気功体験4
感じてわかること(知ること)と知識でわかること(知ること)の違い
気功の会で小周天をする時、いつも南の方向を向いて行っていましたがある日、東の方向に向かってやったところ、微妙にその感触が違っていました。好奇心をそそられるものがあって、公園で方向がわからない様に立ち、放松訣の状態でゆっくりとその場で一回りしてみたところ、はっきりと小周天の時の南と東の方向の感じを感じとることが出来ました。そして、その感触をしっかり記憶に留めて、万が一山道で迷うことがあっても大丈夫!くらいの気持ちでいましたが、これが大変な間違いでした。
別の機会に、南を感じようとして磁石を持ってその方向を向くのですが何も感じない。
あれっと思って、東を向くのですがまた何も感じない。
感じようとすると感じてこない。
再び放松訣しようとするのですが、放松訣すら出来なくなる。
でもそのうち、そんな感じがして来る。
その後、日を重ねるうちにわかってきたことは、無心で頭の中が空っぽで感じたことと、すでに知っていたこととの違いであったこと。
知っているということは、そのことで感じるということが乱され、先入観の考えで感じることと間違えることがあるということでした。
「知らないと言うことは、全てを知っていると言うことに等しい」と言うことを教えらたような気がしました。
あれ以来、方向を確かめるようなことはしていませんが、万一生命が危険にさらされ、その必要が発生した時発揮される働き(力・エネルギー)と思っています。本当にそう言った意味では何も知らないほうがよいし、あれこれ思わないほうがよいのかも知れません。
漠として淡々と過ごすこと
「感ずる」ということは生きているということであり、あらゆる行動の出発点にあると思っています。感じているが出来ないことがあれば、それは頭で感じている時であり、頭を空っぽにして感ずればそのまま行動になります。
「感ずる」ということは生きる働き(エネルギー)にあります。体の中で自然に行われている整然と動いているそれが、そのまま現れるように生き動くこと、自分の体に合うように飲み、食い、働き、眠る。楽しく、嬉しく、快く出来ること。いやなことには快感が伴わないし怒っても心地よいものです。
生きる働き(エネルギー)は寄りかかるところがあれば独立しないし、寄りかかるところが無いことに気付いた時、はじめて湧き起こるものであるようです。