや」だからごちそうの方である。
寒かったのであまり長居せず、3時には帰路に着く。行きのときに気づいたのだが、我が家からなら東名阪で名古屋インターまで行き、そこから東名に入ればよかったのだな。帰りはそれを逆にたどって早く安く帰ることができた。
帰ってから「豊川稲荷」をインターネットで探してみた(参考:http://www5f.biglobe.ne.jp/%7Eokitsu-net/index.html)。なかなか充実していて楽しい。昼食を取った「和食処松屋」も紹介されていて、女将さんもなかなか美人(参考:http://www.yui.or.jp/~inami/matsuya/)ではないか!会っている(見ている)と思うが覚えてない・・・。
2005年01月10日(月) 荒木集成館と久永先生
お定まりの文句だが、1月もあっという間にもう10日である。今日は成人の日だったが、去年、団地の自治会長だった時は式にも参加して(受付だが)、「新成人」たちを間近に見てそれなりの感想を抱いたが、今年は何の感想もない。午前中塾の臨時授業があって、その帰りに街で何人かの晴れ着姿を見て、「ああ、今日は成人式だったなあ」と思った程度。人は自分の立場でものを考えるのだ。
今年の正月もテレビをいっぱい観た。「阿弥陀堂だより」「ハムナプトラ 失われた砂漠の都」「国取り物語」「新春かくし芸大会2005」「ナニワ金融道・6」など。この中では「阿弥陀堂だより」が一番よかったが、ひとこと、田村高廣演じる「先生」はカッコよすぎ。人はあんなふうには死ねないだろうと思った。「国取り物語」はビデオに撮ってサーッと流すつもりだったが、3日かかって10時間じっくり観てしまった。とても面白かった。「ベルーナ」という通販会社がメインスポンサーで(CMはつまらなかったけど)、よくこのドラマのためにスポンサーになってくれたなと思ってしまったことよ。渡部篤郎の明智光秀にはすっかり感情移入して、自分が光秀でもやはり信長を討っただろうかと真剣に考えながら観ていた。「ナニワ金融道・6」はとても勉強になった。あんなのを時々テレビでやってくれればサラ金地獄も少しは減るだろうに。ドラマの途中、某サラ金会社のCMが入っていたのには笑った。
話は変わるが、昨日9日、天白区にある「荒木集成館」という所へ行ってきた。荒木実という人が個人で建てた考古学の博物館で、主に「東山古窯址群」(「荒木集成館」のHP参照)からの出土品を展示している所である。
20代の頃、「若潮」という文学の同人誌に入って小説を書いていたのだが、そこで久永春男という考古学の先生に会い、とても大きな影響を受けた。久永先生は文学にも造詣が深く、そのころもう還暦を過ぎていらっしゃったのだが、いつも若い人たちを啓発なさっていた。その後私はいつしか同人を抜け、先生にもお会いできなくなっていたところ、今から10数年前、新聞で先生がこの「荒木集成館」で考古学の講義をなさるというのを読んで矢も楯もたまらず会いに行ったことがあった。その時の講義はもちろん考古学に関するものだったが、その中で先生は「私の青春は戦争の最中でしたが、その中で私はいったい人間はどのような歴史を歩んできたのか、古代から現在までを研究しようと勉強を始めたのだが、そのまま今日に至ってしまい、今でも古代を研究し続けています。」というような意味のことをおっしゃっていた。深い言葉である。講義後、握手をお願いして、「いつまでもお元気でがんばってください」と申し上げたら、先生はくっと胸を反らせて「『いつまでも』は無理です」と笑っておられた。
——そして昨年秋、わが家の近くの本屋で「小説・荒木実集成館物語『土器は我が胸にささやく』」という本を見つけ、その中で久永先生の名を見つけた(もちろん荒木先生と久永先生はご昵懇(ジッコン)の間柄であるから不思議ではない)。で、今回の集成館再訪ということになった。大変失礼なことに、私はお二人ともご健在であるとは思っていなかったので、荒木集成館で館の人にさりげなくお二人のことを聴いてみると「え、お元気ですよ(荒木)館長は今お2階でお客様をご案内しています」。久永先生についても「もう90何歳だが、お元気です」という返事。私はもうびっくりしてしまった!!
さて、どうしたものか、今、考えているところ・・・・
2005年01月05日(水) 初詣
元旦は恒例の一宮・真清田神社へ。交通安全のお守りを買い(去年のを持参するのを忘れた)、串カツを食べて友人のH井君家へ。パソコンのわからないところを見て欲しいというので聞くと、「住所録の一覧を印刷したいんだけど『ファイル名を入力してください』という画面になってしまう」とのこと。はは〜んと思って言うとおりやってみると案の定、プリンタの設定が「プリンタ」になっていない。それだけのことなのだが、これなどはソフトが悪い。ユーザは印刷しようと思ってこの操作を行うのだから印刷だけすればいいのにファイルに保存するときもこの画面を使うのでこういうことになる。そのあとお互いの近況など話し合っておみやげをいっぱいもらって帰る。夜はテレビ三昧。
2005年01月01日(土) 初感染!
さて、とりあえずはあけましておめでとうございます。
最近、我ながら政治的な発言が目立つが、今は言わざるを得ない。それほど危機的状況にある。イラク自衛隊派遣、首相の靖国神社参拝、憲法第9条の「改正」、この3つはどうしても阻止したい。他に消費税や日の丸や教育基本法等、いろいろあるが、要(カナメ)は憲法9条である。これを守ってくれる政府が欲しい。いや、どんな政府でもこれを守る義務があるはずだ。数十年にわたってこれほど憲法をないがしろにしている政府は世界に例をみない。「戦力を持たない」と決められた憲法に対して自衛隊の存在を子供に説明できない。「あれは憲法違反じゃないの?」といわれれば「違反している」と言わざるを得ない。「憲法を守らなくていいの?」「いや、守らなくてはいけない」「でも、守ってないね」「そうだね」「じゃ、校則くらい破っても全然平気だね」「……」。どうしてもこうなってしまう。9条をなくしたい人たちもそれはよくわかっているから、一日も早く憲法を実情(?)に合わせたいのだろう。今年は政権党がいよいよ「憲法改正要綱」を党是とする年である。我々も腹をくくってかからねばならない。
話は変わるが、我が家でのBフレッツの速度は依然8メガのままである。先日NTTのセールスマンが来て「この団地には光ファイバが引いていあるので是非インターネットいかがですか」などといささか間の抜けたお勧めがあったので、「うちはこの団地の数少ないユーザの一人だ、ついては遅いので何とかならないか」と苦情を述べておいた。案の定その後なにもリアクションがないが。
ま、遅いは遅いが、それでもこれまでと違って幾多の調べものはほとんどインターネットで簡単にわかるようになった。時間を気にしなくてよいことがこれほど快適とは予想していなかった。これはいいほうの当て外れである。
悪い方の当て外れというか、大当たりだったのがやはりウィルス。これまでは一度も(たぶん)かかったことがなかったが、とうとう嫌なのがやってきた。あるとき(正確には12月11日深夜)、ネットサーフィンの最中、突然画面の真ん中に「べー」と舌を出した大きな口を描いたポップアップウィンドゥが現れ、英語で「あなたのPCはとても住みやすい」というようなメッセージが書かれてあった。「しまった!」と思ったが、「単なるジョークかもしれない」と思い、いったんすべてを閉じ、再起動してみた。
そうしたら、I.E.(インターネット・エクスプローラ)が勝手に開き、勝手な(外国の)HPを開いてしまうようになった。別にアダルトサイトではないものの、アダルト・コーナもあるような英語の総合サイト(日本のBIGLOBEのHPのような)だった。問題は勝手にI.E.を起動し、最初のホームページを勝手に決めてしまうことだ。クッキーも全消去し、履歴を消してもだめ。何度元に戻しても再起動したりログインし直すとそこに行ってしまう。仕掛けがわからなかった。いずれにしてもさっきの「ジョークソフト」がきっかけになったのだろう。しばらく格闘してみたがついにあきらめ、気持ち悪いのでリカバリすることにした。それにしてもどういう仕掛けなのか見事なものだと一方では感心もした。
結局、データをバックアップし、4時間ほどかかってリカバリ終了。翌日にはMicrosoftのHPからWindows MeのUpdateを21箇所実行した。Updateしていないのがウィルスにかかった原因かもしれないと考えたからだ(それにしてもずいぶん修正箇所があるものだ)。あとは各アプリケーションをインストールして元に状態に戻すのだが、やはり多くのものを失った。この時本当に口惜しい思いをした。腹立たしくなった。ああいうものを作ってネットに流す奴を憎んだ。インターネットは国籍など関係なしに普及しているから、ある意味人類的規模の犯罪といえる。セキュリティについて深く考えさせられる出来事であった。
2004年12月06日(月) 若き日の妄想
最近読んだ本に、A・チェーホフの「かもめ」がある。チェーホフは若いときからよく読んだ作家で、中央公論の全集を買ったこともある。先日NHK教育テレビでロシア・マールィ劇場日本講演の「かもめ」を観たのが再読のきっかけ。若いときの印象は「よくわからない」だったが、今回観ても再読してもやっぱりよくわからない。ただ、面白いのは間違いない。だって面白くなくてはこれだけなんども読み返したりはしないだろう。その理由がわからないだけだ。
「かもめ」という戯曲があるのを知ったのは、古いぞ、もう40年前で、当時私は町工場の金属労働者だったが、そこで一緒に働いていた中村さんというおばさんが「あんたは本が好きだで、これ、あげるわ」ともらった単行本が原田康子の「挽歌」だった。その中でヒロインの怜子の所属する劇団が上演する劇の演目として「かもめ」が出てきたのだ。で、それからなんとなく「かもめ」といえば「挽歌」という連想が頭の中に出来上がっている。実は先週末から近所の本屋へ行ってこの「挽歌」を探しているのだが、案の定、ない。中村さんにもらった単行本もその後どうしちゃったのかまるきり記憶がない。ちなみに同じ町工場の社長の奥さんからも「よかったらこの本あげるわ」といってもらったのが昭和三年刊行の改造社「現代日本文學全集」(いわゆる「円本」)の中の第二四巻「志賀直哉集」だったが、これを読んで最初に思ったことが「小説がこんなんでいいんだったら、自分でも書けそうだ」だった。これがきっかけで文学に傾倒していったのだ。思えばここで道を外したのかも知れない。後年、私は作家になろうとして(本気)この会社をやめている、なれなかったけれど。なれなかったものの、文学好きは生涯の性向となったようだ。恥の上塗りついでに言うと、中学1年の時、ベートーヴェンの「第九」の「ミミファソソファミレドドレミミレレ」という有名な「喜びの歌」を知ったとき、「こんな簡単な曲を作るだけで大作曲家になれるのか!」と考え、作曲家になろうと思ったものである!
2004年12月05日(日) 祝!光接続
先月のブログに少し書いたが、我が家の今年のトップニュースになるのが「光ファイバ」の接続である。実はこれは一大決心だった。いったん契約すればそう簡単に解除はできないから続けていけるかどうか不安もあった。ところがしばらくすると今度は不満に変わってきた。
この半月、夢の常時接続を使ってみての感想は「遅い!」こと。Bフレッツサイトにある速度計測では、なんと「約8メガbps」! なんだ、これは! 絶対変! 光ファイバといえば、100メガの代名詞くらいに世間では言われているのに、8メガとは何事だ。確かにうちのPCは古いし('01年1月購入のSOTEC-IntelCeleron700MHz、Windows Me)、光ファイバといってもマンションタイプだし、BBルータは\3,560の安ものだけど、それにしても。これはきっとまだ何か他の原因があるのだろうか。
が、しかし、以前のダイヤルアップに比べればやはり早い(当たり前)。何より時間を気にしなくていい。森博嗣先生製作の「欠伸軽便鉄道・弁天ヶ丘線」の動画も初めて十分楽しめた。先生のサイトのリンクから大矢博子氏のなまもの!(参考:http://www.namamono.com/)を知り、深夜に死ぬほど笑いこけながら日記を読んだ。
2004年11月17日(水) サーフィン(ネットだけど)
実は昨日(もう0時をまわったからおととい)から我が家のインターネットはBフレッツ(光ファイバ)になった。いろいろ考えて決心したのが先月中ごろ。NTTから確認書がきたのが今月6日で、15日にはもう工事だからけっこう早い。マンションタイプ1という契約で、約2,930円/月(税込)くらい、それにVDSLという端末機器のリース料が473円/月(70メガ対応料金・税込)、そしてプロバイダとの契約改定で2,079円(税込)/月だから合計で5,482円/月である。今まではBIGLOBEの「わいわい5時間」という契約で998円/月+電話料だったから結構な出費となった(さらに別途工事費が21,000円、NTT契約料(840円(税込)がかかる!)。
ある人に「今度Bフレッツにするんだよ」といったら、「そんなのにして何に使うんだ?」といわれた。確かにその通りで、今まで自分もそう考えてダイアルアップで十分だった。しかし、今はせっかくBフレッツにしたんだからおおいに利用しなくてはと思っている。
取りあえずはいろいろなサイトを見てゆっくり楽しもう。次から次へとサイトを回っていると「おおっ、これがあのネットサーフィンかっ」という新鮮な驚きは確かにある。S子(妻)の愛機「VAIO」(中古だけど)にもルータからケーブルを引いて、今日から使用可能である。しかも電話中にも利用でき、二人同時に使用できる。これだけでもすごい。
2004年11月08日(火) 紅葉の下見
昨日は大して考えもせず、愛用の道路地図(「アトラスRD東海」2001年3月発行)で岐阜県・恵那にでも行こうと決めて午後から家族で出かけた。テーマは「紅葉の下見」。いつもは41号から小牧I.C.に上がるのだが、地図を見ると19号から春日井I.C.で上がった方が中央道には近いことが(今ごろ)わかった。途中、虎渓山S.A.に立ち寄って遅い昼食にしたが、S子(妻)が「こないだも来た」と気付いた。夏に岩村町に行ったときにも寄ったS.A.だ。次回は屏風山P.A.にしよう。
高速料金はT子(妹)の障碍者手帳のおかげでほぼ半額になる。おかげで最近はよく高速道路を利用する。恵那I.C.で降りて県道68号を西に。地図によるとこの県道は「恵那白川線」だから白川町まで行っているのだろうが、かえで街道という看板が何枚も立ててあった。まだ紅葉には少し早いようだったが、中々いいドライブコースである。特にクルマの少ないのがいい。自分たちの前後にまったく他のクルマがいない時もある。途中、笠置橋を渡ってからは木曽川に沿って走るようになり、一段と景観が広がる。木々の色づきも段々良くなっている。やがて
「不動の滝駅」という小さな道の駅まで来たのでちょっと休憩。
川はいつも間にか木曽川の支流、中野方川になっている。せせらぎが心地よい。もうかなり寒い。すぐ向かいの山の紅葉度は60%くらいか。ホントはここの不動の滝を見たかったが、どうも山を登るようなのでT子のことを考えてやめた(夏の岩村城登りで苦労して以来、山道ハイキングはやめることにした)。
さらに同じ道をドライブは続く。この辺に「グリーンピア恵那」があるはずだが、どこにあるのかとうとうわからなかった(今ネット検索した情報では今年7月1日恵那市に売却されたらしく、現在どうなっているのかは不明)。適当にUターンして先ほど看板を見かけた「坂折棚田」という所へ行って見ることにした。県道を脇に逸れて約1.5km坂道を登る。舗装してあるので楽々。やがてこの棚田のために作ってある展望台に到着。
坂折棚田は「日本の棚田百選」に選ばれたとのことで、写真ではわかりにくいが、棚田と棚田の段差を石垣で組んであるのが特徴(いつだったかテレビで見たことを思い出した)。景色は最高。見事。
帰りも同じ道で景色を楽しみながら恵那I.C.入り口まできたら、ここで今日初の渋滞。まあ大したことはなく、すぐに高速へ。が、小牧Jct.でまた渋滞。前回岩村町の時もそうだったが、いつも同じところで渋滞する。何か法則がありそう。夕食は41号線沿いの「すき家」と「吉野家」に寄って牛丼を買って帰ることに決め、小牧Jct.を右(西)へ。小牧I.C.から降りる。高速料金はやはりこちらの方が少し高かった。無事帰路に着く。ちなみにすき家では牛丼を2個買い、吉野屋では先日買った時にもらった「豚丼3個で1個引換券」で豚丼を貰い、あわせて3個にするという、S子の戦略。引き換え期限が10日だったのでセーフ !
2004年10月25日(月) 新潟の地震
23日土曜日の夕方、新潟で震度6強の地震があった。「新潟県中越地震」という名前が付いた。昨日の午後にも震度5〜6級の余震があった。守山の吉根のジャスコへ買い物に行っていたとき、家電コーナーのテレビで余震の情報が流れた。あまりに頻繁にあるので、被災地からの中継中に余震が起き、緊張した生々しい映像になっていた。道路の寸断がひどい。余震が続くので家の中にいられず、道路や空き地で夜を明かす人たち、避難所で毛布にくるまっている老人や子供、少ない食料を受取るために並んでいる人たち。
テレビもラジオも土曜の夜からずっと地震関連のニュースばかりである。NHK-FMと教育テレビは安否情報を延々流している。圧倒的に多いのは、全国から被災地の「○○さんへ。心配している。連絡を」で、次に被災地の人から「○○より。△△避難所にいます。無事です」。しかし、これは当然ながら少ない。それ以外の番組でも画面の上か下にテロップ情報を流しながらやっているが、CMだけはそれもなく日常性(?)を保っている。
マスコミの「今、どんな気持ですか?」というインタビューに対して、「大変ですけど、前向きに、ね」と応えていた被災者が印象的だった。そうだよなと教えられる想いであった。何よりもまず、ライフラインの整備が急務と思うが、これは数日から数週間かかる。とすればそれまで自力と近隣との協力で生き延びなければならない。外からの援助は得てしてうまくいかないことが多い。援助が手元に届けば運がいいと思わなければならない。「自助・協助・公助」というが、「自助」にはあっという間に限界がくる、また個人差がある。それを周りの「協助」がサポートし、そして国、県、自治体の「公助」につないでいかなくてはならない。全国の視聴者が、もし今自分の身に起きたらどうしたらよいかを考えながら見ている。阪神・淡路大震災の時もそうだったが、人々はこういう大惨事を教科書にして学習している。他人ごとではない、そういう時代である。
2004年10月21日(木) 妻籠
今、森博嗣先生の日記『数奇にして有限の良い週末を』(幻冬社、2004年)を(図書館から借りて)読んでいる。このブログも森先生のこれら「近況報告」の影響を受けているが、とにかく示唆を受けることが多い。森博嗣の日記はまさに『示唆の文学』である。何よりも読むことで自分も書きたくなるのがいい。彼の思想は世間的には「異端」に属するだろうが、そこから我々の「常識」がいかに脆弱な基盤に立っているかをそれとなく気付かせてくれるのだ。例えばある1節に『「何でも数字、数字」と嫌う人がいますけれど、数字を使うのは人間だけで、実に人間的な評価だと思います。」(同上、1月10日付)とある。こういう箇所が到る所に散見する。
さて、8月15日には妻籠に行った。ここも「死ぬまでに一度は行っておきたい所」といえなくもない。また馬篭には行っているのに妻籠へ行っていないのは申し訳ない気持ちである。同じ理由で奈良井宿も行かなくてはならない。
典型的な「現代に残る旧街道」という感じだが、洗練されていていわゆる観光地である。電線がないのがいい。
2004年10月04日(月) あてね
先月のブログは2日分しか書いていないのだな。反省するが、しかたがない。最近「継続は力」という言葉を新聞でよく見るが(どうもイチローの記事のようだ)、本当に継続することは才能のひとつだと、つくづく思う。
さて、家族がひとり(一匹)増えたことを報告しよう。
![g0032.jpg](https://tennin-gosui.up.seesaa.net/blog_photo/g0032.jpg)
「あてね」という。もう1ヶ月前だが、8月31日に団地の我が家の前庭にダンボールに入れて子猫が捨ててあった。外出から帰ってクルマを降りると、みゃーみゃーという声がしていて、どこかでみたようなオバサン(S子(妻))が子猫を抱いてあやしているので、「どうしたの?」と聞くと、「ここに捨ててあったの。今、男の子が飼ってもいいか家に聞きに行ってるので待ってるの」「そんなの、いいって言われるわけがない!」と、わたしは腹を立てて一人で家に入ってしまった。もう先が読めていた。どうせウチで飼う事になるのだ。
案の定、子猫を抱いたままS子が帰ってきて「やっぱり飼えないって。どうしよう」という。見ると人間の子供たちもぞろぞろ付いてきている。「おばさん、どうするの?」「見せてー!」と子猫よりうるさい。うちに以前からいる猫たちも突然の子供たちの襲来にパニくってT子(妹)の部屋に逃げ込んでしまった。「うちだって飼えないよ。誰か飼ってくれる人、いないか、探してきて」とまず、子供たちを追っ払い、とりあえず、相談。飼わずにすむならそれが一番であるが、もう仕方がない。それにしても団地の庭にダンボールに入れて捨てるとは。捨てた奴は、誰も通らないような堤防などに捨てるよりは罪が軽いとでも思っているのだろうか。団地で捨て猫を見かけても飼えない人は、それを「見殺しにする」という呵責を負う事になる。捨てた奴は他人のそういう気持で自分がいくらかでも楽になると思っているのではないか。怒りのやり場がない。子猫はと見ると、もうお乳をたらふく飲んで椅子の上ですやすや寝ている。薄汚れていて、お腹をみるとノミもいっぱいいる。「この子には罪がないし、しょうがないねえ」とS子はにやにやまんざらでもなさそう。これがまたハラが立つ。
そんなこんなで、やはり結局飼う事になり、名前も時節柄「あてね」に決まり、病院でノミの薬も買って来て処置する。今の薬は効果てきめんで、ほんの一滴を後頭部の下の首筋に垂らしてやると、2〜3日でもうノミの死骸がソファの上に散乱している。あてねのお腹には一匹もいない。ネコのノミの薬はすごいことになっている!
こうして1か月がたち、あてねはすっかり我が家の一員になった。先輩のしろやすずたちは、初めは見るだけですごいうなり声をあげていたが、慣れるもので今は認めているようだ。あてねの方もすっかり大きな先輩に慣れたようで、特にしろにじゃれまくっている。しろがイライラして自慢の尻尾を振り回すのが、あてねには格好のおもちゃになるのだ。しろは噛み付いたりはしないが、迷惑そうなのは見ていて気の毒なくらい。しろやすずが逃げ込むT子の部屋へも最近は自分で入るようになり、夜3匹があばれて眠れないとこぼしている。子猫の時期はほんの一瞬だから、ガマンするしかないだろう、と自分の部屋にはネコを一歩も入れない私がいう。ではもう一枚。
2004年09月16日(木) 三浦先生
旅日記?の続きを書く前に先週の土曜日に友人の出展している「G回路展」(愛知県美術館ギャラリー2004年9月7日〜12日)という美術展覧会に行ってきたので、その感想を述べたい。
古い友人で人生の師匠でもある三浦英(ヒデリ)氏は、今はもうあまり見かけなくなった典型的な「闘う画家」である。権威におもねらず、信念を持って絵を描いている。画題は常に陰鬱でかつ告発的である。美しい絵ではない。政治と社会を風刺し、断罪するおどろおどろしい絵である。政治的立場を鮮明にしてときの政権を罵倒し、辛らつに批判する。ところかまわず自分の意見を述べ、敵も多い。しかし、人柄は好々爺である。囲碁が強い。風貌は違うが、私はなんとなくベートーベンをイメージする。
そういう彼が、長年自ら主幹してきた「20世紀末展」を20世紀末に終了し、新たに参加・発表の場としているのが、可児市を拠点とする「G回路展」である。今年の展覧会には彼が起稿した「G回路展の歴史」を私がワープロで清書したものが「展示」されていたが(私は長年彼の自称秘書を勤めてきた)、それによると、明治期に創設された「文展」(「日展」の前身)から分岐した「二科展」を源流とし、1969年に「カニ会研究会」として発足したのを起点とする(「二科」と「可児」を掛けたらしい...)。が、私には三浦氏はこの反骨の絵画グループさえ、超えちゃってるという気がした。彼の絵はこの展覧会においても異質である。今回は十字架をモティーフとして人類の破滅的未来を具象化している。われわれはこんな世界に向って進んでいるのだぞ!という作者の警鐘の叫びが20数枚のすべてから感じ取れる。彼の絵のライトモティーフであるエイリアン的生物(これは人類の未来の姿だ)も顕在しており、それがさらに醜怪さを増している。小さく描かれたヒトラーの顔がむしろほっとさせるほどである。こんな絵を、この時代に、この栄のど真ん中で堂々と発表していることが強い感動を呼ぶ。土曜日、無料にもかかわらず、観客は少ない。こういう絵が話題にならないことが、私にはコトの深刻さを思わせる。「ノアの箱舟」のノアも洪水の前、人々に神の怒りを説いて回ったが笑われたではないか! 私は笑わない。彼と共に箱舟に乗りたいものだ。
余談になるが、もうずいぶん昔、三浦氏の絵でやはりエイリアン的生物を描いたものがあったが、発表前本人に聞いた時「生物でもなく、物質でもないアイマイなもの」といって、なんとかいう題(忘れた)をつけていたのを、私は「モノドロミー空間」というのはどうかと提案し、受け入れてもらったことがある。モノドロミー(monodromie)とは数学の用語で、19世紀フランスの天才数学者ガロアの遺書にある有名な「曖昧の理論」について、日本の高木貞治博士が『monodromie群などに関するものでもあろうか』と著書(「近世数学史談」)に述べているのに因る。後日、名古屋駅前のあるギャラリーでこの絵が展示された時、題についてのマスコミの質問に対して三浦氏が「これはアイマイということです」と応えていたのを新聞で読んで、快哉を叫んだのが私である。
2004年09月12日(日) 岩村町・宇治平等院
ずいぶんのご無沙汰となってしまったが、特にいいわけはない。
この半年間の近況をまとめて書いておこう。自治会長の任期を終えてずいぶん気が楽になった。新会長さんとも「引継ぎ」と称して一緒に飲みに行ったりして仲良くなった。もう自治会の方は完全に手を引いてしまった。
4月の桜見物は、春日井の
朝宮公園桜を観た。土曜日にもかかわらずごらんのように閑散としている(T子(妹)と二人でお花見弁当を食べた)。翌日は、五条川をどこまで桜があるのか、岩倉からスタートしてできるかぎり川に沿って遡ってみた。
上の写真は大口町から犬山に出るあたりの自然歩道で、こんなに満開なのにここにも人はだれもいなかった。いささか食傷気味なくらい桜を観た。半年経った今でももう桜は当分いいかなと思っているくらい。
5月に、岐阜県の恵那市へ行っったとき、そこで見た「女城主の里・岩村町」という看板に釣られて足を伸ばした。途中、美しい田園風景を観た。写真がないのが残念だが、写真では伝えられないかもしれない。一面に広がる青々とした水田が山の傾斜に沿って少しずつせりあがっていくさまがなんとも言えない。岩村町に着いてから手に入れた宣伝パンフにも「女城主の里」の他に「日本一の農村風景」といううたい文句があった。本当にきれいだったから、山城はともかく、これを見るためもう一度来たいと思った。
6月には「生きているうちに行ってみたいところシリーズ」の1番目として宇治の「平等院」に行った(このシリーズはいま思いついた。これから続けるのだ)。宇治川が美しかった。
この写真では橋のほうが強調されてしまったが、橋の上から見た宇治川は本当にきれいだった。速い流れは平家物語の昔のままなのではないか。こんなきれいなところで「宇治川の合戦」などが行なわれたのだ。
十円玉の模様でおなじみの「平等院鳳凰堂」。
残念ながら修理中で中には入れなかったが、もう一度来られる理由ができたと思えばいいかも。凝った造りの宝物殿は中々印象深く、演出も我々シロウトには面白く感じられる。雲中供養菩薩の一段を壁に廻らせたエリアではまるで極楽から本当にお迎えが来たようだ(ウソ)。お土産コーナーで気に入った写真を2枚買った。そのうちの一枚。
2004年03月27日(土) 任期末の異変
今日は団地自治会長の活動をまとめて書いておきたい。
まず1月〜2月に新年度役員の選挙があった。
選挙は棟を3つに分けたブロックごとに団地の居住者がこの人にと思う人に投票し、三役役員を選出する。それから選出された新役員のお宅に旧役員がお願いにあがって承諾を得て初めて成立する。民主的といえば民主的だが、なかば強制的でもある。まあ大体仕方ないと引き受けてくれる。一度役員をやると10年は断ることができる決まりなので、それも引き受けてもらうのに効果がある。今回もさっそく「新役員」の一人が出来ないと言ってきたが、「今年やらなければ来年も選ばれるし、いつかはやることになる。早い方がいいのでは」と説得した。
次に、団地の塗装工事があった。数十年に一度、各室の鉄扉など金属部分の塗装を住宅公社がやってくれるのだが、一軒一軒行なうので業者も大変、自治会も大変である。一番の問題は、自転車置場の塗装の時、持ち主不明の放置自転車が邪魔で塗装ができないことだった。結局放置自転車を一箇所に固め、塗装が済んだところでまた戻すことにした。今でも自転車置場の一部に山積みされたままである(ざっと50台くらいはある)。これをどうするか次期自治会役員の重点課題になるだろう。たぶん業者にお金を払って引き取って貰うことになるのではないか。なんだか環境問題の将来を見る思いである。
終わってみると中々きれいになって悪くない。「今度は団地の棟の外壁も塗装してくれるいいのに」という意見もあった。
それから次期役員への引継ぎ実務では「備品台帳」というのがあってこれに苦労した。自治会の持ち物の点検である。本当は箒一本、ごみ袋一枚まで記帳しなくてはならないが、最後はいい加減になった。正直言って捨ててもいいものがヤマほどあるが、誰もそれが出来ない。捨てても文句を言われることはないと思うが、でも自分がやるのはイヤだという気持が働く。まあ、古くからいる人がまた会長になった時に処分してくれればと期待する。
他には、いくつかの所属団体での慰労会出席。これは考えようによってはイイ事なのかもしれないが、宴席が得意でないものには苦痛である。
そしていつもの回覧活動。口にくわえて「ピーッ!」と鳴らす「呼子」という笛があるが、災害の時に役に立つということで地域の自治会連合会でこれを購入し、各戸に2つずつ配るという。で、200個あまりを持ち帰り、笛を箱から出し、これと使い方の「メモ」をホッチキスで留め、一人で全戸配布した。本当なら組長を通して各戸に降ろすのだろうが、手続きが面倒なので一人でやってしまった。案の条、何軒かから「あれ、何?」という問合せがあった。ある人などは「またどこかの悪質業者が自治会の名を利用して売りつけようとしているのか?」といってきた。連合会の作ったメモに自治会連合会の名称が入っていればと思うのだが、そこが提供する方には善意しかなく、貰う方の気持になっていないのだ。
———とにかくすべてが終わって、やっと一息入れるかと思った昨夜、一人暮らしだったお年寄り(男性)が3日も前に亡くなっていたことが判明、自治会長として責任を感じる出来事があった。
26日夕方8時ごろそのお年よりといつも連絡を取っていたという方が「最近連絡が取れない。様子が変だから一緒にきて欲しい」とうちを訪ねて来られた。一緒にいってみると明かりがついたまま、しかもドアが施錠されていない。ドアを開けるとすぐ数日分の新聞の束が玄関に溜まっているのが見えたので、もうこれは警察しかないと判断、中には入らずすぐ警察署に連絡した。この時身内の方にすぐ連絡しなければならなかったのだが、あいにく居住者名簿を時期会長さんに渡してしまい、その人も今夜は名古屋にいないとのことで連絡の取りようがなかった。痛恨の思いであった。一旦帰宅し、しばらくしてから再度訪ねてみると、警察からの連絡で身内の方が来ていた。まずは一安心し、聞いてみると23日頃に急病死らしいとのこと。早速他の役員に連絡、今後の段取りを話す。最近はあまり団地の集会所での葬儀は少なく、業者の葬儀会館で行なうことが多いので今回もおそらくお通夜と告別式への出席だけになるだろう。
亡くなられた方は「折り紙」を得意としていてマスコミにも取り上げられたことがある人だった。家の中には無数の「作品」が整然と飾ってある。一度お邪魔した時に一つ戴いたこともあった。今まで何度か会長として電話をもらったことがあって、独居老人をねらった悪質なセールスに注意するよう回覧板を回せというような内容だった。おだやかな、正義感の強い人だった。
どんな仕事もそうであるが、最後まで気を抜いてはならないと思うことしきりであった。また、この団地にも一人暮らしのお年寄りが多いが、今回のように突然発作に襲われた時に周りに誰もいないことへの不安はどれほどのものか。緊急連絡用の電話を設置するなど、自治体でなくてはできない仕事も多いが、団地の自治会にとっても課題である。しかし、役員を降りれば、もう他人事になってしまうのだろうな・・・。
2004年02月15日(日) 電話工事
朝、いつものように新聞を取りにいったら、何と1週間前のやつだった。何かの手違いだろうが、初め1面の記事を読んでいる時は気付かずに(なんとなく変だとは思ったが)、マンガで気付きました。それにラ・テ欄がない(2月8日は翌日が新聞休刊日だったのでいつもと違ってた)。 さっそく電話して本当のを持ってきてもらった。自分も昔新聞配達をしていて、とてもここには書けないような恥ずかしい間違いをしたこともあったので、怒る気にはならないが、いったいどういう手違いなんだろう
朝食後、S子(妻)が「FAXが欲しい。今のは壊れているし」といってきた。、「ちゃんとパソコンに入ってる(まいと〜くFAX Personal Version4.52)じゃないか」というと、「あれ、調子悪い。送れない」という。例によってハイテクオンチと思って私が代わりに送ろうとすると確かに送れない。原稿をセットして送信スタートすると、FAX電話器が「FAXに切り替えます」とアナウンスしてそのあとPCがハングアップする。どうもS子のパソコンに引き込んである電話線が、その壊れているFAX機から来ているのが原因のよう。つまり、パソコンからFAXを送ると、壊れているFAX電話機につながって、そこから先へは行かないのだ。だからまず先にパソコンへ電話線を引き込み、その次にFAX機に行くようにすればいいのだが、それだと大工事になる。で、考えたのが、FAX機に入っていく電話線を二股に分け、一方をパソコンに、一方をFAX機に持っていけばいい。だから電話線用の二股を買ってくればいいのだ・・・
というわけで、41号線のわが家御用達の八千代ムセンへ出かけた。昨日は大曽根メッツのエイデンでデジカメを買ったから、休日のたびに電気屋に行っている。二股はすぐあった。540円(税抜き)。S子はやっぱり未練らしくFAX機のパンフをたくさん持って帰った。それから東片端の「正文舘」へ行ってやっと「森博嗣『四季・秋』」を手に入れた。次はホームセンターナカイと春日井市の松河戸町にあるカーマホームセンターをハシゴしてリビング兼ダイニングの床に敷く予定のカーペットを見に行った。結局買わずにカーマの近くのスーパー「SEIYU」で昼食、そこの百均コーナーで雑貨を少々。
帰ってからすぐFAXの配線をして、パソコンのFAXをテストすると、みごとに成功。これでもうFAX機は買わないくて済む? 買ったばかりのデジカメを持って出かけたが、大したものは撮れなかったので、うちの大事なネコを。
ちょっと怖い顔したのが撮れました。
2004年02月14日(土) デジカメを購入
やっとデジカメを買った(64MBのSDカード込みで¥47,500)。京セラのfinecam SL300Rというやつ。
特徴としては、まず厚さ(薄さ) 15mm。たて・横は62.5mm×100mm。ちょうど往年のオーディオカセットテープくらい。そしてレンズの部分が前後に120度ずつ回転し、モニタを見ながら景色でも自分でも写せる。USBケーブルでPCとつなぐと、それだけでリムーバブルディスクとして認識される。あとは画像ファイルをPCに移してペイントなどで加工したりもできる。
付属のソフトを使って画像処理をしたりアルバムを作ったりもできるようだが(なぜかKODAKのソフト)、それをインストールしたらデジカメがリムーバブルディスクとして認識されなくなった。あわててアンインストールし、PCを2、3度再起動してやっと元通りになった。もうこのソフトは使わない。
2004年02月13日(金) バレンタインデー前夜
朝、早速正文舘へ注文した本(森博嗣「四季・秋」)を取りに行ったのだが、あいにく午後になるとの事。すごすご帰る。店員は皆、親切なんだが、肝心なところが・・・。
さて、13日の金曜日である。実はそれらしいこともあったが、それより「バレンタイン・イヴ」(というかどうか知らないが)の方が世間的には盛り上がっているようだ。テレビやラジオやデパートなど、特集を組んだりして喧(カマビス)しい。私も塾の生徒からもらった。やっぱり嬉しい。
いつも聞くFM番組(「ミュージック・プラザ」)でいっていたが、最近は女性が好きな人のためより自分のために高価なチョコを買うらしい。初めは自分のはついでだったのが、この頃はまず自分用を買うとのこと。これはチョコ・メーカーにとってもとてもいいことだろう。女性が自分のために買うということでチョコ職人(?)も腕を振るいたくなる。これまでムリに義理チョコを買っていた人も、そんなことをしなくても買うのが楽しみになるというものだ。初めは何とか売上を伸ばすためにバレンタインデーを利用していたチョコ業界の陰謀も、これからは堂々とおいしさをアピールして真正面から一年中売ることができる。人のために買うという浮ついた需要が、おいしさを根拠にしたしっかりした需要に変わってきたといっていいのではないか。
しかし、ひとつぶ何百円などというチョコは、自分で買ってまで食べたいとは思わない。もらうなら別だが・・・。昔「森永ハイクラウンチョコレート」のブラックが好きだった。煙草のような厚紙の箱の入れ物に厚手のチョコが4本入っていた。今でもあるらしいが、イメージは変わってしまった。S子(妻)はよく「明治の板チョコ」を買ってくる。これもおいしい。
2004年02月11日(水) 今のうちに
久し振りの仕事なしの休日(祭日)。土・日曜日はいろいろヤボな用があって自分の時間にはならないことが多いが、今日は何も予定なし。午後から久し振りに本屋へ行った。初めはナディアパークの紀伊国屋へ行くつもりだったのだが、41号線を南下していたら正文舘の看板が目に入って急きょ予定変更。ちょっと行き過ぎてから最左車線に寄り、左折—左折—左折で戻った。専用のかなり広い駐車場もあるので、これからは本屋はここだなという気がした。
約2時間館内を歩いて4冊買い、1冊注文してきた。買ったのは、「プチリファレンスPHP4」(秀和システム)、「天文計算入門」(恒星社)、「数学小景」「幾何への誘い」(以上2冊岩波現在文庫)で、注文は「森博嗣『四季・秋』」(講談社)。「〜PHP4」は今勉強中。あとは趣味。
「数学小景」は尊敬する高木貞治先生の著作で、中も見ずに買った。「幾何への誘い」も好きな小平邦彦氏の著作。森博嗣氏の「四季・秋」はこのシリーズが出るたび、うちの元生徒が教えてくれる(彼女も森ファン)。2週間くらい前「出たよ」の連絡。何軒か本屋を回ったが、結局今日注文して、あさってには手に入りそう。
「天文計算入門」は、出来るものなら自分で日食を予測してみたいという以前からの希望で買った。見つけた時はちょっとドキドキした。パラパラ覗いてみるとやはり難しそう。たとえこの本が読めたとしてもまだ「入門」だから無理かな・・・。
こんな時思うのが、今のうちにやりたいことやらないと死ぬ時に後悔するぞということ。そう思うと多少の困難は乗り切れそうな気がする。それにもう若くないのだからまだ頭が回転するうちにやらなければとも思う。この「頭の回転」については、現在の自分(56歳)には鈍くなったことの自覚があまりないが、さすがに60〜70歳になってもという自信はない。第一、何歳まで持つかがわからない。だから、今のうちということになる。人間いつまでたっても今のうちだが。
2004年02月08日(日) 日本昭和村
今日は岐阜県美濃加茂市の「平成記念公園・日本昭和村」(参考:http://www.nihon-showamura.co.jp)という道の駅へ行ってきた。道の駅といってもちょっとしたテーマパークである(名誉村長さんは女優の中村玉緒さん)。実は去年の12月にも行ったのだが、そのときはなぜかこのブログには書いていない。そのときにはまだなかった「昭和銭湯『里山の湯』」が12月20日OPENしたので、それが今日の目標。銭湯は昭和村の外にあってそこだけでも入れるのだが、せっかくだからお風呂の前に会場内を一巡りしてみると(入場料が冬季限定で半額の400円)、乗馬体験とか羊牧場など前にはなかったエリアが2つ3つ増設されていた。それにまだ何か着々と造成中のものもある。今度来る時にも何か増えているかもしれない。前回と同じ食堂で蕎麦を食べてからいったん村を出て、今日の目的である銭湯へ。一人600円。男女とも入場制限をしているほど混んでいる。「昭和銭湯」というくらいだから壁に富士山の絵でも書いてあるかと思ったが、そんなこともなく中は特にこれといって特徴はない。まだ出来て間もないので板張り廊下の板が新しい。流行の足湯は無料。
明日はT子(妹)の誕生日。帰りにケーキ屋へ寄ってバースデーケーキを予約(¥1500)。我が家は12、2、3月と誕生日が集中しているのでケーキが毎月のように続く。そのかわり次の12月までケーキはまず食べない。昔は12月には結婚記念日と私の誕生日とそれにクリスマスにそれぞれ別々にケーキを買ったこともある。だから嫌いではない。
2004年01月18日(日) 「世界に一つだけの花」
今日から始まったTBSのドラマ「砂の器」(日曜日PM9時)を見た。スマップの中居君が主役で初回からいきなりすさまじい殺人シーンを演じていた。もう20年以上前に松本清張の原作を読んだとき、犯人の動機がわかるクライマックスの場面がちょうど深夜で恐くて鳥肌の立ったのを覚えている。ドラマはまだ1回見ただけだが、意外に面白そう。ただ、時代設定をまったくの現在(犯行日が2004年1月4日)になっているので、原作の持つ時代制約性をどう乗り切るのか、ちょっと心配。また、主人公の追想の中に、(たぶん自分であろう子供と父と思しき人との)「巡礼者の旅」のシーンが出てくるが、現在30代前半の(とすればだが)主人公の少年時代ならわずか20年前であり、80年代にこういう親子の旅があったというのは明らかに不自然。とはいえ彼の「宿命」とは一体何か、とても興味が持てる。中居君の演技は素晴らしい! 来週も見るぞ。
——TBS「砂の器」の1時間前にはNHKの「新選組!」で同じくスマップの慎吾ちゃんが主役。昨年末の「紅白」でもスマップがトリで「世界に一つだけの花」を歌って、それがきっかけだと思うが、新年にまたオリコンで第1位に返り咲いたそうである(39週ぶりの新記録とのこと・「ザテレビジョン」1・23号より)。この歌は、先日のわが学区での成人式で地元の(自民党の)市会議員が挨拶の中で取り上げていたし、また今月、日本共産党第23回党大会があったが、そこでも取り上げられていた(「赤旗」1/18日付)。また、イラク戦争反対の集会ではまるで反戦歌のように若者たちが歌っているそうである。反戦歌よりもっと広い気持がそこにはあるようだ。
2004年01月17日(土) ラフマニノフがきっかけ
毎日少しでもここに書き込もうと思っているが中々出来ないものだ。もう前回から8日経っている・・・。
10日に念願のMDコンポを買った。41号線沿いの豊場にある「八千代ムセン」という量販店で、ONKYOのFR-SX7Aという製品を買った(¥41,790)。アンプ、CD、MDが一体型になっているやつで、シンプルで場所を取らず、それでいてアンプは20W+20W。今回はカセットテープは付いていない。いよいよ我が家もMD時代の到来か。ちょうど1年前の1月10日付けのこのブログに「当分はビデオでFMを録音する」と書いている。まだDVDはいらないといっていたのだが、MDのことは書いていない。どうもMDのことは当時あまりよく知らなかったようだ。
八千代ムセンで物色していると、店員が話し掛けてきたので、希望を言うと、上記の製品を勧めてくれた。この時、サンプルCDを使って音比べをしてくれたのだが、聞くのは主にクラシックだというと、CDをクラシックのものに替えて聞かせてくれた。これが何とこの日の朝、家で(ビデオテープで)聞いていたラフマニノフの「パガニーニの主題による変奏曲」そのものだった。思わず「これ、さっき家出聴いてきたばかりですよ」というと、店員さんも「そうですか。私もこれは大好きで、こうやって持ち歩いているんです」と答えてくれた。意気投合してしばらくクラシック談義に花が咲いたが、結局それを買ったのだった。
それからずっとこの機械に取り組んでいる。取りあえず毎日のタイマー録音をセットして、あとはゆっくり説明書を読んでどんなことが出来るのかを調べる。もっと早くMDにすればよかったと思うことしきり・・・。
12日は成人の日。どこかの会場みたいな不心得者はうちの学区にはいなかったが、茶髪に白い紋付・袴という通称「白い悪魔」は一人いた。でもおとなしく「誓いの言葉」を読み上げていた。新成人は50人ほどで、彼らより多い学区役員や保護者が周りを囲んでいるような会場ではあまり目立つことも出来ないかも。全体にやはり堅苦しい時代錯誤な式であった。それでも式が済んで記念写真に移る間、新成人たちがお互いにケータイで写真を撮ったり談笑しているのを見るとこっちも和やかになった。私は受付の一人として参加したが、隣りの役員さん(私よりは若い)が「成人式は初めてでどきどきしますよ」といっていた。聞いてみると自分のときは「何だか嫌で」行かなかったそうです。なんだ、私と同じだ。式が済むと後片付けの後、別室に移って自治会連合会の1月定例会があったのだが、この時お弁当が出た。ちょっとしたご馳走。まあ、役得というのか、ありがたく戴きました。
2004年01月09日(金) 初ごみ出し
このところ、年の初めのぐうたらとそのあとの慣れない仕事で疲れたのか、昨日は夕食のあとすぐに横になって、朝まで10時間寝た。今朝は今年初の分別ごみ(資源)出しの日だったので寝ぼけ眼でゴミを持って行くと、まだ7時前なのに山積みだった。
2004年01月07日(水) 「成人式」に出る!
昨年の11月にここの学区で「ウォーキング大会」というのを町内会連合で取り組んで以後、しばらく自治会長の仕事もヒマだったのだが、今月には成人式と団地のペンキ塗装工事という大事業がある。正月も過ぎてすぐ塗装工事の業者さんが会長さんにということで挨拶に見えた。1/13〜2/27という長丁場である。主に玄関鉄扉と団地共用部のペンキ塗り替えだが、一軒一軒塗っていくのでこんなにかかるのだそう。
成人式の方は、1月12日に学区小学校でまったく形式ばったのをやるみたい。式次第を見ると、小学校の講堂の壇上に国旗(日の丸)を飾った会場で、「君が代」斉唱で始まり、名古屋市長の挨拶(もちろん代理)、市会議員・校長先生等の挨拶云々とある。新成人の出番は代表者の「誓いの言葉」のみ。最後に万歳三唱で終わるというもの。これじゃあ今の若者に嫌われるのも無理ない。明らかに新成人のためというより、年寄りたちの自己満足のための式である。われわれ役員も式服で出るようにとのお達しがあった。自治会からのお祝い金も出るが、慣例でひとり2千円。学区連合会からのを合わせて4千円。小学生のお年玉でももう少し出るだろうに。私が会長なんだから5千円くらいに奮発してとも思うんだが、前例になるので勝手なことは出来ない(だからいつまで経っても何にも変わらないんだといわれればその通り)。
新成人たちの気持はよくわからないが、むしろ親の方が喜びが大きいだろう。手塩にかけて育てた子供が立派に成人した姿を見るのは親として感無量だろう。私の成人式当日は、式には出ないで映画を見に行ったことを覚えている。ソビエト映画の「戦争と平和」(リュドミーラ・サヴェリーエワ主演(この名前は今でもいえる)だった。式に着ていく服がなかったこともあるが、式に出ないことが自分にとってはひとつの主張だったような気持ちもある。これは負け惜しみではない。当時親しかった友人が親のそろえた紋付・袴で出席したとあとで聞いて、「お前、なんで式に出たんだ」と論争したのも懐かしい思い出である。
2004年01月05日(月) 初洗車
今日は念願の初洗車をした。といってもGSでやってもらっただけ。千円。自分でやるには寒いし、それにキズをつけるのがコワいので。
いつもなら月曜日は「不燃ごみ」回収の日だが、今年は5日は休み、12日から。でもやはり心配したとおり3人ほどごみ置き場の横に出していた人がいた。前日から注意の貼り紙をしておいてもこの状態。誰もこれを片付けなかったら、来週までずっとここに捨て置かれることになる。
久し振りにパソコンのメールチェックをしたら、年賀メールが2通ほど来ていた。返事を書きながら「今年はどんな年になるか」と考えてみた。やはり自衛隊のイラク派遣のことが気にる。いよいよ日本が戦争に巻き込まれるかと思うと、心配でならない。世論の大多数が反対していることを政府は押し通そうとしている。そういう国にしたのは他ならぬ我々だ。みんなで「イラク派兵」に反対しましょう!
2004年01月04日(日) スパガーラ
長いと思ったお正月休みも今日で終わり。今日は「小牧天然温泉・スパガーラ」(参考:http://www.spagala.com/)へ行ってきた。前は「ラッキー健康ランド」といっていたところ。新装開店してからは初めて。変わったところといえば、リラクゼーションというのか、マッサージやネイルアートなど、若い女性向きのコーナが増えたこと。自由にマンガが読めたり、子供をあそばせたりするところもある。お風呂もいくつか増えた。「五右衛門風呂」も出来ていた。ここでゆっくりして正月休みもおしまい。明日は私もS子(妻)も仕事始め。
昨日(3日)、ある生徒から冬休みの課題についての質問(数学)が来た(FAXで)。さっそく解答を作って返信したところ、「真っ黒な紙が来た」という電話。どうも受信はいいが送信すると真っ黒になるらしい。で、面倒だがFAX用に作った解答をスキャナでパソコンに取り込み、ワープロの画面に貼り付けてパソコンからFAXしてみた。FAXソフトは「まいと〜くFAX V.4」。S子などはやはり紙のFAXのほうがいいらしく、FAX機を買い替えたいという。日本のペーパーレスはいつまでたっても実現しないとボヤいてみても仕方ないが、自分でも送りたいものを紙に鉛筆で書いてスキャナで取り込んで送っているようでは人のことは言えない。それにしてもA4・B4用紙の安いこと! 紙を使うなといってもあまり説得力はないわけだ。
2004年01月03日(土) 疲労参拝
2日は伊勢神宮(内宮)へ初詣に行ってきた。お伊勢さんへは10何年前にいったことがあるが、家族3人で初詣というのは初めてである。混雑は覚悟の上だったが、予想以上。内宮正宮前には何百人という人が幅20mにも並んで時速100m位の速さでゆ〜っくり進んでいく。階段の上にある鳥居をくぐりたい人はもっと遅い。階段右端(つまり鳥居の右外側)を通ってさっさとお参りし、帰ってきた。われわれの実のお目当ては「おかげ横丁」で、お参りの方がついでだからバチが当たる。こちらもすごい人でほとんど見て帰ってくるだけだった(ヒマそうな店で伊勢うどんを食べたが)。でも正月気分は満喫したかな。
伊勢参拝は、クルマで来る人は今年からシャトルバス方式になっていて、伊勢道を朝熊ICで降ろされて(つまり「伊勢西」と「伊勢」の両ICは降りられなくて通過)、そのまま「三重県営サンアリーナ」というイベント会場の駐車場へ誘導され、そこで千円払って駐車し、シャトルバスで内宮へ運ばれるというわけ。「社会実験」と銘打っていたから、初の試みでうまくいけば今後もこうなるのだろうか。行きはまあよかったが、帰りのシャトルバスに乗って帰るのに1時間以上もバス停で行列して待たされた。明るいうちに並んだのに段々暗くなり寒くなり、すっかり冷え切ってしまった。もうこりごり。これでまたしばらくはお伊勢さんには出かけないだろう。
今日3日にお正月早々団地にお葬式があった。朝起きたら玄関ポストに他の三役さんからの告別式の連絡が入っていた。あわてて礼服を取り出し、葬儀社手配のバスで式に出向く。この時期にもかかわらず、多くの人が参加していた。まだ60歳という若い方で、1年間の闘病生活の果てに亡くなられたということを喪主の方の挨拶で知った。
2004年01月01日(木) 2004年あけましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。
たった今まで「紅白」を見ていた。平井堅(坂本九とのデュエット?)と森山直太郎、それにスマップが印象に残った。あと、「涙そうそう」もよかった。それにしても赤組のボロ負け振りがすごい・・・。
このブログも毎日書きたいことはあってもなかなか書けなくなった。一番の理由は気持(=時間)に余裕がなくなったというか、どうでもよくなっているということもある。ちょっと人生に対して捨て鉢になっているのか。欲がなくなった。よくないことだ・・・。
と、いいながら、昨年11月にクルマを買い換えた(3年のローン)。前のが6月に車検だったのだが、その前後から段々調子が悪くなってきて、修理などにお金がかかるようになってきた時に、以前にもこのブログに登場したH井君に相談したら「新古車でいいのがあるよ」と照会してくれたことで、決心した。今度もスズキで「WAGON-R FMエアロⅡ」という名前。格段に装備がすごい。まずエアバッグが運転席・助手席にある。そしてMD・CDが付いてる。ミラーがたためる。ABSもある。あと特徴として前席がベンチシートでチェンジレバーはコラムシフト。外装の前後左右にエアロという飾りがついている。私には贅沢この上ないクルマとなった。
相変わらず音楽はラジオのFM番組をビデオに録音して聞いているが、クルマにMDが付いた事で、MDレコーダが欲しくなってきた。S子(妻)のコンポはMD付きなのにほとんど使っていないので、これを借りて今までテープで聞いてきたものをMDに録音し直し、それをクルマで聞くようにしている。音は悪いけど、当分はこれでいい。で、知ったのだが、今のMDは表示されている録音時間の2倍、4倍で録音できるのだ。これなら今ビデオテープで聞いているFMの音楽もMDで十分録音できるから、近々MDコンポを買う予定。マーラーやブルックナーなどの大曲もMD一枚に楽々入る。これらの曲はCDでは今でも2枚組みにして売られている。昔のカセットテープでは90分テープでも片面45分だから途中でいったん切れる。もうアナログテープの時代は音楽でも映像でも終わりに近づいているらしい。別にそれでもよいが、デジタル万能というのはあまり好ましくない。時計でも仕組みとしてはぜんまいからクォーツに変わっても、表示はアナログの方がわかりやすいように、音楽・映像もデジタルで記録して操作はアナログにして欲しい。例えば、ひとつの曲を線分で表わして、カーソルをその線分の好きなところへ持っていくとそこから再生できるという具合。
2003年11月01日(土) 深夜の珍事
あまり自治会長のことばかり書いているのもなんだから、今日は最近読んだ藤沢周平のことを書く。
藤沢周平といえば、私は「用心棒日月抄」なのだが、これはテレビドラマで最初知った。古谷一行さんが主役の浪人で、背景に赤穂事件を持ってきてなかなかアイデアだなと思った。それから「三屋清左衛門残日録」を読み、それから「NHK金曜時代劇」で「蝉しぐれ」を見てこれにしびれた(この前後に衛星放送で「清左衛門残日録」も一部だが見た(仲代達矢主演)。あと、映画になった「たそがれ清兵衛」の原作も読んだ。
で、今は「よろずや平四郎活人剣」。まだ作品はたくさんあるようだが、自分としてはこれでそろそろ終わりかも。この人の魅力はなんといっても殺陣の描写。昔、中里介山「大菩薩峠」の島田虎之助が新撰組(の前身)と戦う場面を読んですごいと思ったことがあったが、藤沢周平もすごい。剣道や殺陣のことを何も知らなくても迫力を感じる。大体主人公が勝つのだが、それがいつもきわどくて、読んでいてほっとするのだ。こっちまでなんだかまた生き延びたなあという気分になったりする。武士といわれる人々が日々いつもこんな生死の境を生きていたとは思わないが、刀を持っている日常とはそんなものかも知れない。斬りあうことの恐ろしさを感じさせてくれる。と、同時に(男には)命をかけて戦わなくてはならない時もあるかなあとも思ったりした。(ここまで実は10/30に記述)
さて、話はまったく変わるのだが、今朝、といっても3時半ごろだからまだ深夜、とつぜんけたたましいベルの音が団地中に鳴り響いた。火災報知器。あわてて起きて出てみたが(ウチのすぐ前にベルがある)、火事はどこにもなく、ひたすら大音響のベルだけがジリリリリ....。ベルとともに女性の声で『火事です。火元を確かめ、消化してください』のアナウンス。でも、どうみても誤報。それにもうみんな誤報に慣れっこなのか、誰も出てこない。まずベル音を止めなければ。耳をつんざく音の中で、まず音を止めようと・・・どれだ? なにをどうすれば止まるのだ? 火災報知器ではなくて郵便ポスト室の配電盤のような箱(あとでみると『火災受信盤』と書いてあった)で『火災』というランプが『一階東』というランプとともに点滅している。(一階東とはまさにここであるが、別に火事で騒いでいるところもないし、第一、この騒ぎでも誰も出てこない)。どうやらこれが制御装置らしい。その中の『音響停止』というボタンを押すとアナウンスが止まった。が、まだベルは鳴っている。今度はその下の『地区音響一時停止』というのを押すとやっとベルが止まった。やれやれ・・・でも、まだ『火災』と『一階東』のランプが点滅している・・・。と思っているとまたしてもジリリリ・・・。あわててまた『地区音響一時停止』を押すと止まった。なるほど「一時停止」なのだと納得するが、じゃ、どうしたら完全に止まるのだ? これがわからない。次第に冷えてくる中でじっくりと受信盤の説明書を読む。またジリリ・・・止める、読む、ジリ・・。段々止め方がうまくなる。ジ・・といっただけで止められる。が、これではいつまでもここから帰れない。説明書は何度読んでもわからない。どのボタンがどこにあるのかもまったくわからない。オレが読んでわからないものは大抵の人が読んでもわからんぞと妙な文句をいいながら、ふと、火災受信盤のフタがネジで止めてあるのに気付き、これを開けようと思い立つ。一度ジ・・と鳴ったのを止めてその隙に家に引き返し、ドライバーを持ってきて開けようとネジを左に回したが、まったく開かない。「どうも違うな」といささか泣きたい気持でまた説明書を読んでいると一人の男性(私にオジサンと呼ばれても差し支えのなさそうな人)がエレベータから降りてきて、「誤報ですか?」と聞く。どうせ冷やかしだと思っていい加減に返事をしていると一緒になって説明書を読んでくれる。で、「どうも止め方がわからなくて、すぐまた鳴っちゃうんですよ」とちょっと真剣になって相談してみる。どうもこのままずっと付き合ってくれるみたいだ。心強い味方が現れてやや元気になる。でも、ベルの音はまだ止まらない。二人で「ああだこうだ」とボタンを押したりしてみるが、止まっているのをわざわざ鳴らしてしまうだけで、うまくいかない。しかしついに火災受信盤のフタが開いた。何のことはない、ドライバーでネジをくるっと右へ回せば開いたのだ。そういえばネジの頭が大きなマイナスになっていた。ドライバーなどなくても硬貨で開けられるようになっているのだ。
とにかく中を見たが、細かい配線が詰まっているだけでスイッチとかボタンなどはない。が、また説明書があった! これはありがたい。オジサンと二人して説明書をせっせと読み始める。私が「とにかく止め方を・・・」というと「まあ待ちなさい」とオジサンは目次をゆっくり眺めている。この人は本気で付き合ってくれていると思った私はオジサンのペースに任せることにした。「あったあった。12ページだ」 そこには地区音響を完全に止めるには、『音響停止』ボタンと『地区音響一時停止』を同時に3秒間押せと書いてある。やってみると、『火災』と『一階東』の点滅ランプが消えた。止まったのだ!
やれ、ありがたい、これで帰れるかと思いきや、まだ4つばかりのボタンが点滅している。しかも数分ごとにピーッと音がする。ベルほどではないが私の家の中なら十分騒音である。これも止めようとまた説明書を読み始める。そしてついに『復旧』というボタンを見つけた(これはビデオの予約ボタンのようにもうひとつのふたの中にあった)。それを押すとさらに2つのボタンが点滅をやめた。まだピーッというのは止まらない。どうもさっきいろいろ押しまくったときによけいなものを押したようで『xxが△△しています』(xや△はもう忘れてしまった)というのだがどうしたら元に戻るのか、やっぱりわからない。でももう1時間近くこうしているのでさすがにオジサンに「ま、これなら寝られないこともないし、明日、管理事務所に連絡してみますので・・・」と話してお礼をいい、お引き取りを願った。お陰で助かったことは間違いなく、感謝の気持で一杯であった。エレベータに乗られるときお名前を伺っておいた。
しかし、私はこういうとき「まあ、明日にでも」とは思えないタチで、とてもこのままでは眠れない。しかし小康状態にはなったので、今から徹底的に説明書を読んで絶対今夜中に復旧してやるつもりでいた。部屋にかえってヒータを焚き、時々鳴るピーッという音に闘志を燃やしながら、厚着をして机でじっくり説明書を読み、ついにもう一回『音響停止』ボタンと『地区音響一時停止』ボタンを同時に押せばいいことに気付いた。そして完全に点滅ランプを消した。システムは完全に復旧した。時計を見ると5時を回っていた。約2時間の戦いであった・・・
(結局また自治会長の仕事話になった・・・)
さて今日はT子(妹)と明日の「ウォーキング大会」のコースを下見がてら散歩してきた。たった2kmの道だったが、快い疲れで久し振りにビールがおいしかった。
2003年10月21(火) 4か月ぶり
4ヶ月ぶりのブログ更新。言い訳はまあ、忙しかったことに尽きるが、そんなのは言い訳に過ぎない。
10月13日にこの団地で最後となる秋祭りがあった。最後というのは来年からは学区でのイベントが中心となり、各自治会はそれに参加するという形になるから。独自に行なうお祭りとしては今年が最後。その年に自治会長とは運がいいのか悪いのか・・・。
いろいろ苦労はあったが、自治会役員をはじめ皆さんの協力で成功したといってよい結果になった(S子(妻)もがんばった)。一番の成果はやはり団地住民どうし親睦を深めたことだと思う。当日よりもそれまでの準備でいろいろお付き合いすることでだんだん気心が知れてきて、少々の口論も和気あいあいと出来るようになった。こういう催しがなくなっていくということは、そういう親睦を深める機会も減るということ。やっぱりよくない。来年からの新しいお祭りではどうなることか・・・
と、いかにも心配しているように書いたが、実はあまり考えていない。無責任だがどうでもいいと思っている。とにかく早く会長職を解かれたい。19日には学区全体でのソフトボール大会で朝6時半から夕方5時まで駆り出され、せっかくの秋の晴天日一日をつぶされた。そして今度は11月2日にはウォーキング大会だって・・・一体何の権利があってオレの大事な時間を・・・。かなりムカついている。
こういうイベントがあると必ず顔を出すのが議員さん。このたびもソフトボール大会のため1週間前にちゃんと試合の行なわれる会場(庄内川河川敷)の草取りを市に要請し、実際やってくれたとかで、開会式の挨拶の時、参加者から拍手を受けていた。
私もそうだが、自治会長の多くは区政協力委員であって、市からお金も出る。この間「区政協力委員兼災害対策委員費用弁償」という名目で27,144円いただいた。このこと、あまり知られていないのは、もらった人が黙っているせいではないか。古い自治会員さんで「会長がちゃんと任務をこなせるのは組長さんたちの協力があるからだからこういうお金は皆で分けるべきだ」という人もいたが、わたしはこれで壁掛けテレビ(といっても14インチの液晶というだけだが)を買ってしまった。もちろん足りないので持ち出しもあるが、こういう臨時収入でもないと買えない。それからついこの間は学区保健委員(これも自治会長が兼ねる場合が多い)に対しても「謝金」という名目で13,572円出たので、これは待っていたように故障した炊飯器の購入資金にした。こんなわけで自治会長も捨てたもんじゃない?
2003年06月02日(月) 多忙な日
今日は朝から忙しい。やることがいっぱいあった。まず、車検のため友人のH井君の会社へ。最近、速度センサーが調子悪いらしく、走っている途中で急にシフトダウンしたり、逆にシフトダウンしないまま赤信号で止まり、トップのまま発信することが多くなったのでそのことをお願いした。代車を用意してもらってそれで帰る。私のクルマはスズキのLoFtだが、代車はスバルのSANBER。同じ軽とはいえ、慣れなくて運転がたいへん。
帰ってから自治会長職務を2つ3つ。赤十字の寄付を「社員」として登録されている人たちから集めてそれを学区連合会へ納めるために銀行で振込み。その証明書を連合会へ持っていったのに留守。午後もう一度行ったけどまた留守。まだまだ用件があったが疲れたので昼食の後寝てしまった(昨夜は2時間しか寝ていなかったのだ)。
夕方、慣れないクルマで塾へ。少し早く付いたので喫茶店へ行き、久し振りに「少年サンデー」に目を通す(創刊号から読んでいる少年週刊誌。「海の王子」が好きだった…)。今、注目しているのは「Wild LIFE」と「D-LIVE」。「Wild LIFE」は絶対音感がある獣医(のタマゴ)の話。「D-LIVE」はフリーターのような若者が実は「ACE」という組織に属する天才的運転手? どんな乗り物でも運転できるのだ。どちらも奇抜な筋立てと痛快な結末でとても面白い。その他相変わらず「名探偵コナン」は快進撃だし、「犬夜叉」もいつ果てるともない筋で延々続いている。
塾では、今日はまず、大学院生のM崎君との「公正経済学」だったが、自由主義経済の企業と消費者に政府が税金をかけるとどうなるかをグラフを使って理解するという内容だった。面白かったのは政府の課税によって社会の財の一部に誰のものでもなく失われてしまう「超過負担」というものが発生するということ。たとえ抽象的とはいえ数学を駆使して社会を分析していけばそれなりに矛盾点を暴くことが出来るのだと思った。
二時限目はちゃらんぽらんの高校生徒、M田君。かわいい(背は高い)楽しい生徒だが、いうことやること支離滅裂、破天荒、はちゃめちゃ…は言いすぎだが、とにかく授業にならないくらい質問攻めで来る。それも妙な質問が多い。今日は「『旧約聖書』には予言が載っていて2006年に人類が核戦争で滅びると書いてあるって本当ですか?」とか、「光より早い乗り物を作れば未来へいけるの?」とか。なんと答えていいかわからないのでマトモに答えているとあっという間に時間が過ぎる。どうも時間を潰すためにそういう質問をしているのかとも思えてくる。とにかく今日は「円の方程式」をやっとの思いで説明、課題に移る。一番苦労する生徒だが、憎めなくて面白い子である。
2003年06月01日(日) 大須!
今日は久し振りに家族で大須へ行ってきた。何日ぶりか誰も覚えていないので調べてみると去年の6月以来、1年ぶり(その時「ハリーポッター」のDVDを買っている)。
実はちょっとした計画があって新しく購入するパソコンを下見に行ったのだが、気に入ったものがないのでやめた。なぜパソコンは高いか。いつまでも10何万のままである。どんどん進化してるって? そんなことはない。XPにしたってPentiumにしたって、あんなものいってみりゃ、マイナーチェンジだ。マイナーチェンジを小出しにして値段を維持しているのだ。あとはデザインの目新しさでさも納得できる値段であるかのように見せているにすぎない。
それにしても大須のパソコンショップはGOODWILLばかりになってしまった。一体何号店まであるんだろう。以前は何のお店だったか忘れてしまった所にいつのまにかGOODWILLが出来ている、という感じ。赤門通りの「グッドウィルエンターテイメントデジタルモール」なんていつ出来たんだろう。映画館かと思ってしまった。ちゃんと中を見てきた。要するにパソコン関係のお店。ちょうどこの日、お気に入りだった携帯ストラップが壊れてしまったので、ここで短いのを買ってあとで壊れたのと合体して復活させた。
ほかにもパソコンショップを数軒ひやかしてから万松寺通りの「あした葉」(讃岐うどん屋)で遅い昼食。その後観音様にお参りして帰りに東仁王門通りの「ふれあい広場」で大道芸をちょっと見て(手品)、「ボルサ」でコーヒーを飲もうとして満員なのでやめて…結局なんにも買わずに帰ってきたが、駐車料金だけ2,240円(約4時間!)も払ってちょっとムダ遣いを反省。S子(妻)にも嫌味を言われた。家の近くまで帰ってから「TARO」という喫茶店でコーヒーにした。
2003年05月19日(月) 『て』のつくもの
いや〜疲れた、昨日の棟掃除。ここの学区全体で一斉に側溝清掃というのがあってこれがコタえた。歩道沿いの側溝の100枚位の石のフタを開けて溝の中の泥やごみをあさり、またフタをする。今日は体中が痛い。よく年を取ると無理な労働のあと2〜3日してから痛み出すというが、今日から痛い。草もよく取れて可燃ごみ袋に約50袋! それでもまだ掃除は半分やり。団地に住むのも楽じゃない。
夜は奮発して寿司(回るやつだけど)。先月誕生日を迎えた未来ロボットの名前のついたチェーン店。このお店が出来たばかりのころはネーミングがちょっとレトロな感じだったのが、今じゃ最先端のようだ。この間、あるテレビ番組で「今10代の若者に人気の『て』のつくもの」というのをやっていて、その中に「テツ&トモ」とともに「鉄腕アトム」が入っていた。
でも安いのに文句ばかりいってすまないけど、客あしらいがヘタで、そうするとせっかくの寿司もあまりおいしくなくなるのだ。前にも書いたけどやはりサービスにもお金を出すのが当たり前なのかも。それならそれで徹底してほしい。高くてサービスも悪いのは論外だが、どちらかが欠けても客は苦情をいう。よく地元のお店の紹介番組をテレビでやっているが、あれもそういうチェックに一役買っているかも知れない。意外にプロも見ているのでは? どうすると客が来るかの研究にああいう番組は持って来いだと思う。見ている割りには行かないが。
今日は学校が試験中なので、痛い体をおして早く出掛けなくてはならない。…T子(妹)が買い物から帰ってきて「雨が降ってきたよ」 参った・・・。
2003年05月17日(土) 強盗殺人事件
5月15日の夕方、知っている方も多いと思うが、北区の住宅地で、女性が殺され現金数十万円が盗まれるという強盗殺人事件があった。この日、塾の仕事を終え、41号を通って帰る時、新川中橋の上で後から緊急のパトカーが来たので右端に寄ってやり過ごしたらずっと行く先が一緒でおやと思っていたら、なんと家のすぐ近くだった。ほんの50mの所。夕食を済ませたころ、テレビで見る鑑識課のような服を着た警察の人がきて、怪しい人を見なかったか、気がついたことはないかと聞いて行った。翌日同じ団地の人に聞くと夜11時ごろまで聞き込みをしていたらしい。
16日朝は、警察のほかに、新聞記者やテレビ、それに上空をヘリコプターが飛ぶなどで近辺が騒然としていた。ローカルニュースなのでテレビでもそうしょっちゅうは放映しないし、うちは一般新聞は取っていないし、で、団地の草取りなどしながら、何となく様子をうかがっていた。ラジオでは「15日が給料日と知っているなど、内部の事情に詳しいものの犯行か」と言っていたので、早くに解決するのではと思うが、先日の同じ北区の通り魔事件もまだ未解決だし、不安な日々が続いている。
不安と言えば、SARS問題が身近になってきている。昨日から今日にかけて台湾の医師が日本からお国へ帰ってからSARSを発症したとのことで、この医師の日本での立ち寄り先では消毒やら聞き取り調査などあわただしい状況になっている。一方で「日本人はSARSにはかからない」などという根拠のないデマも流れているようだが、こういう無知と誤知の流布が恐い。今のところ日本が感染をかろうじてまぬかれているのは明らかに水際で頑張っている人たちの努力のお陰である。
もうひとつ、あの「白装束集団」(「パナウェーブ研究所」)。すっかりテレビのワイドショウの常連となってしまった。オウムのこともあるせいだろうが、やや過剰反応気味だ。もちろん警察や関連自治体が対策を取るのは当然だが、連日連夜テレビを賑わすのはどうかと思う(その隙に「有事関連法案」が衆院を通過した。この方がよほど重大問題だ)。
今日からS子(妻)が横浜に行っている。何かの集まりらしいのだが、聞きそびれた。帰って来たら聞いてみよう・・・。
さて、明日は朝から月恒例の団地の掃除(晴れならだが)。出席の具合はどんなかな。先日同じ団地のある人から「今年の会長さんは中々やると評判ですよ」「なまけて掃除に参加しない人たちには会長さんからどんどん注意するようにして下さい。応援しますから」と言われて困った。私の会長就任の抱負は、とにかく任期終了後「去年の会長さんはよかったね」といわれるように、というのが本心だが、やかましいことを言って恨まれたくはない。だからせっせと草取りをして点数を稼いでいるのだ。今のところそれが功を奏しているのはいいのだが、それ以上期待されても困るなあ。
2003年04月30日(水) 公共経済学と棟掃除
あっという間に4月も終わり。G.W.まっさかりだが、ウチは今年は(今年も)ごろ寝週間(G.W.だけに・・・)。何となく体調がよくないのと(あったかくなるとよくめまいを起こす)、もちろん懐具合の関係。読む本もたくさんあるし、勉強したいことはそれこそきりがないので時間を持て余すことはないが、運動不足も気になっている。
勉強といえば、今、私の塾のある生徒さん(大学院生)と一緒に「公共経済学」というのを勉強している(彼は税理士志望で国家試験にこれが出るのだそうだ)のだが、やってみるとこれが面白い。これは資本主義経済が「公共財」(道路・消防・警察などの公共物)を取り込むことによっていわゆる「市場の失敗」を起こすことを政府の経済政策で解消するための理論的根拠を与えるものだが、とても数学的。若いころマルクスなどを読んで資本主義経済の搾取の仕組みを知ると、「近代経済学」などは非科学的だと、今までバカにしていた。近代経済学が縦横無尽に数学を駆使しているのは科学的に見せるためのカムフラージュだといまでも思っている。でも、その近代経済学者たちが苦心して資本主義を守ろうとしているのを、ただ「御用学者」といって切り捨てるのは間違いだと思うようになった。マルクスが彼以前のそれまでの「古典経済学」(リカードやアダム・スミスたちのイギリス古典経済学)への批判から出発して「資本論」という巨大な成果を得たように、現代の資本主義が公認する「経済学」への批判から、来るべき新社会へ進むための新しい経済学を築きあげなくてはならないのだと思う。
…さて、高尚なお話から、現実の厳しい話。私のいる団地では月1回団地の棟の周りを住民みんなで掃除することになっているのだが、この間、ある住民の方から「高齢者や病人が多くなって棟掃除に出るのがつらい。掃除に出てこない人たちにもっと呼びかけて欲しい」という苦情が自治会長に出された。集合住宅にとっては普遍的な問題だと思うが、高齢者や独居老人、障害者が多い市営住宅では特に深刻な問題だ。他の棟での対策などを参考に今色々考えているが、完全な解決策はなさそう。団地を掃除するというのはその結果である「きれいな環境」をみんなで享受することである。しかし一部の人だけでそれを提供し、享受するのは住人全体というのは不公平だ。まして老人が病気を押してまで掃除に参加し、元気な若い人がサボっていては不公平の極みである。そのほか、掃除に出てきてもあまり熱心でなく、おしゃべりに熱中して時間になるとさっさと引き上げる人もいるなどという苦情もある。
「経済学」のお勉強は勉強だけで済むが、こうした生活上の問題はそれだけでは済まない。いわゆる政策の立案と実行が必要となる。取り合えず、苦情等をそのまま回覧する予定。深刻な問題であることをまず知って貰わなくてはならない。それから具体的な方法を考えていこうかなと…。
これで4月は終わり。これからはもう少し楽しい話を書きたい。
2003年04月22日(火) 吉野の花見
前回のHP更新から1ヶ月以上経った。イラク戦争の経過はのんきな日記など書かせないような緊迫を持って迫っていた。アメリカの非道ぶりに絶句した。
とはいえ、4月12日には奈良・吉野へ花見にも行ってきた。吉野は誰もが知る桜の名所。とにかく人、人、人。以前、桜の季節でないときに行ったことがあるが、その時はすいていた(笑)。蔵王堂や吉水神社、後醍醐天皇稜などはそのとき訪れたので、この日はまあ純粋にサクラ見物。桜もきれいだったが、妙なことで感心したことがある。実は日帰り観光バスツアーで行ったのだが、駐車場でのバスたちの見事な並びぶり! ガイドさんの話でも「今日は150台は来ています」とのこと。それがきっちり収められ、ちゃんと順番に出入りしていることに驚いた。運転手さんとガイドさんと駐車場の管理者との連携プレー。我々のバスも来た時は駐車場のかなり手前で降ろされたが、帰りはスムースに出発。早かったせいか(2:30帰路出発)たいした渋滞もなく予定(7:00名古屋着)より1時間も早く帰ってきた。吉野ではまあまあの天気だったが、往復の道ではほとんど雨、名古屋に帰っても雨。ある意味最高の天気だったといえる?
去年6月、ある激安日帰りバスツアー(一人¥2900)でちょっと不満気味だったS子(妻)は、この日は大満足。一人¥3900にもかかわらず朝も軽食付きだし、昼食のお花見弁当もなかなか豪華だった。おやつの和菓子やお茶も出る。S子いわく「やっぱり2900円ではダメね。3900円は出さなきゃ」
さて、花見で浮かれてばかりはいられなかった。団地の自治会会長の任務が始まっている。《注:以下の自治会長の話はフィクションとしてお読みください》 新年度(4月1日)早々、今は使用禁止になっているゴミ置き場に多量のごみが不法投棄されるという洗礼から始まる。ゴミには強い(?)S子の活躍で何とか片付けた(結局は環境事業所に頼み込んで持っていってもらったのだが)。どうも年度末に引越した人の置き土産らしい。4月10日には「交通事故死0の日」の街頭交通安全委員も勤めた。
4月19日、初の学区自治会町内会連合会の定例会があった。行ってみると自分の座る席がすでに決められていて、立派な名札もある。しかも肩書きが「会計監査」になっている。なんとなくものものしい雰囲気。まるで市議会みたい(行ったことはないが)で、無駄口がきけない。つい1週間前(4月13日)の統一地方選で当選したばかりの某県・市会議員(連合会の顧問をしているらしい)から挨拶が始まる。町内のお歴々が勢ぞろい。司会者が一人一人、肩書きとともに名前を呼び、皆さんそれぞれ「どうぞよろしくお願いいたします」と続いていくのでどうやらこれがここでのやり方らしい。お隣の席の女性は「福祉部副部長」、聞いてみるとやはり「寝耳に水です」とのこと。
議員さんたちが帰ったあと、各団体長の報告に移り、そのあと自治会長会議になって、やっと論議らしい場に。各種ボランティア団体からの回覧は基本的にはことわっているのに仏教会の寄付や熱田神宮の初穂料などは公認で集めることに対して「素朴な疑問」が出され、幹部の人たちがとまどっているのがけっこう面白かった。もっとつっついてやりたかったけど、まあ初めからあまり目立ってもと今回は思いとどまった。
帰りに渡された袋には名古屋市長からの「区政協力委員」の委任状やバッジ、役職札、心得の記された手帳、警察からのポスター等々、たくさんの「おみやげ」が入っていた。翌日それらを整理して回覧するものは回覧し、自治会の役員さんに渡すものを渡すのに半日以上かかった。ただ働きに辟易するが、どうも年間いくらとかお金も出るらしい。もらったらまた報告しよう。
2003年03月13日(木) 着メロ
新しくなった携帯電話に着メロ用として「エリーゼのために」を入れた。機種変更のときにオマケでもらった「5曲無料であげちゃうよ」の中には(もちろん)なかったので自分で入れたのである。なんと三重和音ができるので伴奏付になった。ただ、周りがにぎやかな所だとちょっと聞き取りにくい…。で、オマケでダウンロードした「colorS](宇多田ヒカル)と交代で使う。ちょっと前、友人の携帯にリクエストで「快傑ハリマオ」を入れたことがあるが、世の中もっと自分で着メロ入れたくても出来ない人が多くいると思う。まだまだ今の携帯の音符入力はむづかしい(この友人からの着メロはもちろん「快傑ハリマオ」にする予定)。今まで出来なかった分、しばらく着メロにはまりそう…。
2003年03月12日(水) 愛読書?
携帯電話を58ヶ月ぶりに換えた。これまでのはSONYのTH271というやつで、まだメールが打てなかったが、いつでもどこでも電話ができるという文明の利器を満喫していた。鉄腕アトムにさえ携帯電話は出てこない。アトムの登場人物がくるくるのコードの着いた黒電話で電話しているコマがあったし、公衆電話もよく出てきていた。あの手塚治虫さんでさえこのケータイの普及ぶりは予想しなかったのだ。
ちょっと話がそれたが、今度の携帯はちゃんとメールも打てるし、インターネットも見ようと思えば見られる。流行りの二つ折りタイプではないが、フタのないキー剥き出しの機器だと機器代0円。 結局、かかった費用は、番号そのままに機種変更するための手数料2000円(+消費税)だけとのこと。さっそく取扱説明書と首っ引き。
いつも何か電気製品などを買うと、しばらくはその取説が愛読書になる。こんなものは読まないという人がいるが、私は好きである。もっとわかりやすくしろと文句をいう人も多いが、私は大体の「取説」はよく出来ていると思っている。取説の一番の目的は「わかりやすさ」ではなく、漏れのないことである。だからあんなに長いし、くどい。しかもわかりやすくしろと言われるので冗漫になり、正確でないといけないのでわかりにくくなるのだ。自分でもマニュアルみたいなものを作ったことがあるのでその苦労はわかる。「遺漏なきこと」とはとても大変なことである。
もちろん言いたいこともある。今回でもEZwebサイトへの新規接続の時、希望のメールアドレスを3つも打ったあと「OK」ボタンがどれなのかわからなくて10分くらいぶつぶつ言っていた。同じことを説明している本が2冊もあるのに、この場合の「OK」ボタンがどれかについて書いてあったのは「5曲無料であげちゃうよ」というハガキ大のオマケだけだった。それからアドレスに'_'(アンダースコア)が使えると書いてあるのに、実際は使えなかったり云々。
それでも、取説に書いてあるのは何か意味のあることであって、理解すればひとつ何かが出来るのだ。読むだけではなくて、何かについて書いてあるものを読んでその何かについて確かめることが出来るのが取説である。逆に出来るようになったあとからなんと書いてあるか取説を見て確かめるのも面白い。最近はどれでも絵を増やし、色をつけ、空白を多くして工夫してある。。
…まだ何か書けそうなので続きは後日。今日はここまで…。
2003年03月01日(土) 「オワラナイナツ」
あっという間に3月になってしまった。
2月は全般に体調が悪く、特にパソコンに向かうのがつらくて中々更新が出来なかった。風邪のせいだと思うが、咳や熱より腹にきたようで、いろいろ辛かった。
おかげで、本はよく読めた。FMもよく聴いた。その中の出来事のひとつ。
FMで深夜に月〜金で放送している朗読の時間(たぶん「ミッドナイトポップライブラリー」45分)があって、その中でオザワセイラという人のオワラナイナツというのを1週間聴いた(実際の著者名・著書名はまだ確認していないのでカタカナにした)。小説ではなくて著者の少女時代の思い出をそのまま書いたもののようだ。家族の誕生日をみんなでこっそり準備し、当日に本人を驚かす話。ボストンに何メートルという大雪が降って、外に出た時小さなクリスマスツリーの赤ちゃんを見つけ、近寄ったらそれが大きなもみの木のてっぺんで、あっというまにその木の根元まで落ちた話。タカベエという、父の友人の話。その人が亡くなってから幽霊を見る話…。
色々な出来事を子供の感性をそのまま持ち越して描いているという感じである。主人公である少女の、ものを見る目が瑞々しく、まるで我々も同じものを同じ感覚で見ているようにさせてくれる、そういう朗読だった。
で、今度は2月23日のFMで午後から約11時間放送された「クラシックリクエスト」を全部録音してあとからちまちま聴いたのだが、その中にフォーレの「レクイエム」があって、それをDJのアサオカサトシさんが「合唱・タングルウッド音楽祭合唱団、管弦楽・ボストン交響楽団、指揮小澤征爾です」と紹介したとき、あっと気が付いた!。
あの「オワラナイナツ」の中のお父さんは小澤征爾さんだということ。そして著者のオザワセイラさんはその娘さんだということ。キーワードは「タングルウッド」でした。
朗読の中で何度も「タングルウッド」が出てきたのを覚えていて、それがアサオカさんの「タングルウッド音楽祭合唱団」で、一度につながってオザワセイラの「オザワ」は小澤征爾のオザワなんだ…。
こういう経験は確かにごくまれだが、これまで何度かある。私のカンはニブい方で、むしろそれをよしとしているのだが、そのお陰でこういうことが経験できる。
それから、これはラジオの朗読の番組だったから体験できたことだとも思う。もし、実際の本だと、こんなことは初めからわかってしまう(まず著者の名前から情報を得てしまう)。そうすると読んでいる時にお父さんが出てくれば小澤征爾さんがあの有名なヘヤースタイルで出てきてしまう等々…。 カンが鈍かったからこそ、何の先入観もなく、ただ、ある少女とその家族の話としてのみこの朗読を聴き、不思議な感動が得られたのだ。情報は多ければいいというものではない。
ちなみに、この朗読をしていたのは、「ヒロセアヤ」というとても声のきれいな人だった。
2003年02月15日(土) 久しぶりの名古屋駅前
…前回の記述から1週間が経ってしまった。今週はずっと風邪で悩まされた。幸いインフルエンザではなさそうだが、微熱と咳と鼻水・のどの痛み等が続いている。友人のH君との約束(購入予定のプリンタを見に行く)も実行できずすみません。
9日のT子(妹)の誕生日にJRセントラルタワーズへバスで行ったのが悪かったと思う。T子のせいみたいで悪いけど、特に帰りのバスは辛かった! 約1時間立ちっぱなし。腰にもきつかった。
でも、JRセントラルタワーズは面白かった。一人700円払って53階まで上がり、名古屋を一望した。山の頂上を別にすればここはこの辺で一番高いところではないか。遠くの飛行機が目の高さに見えるぞ(これから着陸するやつだけど)。庄内川を、以前いた中川区の方から今いる北区までぐるりと目で追うことが出来、200円の望遠鏡で自分のいる団地まで見えた。御嶽山がとても綺麗でちょっと富士山のようだ。新幹線の車両がまるで白蛇のようにゆっくり上っていくのに対して、在来線か私鉄の電車がまるでおもちゃ。手にとるよう。遠くの雄大な景色に対してすぐ隣に立つ同じJRセントラルタワーズのもう一方(ホテルタワーというらしい。我々のいる方がオフィスタワーか)が異様な迫力で迫っている。巨大さがよくわかる。
子供の頃からなじんでいる中川運河はちょうど傾きかけた日の光で反射し、人工の川らしくまっすぐ、そして急に角度をつけて曲がり、そこを目印にたどって懐かしい長良橋を見つけた(昔その下に住んでいたのだ《嘘だけどそれに近い》)。今まで岐阜の金華山や御在所などの頂上から遠景を見たことはあるが、自分の住む街をこうして睥睨(ヘイゲイ)するのはなかなか快感である。初め700円は高いと思ったけど、エレベータ代と思えば安いか。山でロープウエイに乗るようなものだ。 ここへ上がる前に三省堂でT子のプレゼントを買った。何と辞書(国語辞典)。彼女の趣味のひとつは辞書を見ることで、私と妻の会話などから「再三再四」とか「徹頭徹尾」などと聞くとそれを探して「あったよ」と教えにくる。文字通り座右の書にしている。それがもう古くなったのと、ときどき載っていないものがあるというのでやや大きめのを買うことにした。それから(実はこれがこの日の目的だったのだが)、森博嗣先生の新刊「虚空の逆マトリクス」(講談社ノベルス)を買った。やはり森先生のファンである塾の生徒(高二女子)に教えてもらったもので、買ったことをその場で連絡した。彼女は私より多く森先生の本を持っているし、いろんな情報にも詳しい。森博嗣に関しては私の師匠である。
さて昼食は何かごちゃごちゃしたところで簡単に済ませ、53階に上がって先ほどの記述となる。
JRセントラルタワーズを出て、今度は隣の名鉄百貨店に入った。今日のもうひとつの用事はクレジットカードのポイントが貯まって千円分の買い物券になっていたのでそれを使うこと。名鉄という所は子供の頃からいろいろな思いがあるところだが、すっかりイメージが古くなってしまい、こんなことでもないとついでに来ることがない。名鉄さん、頑張れ! 確か昔S子と屋上でデートしたこともあるようなないような…
結局T子の春用のセータをそれ(買い物券ね)で買い、足りない分はまたクレジットカードで済ませた。名鉄はこれでおしまい。さあ、帰るぞ。
帰りは地下鉄で栄まで来、せっかくだからと評判(?)の「オアシス21」(参考:http://www.sakaepark.co.jp/)とやらを見てきた。オアシスとは言い得て妙だ。名古屋は砂漠でここはその中のオアシスというわけか…。自分たちの街を否定するものを作ってどうする。名前は公募だからというのなら、デザインした時にはどんなポリシーだったのだ…。
とはいえ地下のバスターミナルは寒いときにはありがたい。バスの道と待合室が扉で区切られ、排気ガスがこないのも良い。たまたま家に行くバスが来ていたので行列の最後尾から乗ってしまった。で、1時間の立ちっぱなしとなった。いつも自分のクルマで通る道をバスの車窓から見るのはけっこう新鮮である。最左車線を頻繁に他のクルマが駐車しているのでバスが走りにくそう。反省させられる。マイカードライバーもたまにはバスに乗るべきである。
バスが新川中橋まで来ながら渋滞で中々橋を渡れない。昔、中川区の澄池町にいた頃は、名古屋駅から6つ目のバス停で家に着いたものだった。庄内川渡ったらもう名古屋じゃないなんていう人もいたけれど、確かに市中から家に帰るとき必ずこの橋を渡らなきゃ帰れない。昔の渡しのようなものだ…ぶつぶつ。
さあやっと家に着いた。すぐ横になる。疲れた。どうも体の調子が変だ。今日はT子の誕生日なのでお寿司。ちょっと気が重い。それにしても二人は元気がいい。今日は疲れていないはずがないのにこれから買い物にも行くし、風呂も掃除して沸かしてくれる。負ける。
翌朝、案の定、発熱。8度2分ある。インフルエンザかと緊張する。お腹の具合も変だ。張っているだけでなく痛い。置き薬の風邪薬を飲んで出来るだけ安静にする。
…こんな具合に始まってもう1週間になる。ただ、熱は3日目には下がり、頭痛も治まったので、起きているが。今日はT子と団地の広場でバドミントンもやった。けっこういい汗かいて久し振りに気分爽快になった。
2003年02月08日(土) ネタバレあり、注意!
1月30日付けの「最後の弁護士」のオチを書いておこう。今ごろどうでもいいと言われそうだけど一応。
酒井美紀扮する被告人は空き巣の疑いで逮捕され、起訴されるが、国選弁護士(阿部寛)に無実を訴える。しかしプロ並の進入手口を不思議に思った阿部は元大泥棒(大滝秀治)の協力でホームレスをしている男を訪ね、そこでその男の死体を発見する。彼は空き巣の真犯人だったのだが、なぜか殺されていた。一方、資産家の一人暮らしの婦人が強盗に殺され、大金を盗まれるという事件も並行して捜査が進む。そして弁護士はついに空き巣事件の被告人(酒井)が実は強盗殺人の犯人であることを公判で明らかにすることになる。酒井が阿部に弁護を頼んだのは、国選なら裁判に負けて空き巣の犯人にされ、強盗事件のアリバイが成立することを狙ったものだった…というもの。真実悔悟した被告人は改めて阿部に弁護を頼み、ドラマ冒頭の無期懲役宣告シーンは実は強盗殺人罪の死刑求刑に対する勝利のシーンだったことになるのだ。酒井美紀には珍しい悪女役でちょっとびっくりした。
…こうしてミステリィもののネタバレを書いていると、やはり作者(脚本家)に悪い気がするものだ。たとえ放映済みのテレビドラマでも良くない(再放送で見る人もいる)。もうしません _m(._.)m_
さて、今日、団地の自治会の現会長さんから「三役を決めたいので集まって欲しい」とTELがあった。それでわかったのだが、実はわたしはまだ自治会長ではなかった(笑)。選挙ではただ3人が選出されるだけで、その3人で会長、副会長、会計の三役を互選して始めて決定するのだ。すっかり次期会長気分でいたのでこの場で他の二人から会長をやってもらえないかという要請を受けて2つ返事で引き受けてしまった。だから結局会長である。
今週は嬉しいことがひとつ。塾の生徒の一人が高校受験に合格。K塚君、おめでとう!。よくがんばったね。この調子で車校もがんばって(春休みを利用してクルマの免許取得中)。
この土日(2/8〜9)には他の生徒の受験がある。受験前ぎりぎりの5日(水)にその生徒から聞かれた質問が難しくて即答できなかったのが2つあった(どんな問題かはここ)。帰宅してからやってみてもなかなか大変だった。
明日(9日)はT子(妹)の誕生日。まだ何も考えていない、何かしなきゃ…。
2003年02月02日(日) 投票と天才と回転すし
昨夜はこれを書きかけのまま眠ってしまった。今朝はゆっくり10時に起きて朝食の後すぐ家族みんなで愛知県知事選の投票に行った。投票所は三三五五という感じで今回も投票率悪そう。出かける時のニュースでは9.何%。まあ最終で30%前後かな。戦前戦後の民主主義に対する弾圧の歴史を思うと本当にこれでいいのかと思う。これも政治不信なのだろうけど、行かない有権者にも責任はあると思う。
投票後図書館へ行って例によってミステリィを何冊か借りてきた。もう何年も前から推理小説を書きたいと思いながら果たしていない。小説を書くことと数学の勉強を続けることはどちらもやりたいことのトップだといっていいのだが、やはり創作の方は遅々として進まない(数学も遅いけど)。
このことと関係あるというとおこがましいが、昨年のノーベル物理学賞受賞者の一人である小柴昌俊先生が「モーツァルトとアインシュタインをくらべたとき、モーツァルトの方がもっと天才だろう。なぜか。科学は認識する主体と客体にはっきり分離している。アインシュタインがたとえ一般性相対性理論を発表しなかったとしても、ほかの人が論理的に同じ理論を提案することがありうる。ところが、モーツァルトがつくったすばらしい曲は、彼以外につくれないだろうから」という内容の講演をされている。反論もあろうが、大事なことは、こういいながら小柴先生は物理学を専攻しているのだ。これを単なる謙遜と受け取るにはテーマが重過ぎる。
芸術はともかく、科学は人間の認識の「形態」であるから、これが実存するのは本や数式としてではなく、あくまで人間の頭脳の中である。ある理論が確立されても次の人がそれを自分の頭の中に再生産しなくてはその理論は存在するとはいえない。よく出される例だが、19世紀前半フランスの数学者E.ガロアは1832年に死去して以後、その理論は忘れ去られ、1870年に「再発見」されるまではこの世に存在しなかったのだ。(注)
同じようなことが音楽にもある。ガロアとほぼ同時期、ドイツの作曲家メンデルスゾーンによるJ.S.バッハの「マタイ受難曲」の「再発見」は、天才の仕事を引き継ぐのはやはり天才であるとの感を強くする。
教育の目標の一つに「人類の認識の継承」があるのは明らかだが、それを自覚した人が次に自らの仕事を行なう時には、継承に続く創造と発展が求められる。小柴先生の言われることにはそういうことへの強い自覚が感じられる。小柴先生は今現在の人類の歴史の中でのご自分の役割を強く意識しておられるのだと思う。これをわれわれは学ばなくてはならない…。
…話が少々カタくなったが、こんなことを考えつつ(嘘)、午後は爆睡してしまった。その間にS子は一人で「喜多の湯」(参考:http://www.super-sentou.com/index.html)へ行ってしまった。昼寝から起きるとT子(妹)が一人ですず(猫)を抱っこして食卓のイスに座っていた。
今日の夕食は月初めということで、久し振りに「回転寿司」にした。最近あまり行かなくなっていたのだが、先日黒川の「365日全品100円」という看板のある「元気寿司」というのを見つけていた。
10組くらいの待ちがあったのだが、すぐ順番がきたので「回転寿司だけあって回転が速い」などと思ったことよ(口に出してはいない)。ちょっと驚いたのは、ぐるりと回っているベルトの内側で明らかにバイトの女子高生と思しき若い女性がせっせと寿司を握ってベルトに乗せていた。握るのではなく、寿司ロボットの握った飯に具を乗せているだけ。あっという間に10皿くらいをさばく。いろんな意味でさすが100円だなと微妙に感心。おなか一杯食べて3人で2550円。なぜか一皿150円が混じっていた。S子の食べた白身か。牛丼なら3人で840円だけど寿司がほんとに安いのかは微妙・・・。
回転寿司といえば、先日友人のH君と最近CMで有名な「かっぱ寿司」(水主町店)に行った。ここも一皿100円。ここでは回転ベルトの内側には人がいなくて、注文したいときは自分の顔の前にあるインタフォンを押してそこで寿司の名を言って注文する。すると「34番さまご注文」と書かれた台皿に乗って注文したものが流れてくる(女の人が注文を聞きに来る時もあるみたい)。どこでも安さと引き換えに何かを犠牲にしている感じがするが、それが本当に必要なものかどうかはわからない(例えば屋台のこっちと向こうでの会話とか?…)。
<注:高木貞治先生は(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E6%B2%BB)「近世数学史談」の中で「時代を超越するにも程合いがあって、二十年、三十年の超越は危険である」といっている。
2003年02月01日(土) 会長誕生!
2月、寒い。毎年「この月を凌げば春になるんだ!」と思っていたような気がするが、今年はそんな希望も持てないほど寒い。このままどんどん寒くなって8月ごろには南極のようになるのではないかと・・・。寒風の中で仕事をしている人を見ると、尊敬より寒さが感染って来る気がする。寒いとまず体がおかしくなる。震えるだけでなく、めまいがする。ひたすら暖を求めて彷徨うようになる。新聞配達10年の経験があるが、あのころの自分が信じられない。
昨日、仕事から帰るとS子(妻)が、「あ、会長さん、お帰りなさい」と挨拶した。そう、なんと団地の棟自治会の会長に選出されていた! そういえば先日居住者名簿と選挙用紙が配られていたのを思い出した。まだこの団地に来て1年半の自分が4月から会長である。というわけで、これからできるだけこの会長職を中継してやろうと思っている。
2003年01月30日(木) 支配者のアイデンティティ
雪である。仕事に出かける時もうチラついていたので「ヤバいなあ」と思っていたが、こんなに降るとは! で、帰りにいつもの道(三階橋〜水分橋)を通ろうとするとすごい渋滞! 信号が何回青になっても動かない。どうも三階橋のあたりで何かトラブルがあったよう。これではラチが開かぬと、Uターン、平安通りから19号線へ、さらに302号に出て、ようやく帰ってきた。いつもなら10分の道のりが今日は1時間! 19号は渋滞はなかったけど、みんなノロノロ運転なので遅い遅い。ほとんどLレンジで走り、ブレーキはほとんど使わない。こんな日に限って携帯電話を忘れたので、さぞS子(妻)は心配していると思いきや、家に着くと長電話の最中。たぶんこっちから掛けてもお話中だったのでは…。
明日の道路が思いやられる。
昨夜、久し振りの友人からメール&TELあり。この「HPが見られない」というクレームから始まって2時間くらい話し込んでしまった(自分の長電話は気にならないのだ )。HPの問題はどうもURLの中の ~ (通称「にょろ」)が問題のようだ。〜でなくて ~ という話。URLの中ではよく使われている文字。
この友人とのイラク情勢の話の中で、「なぜ小泉首相は『靖国神社』へ参拝するのか」ということで議論した。興味深かったのは「靖国」は彼のアイデンティティではないかという彼の意見。小泉首相だけでなく、現在の日本の支配層にとって「靖国」へ参拝せずにはアメリカに奉仕することは出来ないのではないか。これは多分にメンタルな問題なので証明はできないが、妙に納得が行った。
さて、帰ってきて観たテレビのお話。「最後の弁護人」が面白かった。冒頭にいきなり「被告人を無期懲役に処する」という裁判長の通告。被告はゲスト女優の酒井美紀。まさか彼女が無期懲役なんて! ははあ、これを阿部寛扮する国選弁護人がひっくり返すんだなと思っていたら、なんと…。
テレビのミステリィドラマは好きだ。よく毎日の夕方「火サス」や「土ワイ」等の再放送をやっているのをエア・チェックしてあとでCMを飛ばしながらザーッと観るのがいい。2時間ドラマを大体20〜25分で観られる。もちろん面白いところはじっくり観るが。たとえ途中からでも「これはどういうドラマか」と前半を推理するなどけっこう楽しめる(^^;。犯人は大体当ってしまうので、あまりそこには興味はない。S子(妻)などは新聞か「ザテレビジョン」(番組週刊雑誌)の記事だけで当ててしまう。登場する俳優を知っていて、それでわかるらしい。インチキといえばインチキだ。
テレビのミステリィに一つ二つ注文したい。犯人と被害者しかいないはずの場面をわれわれに見せるのはインチキである。事故か故意かなどという微妙な場面を視聴者に見せて「あれじゃ事故だな」と納得させようというのだろうけど、まさにそこが裁判では論点になるのではないか。また、犯人の動機をいかにも納得させるために、被害者を殺されても仕方ないかのように描いたりするのも安易過ぎるのではないか。
そもそもあらゆる事件が2時間(CM入れて)でカタが着くのも考えてみればおかしなことだ。小説なら長編・短編など中味に合わせて描けるけど、テレビドラマは1時間か2時間と決まっている。仕方ないのかな、と納得してはイケナイ…。
ああ、すっきりした。
2003年01月26日(日) 「タイタンの戦い」
大体1週間に1度これを書いてるペース。ま、比べるのもなんだが、森博嗣先生は、大学の仕事、小説の仕事をしながら「近況報告」を6年(1996年〜)毎日続けている。
この2週間数学三昧で過していたが、やっと一区切りつけてみた。例の相加平均と相乗平均の方は終わったが、あまり出来が良くないので没。もう一つは「平成15年度大学入試センター」の数学ⅠA・ⅡBを解いていた。特にⅡBが難しかった。こんなのをわずか60分で解く学生たちをすごいなと思った(ただ、センター発表の平均点は49.82(数ⅡB)とやや低い)。…というわけで数学論文のUPは今回は挫折。ちょっと気が楽になってる(^^;。
昨日は辻町のアピタで「タイタンの戦い」(CLASH OF THE TITANS) というDVDを買って来て(¥2,500)すぐ観た。面白い。「ストップ・モーション・アニメの巨匠レイ・ハリーハウゼン」製作の「SFX神話スペクタル」(DVDパッケージ)で、ギリシャ神話の英雄ペルセウスが王女アンドロメダとの愛を成就させるまでの冒険を描いたものだが、次々出てくる怪物や天馬ペガサスなどを実写と人形のコマ取りを組み合わせて作っている。特に魔女メドゥーサがすごい!。メドゥーサは「ギリシア神話のゴルゴン三姉妹の一人。蛇の頭髪をもち、これを見るものを石に化した」(広辞苑)という化物。なぜか昔から人気があるようだ。実はずっと以前深夜のテレビ映画でこれを何気なしに観たとき、すごいと思って以来彼女のファンである。
2003年01月18日(土) 500円の「刀根真理子」
前回から1週間経ってしまった。この間、ずっと相加平均と相乗平均。そろそろケリをつけなければ・・・。
12日の日曜日は小牧のイトーヨーカドーへ行ってきた。近場なのでカーナビは必要なかったのに、近くに行ってから探すよりはと思って目的地を指定したのはいいのだが、国道41号線の上には名古屋高速が走っていてそれがカーナビの電波を遮断して画面が更新しなかったのでずいぶん行き過ぎてしまった(笑)。メカを過信するとこういうこともあるという例の一つ。
イトーヨーカドーというS.C.(大型ショッピングセンター)は初めてである。行ってみると「ITO YOKADO RAPIO」という名になっていたので、「ああ、2軒のS.C.が続いているんだな」と思ったら、そういう名のイトーヨーカドーだった。
駐車場は地下2Fで、駐車券を取る。これを持ってエレベータで店まで上がり、何を買うともなく散策していると、4Fに古レコード店があって面白半分に刀根真理子を探していたら何とあるではないか、「JUST MY TONE」(1987年)! 新譜の店にはもうCDもないことが多いので出会うととても嬉しい。CDとしては持っているアルバムだが、レコード盤でも出ていたのだ(そういえばCDの出始め当時は歌手はみんなCDとレコード盤の両方を出していたな)。値段を見ると500円!。買ってしまった。
そのあと百円均一の店でなんやかや(特にS子が)買いこんでから「若鯱屋」で遅い昼食にした。そこであらためて刀根真理子のレコードジャケットを見てみたが、やはり大きいジャケットはいい。CDのジャケットは小さい。面積で約6分の1。レコードを聴きながらジャケットを見る楽しみは昔より少なくなったと思う。何でも小さくなればいいものではないという例の一つ(今日は例えが多い)。
刀根真理子は、オトナになってからハマった唯一の歌手。一般には「キャッツ・アイ」のテーマ曲を歌っていたことで有名だが、現在では知る人も少ないかも。
「百円均一の店」で思い出したが、先日AMラジオで(たぶん17日。番組名は忘れた)、電車の中で女子高生の付け爪に見とれていた隣のオジサンが「ねえちゃん、それきれいやな」と聞いたら「きれいやろ、百均で買うたんや」「そうかあ、やっぱり借金せんと買えんわなあ」という会話を聞いた人の投書を放送しているのを聞いた。ここで始めて「百均」というのを聞いて、これはいわゆるコギャルことばのひとつかなと思った(それとももう普遍化してるのか?)
イトーヨーカドーの向かい側にコジマ電気があったので覗いてきた。まあどうってことはなかったけれど、ビデオテープを買おうとレジへ行ったらレジが一つしか稼動していなくて、しかも先客がずいぶん長くかかっていたのでやめてしまった。こういうことには本当に気が短い。国道41号線豊場にできた「横綱ラーメン」も気にしていながら、いつも車が並んでいるのを見て行きそびれているのも同じ理由。何も並んでまでと思ってしまうのだ。
話がバラバラだが、レコードの後日談。翌日から2日間、せっかく手に入れた刀根真理子を聴こうと押入れの奥にしまってあったレコードプレーヤーを引っ張り出して試してみた。今月10日付けに書いた「25年も前に買ったシステムコンポとは名ばかりの、今はチューナとアンプしかないステレオ」に付いていたやつだ。もう動かなくなっても捨てるに偲びずとっておいたのだが、やはりダメだった。これでまた惜しいものがひとつ減って、欲しいものがひとつ増えた。
2003年01月11日(土) バカ親子!?
今日は、E美(友人)宅へパソコンの調子を見に行った。このHPが見られないというので。その時こんなネタを提供してくれた。
去年の夏、E美の長男K君(大学生)からの熱い(暑い)要望で彼の部屋にクーラーをつけたのだが、昨日!になって「母さん、このリモコン(クーラーの)、暖房っていうボタンがあるよ」 「えっ? うそ!」 やってみると何と暖かい風が…。「へえ〜、これ、エアコンだったんだね…」「うん、そうみたい」 …というバカ親子のお話。
その話を聴いて大笑いし、「説明書くらい見たら?」というと、「そんなもん見なくても動くし。大体安かったんで、エアコンって思わなかった」とのこと。
HPが見られないといってたくせに、URL(http://www5e.biglobe.ne.jp/~tennin/)を入れたらすぐ開いた。ま、深くは問うまいということで、ついで森博嗣先生の浮遊工作室(参考:http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/)のURLも「お気に入り」に登録してしまおうと、URLを入れると…。なんと、トップページがリニューアルされているではないか! 実は去年の8月「森ぱふぇ」(参考:http://www001.upp.so-net.ne.jp/mori/siteguide/read_me.html#fc)に入会(ファンクラブです)してすぐ「近況報告」等をDownLoadし、それをじっくり読むばかりの日々でずっと「浮遊工作室」には直接アクセスしなかったのだ。家に帰ってからじっくり見るとリニューアルの日付は2002年12月ということで1ヶ月も知らなかったことになる。それにしても美しいHPで、センスの良さに汗が出た。
E美宅での続き。
K君が学校の授業で、VBで行なう数値解析のことで聴きたい、なんて質問をしてきた。K君を小さい時から知っているが、こんなことを質問するようになったんだなあと、つくづく時の流れを痛感!
帰りのクルマの中で、FM-Aichiの「AVANTI」(参考:http://www.avanti-web.com/)を聴いた。これは、毎週あるテーマでその道のプロが「AVANTI」という Waiting Bar でカタるという、ある意味マニアックな、毎週楽しみにしている番組。今日は録音の予約をしてこなかったのでちょうどよかった!。今日のテーマは「業界用語」。「ケツカッチン」などの語源の話が楽しかった。
帰ると、S子(妻)たちが辻町のAPITAへ行って松浦亜弥の大きなカレンダを買ってきてくれていた。2000円だったのが半額だったそうで。早速自室の壁に掛けてみた。くるくるに巻いてあったので、まだ表紙の亜弥ちゃんの顔が半分くらいしか出ていない。これから何日かして全貌を表わすのが楽しみ。そういえば書き忘れていたが、お正月2日の「忠臣蔵・決断の時」(テレビ東京)に亜弥ちゃんが出ていた。ファンにとってはいいお年玉であることよ。
2003年01月10日(金) FMをビデオに録音
この7日付けに書いたように相加平均と相乗平均のことを調べていて段々深みにはまっている。解答をHPにアップしようと思っていたが、この分じゃ、相当先になりそう(別に締切があるわけじゃないのであわてないが)。
今年になってイラク情勢が急展開である。政治には色々な立場があるが、それはお互い尊重しあわなくてはいけない。しかし他国への戦争は別だろう。これは絶対許してはいけない。始めれば必ず人が死ぬ。人が必ず死ぬとわかっている戦争を起こす権利は誰にもない。しかも世界世論は「イラク攻撃反対」が圧倒的だ。イギリスもフランスも中国もロシアも、アメリカ国内さえも反対の声をあげてる。
われわれ「団塊の世代」は、ともかくも戦争の終わった日本に生れ、貧しいながらも平和な中で育った。途中、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などが起こったが、日本は残念ながらそれらの戦争に反対の姿勢を貫けなかった。個人としては反対していても、その声を自分たちの政府に実行させることが出来なかった。とても残念だが、日本はまだ戦争を厭う平和を志向する勢力が政権を担っていない。このことに対するわれわれの責任はまだ果たされていない。この責任を果たすこととイラク攻撃反対の声をあげることとは同じことだ。イラク攻撃を阻止できれば、とにかく数百万の人々がミサイルの脅威にさらされることはなくなる。すべての問題はその後でもいい。その大きな世論の力をテロに対しても向けていくことでこれを防ぐことも可能になる。手立ては見えている。その人に出来る方法でこれを実行しよう!。
昨日は、かねてからの願いだった「自分の部屋でFM番組をビデオに録音する」ことを実現した、なんて書いても大したことではないが。25年も前に買ったシステムコンポとは名ばかりの、今はチューナとアンプしかないステレオ(まだCDはなかった時代のもの)を、去年の夏に買ったビデオ(¥9,980)につないだだけ。スピーカもなかったが、これは友人が引越の時にいらないからとくれたミニコンポをつないでみた(CDは使用不能だった(*_*))。
初の録音テストは午後2時からのNHK-FM「ミュージックプラザ第1部」。これで今までS子の部屋で録音していたことから開放される。この日のブラームスの交響曲第2番は格別。
クラシックは大好きだが、生演奏を聴いたことは殆んどない。無料のリサイタルが何回かと、N大のオーケストラの「第九」を一度聴いたことがあるだけ。CDもあまり買わない。ラジオやテレビの放送が主なソースである。ビデオテープに録音するメリットは長時間録音が可能なこと。日曜日のNHKFM2時〜6時はずっとクラシックだが普通のカセットテープではムリ。VHSビデオテープなら3倍モードで6時間可能だからむしろ音楽向きかも。年末にFMでやっていた「バイロイト音楽祭」なども録ろうと思ったらこれでないと無理。このごろはDVDプレーヤも普及してきたからやがてそちらに移るのだろうが、まだ当分はこれでいいかな。
2003年01月07日(火) 七草粥
昨日は初仕事。6日からの雪が残っていて運転下手の自分は緊張しまくり。アイスバーンというのか、昼間でも陽の当らない道路が凍っていて恐くてブレーキが踏めない(本当に踏まないわけではない)。余談だが、今「アイスバーン」と書こうとして「アウトバーン」と書いてしまった。どちらもよく滑りそう? 辞書をみるとどちらもドイツ語(EisbahnとAutobahn)だった。知らなかった!
平均気温以下の日らしく久し振りの教室は寒かった! いつまでたってもエアコンが効かない。家に帰ってからの山本屋の味噌煮込みうどんで温まった。(うどんが硬すぎ! それが自慢らしいが。)
今日は「七草粥」。朝、S子が「ななくさなずな、とうどのとりが…」と歌いながらまな板で七草の具をとんとんたたく音で目が覚める(歌で起こそうとしているのだ)。Nフコ(誤植ではない。S子と同じ略称のつもり)勤務なのでこういうイベントは欠かさない。T子(妹)が横でけたけた笑っていた。わが家は朝いつもお粥だが、具を入れるのは珍しい。さっぱりしておいしい。
(以下、数学のことを書きます。興味ない人は飛ばしてください)
夕べは遅くまで数学の問題を解いていた。「異なる二つの数a,bから相加平均a1と相乗平均b1を作り、またa1とb1から相加平均a2と相乗平均b2を作り…というふうに限りなく続けていくと最後には(極限値が)一致する」というもの《高木貞治著「解析概論」練習問題(1)》。
初めは実際に計算して確かめてみたが、なるほどこの両者はだんだん近くなる。だから最後には一致するだろうことも想像できる。でもなぜそうなるのだろう。これら自身が半端じゃない不思議さを持つ。
いつも思っているが、数学の問題を解くことはミステリィ小説を読んでいるのと同じだ。答えがないものは自分で「犯人」を見つけなくてはならないが・・・
まず、問題を見て、知って(あるいは発見して)、それを不思議に思う。つまり「事件」に遭遇するのだ。そしてそれを解決していくのは、まさにミステリィ小説である。犯人がわかってしまえば「そうだったのか!」でめでたし々々になる。しかし犯人がわかっても、今度は、ではなぜそうなっているのかと不思議に思う。さらにこれを追求していくことが始まる・・・。それを書き下すことができれば、つまり解答論文ができれば、それはそのまま「ミステリィ小説」になるのではないか。この小説の「犯人」は常にわれわれの生きている自然界である。自然はちゃんと理由があって不思議なことをする。動機がある。それを人間が解明していく、そうして物理や化学や数学が出来た、と思う。自分もそれをしたい。そういう仕事がこのHPでできたらどんなにいいかと考えている。
2003年01月05日(日) 祝HP開設!
今日はこのHPへのリアクションがあった。まず、塾の生徒さんからの「祝口H・P・開設!」という年賀状(「祝」の字の隣の口はたぶん日の丸?)が来た。彼女は自分のパソコンがないにもかかわらず、弟さんの携帯電話で見てくれたとのこと。それから、友人が二人、TELとメールをくれた。皆さん、ありがとうございました。
この友人のうちの一人はこのブログの2002年11月11日で「ぷりずむ」主宰者として登場したT中君の奥様だが、お二人は「うば姫(美)笑品」(この(美)のところは美という字を○で囲んである)という通信を発行していて、その創刊号を年賀状として戴いていた。
2003年01月04日(土) 寝正月
早くも4日。実は2日、3日は背中を痛めて寝ていた。クッチャネクッチャネの日々がもう1週間続いているので、たぶん筋肉痛(運動不足が原因の)と思うのだが、恐くて動けない。
おかげでテレビは嫌というほど観た。2日はテレビ東京の「忠臣蔵・決断の時」。10時間通して観た。3日はNHKの「信長」(昔の大河ドラマの再編集もの)とフジテレビの「平成教育委員会」。「忠臣蔵」はわかりやすくて面白かった。このドラマの吉良上野介(橋爪功)はこれまでのドラマの中でも最低の男に描かれてると思う。愛知県吉良町の人たちはさぞ不満だろう。テレビ局に苦情が行っているのではないか。それに比べて大石内蔵助(中村吉右衛門)は、欠点のない間違いも犯さない長谷川平蔵そのままで、やや類型的とも思えるが、内蔵助はこうでなくては忠臣蔵にならないのだろう。
「信長」は、4日の「秀吉」、5日の「徳川家康」と共に「テレビ放送50年特別企画」として放送されたものなので、作品として特に言うことはない。「テレビ放送50年」についてはまたの機会に。
「平成教育委員会」は小中学校の入試問題等から出題するクイズ番組で、仕事柄(塾講師)興味がある。「緊緊」や「予予」「寸寸」などの読み方などは知らなかった。皆さん、わかりますか?(正解はこの漢字をクリックしてみてください) 今ここで正解の読み方をタイプしてみても出てこないので、ワープロの辞書にも載せていないものがあるようだ。 …とまあ、文字通りの寝正月となったわけだが、このままお正月終わりではあんまり寂しいので、今日は知多の野間大坊(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%96%93%E5%A4%A7%E5%9D%8A)(鶴林山大御堂寺)というところへ家族3人で行ってきた。実は昔(1980年)、日も同じ1月4日に友人のT中君と一度行ったことがあって、その時の印象が良かったので再度訪ねてみたいと思っていた。ここは1160年、平治の乱に敗れた源義朝が謀殺された所として有名だが、昔とはずいぶん印象が変わった。風格のある堂々とした大社と思っていたのに、今日は俗っぽく品のないお社に見えてしまった。たぶんこれは見ている自分のほうが変わってしまったのだろう。神社や仏閣を畏怖していた昔の自分を失い、替わりにこういうものを「客観的」に見てしまうようになった自分がいる。こういう時、来たことをちょっと後悔するものだ。
子供の頃、父に連れられて行った大須観音の仁王さんが恐くて山門を通れなかったことを覚えている。今の仁王さんがその時と同じかどうかわからないが、大人になってここを通るたびに我ながら笑ってしまう。それと同じかもしれない。でも、なんだか寂しくもあり、懐かしくもある。
つまりこれはもう一度行ってみる必要があるということかも。「何でも3回は見なくてはならない」、これが今回の野間大坊訪問の教訓。
さて、この日はこれで終わらない。目ざとく「えびせんべいの里」(参考:http://www.ebisato.co.jp/)という看板を見つけたS子は、立ち寄りを命ずる。行きはドライブを楽しもうと247号を走ってきたのだが、背中も痛いし、帰りは高速道路で帰ろうと美浜インターに来ると、まさに眼前に「えびせんべいの里」が! もうここはHPを見てもらったほうが一目瞭然なのだが、見たくない人のためにちょっと説明すると、えびせんべいをまるでスーパーマーケットのようにして買うところ!。野間大坊より混んでいた(笑)。試食自由だし、作っている所を見学できたり、コーヒーが無料で飲めたり出来る。S子はとてもお気に入り。
結局ここでえびせんべいの他にいわしとじゃこを買って帰った。
2003年01月01日(水) 明けましておめでとうございます
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
これを書いているのがまだ新年の午前1時ごろなので、特にネタはないのだが、さっきまで見ていた「紅白」の感想をちょっと。例年に比べ格別の感動はなかったが、普段聞かない歌もつい聞いてしまうことから「あ、けっこういい歌なんだ」と思ったのが、Gacktの「12月のLove song」。サビの「大切な人だからずっと変わらないで…」のところで声がきれいだと思った。「紅白」のあと、民放のあるライブ番組でも彼の別の歌(曲名を忘れた)を聞いたが、同じことを思った。Gacktはあのキャラも好きだが、歌もうまいんだ。その他印象に残った歌手をあげると、華原朋美、ジョン健ヌッツォ(オペラ歌手)、中島みゆき、石川さゆりなど。
ところで、「レコード大賞」は誰だったのか? 「紅白」でいつも紹介するけれど、聞いてなかった。明日になればわかるけど、面白いから予想しておこう。本命・浜崎あゆみだが、自分では森山良子にあげたい(ただ、金賞十曲のうち、知らない曲が六曲もある! これでは、予想ができない)。
明日(じゃない、もう今日)は、一宮の真清田神社へ初詣の予定。 …というわけで、もう一日が過ぎてしまった。夕べは4時ごろ寝たのだが、もう8時には目を覚ましてしまった。S子がお雑煮を作り出したので起きていき、さっそくテレビをつけると例によって紋付袴のお笑いタレントと晴れ着の女性たちのオン・パレード。この雰囲気がいい。
さて、「レコ大」が気になるので、新聞を見ると、予想的中! 浜崎あゆみ(「Voyage」)。しかも森山良子は最優秀歌唱賞!
午後、真清田神社へ初詣。去年行ったので今回はカーナビを使わないで行ったらやはり迷った。神社まで1kmもない所から結局カーナビを始動。無事一宮市街地に入ると案の定というか、すごい渋滞。で、神社のかなり手前に車を止めて歩く。人混みを分け入って参拝を済ませ、いつものように車のお守りを買って串カツを食べて、S子が猫の置物を2つ買って、帰りは22号線で帰る。こちらは渋滞なし。
猫の置物はこのごろどこへ行っても売っているやつで、たぶん作っている所が同じだと思う。恒例により買ったところの地名から命名。今、車に乗っているのは一昨年湖東三山の百済寺で買ったので「くだらちゃん」、去年犬山城で買ったのが「いぬやまじょうちゃん」。で、今回は親子二匹の方が、「まーちゃん」と「すみちゃん」、もう一つが「たーちゃん」です。べたに付けるのがコツ。何でもそうだが、名前を付けると大事にするものだ。わが家の備品にはかなり恥ずかしい名前がいくつか付いているが発表は差し控える。
というわけで今年もつつがない元旦となった。
年頭に当って、抱負を書いておく(これは自分に対する公約)。今年こそ、高木貞治の「4部作」を読破すること(4部作とは「解析概論」「初等整数論講義」「代数学講義」と「代数的整数論」のことだが自分で勝手にそう呼んでいるだけです)。これが実現すれば、自分にとって大きな未来が開ける(と思う)。さあ、がんばるぞ!
2002年12月31日(火) よいお年を!
いよいよ大晦日。でも掃除はほとんど前日終わって今日はちょっと暇。が、S子(妻)はきょうも6時まで仕事。そのかわり、従業員価格で正月用品が買える特典付きだそうで、まんざらでもなさそう。
午後になってからT子(妹)が「時計が止まった」と言ってきたので、見ると腕時計が朝10時半で止まっている。電池切れと思うが、近くに時計屋さんがないので、辻町のアピタまで散歩がてら行くことにする。
風がやや強かったが、なぜか南風(庄内川の河川敷に凧が上がっていた)で、さほど寒くはない。アピタはすごい人! 不景気などどこ吹く風。食品売場はごったがえすという言葉を久し振りに思い出したくらいだ。でも我々は1000円の腕時計だけ買い、年越しそばに入れるえび天を3個買ってついでに昼めしにラーメン食べてすぐ帰った。ぐずぐずしているとどんどんお金を使いそうでコワい。
帰ってからお正月準備の仕上げに鏡餅と注連縄をセット。鏡餅はいまどきのプラ容器でパックした、紙の組立三方付きです。注連縄も団地のドアに貼り付けるタイプで、ちょっと見クリスマスのリースの様。でも中にまねき猫なんかいたりしてしっかり日本。
S子も帰宅して、年越しそばを作り、紅白も始まった。この続きを書く頃はたぶんもう新年だろう。では皆さん、よいお年を!
2002年12月29日(日) 豊浜でマグロと海草を
一週間これを書かなかったら、世はなべて年末バージョン一色。クリスマスの「ク」の字もない。見事なものである。
今日は友人のH井夫妻の誘いで知多豊浜の魚いちばへ正月の買出しに同行させてもらった。S子(妻)は仕事で来られなかったので、
独断でマグロの切身と海草を買う。帰りに昼食をごちそうになってしまった。
H井さんのご主人は車のプロで、クルマもマニュアルである。運転がうまいせいもあるが、助手席にいてもアクセルの動きを車がきちんと反映しているのがよくわかる。小気味がいい。自分はオートマ(チック)しか乗れないけれど、今日はちょっとだけ気が大きくなった。今度はマニュアルかなと。(そのときになればまたオートマになることはわかっているが…)
さて、明日あさってのわが家は(どこでもそうだろうけど)大掃除。自分の受持ちはガラス磨きと網戸の掃除、それにガステーブル、花壇の花活け、最後に注連飾り。これが終われば年越しそば(天ぷら付き)が食べられる。
2002年12月22日(日) アップロード初体験
昨夜から今朝にかけては自分のサイトのアップロード前最後の仕上げで徹夜した。今日は念願のアップロード初体験。まず、FFFTPをダウンロードしてマニュアルを読む。簡単。すばらしいソフトだ! FFFTPの名前は以前から聞いていたが、人気抜群のわけが理解できる。これからずっとお世話になりそう。Lhaとか、Ishとか、フリーソフトでDOS時代から使い続けているものがあるが(IshなどDOSからWindowsへの移行期に、どのくらい重宝したことか!)、これらの作者の方たちを私は神のようにあがめている。
さて、アップロード実行。紆余曲折あったもののなんとか成功! 一部、表示されないものがあったのだが、ファイル名の拡張子に大文字があったのが原因とわかって解決! なにはともあれめでたしめでたし。これで年賀状にもURLが書き込める。だから宣伝のために今年はいつもより多めに(年賀状を)書いた。これからどういうリアクションがあるか楽しみでもあり、怖くもある。皆さんよろしくお願いいたします。
2002年12月21日(土) 「体制順応型気質」へ
いよいよクリスマスの雰囲気になってきた、テレビの番組も、街の様子も。どうも日本にもすっかりクリスマスが定着したのは認めざるを得ない(今頃?)。
日本が豊かになったことがクリスマスを定着させたことは間違いないだろう。貧しかった子供の頃に、父親が生まれて初めてケーキを買ってきて、「景気が良いのでケーキを買ってきた」とダジャレを言ったのを今でも覚えている。お盆には坊さんを呼んでもキリスト教のキの字も知らない、職人気質で冗談ひとつ言わない父がである。私は近所にそのことを言いふらしに行ったくらいだった。
なぜ父はケーキを買ってきたのか。それは人並みにしたいということだろうと思う。現在でも私は(どっちでもいいとはいいながら)ケーキを買う。人並みにクリスマスをしたいのだろう。、単に人並みの暮らしをしていることを自分に確認したいという気持ちだと思う。よくいわれる日本人の「体制順応型気質」かも知れない。
今日はいよいよ年賀状の準備も始めた。今プリンタが壊れているので、どうしようかと思ったが、S子のワープロが印刷可能だったのでこれで作ることにした。カラーじゃないけど、羊もいるし。
年賀状はずっと年内には出さない主義だったが、これもクリスマスと同じ年末の行事として認めることにした。いろんなことに妥協し始めて、これもトシのせいなのかなあ。
2002年12月15日(日) 名古屋駅へ
今日は自分の誕生日。55歳。S子(妻)が「昔なら定年だね」といっていたが、自分でも信じられない年齢になった。
朝からどうも様子がおかしいと思っていたが、どうもささやかながらお祝いをしてくれるらしい。というわけで辻町のアピタに行くことにした。
そのアピタで、ズボンを買った。ウエストに合わせて買うと、裾をずいぶん切らなくてはならないし、太もものところはダブダブ。つくづく年齢を感じた。
あと、ついでにCD屋さんでリコーダを500円!で買った。説明書が英語で、しかも「German System」なんて書いてあるので「まさかドイツ製じゃないよな」と思ってよく見るとケースに「made in taiwan」という小さなシールが貼ってあって何となくホッとする… 楽器は何でも好きで中学時代はクラリネットを吹いていた。本当に欲しいのはピアノだが、さて、生きている間に買えるか。
夕方、家族3人で名古屋駅へイルミネーションを見に行った。遠くから見た名古屋駅のツインビル(JRセントラルタワーズ)のライトアップもずいぶんきれいだが、10日の日に友人のH君と駅前を通りかかったときあまりの見事さに、S子とT子(妹)に見せようと思ったのだ。あのツインビルの正面に凱旋門を描いた巨大なイルミネーションと、その下に何百万個もの電球で作ったSLのイルミネーション、そして回りのビルのあっちにもこっちにもにも無数の電球が…。。感動的だが、一方でとてつもない浪費ではないかという自責の念が起こる(なぜ自責なのか、自分でもよくわからないが、これも先日書いた「責任の一端」かも)。クルマでぐるっと回るだけのささやかな見物だったが、渋滞のお陰で結構ゆっくりと見られた。何年ぶりかに駅前のロータリーも一周した。歩道にもたくさんの人で、「立ち止まらないで下さ〜い」というスピーカーの声も聞こえてきた。帰りもわざと渋滞の広小路通りを通って、最後は家の近くの「角千うどん店」で天ぷらうどんを食べ、家に帰った。「利家とまつ」の最終回を見ながらアピタで買ってきたショートケーキを食べて生誕記念日を終えた。
2002年12月08日(日) クルマに頼っている自分
愛車のロフトで仕事へ行く途中、ガソリンを入れた。環状線の平六通りで、従業員に言われるまでセルフスタンドだと気がつかなかった。でも初めから終わりまで親切に教えてくれて「セルフなのに変なの」と思ったことよ。これじゃセルフにしたメリット(人件費)がないのでは? しかもカード会員募集キャンペーン中らしく、大きなトイレットペーパーがサービスになっていた。つまりカード会員を増やせば会員が自分で入れてくれるようになり、そのうち従業員も必要なくなるだろうという戦略か。カードはガソリン代を銀行引き落としにするというものだったので作らなかった(カードは一種類しか持たない)。もうひとつ不思議なのは、すぐ近所の普通の(つまり従業員が給油し窓も拭いてくれる)スタンドとガソリン単価が同じことだ。セルフなら安いかと思ったがそうでもないらしい。最近のスタンドはフロントガラスも拭かない所が増えてきたし、ゴミも吸殻以外は引き取らないようだ。それでいいと思う。いずれにしてもガソリンスタンドはものすごく多い。過当競争の見本のようだ。市内では リッター当り92〜3円が多く、これでは採算が取れないかも。
現在の自分からクルマを取り上げられると生活に支障が出るので困るが、昔は(免許を取る前は)、飼い猫が轢かれたり、自分も事故ったり、排気ガスや騒音に悩まされたりしていたのでクルマを憎憎しく思っていた。今でもそれらは解決していないのに、クルマに頼っている自分を矛盾していると思うが、そういうことはたくさんある。クルマ以外に、原子力発電、家庭排水、ゴミ。このパソコンもそうだ。新しい機種が出ると欲しいなと思ってしまう、等々。自分にすべての解決の責任があるとは思わないが、その一端があるのは間違いない。
2002年11月23日(土) 格安電話機
今日は友人のE美(塾の昔の教え子。もう大学生の子がいる)が遊びに来たので、うちの家族もいっしょに大曽根の栄電社へ行った。前から自分の部屋専用の電話機を買おうと思っていた(パソコンまでは電話線を引いてある)が、ちょうどあつらえ向き(¥1,980!)のがチラシに出ていたので買ってきた。E美が「どうしてそんなの簡単に買って付けられるの?うちにも付けて欲しいな。」というので、今はどこのうちにもモジュラージャックがあってそれに繋ぐだけだと説明したが、いまひとつ理解していないようだった。あと、ニトリでS子(妻)がベランダ下の花壇に置くねずみの人形(「人形」は変か)を買い、ユニクロをちょっとのぞいて、次に上飯田のダイエーに行ッった。ここも古い店で、大昔(25年は前だ)この近くに住んでいた友だちと来たことがある。ここのすがきやでラーメンを食べ、その後向かい側の「80円均一」でなんやかやと雑貨を買ったが、80円の電卓があったのには驚いた。ちゃんとルートもあるし、M+やM−、MRも、小さくたたんだ説明書もついている。
帰宅して、さて電話機を取り付けた。といっても付属のモジュラーケーブルでパソコンと電話機をつなぐだけ。試しに携帯から自宅へ掛けて見る。呼出音が大きくてびっくりした。スピーカーに透明のガムテなど貼ってみたがまだ大きい。せめて呼出音の「切」くらい付けて欲しかったが値段が値段だからしかたないか。
2002年11月18日(月) 免許更新
今日、免許の更新に行ってきた。三年ぶり、ということはゴールド(優良運転者)ではない。実は平成10年4月の速度超過違反がまだ影響していて、前回に続き今回もゴールドではなかった。しかし「一般運転者」ということで1時間の講習後、5年の免許がもらえた。「規制緩和」の一環なのか、有効期間が延びている。今度の更新は平成20年の1月。
それにしても平針試験場は車の量と人の多さがすごい! 平日の、それも8時に出かけたのに(月曜日だったのがいけない?)。試験場に入って駐車するだけでも20分くらいかかった。
帰りも試験場を出るのはすぐだったが、行きと同じく302号線で帰るつもりが植田あたりですごい渋滞。ずっと先のほうの信号が青になるたび5m位ずつ進むのだが、けっきょく痺れを切らし、Uターンして153号に戻り、41号へ出たのだが、ここがまたすごい渋滞。事故か何かあったのかと思ったが、自然渋滞らしい。毎日仕事でクルマに乗っている人は本当に大変だ。一つ違えば(自分と他人の)命にかかわる仕事だ。しかも会社や得意先から早く運べというプレッシャーが掛けられる……。
帰ったのは2時。疲れた。おかげで昼寝はぐっすり。
2002年11月16日(土) イデヤル
本当にわかったのかどうかあやしいが、もし、わかったのであればあとで思い出すためにこれを書いておく。
ここでいう「イデヤル」とは、高木貞治(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E6%B2%BB)の「初等整数論講義」に出てくる数学概念。最近の本では「イデアル」と記述される方が多いようだ。「イデヤル」が「倍数」の概念の拡張であることはもう何年も前に別の本で読んでいたが、その意味が今ひとつわからなかった。例えば2の倍数の集合に「イデヤル」と名づけてもそこに何か新しい意味が生まれるのだろうか、と思っていた。
現在の理解度は次の通り。 「ある整数の倍数の集合をAとする。Aには次のような性質がある。
①Aの要素の和、差はAに属する。
②Aの任意の倍数はAに属する。
ここで発想を転換し、この①②の性質を持つ整数の集合を『イデヤル』と名づける。」
つまり、倍数の持つ性質から①②を抽出し、今度は逆にその性質を持つ集合を新たに定義する。こうすると(数学ではよく起こることだが)、新たな概念は元の「倍数」の概念以上のものになる。そこで、それを「イデヤル」と名づけたのである。
普通の整数の世界では素因数分解は一意性を持つが、整数の世界を広げると、それは成り立たなくなる。「それはむしろ例外である」(「初等整数論講義」)という。そこで、「イデヤル」を導入することで、素因数分解の一意性を再構築する。そしてそれが『「イデヤル」論の基本定理』となるのだ…。
こんなふうに理解しているが、その真骨頂にはまだ及んでいない。しかし、「イデヤル」がわからなかったことが「代数的整数論」(高木貞治著)に至る上での大きな壁であったから、今度は期待が大きくなる。もちろん目標は「類体論」である。
2002年11月11日(月) 「ぷりずむ」
今日は「おしどり」という自作をHPにアップするため、昔、自分も参加していた、「ぷりずむ」という同人誌を探し出していた。「ぷりずむ」は、7〜80年代当時そろそろ流行の兆しがあったタウン誌のひとつ、もう少し正確に言うと「地域密着型総合小冊子」である。幼なじみのT中君が主宰し、近所の友人、家族を「ばんちゃ倶楽部」同人と称し、原稿を集め、初めの頃は月1回発行しながらも、やがて、季刊?となり、ついには年刊!、そしてやがて自然休刊となってしまったが、冊子の発行だけでなく、旅行や季節の催し、麻雀など、幅広く活動した。現在手元にある「ぷりずむ」の「最新号」は26号で、日付は1989年2月26日発行となっているので、のべ12年は続いたことになる。
記念すべき第1号は、1977年1月、湿式のコピーで印刷されたB5版たった2枚。まだ「ぷりずむ」の名もなく、その後の大きな特色となった表紙の版画もなかった(「ぷりずむ」の名と、表紙の版画は第2号から)。が、裏にはその後も押捺されることになった「ばんちゃくらぶ」の板判がある。以下に主宰者の第1号への巻頭言全文を載せる。
「ばんちゃ倶楽部は今、その活動の世界を拡大せんと、1977年に対して大いなる野望を持ってその第一歩をこの紙面上 諸君に示るす。
20世紀が残り4半世紀を切った現在、我々は破壊と再生の20世紀を基盤として、21世紀への過渡期に未来を望む。我々は自らの存在をこの歴史に位置ずけるべく、日常に埋没することから、はい上がる努力をおしむべきではない ここに記載したものは新しい年に対面する各自の一つの軌跡である。」(原文のまま!)
このあとに9人の「同人」がおもに新年への抱負を述べている。近所の幼なじみ、お世話になった人ばかりで、今読むと懐かしいことこの上ない。この仕事をした主宰者のT中君の発想と情熱はいくら高く評価してもいいと思っている(わたしは彼の結婚式でもこのことを強調したものだ)。
当時けっこう評判だった(もちろん同人・友人の間でであるが)「ぷりずむ」の表紙をいくつか載せたので興味のある人は覗いてみてください。
2002年11月7日(木) ブログ開始!
今日からいよいよ「ブログ(公開日記)」を書こうと思う。お手本は森博嗣先生の「近況報告」。
<漢字の読みの答え:「緊緊」は「ひしひし」(bishibishi、pishipishiでも可《広辞苑》)、「予予」は「かねがね」、「寸寸」は「ずたずた」です。(戻る)>