クグツガリ

倉木デパート 三

 着替えを終えると更衣室を出てのれんをくぐる。入れ替わりに入っていった新しい集団とすれ違う。
 しかし、そちらに美佐子の注意は行かない。女湯ののれんをくぐった途端、目は湯上りの少年の姿に釘付けになる。
 ――なんでいるの!
 心の中は叫びの嵐だが、何も言えない。となりで桐紗が不思議そうな顔をしているのも目に入らない。
 そんなことはおかまいなしに、相手は歩み寄ってくる。スラリと背が高く、肩にかかるくらいの長さの髪は少しくすんだ茶色で、全体的に日本人離れしていた。
「あれ、きみ、いっつも練習見学してるよね。ええと……
 もしかして、これはチャンスなのかもしれない。唐突に心の隅に浮かんだそんな思いが、止まっていた美佐子の時を動かし始めた。
「大間先輩……あ、あの、二年A組、神代美佐子ですっ」
「で、そっちは確か転校生の……
「矢内桐紗です」
 目を向けられると、桐紗は美佐子に続き短く答える。
 彼女はすでに、美佐子の大間への感情を見抜いていた。緊張しきって握った手に、真っ赤に染まった顔。何が原因かも近くで見ていれば一目瞭然だ。
 実際には、美佐子の心は少し違った感情に占められていたが。
 ――まさか、聞かれてないよね。桐紗ちゃんが言ったこと!
 傀儡の話ではない。声をひそめて話したことは、少なくとも意味のあることばとしては男湯まで届いていないだろう。しかしよく通る桐紗の大声は、果たしてどうなのか。
 焦る美佐子の内心をよそに、三年の大間颯太は少しも気がついていない様子で問いかける。
「へー、ここ、良く来るの?」
 穏やかで気安い調子だ。その声が少女には天からのもののように聞こえる。
「は、はい、ここが一番いいからって、お祖父ちゃんが……
 相手の態度からするとどうやら聞こえていなかったらしい、と心の一部分で安心しながら緊張の余り硬い調子で答える美佐子に、サッカー部でも人気者の少年は笑いかけた。女子の間で、『爽やかでカッコイイ』と評判の笑顔。
 それを自分だけに向けられて、美佐子は舞い上がるような気持ちだった。恥ずかしさも、どこかに吹っ飛んでしまう。
「そっか。オレも、ここが一番好きなんだ。んじゃ、風邪ひかないようにな。またいつでも練習、見に来いよ」
「はい、必ず」
 気軽な調子の大間に対し妙にかしこまった答えを返す美佐子がおかしくて、長身の背中が外に消えるまでの間、となりに立つ桐紗は笑いをこらえるのに必死だった。
 見送りが終わると、彼女は放っておくといつまでもぼうっと立ち尽くしていそうな美佐子の袖を引く。
「ここじゃあ邪魔になるし、あっちいこっか」 
 玄関の向かいに番頭、その左右に温泉への出入口という単純な造りの施設だが、横手には廊下が奥へ続いており、自動販売機やマッサージ機能つきの椅子、大型テレビやゲーム機など、温泉に良くある物はひと通りそろっていた。
 座敷でテレビを見ている者が何人か見かけられるが、少女たちが顔を出したときにはまだ静見の姿はない。
「あいつ、湯船で寝て茹で上がってないといいけどね」
「何か、ありえそうだね……今日、あんまり眠れてないし」
 マッサージチェアに座ると、余り馴染みのない美佐子でもついまどろんでしまいそうだった。朝、いつもより遅くまで寝ていたものの、眠るのがだいぶ遅かった分睡眠時間は短くなっている。
 普段から眠そうな静見が主に桐紗のせいで眠れずにいる状態で、いつまで普通に動けるのかわからない。
「あたしたちだって同じ条件なんだし、か弱い女の子たちが働いてる目の前で寝られるなんてシャクじゃない?」
 言いながら、桐紗も大きくあくびをする。
 マッサージの機能など使わなくても椅子の座り心地は快適で、睡眠不足と入浴で増した眠気をさらに倍増されるようだった。
 まぶたの重みに必死に耐えようとしても、つい、ぼうっとしてしまう。
 そのため美佐子は目の前に人が立っても、すぐには気がつくことができなかった。
「よお、神代」
 声をかけられて、初めて気がつく。驚いて顔を上げると、長年見慣れたジャージ姿の少年が立っていた。
「あ、進藤くんも来てたの?」
 進藤竜樹とはここでも何度も顔を合わせていた。家族ぐるみでの付き合いもあって、一緒に湯に入りに来たこともある。
「まあな。ところでお前、高木の話聞いたか?」
「え? 奈美ちゃんの?」
 問い返すと、竜樹は『聞いてないんだな』という風に小さく肩をすくめる。
「まあ、後で連絡入ると思うけど、今夜の肝試しの人数が足りなくて、あちこち声かけてるみたいだぞ。オレも誘われた」
 美佐子は言われるまで、今夜が怪談クラブの肝試し決行日だということをすっかり忘れていた。
「そうか、今日だっけ……それで、進藤くんは行くの?」
「ああ。別に怖いものが出るわきゃあないと思うけど、行けばあとで何か奢ってくれるって言うし」
「えー、怖いよ」
 自分も誘われるとなると、美佐子は急に怖くなってくる。
 しかし彼女のとなりで、以前は『できるだけヤな感じのところに近づくな』というようなことを言っていたはずの桐紗は、のんびり天井を眺めながら、
「まあ、ただの散歩みたいなもんじゃないの」
 と、気楽な調子で言う。
 最初に傀儡と出遭った家が肝試し候補に挙がったときとは、正反対とも見える態度。ということは、危険はないということなのかもしれないと美佐子は判断する。
「まあ、それはお前が決めることだからいいとして……
 言って、竜樹が身を乗り出してくる。
 ――何する気?
 顔がどんどん近づき、今までにない少年の様子に動けないでいる美佐子の耳のそばに、竜樹の唇が添えられる。
「胸大きいってほんと?」
 美佐子は頭に血が上るのを感じた。その瞬間、反射的に身体が動いている。
 バシッ。
 直後に響く、鈍い音。
「いってぇー!」
 頬を押さえる竜樹と、立ち上がって手を振り上げ顔を真っ赤にしている美佐子。その様子を一目でも見た者には、何があったのか大体予想がつく。
 それを、わざわざ確認してきた者がいた。
……何をしておる」
「青春」
 と答えてから、桐紗が振り向く。
 予想と違わぬ姿がそこにあった。いつもに増して眠たげな浴衣姿は、コーヒー牛乳の瓶を三本抱えている。
「あーた、もう上がってたの? じっとしてなさいよ、ややこしいねえ」
「じっとしとると眠くなる」
 淡々としたことばに納得したのか、むしろあきらめたのか、桐紗は、ふうん、と答えて溜め息を洩らす。
「あ、珍しい。静見さんが起きてることもあるんだ」
 メテオを捜して何度も神代家を訪れたことのある竜樹は、静見とも顔を合わせている。大抵の場合竜樹が一方的に眠っている静見を見かけるだけだが。
「起きていたくて起きているのではないけれどね……
 言って、静見はコーヒー牛乳の瓶を一本少年に渡す。竜樹は礼を言って、赤く染まった頬に瓶を当てた。
「へぇー……何か、こーゆー他人に気を使うことするなんて意外。雨でも降らないといいけどね」
「いらないならやらないぞ」
「あー、いるいる、いります、どーも」
 静見が手にした瓶をひったくるように取って、桐紗は早速蓋を開ける。
 同じく瓶を受け取って、美佐子も中身を口にする。怒りと恥ずかしさで熱くなっていた頭も、コーヒー牛乳の冷たさと甘さが冷ましてくれた。
 しかし美佐子の気分など、竜樹はもともと考えない。
「そーいや、近くにできたデパート、今日はセレモニーやってるとか言ってたぜ。社長が来るとか何とか」
 最初は平然と話すそのことばにイラついたが、そういえばデパートに寄るんだった、と、美佐子はようやく思い出す。温泉だけですでに心地よい疲労感を感じていて、とにかく早く家に帰って眠りたかった。
「そっか……それじゃあ、ちょっとだけ見ていこうかな。ちょっとだけ……
「そうだね、じっくり見るのはまた今度にしようね」
 幸い桐紗も同じ気持ちらしい。
 静見の方はきくまでもない。温泉には多少興味を引かれていた様子だが、デパートでの買い物など彼にとって完全に蛇足でしかない。
「社長の浪根裕一って、何か人気あるらしいぞ。雑誌とかの取材も来てるとか。たまーに、ちょっとした有名人の顔見てみるのも記念になるだろ」
「ふうん……進藤くんも行くの?」
「ああ。ついでだからな」
 竜樹の笑顔を見ながら、ふと、何か心に引っかかるものを感じる。
 浪根裕一。
 その名前に、かすかにデジャ・ヴを感じた。しかしいくら考えても、名前の持ち主の顔は出てこない。
 ――有名人だというから、雑誌で見たのかしら。顔を見ればわかるかも……
 そう思いながら、少女は竜樹らとともに温泉を出た。

 デパート〈丸光屋〉は、四階建ての大きな建物だった。大きな、といっても町の規模がそれほど大きくはないため、都会の店よりはやや小さい。駐車場も立体駐車場などにはなっていなかった。
 そのひたすら広いだけの駐車場に設置されたステージ上で、若社長の挨拶が行われた。周囲にはすでに人垣ができていて、ステージ上は遠目にしか見えない。
「どうせ開店セールが終わったら客がぐっと減るんだろうぜ。というか、ほとんどあの社長目当てなんじゃないか?」
 そんな幼馴染みのことばを聞きながら、美佐子はステージ上の青年に奇妙な既視感を感じていた。もっとはっきり見ようと目を凝らすものの、曖昧な姿しか見えず、確かな記憶とは結びつかなかった。
「あ、餅撒きやるみたいだよ」
 長く立っていることに疲れていたような様子の桐紗が、急に元気になる。
「ほら、静見ちゃんも拾う」
「面倒くさい」
 車止めに腰を下ろしていた静見が、桐紗に無理矢理引き起こされる。社長を始めとするデパート経営側の上層部らの手による餅撒きが始まり、集まった観客たちがますます賑やかにざわめき始める。
 それほど欲しいとは思わなかったが、ひとつでも拾えると光江への土産にでもなるかもしれない。美佐子は投げられた餅に手を伸ばすが、なかなか上手く取ることができなかった。もともとこういったことは得意な方ではない。
「ほら、ひとつ分けてやる」
 餅撒きが終わると、ふたつ手にした竜樹がひとつ分けてくれる。思えば、この幼馴染みはこういうことがあるといつも分けてくれるのだった。
「ありがとう、進藤くん」
 温泉でのことはすっきり忘れることにして礼を言う。
 ふと相手の背後の方を見ると、ただぼうっと立っていただけのはずの静見が、三つの小さな袋を抱えていた。
 それに気がついた桐紗が目を見開く。彼女はたったひとつだけしか餅を拾えなかったらしい。
「ちょっとあんた、ズルしたんじゃないでしょうねえ」
「拾えと言ったのは、お前さんであろうよ。儂はもっとも効率的な方法を取っただけの話さね」
 淡々と言うのに、桐紗は、ぐっ、とことばに詰まる。
「わかった。餅一枚で手を打ってあげる」
 何がわかったのかは不明だが、静見は少女のことばに素直に餅を差し出した。それを受け取った方も満足したらしい。
「じゃあ、中を一回りしたら帰ろっか」
 静見辺りは今すぐにでも帰りたい気分だろうが、開店セールの安さには少しだけ興味がある。珍しいものへの興味もあった。
 周囲の人の流れも、花が脇に飾られたデパートの出入り口へと続いていく。流れを構成するのは家族連れや若い男女、母親たちの集まりらしき姿や老夫婦、学生の友人グループなど、様々な人々。
 何の変哲もないその中に何かを感じたように、不意に静見が振り返る。
「どうかしたんですか?」
 その様子に気がついた美佐子が声をかけるが、相手はすぐに視線を逸らし、小さく肩をすくめる。
「何でもない」
 素っ気無くそう答られる。
 周囲の人々に変わった様子は見られない。温泉帰りは美佐子らだけではないらしく浴衣姿もいくつか見えるが、浴衣の少女二人に青年一人、そしてジャージの少年という、この四人が変わった一行として他人の目に映りそうなほどだ。
 それでも美佐子は店に入るまでの間、一抹の不安を感じずにはいられなかった。

 いつもに増してぐっすり寝入っている静見を背後に、美佐子は居間のダイヤル式の電話から、高木奈美の携帯電話に連絡をとった。美佐子自身は特に必要としないので、携帯電話は持っていない。
 中庭が夕日に染まっている。そろそろ怪談クラブの待ち望む夜の闇が空を支配し始めるころだ。
「奈美ちゃん、どうしても行かなきゃダメ?」
 できることなら行きたくない。彼女の声にははっきりとそんな心情が滲み出している。
『どうしてもとは言わないけど、まだ竜樹含めて五人しか集まってないのよー。みんな都合悪くってさ。由里ちゃんも友だちに声かけてるけど、大勢集まれば集まるほど怖くないから、来てほしいなー、なんて』
 ――怖いなら、行かなければいいのに。
 ずっとそういった場所を回避してきた美佐子には、奈美たちが怖いと感じる場所にわざわざ出向くことに共感できなかった。
 しかし長くそういう人種と付き合っているので、共感や納得はできなくても理解はできる。数の力で怖さを克服することで達成感を得たいらしい。
 果たして自分が行っても大丈夫なものなのか。助けを求めるように桐紗を見るが、もう一人の少女は開いた雑誌を顔にのせて眠っていた。
「うん……あんまり遅くまでかかるとダメだからね?」
 最後には、仕方がない、温泉で桐紗が言っていたことを信じよう――という結論を出す。それに奈美が困っているなら、できるだけ力になりたかった。怪談趣味には共感できなくても、今まで助け合ってきた親友だ。
『ありがと! 今度何か奢るからね。他のみんなとは駅前に集合だから、今夜一〇時、迎えに行くよ。それじゃあ』
 通話が切れると、溜め息を洩らして受話器を置く。
 今までにも付き合わされたことはある。しかし傀儡という存在を知った現在、できるだけ夜の街を歩きたくなかった。
 その一方で傀儡狩りの存在も知ったため、何かあれば助けてくれるんじゃないか、という希望もある。
「美佐子ちゃんも、お友だちとのお付き合いで大変ねえ」
 夕食の席で話を聞いた光江が、美佐子の心情を察して同情の声をかけてくれる。
 デパート丸光屋の開店セールで買ってきた安売りの刺身も並ぶ夕食のテーブルを囲んでいるのは、女三人だけだ。大治は柔道家仲間とどこかに出かけ、静見は熟睡しているので光江があと回しにするという。
「まあ、危ないことはないと思うし……ない、よね?」
 美佐子が目を向けると、桐紗は、
「ああ、あそこなら平気だよ。危険なことなんてないさ。あたしも静見ちゃんも見に行ったんだけどね」
 いたずらっぽく片目を閉じて、そう請け負う。
 美佐子はそのことばが欲しかったのだ。桐紗や静見に『危険はない』と言ってもらえさえすれば安心できる。
「そうなの。それじゃあ、大丈夫ね」
 浮かない顔だった美佐子の顔が、一気に笑顔に変わる。
 その曇りないほほ笑みを見て、会話の全容を把握していない光江が感心したようにうなずく。
「あら、美佐子ちゃんってばすっかり桐紗ちゃんを信頼してるのね。本当に仲が良くって、おばさん、嫉妬しちゃうわ」
「いやー、それほどでもー」
 桐紗が照れたように頭を掻いて言うと、居間に笑い声が洩れる。
「ふあーあ、今日は早めに寝ようかな」
「あ、わたしも」
 笑いの最後があくびに変わり、空になった食器を重ねてから桐紗は手を組んで身体を伸ばす。
 美佐子も彼女に賛成した。温泉から帰ったあと少し昼寝をして、だいぶ眠気は治まっていたものの、深夜に行動する前にもう一眠りしておいたほうが良さそうだ。
 食器洗いを手伝うと、少女たちは二階にあるそれぞれの部屋に戻りベッドに入る。大治たちはまだまだ帰ってくる気配もなく、居間には光江と、縁側に転がる静見だけが残された。
 光江は午後七時には神代家を出て自宅に帰る。帰る準備をしながら彼女が盆に夕食を載せて台所から出てくると、決まって静見が身を起こしている。
「静見ちゃん、あとのこと、頼むわね。大治さんも夜遅くまで帰って来ないかもしれないし、美佐子ちゃんも夜出かけるみたいだしねえ」
「ああ……わかった」
 静見も深夜に神代家を出るのだが、そんなことはつゆ知らず、光江は相手の適当な返事を真に受ける。
「そう、ありがとうね、静見ちゃん。それじゃあ、頼んだわよ」
「気をつけて」
 淡々としたいつものひとことに見送られ、光江は暗い道場前の廊下へと去って行く。
 一人きりになると、静見は縁側に歩み寄り夜の寒さを遮るために閉ざされた簾をわずかに持ち上げる。
……九虎丸
 静かな呼びかけに応じて、中庭の闇の一部が動いた。金色の目がふたつ、わずかな明りを反射して鋭く輝く。
「ご主人。まさか、あっしにあの怪しい娘の監視でもしろって言うんじゃないでしょうね? いくら怪しくても、さすがに年頃の娘の部屋を覗くのはねェ……
「違う」
 人と同じように口を動かして話す黒猫の言い分を、静見はにべもなく否定する。
「今宵、神代美佐子が友人たちと肝試しに出かける。お前はそれについていけ」
 相変わらずの必要最低限のことばに、猫は闇に輝く目を見開いた。
「へえ? ご主人は行かないんですかい」
「儂はその時間、寝ておる」
 あくび交じりの、それが当然とでも言うかのようなことばに、九虎丸という名らしい黒猫は少し黙ってから仕方なさそうに小さな口を開いた。
「へえへえ、わかりやした。子どもの肝試しに付き合うなんて、まったく、ご主人もけっこう心配性でさァねえ」
 それじゃあ、と言い残して、ほとんど闇と同化するように縁の下に姿を消した。
 それを見届けると、静見は九虎丸のことばにも何ひとつ心を動かされた様子なく、小さくあくびをしながら簾を下ろす。
 建物の陰になった中庭は月明かりにも照らされず、建物から一筋さしていた光も失った今、静かに闇が満ちているのみだった。

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