気功体験談
【中国針・灸との出会い】
1980年頃、年齢的な変わり目に加え、無理がたたり全身疲労、ひどい肩こり、腰痛に悩まされており、薬・理学療法など整形外科での治療ははかばかしくなく、何軒か病院のはしごをしていました。
人づてにたずねたある診療所で、薬・理学療法に加え中国針・灸の治療を受けるようになり、治療が合ったというのか、ひどい痛みから徐々に解放されていきました。ここでの治療方針は考え方が少し一般的な治療院と違っていて、鍼灸師から針の打ち方、灸のすえ方を教えてもらうことができました。このことは、後に、痛みを感じそれを主張している体(誰かに治してもらいたい心)と、もうひとつ、違った角度から体をみつめるきっかけを作ってくれたように感じています。また、診療所で紹介され、中国針を求めに行った店で、当時、特集として気功を掲載(※当時の記事参照)していた人民中国誌をいただくことになり、その誌面を通して初めて気功と出会うことになりました。
腰が痛くて、命門穴に一本針を自分で打ってみて伝わっていく針の響きが足元の方まで感じられ、ほぐれていく痛みに感動しました。
鍼灸師は、何も知らない私に「針を打つとエンドルフィンという物質が分泌されて痛みが和らぐ」と教えてくれました。それでも、痛みにとらわれない生活を取り戻すのに、かれこれ4〜5年の月日がかかりました。
【整体との出会い】
1985年頃、近所で整体をしているグループがあって、ある日声を掛けられました。「今まで具合が悪そうに見えたので声を掛けようかずっと迷っていた」とのことでした。同じ生協の仲間や、子どもの同級生のおかあさん達だったので行って見ることにしました。
すわってただ体に触れてくれるだけで特別なことは何もしないのですが、針の響きを知っていたので、それは感動的なものでした。
それは、針治療を受けたときと同じ体感があったのです。気軽に会話しながらのことだったのですが、本当に深いところから癒されていくようでした。気というものをはっきりと感じた瞬間であり、気というものをもっと知りたいと思った瞬間でもありました。そして気の探求をはじめたときでもありました。暇さえあれば、息を整え、獏とした時間を過ごし、言葉を変えれば、瞑想をしていたのでしょうか。そして、その頃から日常の中で様々な不思議を体験するようになりました。
ケース1.
ある年の冬のはじめ、巡回販売の灯油を2缶買って自宅に持ち帰ろうとした時、腰が痛くて動けなくなったことがありました。
痛い!っと灯油を置くと、体が自然にガタガタと動き始めて止まらなくなりました。人目もあるし困ったのですが、どうすることも出来なくて動きに任せていると、しばらくするとその動きは止まりました。その場は、恥ずかしさもあって、2つの灯油缶をそそくさと持ち帰ったのですが、家に着いて、痛みのないことに驚きました。
ケース2.
またある時は、車を運転していて誤って急発進し、中央分離帯に乗り上げてしまいました。
車は車軸にひびが入りひどかったのですが大事に至らずよかったと思っていたところ、車の修理が出来てほっとした2週間後位に、腰から首にかけての痛みで動けなくなってしまいました。仕事もそんなに休めないし、家の中のこともあるし困り果てていると、夜、強烈な夢を見ました。
それは、大蛇が首の後ろから入って、尾てい骨から抜けてく夢でした。朝、起きると何事もなかったように痛みから解放されていました。
1988年、日中平和友好10周年を記念した「気と人間科学」(※人体科学学会立ち上げのエピソード参照)についての国際シンポジウムが開かれました。その時の発表者のおひとりだった、故品川嘉也(日本医科大学教授・医学博士)先生のスタッフに、整体の先生の後輩がいらした関係で、私も脳波を測定してもらう機会に恵まれました。シンポジウムでは気功状態の脳波分析を報告されました。
とても興味深い内容だったそうです。
【気功との出会い】
そんな頃(1988年4月)、気功入門講座の案内が多摩市の広報に掲載されていました。不思議な出来事が何なのか解るかなぁという思いがあって、申し込んだのですが、すでに満員でした。同年7月、講座の受講者がサークルを発足、入門講座を受けられなかった人たちの所に入会の案内が届きました。私も早速、入会しました。
はじめての気功のとき、小周天を終えて、その心地よさは針治療を受けたときと同じものでした。
ただリラックスして、座って自ら任脈と督脈にそってイメージを巡らせるだけで、針治療と同じ効果があったのです。
今までずっと、誰かに治してもらっていたと思っていたことが、それが、自分でどうにかできる事を始めて知った瞬間でした。
心の底から、うれしさがこみあげてきました。
暇さえあれば、小周天をやっていたいと思いました。が、しかし、フルタイムで働いたので家にいる時は、家事・家族・電話・来客などにほとんどの時間を費やされ、ものの5分とぼんやりできる時間はありませんでした。今思えば、女としてまさに「人生の華」の時期だったのですが、当時は憤懣やるかたなし、といったところでした。でも、ほんの少しの時間でも暇をみつけるようにしていると、な、なんと、短時間で集中できるようになっていったのです。
はじめは、放松訣→小周天→養気→収功を教わった基本どおりやっていましたが、
そのうち、
全身をリラックスして、小周天(下丹田〜会陰〜尾閭〜命門〜大椎〜玉枕〜百会〜上丹田〜中丹田〜下丹田)の一巡りを、意念・イメージをもって巡らせた後、ぼんやりしていると、自然にゆっくりと巡るものを感じて来るので、ひとりでにうごめくものに任せるようになりました。
うまく集中しきれなくていると、まるで犬がプルプルッと体を振るわせるように、頭がブルブルッと振れて、雑念が飛んでいきます。
どうしても考えが湧いてくるときは、それを拒まず、深追いせずに任せます。
心地よい気分にひたります。
目の前が明るく感じたり、まか不思議を体験したりします。
まさに、気功によってもたらされる特殊な脳波状態(※気功体験2)で、この体感こそが気功の真髄と思っています。
先をあせると偏差がでるので、余計なことは考えず、淡々と繰り返していきます。
体と心全ての条件が整ってはじめて出現してくる状態です。
漠として、淡々とした中で出現してくるように思います。
【気と出会って】
気を自分の中に感じ、人の中の気を感じるようになって、考え方や感じ方が変わりました。
気には、いろんな性質のようなものがあって、人の努力の範囲では、どうにもなるものではない。ということがわかって、いろんなことが楽になりました。
生きる働きによる、喜怒哀楽には快があり、それによらない、喜怒哀楽には不快がある。
自分らしく生き生きと、どんな時でも100%の力を発揮して生ききる。
何事にもこだわることなく、余分な期待をせず、生きる働きに任せ、わくわくする時間を過ごす。
余分なことは、なにもしなくてよかった(※気功体験3)ということに気づきました。
ほんとうに簡単なことですが、しかし、これが意外と大変なことで、漠として淡々と(※気功体験4)日常生活を送るのはむずかしい!と感じています。が、所詮思う通りのことしか起こらないとも思うので、むずかしいと思わないほうがよいのかもしれません。