クグツガリ

月の満ちたる日にて 四

 静見が歩き出して間もなく、様子を見に来たらしい九虎丸が電柱の陰から飛び出してきた。高校への道を辿る静見に並びながら、黒猫は不審げに主を見上げる。
「こんな時間にどうしたんですかい、ご主人。傀儡が動き出すには、まだまだ時間がありますぜ?」
 周囲に人通りはなく、住宅街は普段以上に静まり返っていた。黒猫と青年の会話を耳にする者もいない。
……神代美佐子が帰っていない」
 歩きながら、短く答える。
 その主人のことばに、金に光る目を持つ黒猫は少しだけ驚いたように耳と尾を立てた。
「行方不明、ってわけですかい……竜樹の上は、何も言ってやせんでしたが」
「学校からはいつも通り帰ったそうだ。儂はとりあえず、通学路を捜してみる。九虎丸、お前……
「心得ておりやす」
 黒猫が跳んだ。人間は決して通れない道に入るため、塀の上に上がる。
「ご主人、無理はしねえでくださいよ」
 主思いの従者はそう言い残して、闇へ姿を消した。
 当然ながら、一人で捜すより人数が多いほうがいい。それに、九虎丸は普通の猫以上に鼻が良いのだ。
 闇が深くなっていく道を歩きながら、静見は気配を探り続ける。
 ――桐紗がいれば。
 楽駕高校が見えてきたところで、静見の脳裏に一瞬だけ、そんな考えても仕方のないことが行き過ぎる。
 織術は、あらゆるものから記憶を引き出すことができる。普段の桐紗がいれば美佐子の行方を捜すこともだいぶ楽な作業になっていただろう。少なくとも、何のあてもなくしらみつぶしに捜さねばならないような現状の比ではない。
 それでも人並み外れた感覚を持つ静見は、敷地内に入ることなく、高校の建物内に人の気配が無いことを察知した。
 だが手間が省けたところで、それは進展ではない。引き返し別の道を辿って、静見は住宅街を捜し回った。
 それが終わると、駅前通りへ。倉木デパートの付近へ。
 捜し続ける間に闇は完全に空を染め、頼りない街灯の明りを目印に歩いていた静見がふと見上げると、見事な満月が浮かんでいた。桐紗の異変を知らなければ、それに美佐子が行方不明でなければ、風流な光景は彼の目を奪っただろう。
 だが、今はその満月も何の道標にもならない。
 長い息を吐くと、彼は一旦神代家に引き返した。すでに、九虎丸が見つけて戻っているかもしれない。
 だが玄関をくぐった彼が目にしたのは、難しい顔をした大治と、美佐子ではなく竜樹の姿だった。
「静見さん、美佐子は……
 上着を着込んで疲れた顔をしている少年は、答を知りながらそう問いかける。
……見つからない」
「こっちも南側を捜したけど、見当たらなくて……友だちにも、あちこち電話かけたんだけど……
 九虎丸もまだ戻っていないということは、見つけられていないのだろう。
 一向に手がかりのない状況に、腕を組んで唸り声を上げてから、大治が口を開いた。
「とにかく、キミはもう帰りなさい。こんな時間まで外を歩いとったら、親御さんが心配するでの」
 すでに、時計の針は一一時を回っていた。明日も休日というわけではない。
 竜樹はもっと捜していたそうな悔しげな表情を見せるが、大人たちの気遣いを無碍にはしない。彼は小さくうなずいた。
「儂は、もう少し捜してみる」
「いいのか? お主も、だいぶ疲れただろう」
 大治のことばは、静見に、忘れようと努めていた疲労感と脚の痛みを思い出させる。
 だが彼は疲れを表わすのを、ひとつ、溜め息を洩らすだけに留めた。
「大丈夫だ……まだ、別の用事もある」
 言って再び、玄関を出る。
 別の用事が、彼の脳裏に浮かぶ。そう、そろそろ傀儡が動き出すころだ。もし、今夜あの大きな融合体が現われたら、苦戦は必至だった。
 ――逃げるか。
 今夜、あの傀儡を狩る自信が持てなかった。それよりも、今は美佐子を捜すことだけに集中していたい。
 彼はさらに夜の街を歩き回る。もはや、大部分が眠りについた家々の間を。
 やがて、傀儡の気配が彼の感覚をかすめた。
 工場らしい二階建ての建物の屋根に飛び乗り、感覚を研ぎ澄ましながら、束の間、膝をついて身体を休める。
 彼らの都合などおかまいなしに、傀儡は悪意に呼び寄せられ、より大きな悪意をエサとするために人を害しようとする。
 事情があろうと、傀儡狩りはそれを阻む役目を放棄することはできない。
 ――仕方があるまい。
 満月の下、今は唯一この街の夜を護ることができる傀儡狩りは、屋根の上を駆ける。
 やがて見えてくるのは、三体の、幾度も見慣れた白い傀儡。その腕は刃になってはいないとはいえ、また別の能力を持っている可能性もある。
 もともと、静見は桐紗のように相手に接近することはない。充分に間をとって、見えない糸を放つ。
 その攻撃に気がつかないまま、傀儡は左右二つの塊に分かれ煙となって消滅する。内心少し意外に思いながらも、彼は立ち尽くして微動だにせず、残りの傀儡に何もさせないまま葬った。
 ――あっけない。
 普通の、倉木デパート以前の傀儡に思えた。手応えのなさに少し拍子抜けしながら、一方で彼は安堵する。
 ただ、まだ傀儡狩りの夜は始まったばかりだ。今夜はもう傀儡には会いたくない――そう願いながら、再び地上に降りて美佐子の捜索に戻る。
 時折、付近にふらりと現われる傀儡を葬りながらのあてのない捜索は、体力だけでなく、気力も奪っていく。
 ――今日は、出てくれるなよ。
 時が過ぎるにつれ切実になっていく願いも、届きはしなかったらしい。
 突如現われた気配は、背後。
 振り返りながら飛び退く彼の左腕を、赤い線がかすめた。傀儡の融合体は、外見上はいつもと変わりないかに見えるが、さらに新たな能力を獲得したらしい。
 刃のような腕に、念糸でも傷つかない硬い皮膚。それに加わったのは、静見の操る白い糸に対抗するかのような、血のように赤い糸。
 アスファルトの上に立つ傀儡の口から垂れた赤を見ながら、静見は血のにじむ左腕を押さえた。幸い、術を使うための集中の妨げになるほどの痛みはない。
 さらに後ろに跳んで間を取りながら、静見は念糸を相手の腕の一本へからめた。
「白焔」
 白い霧が舞った。
 しかし、予想に反して、凍りついたのは接触した腕だけだった。それは氷の彫像と化すと、がくりと落ちて、アスファルトの上に砕け散る。
 ――全身を守るために、自ら腕を切り落したか。
 舌打ちしながら手を重ねて印を組もうとしたところに、ふたたび赤い糸が放たれる。
 避ける浴衣姿を追って、二本、三本と、次々と糸が伸び、アスファルトに小さな、深い穴を穿つ。
 相手に何もさせないための連続攻撃と見えた。常に合理的に判断して動く傀儡に改めて厄介なものを感じながら、静見は距離をとろうとする。だが、後退る分だけ、傀儡は間を詰めてくる。
 ――身体が重い。
 今の状況でなくとも、体力の限界など知らぬ傀儡相手に長期戦は圧倒的に不利だ。一旦大きく間を取ろうと、背中を向けて民家の屋根に飛び移る。
 背中をかすめる細長い気配を感じながら、そのまま足を緩めず、一本ずれた道へ。
 走りながら、ようやく懐に手を入れる余裕ができた。長方形の紙の感触を確かめると、背後の大きな気配へ投げつける。
 呪符が空中で煙を噴き上げた。異形のものが煙の中から躍り出る。
 現われたのは、紙の白さそのままを身に移した、大きな翼と冠のような飾り羽根を持つ鳥だった。
 妖怪祓いの術師が使う、方術に分類される基礎符術に、呪符に仮初めの魂を与えて式神として使役するものがある。現われた白い鳥も、静見が使役する式神の一種だ。仕える主の意志に従い、仮の魂を与えられた式神は傀儡に突進した。
 傀儡の刃となった腕の一振りで、紙の鳥は紙屑と化した。だが、そのわずかな時間こそ、静見が求めていたものだ。
「律輪!」
 ふたつの金の環が傀儡の周囲に出現し締め付ける。ふたたび獲物に追いすがろうとしていた脚は自由を失い、巨体はアスファルトの上に転がった。
 だが、溶け合った胴にいくつも開いた口のどれかは、静見に向けられる。
 赤い線が浴衣の足首の辺りをつらぬく。
 それでもなお集中を乱さず、静見は大きく跳び退いた。痛みはそれほど激しくはないが、血痕が彼の軌跡を辿る。
 傀儡は赤い糸でそれを追う。だが、数百メートルも離れると、届かなくなる。
 ――あくまで儂を殺すつもりか。
 今まで通りなら、まるで自らの性能を試すようにして少し様子を見て逃げ出していたはずだ。それが、今夜は傀儡狩りも疲弊した静見一人と見てか、本気で殺しにかかっているらしい。
 相手の狙い通りになどさせてなるものかと、静見は念糸を放った。二重の環の戒めから自由になろうと傀儡が暴れ、ギチギチと嫌な音が耳に届くが、早々に白焔と紅蓮で全身を砕いてしまえばそこで戦いは終わる。
 それまでの、わずかな間だけ傀儡の自由を奪っていられさえすればいい。痛みも疲労も意識の外に追い出し、静見は指先に伝わる、念糸が標的を捉えるかすかな感触に意識を集中する。
 それゆえに、彼はぎりぎりまで背後に近付く気配に気がつかなかった。
「くっ」
 何かが身を退いた目の前を行き過ぎる。白い腕を振り抜いたいつもの傀儡の姿が、視界の隅に映った。
 条件反射で、念糸を放って相手の胴を両断する。
 同時に、律輪への集中は途切れている。即座に視線を戻すと、自由を取り戻した傀儡の融合体は身を起こし――大きく跳び退いた。
 仕掛けてくるものと考えていた静見はかすかに目を見開き、予定外の行動を見せるそれを見送る。こちらから追撃をかけようという気力は残っていない。
 完全に気配が去っていくのを確認してから、彼は溜め息を吐く。緊張していた身体から力が抜けると、がくりと膝をついた。
「ボロボロだねえ、静見ちゃん」
 緊張の余韻を残す闇の中に、場違いなほど明るい声が響く。
 振り返る青年の目に、まだそう長い付き合いではない割によく馴染んだ、十代半ばほどの少女の姿が映る。
 なぜ、その姿で、ここにいるのか。その質問は、彼女の背後に見える月の存在に押し留められた。肉眼ではまだほぼ円形と見えるが、少なくとも、桐紗の術が解ける時期は過ぎたのだろう。
「あとはあたしがやっとくから、家に帰んなさい」
 どうやら、彼女も美佐子がいなくなった状況を聞いてきたらしい。
「大丈夫だ。怪我は治せる」
 静見の指が浴衣の上から傷を撫でると、衣服の穴ごとそれは塞がる。
「でも、疲労は治せないでしょ?」
「普通に歩くくらいなら何ともない」
 淡々と答えるものの、見る目のある者なら、青年の動きの流れが普段とは微妙に異なっていることに気がついただろう。
「べつに、何人いても同じだと思うけどねえ」
 静見と違い、桐紗には当てがあるらしかった。彼女は塀に手をつくと、どこか遠くを見るように目を細める。
 その目に映った光景は、彼女の意に沿うものだったのか。
「ま……勝手にしなよ」
 肩をすくめ、時折塀や電柱に手を置きながら歩く。その少し後ろを、静見が追った。
「黒い車を追ってるの。美佐子ちゃんはその車に連れ去られた。美佐子ちゃんの反応からして、相手は顔見知りには見えなかったね」
「誘拐されたということか……?」
 わずかに眉をひそめる静見に、桐紗は正面を見据えたまま応じる。
「探偵が辺りを調査してたり、時間の早いうちから傀儡が美佐子ちゃんの前に三度も現われたり……考えてみれば、最初から相手の狙いは美佐子ちゃんとしか思えない」
「そのうち我々傀儡狩りの存在に気がつき……始末するために傀儡を強化していたのか。やはり、相手は術師……
「それも、けっこう強力な相手だね」
 溜め息交じりに言いながら、踏み切りを渡る。
「でも、何で傀儡を操るような術師が、傀儡狩りのあたしたちじゃなくて美佐子ちゃんに用事があるんだか……
「身内……かもしれないぞ」
 静見がぼそりと言ったことばに、桐紗は歩き出してから初めて、チラリと振り向く。視線を向けられたほうは、うつむいていてそれに気がつかない。
「身内って、祖父ちゃん以外に誰がいるのさ? 家族はみんな亡くなったって言うし」
 あり得ない、と言いたげな桐紗に、顔を上げた青年は少し不思議そうな表情を浮かべてみせる。
……大治どのに聞いたが、美佐子の父親には、弟がいたと言うぞ」
 瞬間、桐紗の脳裏に、温泉で聞いた美佐子の叔父の話が甦る。海外へ行ったまま行方不明、という話だったはずだ。
「確か……名は、神代裕一と言ったか」
「ふうん……
 聞き覚えのあるような響きを感じたらしく眉を上げるの、それが何なのかまではわからないのか、桐紗はただ、覚えておくことにした。
 空気が耳に痛いほどの静けさの中、月明かりを頼りに、二人は歩き続ける。
「そういえば、さ……
 足を止めないまま、少女が声をひそめて口を開く。彼女にしては珍しい、ためらいを含んだ調子だった。
「ゴメンね。覗き見するような真似してさ」
 さらっと流すような彼女のことばに、それでも静見は、それを聞き流すことはできない。
……覚えているのか?」
 その問いに答えることなく、少女は肯定の沈黙を返す。
 幼い桐紗には、普段の記憶はないようだった。しかし、幼い桐紗の体験したことは、普段の彼女の記憶に刻まれているらしい。
……何を見たのか、訊いてもよいか?」
 迷うような間を置いて、静見は先を行く小さな背に問いかける。
 街灯のない河沿いの道を歩き続けながら、桐紗は淡々と語り出す。
「傀儡が人々を襲ってて……それを、術師風の人たちが退治しに行くところだった。それを九虎丸と静見ちゃんが見送ってた」
 白い長衣に身を包んだ者たちがあちこちから煙の立ち昇る街並みを見渡し、ことばも少なく、足早に屋敷の前から散っていく。その中の一人が、見送る者たちに近付き、静見に何か声をかけた。
 記憶の中の静見に同調しているため静見自身の姿は見えないが、同調しているがゆえに、彼がどんな思いで見送っているのか、どんな表情で見送っているのか――
 桐紗には、伝わっていた。
……それで、何かあたしに語るつもりがあるわけ?」
「聞きたいのか?」
「あんたが言いたいかどうかの問題でしょ」
「べつに、どうでもよいことだ」
 どうでもよい、というその口調は、かすかに拒絶を含んでいる。
「あたしだってどうでもいいけどね」
 振り返った少女の口もとには、小さな苦笑いが浮かんでいた。
「でも……あんたが誰なのか、わかったような気がする」
 静見が目を見張る。桐紗はそれを無視して、特に目的もなく、河へと視線をやった。
 月明かりが、何かをきらめかせる。
 河川敷に本来あり得ない物の一部が、橋の陰から覗いていた。もともと人通りの少ないこの周囲では、さらに気がつかれにくい、木々の向こう側だ。
「あれ……車?」
 土手を降り、近付いてみると、それは白い軽自動車と知れた。ナンバープレートの一部の塗装が何かに引っかかれたようにはがれて金属そのものの色をさらし、月光を反射している。
 プレートの周囲、車体の後部も塗装がはがれ、どこかにぶつけたらしく凹んでいる。
「事故……か」
 良く地面を眺めると、芝生に車のタイヤに倒されたような筋が刻まれている。
「このまま放置されているということは、誰にも気付かれなかったのか」
 桐紗の背後から、わずかに顔色を変えた静見が歩み出て、窓から中をのぞき込む。
 ほとんど間を置かず、彼はドアノブを引いた。身を乗り出した桐紗の目にも、ハンドルに突っ伏すようにした男の姿が映る。
「あ……
 少女の口から、無意識のうちに声が洩れた。
「三石さん!」
 見覚えのある顔は、桐紗の保護者である日潟の部下、三石真に間違いない。
 少し焦ったように手を伸ばそうとする桐紗を制して、静見がシートベルトを外し、三石の手首に触れて脈を取る。
「息はある……気絶しているだけだ。とはいえ、さすがにここに放置しておくわけにもいくまい」
「そうだね……美佐子ちゃんの行方について、何か知っているかもしれないし」
 車に手を置きその記憶を引き出しながらも、桐紗は自分ひとりで捜索を続けようという気にはならなかった。それに、織術である程度の方向性は得られるとしても、捜索のための情報が少な過ぎる。
「一旦家に戻って、とっとと起きてもらわないと」
 静見が創天術で三石の擦り傷を治してやると、青年傀儡狩りが手を伸ばす前に桐紗が横から手を出し、乱暴に席から引きずり出して軽々と肩に担ぐ。
 手の甲や額に新たな擦り傷ができた男を見下ろし、静見が少しあきれたように眉をひそめる。
「怪我人はもっと丁重に扱うべきではないか……?」
「こいつにはこれで充分」
 素っ気なく言って、早足で土手を登っていく。小柄な少女が大人の男を担いで平然と歩く姿は、ひどく不自然な光景だ。
 幸い、この夜更けに彼女の姿を見咎める者はない。
 二人の傀儡狩りは満月の明りをたよりに、神代家への帰路を辿った。

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