クグツガリ

月の満ちたる日にて 二

 桐紗は風邪で休みということになっていた。久々に奈美と二人で登校した美佐子は誰もいない席を見ながら、違和感を感じる。
 ――つい最近まで、奈美と二人で登校、一人で下校が当たり前だったのに。
 授業中のふとした瞬間、休み時間も、つい桐紗のことを考えてしまう。
『あたしは……バケモノなんだよ』
 バケモノ。それが一体、何をさしていたのか。
 静見の説明によると、桐紗は術で普段の姿を保っている。そして、本来の桐紗は、普段の記憶も持っていないようだった。とてもありえないような非現実的な状態なのは確かだが、あの幼い姿が『バケモノ』だとはとても思えない。
「美佐子、ずっと難しい顔してたわよ」
 放課後、教室の掃除をしながら、また少しぼんやりしている美佐子に、奈美が声をかけてくる。
「わかった、桐紗ちゃんが心配なんでしょ? あんな病気とかしなさそうな子でも、風邪ひいたりするんだねえ」
「うん、まあ……
 友人に嘘をついていることに少し罪悪感を覚えながら、曖昧にうなずく。
「光江さんも一人で道場の人たちの相手と桐紗ちゃんの看病なんて大変だもんね。そういや、今日、道場に新人さんが入ってくるんじゃなかった?」
 毎年のことだ。奈美も道場の事情については良く知っていた。
「うん、そうなの」
「それじゃあ、あとはあたしらがやっとくから、早めに帰ったら? この前のお礼もまだだしね」
 美佐子の手からホウキをひったくり、奈美はほほ笑んだ。今週は教室掃除担当の同じ班の者たちも、異論はないようだった。
「困ったときはお互い様だし」
「あとはゴミ捨てと机の整理くらいだし、うちらだけで大丈夫だから」
 友人たちの優しさが嬉しい反面、また罪悪感で胸がちくりと痛むが、光江が大変なことは確かなので、素直に甘えることにした。
「みんな、ありがとう……明日は、今日の分まで頑張るから」
 礼を言い、鞄を手に教室を出る。
 ずいぶん久々に感じる一人きりの下校は脇が寂しいような気がして、逃げるように早足で廊下を歩き、玄関を出た。
 フェンスの向こうのグラウンドに目をやると、すでに運動部は午後の練習を始めているらしい。サッカー部の部員も目に入るが、今日は大間の姿を捜す気にはならなかった。
 校門を出ると、真っ直ぐ家路に着く。
 人通りの少ない住宅街の道路は、学校から離れると別世界のように静かだ。
 不気味さを感じるものの、美佐子はそれを思考の外に追い出す。今はただ、桐紗のことが心配だった。早く家に帰り、その姿を確認し――いつもの彼女が帰ってきたら、本当のことを聞き出したい。『バケモノ』が何をさすのかを。
 どんな『バケモノ』の正体を聞いても、受け入れられる覚悟があった。
 ――何を聞いてもわたしは、わたしたちの友情は変わらない。
 そう決意して間もなく、家に着くまで決して乱れることのないと思っていた心が大きく動揺した。
 あるはずのない姿が、突然目の前に現われたのだ。小道から出てきたその姿はまるで、彼女を待っていたかのようにも見える。
「やあ、神代さん」
 背の高い少年が、笑顔を向けてくる。
 いつもなら、その笑みを向けられただけで幸せな気持ちになるはずだった。だが、美佐子は憧れの先輩の笑顔に不気味さを感じた。
 はっきりとはつかめないが、その笑顔の何かがいつもとは違う。それに部活の時間にこのようなところにいること自体、考えられない。
 ――あの熱心な大間先輩が部活を休むとしたら、その理由は何か重要な用事だ。こんな風に、軽い調子で声をかけてきたりする状況じゃない。
「どうしたの、緊張してる?」
 彼は笑顔のまま、歩み寄ってくる。
 その姿も声も、確かに、大間爽太そのものに違いはなかった。ただ、雰囲気が、歩き方のちょっとした癖が、そしてここにいるという存在そのものがおかしかった。
「先輩……どうして、ここにいるんですか?」
 無意識のうちにギュッと拳を握り、睨むように見据える。どんな相手の動きにも対応できるように。
「ああ、ちょっとした用事でね。そうだ、神代さん……一緒に来てくれないか? きみの力が必要なんだ」
「どこへ……
 奇妙な予感を覚えて一歩後退るが、大間は今以上は近付こうとせず、背中を向けてもと来た道を引き返す。
 どうせ、通らなければならない道には違いない。覚悟を決めて角を曲がる。
 意表をつく光景が広がった。
 道端に黒塗りの高級車が、後部座席のドアを開けて停車していた。ドアのそばには、黒いスーツを着込んだ男が直立不動の姿勢で待ちかまえている。
「お迎えにあがりました、お嬢さま」
 それが当然であるかのように、スーツの男が平坦に言う。
「え……?」
 だいぶ間を置いて、やっと声が出た。
 ――わたしは確か、先輩の姿を追いかけて……
 それを思い出し、大間の姿を捜すと、それは、体格の良い二人の男の間にあった。サングラスをかけた男たちが無表情で、虚ろな目をした少年の身体を左右から支えていた。
「先輩……?」
 周囲を認識できていない様子の大間に、急激に心配が募る。
「ああ、ご心配なく。彼には協力していただいただけですので。ここで少し眠っていただきます。ただし、あなたが素直に従わぬ場合は、その少年を好きにしてよいと言われています」
「そんな……
 選択肢はない。
 混乱し、状況が飲み込めなくても、それだけはしっかりと理解できた。
 スーツの男が言っていることは、はったりではない。彼らの主――これほどの財力がある人間は、それなりの権力も持っているだろう。人一人消したところで、何とでもできるのかもしれない。
 ――他人を犠牲に自分が助かるなんて、できない。
「先輩にはもう何もしないって、約束してください」
 少女が冷たいほどに平静な声を出すと、相手は変わらず感情のない声で、
「優しいことです。約束は守りますし、お嬢さんのことは丁重に扱えと言われておりますので、ご心配なく。では、どうぞ」
 スーツの男に案内されるがままに、高級車の後部座席に座る。
 ドアが閉じられ、男が助手席に座り、大間を支えていたサングラスのうちの一方が運転席に座ると、車が動き出す。
 振り返ると、ガラス越しに、残った男が大間を担いで歩いていく背中が見えた。きちんと帰されるのだと信じるほかにできることはない。
 車は、住宅街を出る。北へ向かって。
 駅前通りに入って線路を渡って間もなく、助手席の男が口を開く。
「つけられているようですな」
 言われて初めて気がつき、美佐子は後ろを振り返る。
 つかず離れずついてくるのは、白い軽自動車だった。何の変哲もない車だが、近付いたときにフロントガラスの向こうに見える顔に、思わず声が洩れる。
「あ……
 ――三石さん!
 名前を口に出しそうになって、何とかとどまる。
 追いかけてくるのは、確かに桐紗と知り合いの刑事だ。その姿を目にしたとき、初めて彼の言っていたことの意味を知る。
 ――探偵が調べていたのって、わたしのことだったんだ。
 おそらく今回のことは、すべて周到な計画の上のこと。美佐子が大間に憧れていることも、下校時間も、すべて下調べのうえ利用されたのだ。
 それがとても悔しかった。特に、大間への感情を利用されたこと、それに、大間に迷惑をかけたことが。
「上手く撒けそうですか?」
「やってみます」
 前の席の二人が、短くことばを交わす。
 三石を巻き込みたくない、離れて欲しいという気持ちと、早く助けて欲しい気持ちがせめぎ合う。美佐子の中に初めて、これからどうなるんだろうという不安が芽生える。
 ――お祖父ちゃん、心配するかな。
 唯一の肉親に思いをはせると、帰りたい、という気持ちがますます強くなる。
 ――それに、友だちのみんなや、光江さんも……桐紗ちゃん、静見さん。
 早く帰って幼い桐紗のそばにいたかった。それができない自分に腹が立つ。友情を裏切ったような気分になる。
 そして、桐紗が来る前は苦手だった居候の青年。何となく、彼なら自分を見つけてくれそうな気がした。あるいは、それは緊張と不安でわけがわからなくなりそうな心を保つための、鎮静剤となる希望なのかもしれないが。
 進藤竜樹や高木奈美、親しい友人たちも、いなくなったと知ったら捜してくれるだろうか。それを期待したい気持ちも、迷惑を掛けたくない気持ちもある。
 ――みんなに迷惑を掛けないためには、わたしがしっかりしないと。
 美佐子は膝の上の拳を、爪が手のひらに食い込むほどに握りしめていることに気がつかなかった。

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