クグツガリ

月の満ちたる日にて 一

 まだ太陽が遠くの家々に遮られて顔を見せない時間帯にも関わらず、神代道場の戸は開け放たれ、主である大治を含む数人の声が洩れていた。玄関前の道を通りかかって声を聞きつけた近所の者は、この時期、新人を迎える準備をしているのだと知っている。
 それにはまったく関心がない風に、縁側に転がる姿がひとつ。
「ご主人、何か考えはあるんですかい? あっしは心配ですぜ……昨日は肝が冷えやした。あっしが知らないうちに逝かねえでくだせェよ」
 縁の下からぬっと顔を出した黒猫が、相手のほかに周囲に聞く者がないことを確認してから口を利いた。
 縁側で毛布を抱いて転がっていた静見は薄く目を開くと、身を起こしてあぐらをかいた。
「そう簡単には逝かぬよ。怪我もかすり傷であろうに」
 その身に刻まれたはずの傷も、今は痕すらも残っていない。創天術により新たな細胞が作られ、傷を塞いだ皮膚はその周囲の皮膚と変わらずなめらかだ。
「きゃつに対抗する手は考えてある……より攻撃範囲の広い、強力な攻撃手段を使えば良いだけだ」
「それができるのなら、なぜ最初からやらなかったんですかい?」
「準備が面倒臭い」
 即答する静見のことばに黒猫はあきれたように顔をそらし、溜め息を洩らした。
 しかし、その主はいつも通り頓着しない。
「九虎丸」
 名を呼ばれると、黒猫は怪訝そうに見上げる。
「偵察ですかい? あっしは人間たちが集まる建物内には入れないんだから、あまり期待はできませんぜ」
「違う」
 静見は否定して、とんとん、と膝を叩く。
「ここにおいで」
 まだ、空気は肌寒い。彼は暖を取りたかったらしかった。
「あっしは湯たんぽじゃあないんですがねえ」
 文句を言いながらも、余り感情を表すことのない主の嬉しそうな顔を見ていると断れない。黒猫はその姿に生まれついたことに少し感謝しながら素直に従う。
「ついでに言うと、あっしは猫でもないんですぜ」
「毛があってあたたかいのなら何でも良かろう」
「素直に居間にいればいいでしょうに」
 黒い毛並みを撫でながら静見が口を開きかけ、また閉じて、目を縁側廊下の奥の方へと向ける。
 制服姿の美佐子が、ゆっくりと歩み寄ってくるところだった。彼女は元来から早起きな方ではあるが、それにしても早過ぎる時間帯だ。
 それも気にはなったが、それより静見は少女の足もとを気にした。
「あの……静見さん、おはようございます」
「おはよう」
 眠たげに挨拶を返し、視線を外す。彼は、自分からは何も尋ねない。
 しかし、代わりのようにその膝の上の猫は、鋭い金の目を美佐子に向ける。正確には、美佐子を透かした向こう側に。
 少女は少し怯むが、それが何を意味するのか彼女自身も知っている。
「静見さん……
 再び名を呼ぶと、青年が向き直る。
「これ……どう思います?」
 上手い質問の仕方も思いつかない様子で、彼女は少し、横に避けた。
 そこにある姿に、さすがに静見もわずかに目を見開く。
 美佐子の背後に身を隠すように、一人の少女の姿があった。
 まだ十も歳を数えぬほどと見える、幼い少女。肩の下辺りで切りそろえた黒髪に、くりくりとした大きな黒目、白いワンピースのスカート姿は、人形のように可愛らしい。
 決して見たことはない少女でありながら、彼女の顔形は見覚えのある人物の面影を強く残している。
「お前さん……名はなんと言う?」
 美佐子の問いに直接は答えず、静見は、黙って目を向けている少女と己の視線を合わせて尋ねる。
 美佐子の後ろに隠れてはいるが興味津々に目を覗かせている少女は、それほど人見知りをする性質ではないらしい。少し不思議そうにしながらも素直に答えた。
「桐紗」
……だそうだが」
 考えることを放棄しているのかあきらめているのか、あるいはその逆にすべて理解しているのか。淡々と言う静見のことばに、美佐子より先に九虎丸が声を上げた。
「ご主人、それは不親切ってものですぜ。わかるように説明してもらわなければ、あっしでもわかりゃせん」
 猫の姿に不釣合いなほど偉そうにふさふさの胸を反らし、主の顔を見上げる。
 静見は小さく息を吐いて石段のサンダルに足を下ろし、縁側に腰かける。
「儂にもすべてはわからんが……ある種類の術、何かを縛り、法のもとに律するような術は、満月の前後は効果が薄れることがある。つまり、桐紗の普段の姿を保っている法力が薄れたのだろう」
 すぐにはその説明を理解できず、一拍の空白を置いてから、美佐子は表情を変える。
「それじゃあ……こっちの桐紗ちゃんが本当の姿……?」
「本当、とは限らぬが……何らかの術を使う前の、より本来の姿に近いことは確かだ」
 美佐子は中庭の桜に目を向ける静見の横顔を眺め、彼も少しは動揺していのかもしれない、と思う。
 もちろん、当の彼女こそ動揺していた。いつも親しくことばを交わし、一緒に暮らし学校に通っていたあの桐紗の姿が仮初のものだったとは。その上姿だけならまだしも、中身も大きく変化している。
 ただ一人、幼い姿の桐紗だけが物珍しそうに周囲を見回していた。やがて彼女は静見の視線を追い、桜の木を見上げて笑みを浮かべる。
……それで、元に戻るんですか?」
 無邪気な少女の姿がなぜかとても痛々しく見えて、美佐子は思わず目を逸らしてしまう。
「当人も戻るつもりだったようだし、満月が過ぎれば戻るだろう。儂らにできるのは、それを待つことだけだ」
 桐紗は桜を眺めるのに飽きたのか、九虎丸をかまい始めた。九虎丸は尾を振りながらも、少し嫌そうに顔をそむけている。
 彼女のためにできることは何もない。美佐子はせめて自分も学校を休んで一緒にいようかと思うが、それは何より桐紗が望まないだろうし、家から出なければ危険もないのだから静見と光江に任せていいだろう、と考え直す。
 考え直したところで、もう間もなく神代家にやってくる新山光江の存在に思い至った。
「光江さんやお祖父ちゃんたちには何て言えば……
 彼女が戸惑ったように言うと、静見も少しの間だけかすかに困ったような表情を浮かべて、
「大治どののほうは大丈夫だと思うが……今日一日だけ、桐紗の親戚の子どもを預かることになった、とでも言うほかないだろう」
 溜め息混じりに言う。
 はかったように、玄関の戸が空けられる音、間を置かずに聞き慣れた声が響く。毎朝のように繰り広げられる日常の一環。
 道場からの声が挨拶を返すと、馴染みのある姿が歩いてくるのが見えた。
「美佐子ちゃんも静見ちゃんも、おはよう。……あら、可愛らしいお客さんも来てるのね。おはようございます」
「おはようございます!」
 光江が腰を屈め目を合わせて声をかけると、桐紗は元気良く声を上げた。
「元気のいいお嬢さんね。この子、どうしたの?」
 家政婦の疑問の目は、当然、美佐子と静見に向けられる。
「ええっと、この子は……
 静見が知らぬふりを決め込んでいるのを内心恨めしく思いながら、美佐子はとっさに考えを巡らせる。
「この子は桐紗ちゃんの親戚の子で、今日一日預かることになったんです。それであの、桐紗ちゃんはその親戚との用事で朝早く出て行って、そこから学校行くって」
 嘘は不得手だと自覚していたのに、焦りながらも自分でも不思議なほどスラスラとことばが出てくる。
 もともと、光江には美佐子のことばを疑うなどという選択はないらしい。彼女は無条件でそれを受け入れる。
「あら、そうなの。それで、お名前は?」
 これだけは、どうしても避けたいが避けられない質問だった。
「あたし、桐紗ってゆうの」
 当人に、自分の正体を隠そうなどというつもりがあるはずもない。素直に訊かれたまま答えてしまう。
 まさか同一人物とは夢にも思わないだろうが、光江は少し驚いたようだった。
「まあ、桐紗ちゃんと同じお名前なのね」
 美佐子はどう怪しまれるかと気が気ではなかったが、歳の離れた親戚の中ではたまにあることだと考えたのか、それともよほどその名が気に入ったのかあるいは偶然という可能性もあると考えたか――光江はそれをただ事実として受け取ったらしい。
「きっと将来は、大きい桐紗ちゃんみたいな、元気で可愛い子になるわね……ご飯、まだでしょう? 桐紗ちゃんも一緒に食べましょうね」
 彼女のことばに小さい桐紗は、はーい、と素直に返事をする。
 光江は何も疑わず、大治も何も尋ねない。この日の朝食は桐紗の姿を除き、いつもと変わらぬものだった。

> 次項
< 前項