気功体験2
一定程度気功によってもたらされる、心地よい体験を重ねていくうちに日常生活においても、例えば、電話しようと思っていたらその相手から掛かって来る、といったタイミングの良いようなこととか、俗に言う「むしの知らせ」ということが多くなって、第六勘が鋭くなったように感じてきます。
そして、どうしても避けられない大変なことがあって、― 実は小周天を重ね 心地よいと感じるまでには各人 様々な心の葛藤があります。大なり小なりのそれを皆乗り越えて、心地よいという境地に達して行くのですが ― 今まで、心の中で行われていた葛藤が厄介なことに、徐々に実際の日常生活の中で目に見えるようなかたちで行われるようになってきます。かつて乗り越えたはずの出来事が再び繰り返される(古傷が痛むのと同様なこと)、といった事柄に出くわすようになります。言いかえてみると、日常に於いても心地よい状態を獲得するためのひとつの儀式のようなものとでもいうのでしょうか、小周天の時じっとすわって、それを越えたように日常に於いてもそうするしかなく、その中で自分が心地よくいられる心の工夫をしていくことになるのです。このことを避けようとして逃げても、逃げた先で同様の経験をするようになっていて避けられないのです。
例えば、
「誰かにほほをたたかれる」ということで考えてみると、アントニオ猪木にぶってもらいたくて列をなすこともあれば、悔しかったり、悲しい時だってあります。時として、わが子が学校で先生からぶたれて帰ってきたら教育委員会に訴えたいと思うこともあります。これは、自分がその事柄をどう思っているのか、相手をどう思っているかによって、そのことがどうこういうことではなくて、感じ方が変わってくるのです。
同じ「ありがとう」を言われても、言葉以前の何かによって、うれしかったり、いやみと感じたりすることのほかに、もうひとつ感じる自分の心持というものに気づかされます。
そうしてみると、どう感じるかは自分の中の心の向きに過ぎず、本当は相手にその原因はないのではないだろうか、ならば、自分の心の向きが変わればよいということになってくるのです。
心のこだわりのようなものが解けていくと、自分の立場を守るとか、利益を守るとか生きていくために必要なことではあると思いますが、功を重ねていくとそんなことよりも大切な、心のはたらき・生きるエネルギーがあって、生を生き抜くための要求があることに気づいてきます。
そして、次第に大切にしたいとおもっていることが、現実的な立場・利益・体面といったことから、目に見えない生きるエネルギーのはたらきの部分へと変化してきます。
喜び、怒り、悲しみ、楽しみといったものが心のそこから湧き出てきます。怒っても泣いても不快感を伴わず、心地よい爽快感があります。
≪体レベルでの変容から、心のレベルでの変容≫
このことが進んで、生きるエネルギーの集散現象として喜怒哀楽が現れるようになると、余分な心の動きがないのでどんな時でも淡々として悠々と過ごせるようになります。
真の気功生活のはじまりです。