黄昏色のレンズ

 小高い山のふもとに、小さな街並みが広がっていた。山の周囲には太いロープや木の橋がいくつも渡され、街中の工場や木の塔に続いている。それを、土や鉱物が入ったバスケット、トロッコ、リフトに乗った人間が行き来する。
 山は町に向けて絶壁をさらし、その土がむき出しになった面に、いくつも穴が空いていた。ためし堀の跡か、そのうちのひとつがそばに空いていたのに、革の手袋をした手が伸ばされる。それが取り出されたとき、赤い土が手のひらに握られている。
「ここは、色々な質の土があるようだね」
 歩きながら、土を袋に入れる。
(へえ……おもしろそうなところだね)
 頭の中に響く少年の声に、黒尽くめの少女は、足を止めた。
 だが、それは、声に驚いたためではない。遠方の者と話をする〈テレパシー〉や視界を共有する〈ビジョン〉は、一般的な生活を営む者にも浸透した魔法だ。
(どうしたの、セティア)
 名を呼ばれ、高名な魔女である少女は、一歩、立ち位置をずらす。すると、その視界に、大勢の人間の姿が入った。
 崖に空いた洞窟の前に、クワを手にした一人の青年が立ち、それと向かい合うようにして人垣ができている。人垣を構成する人々は、老若男女、様々だ。
 人々の壁の中心に立つ、身なりのいい男が、勝ち誇ったように青年を見る。
「もう、土地代も払ったんだ。その鉱脈は私の物だよ」
「うるさい! 見つけたのはオレだ! 土地だって、あんたがオヤジに無理矢理書類にサインさせたんだろうが!」
 青年は声を荒げ、紅潮した顔を、身なりのいい男の左右に向けた。
「あんたたちだって、今までぺドルのやり方に反対してたじゃないか! 何で今、こいつに味方するんだよ!やっぱり、金持ちの言うことには逆らえないのか?」
 彼に目を向けられると、人々は目を伏せた。ぺドルと言う名前らしい金持ちの男だけが、平然と笑みを浮かべている。
(セティア……なんか、凄いところに来ちゃったね)
 物騒な光景を疎むような少年の声に、魔女のほうは、怪しい笑みを浮かべる。
「まあ、シゼル。よく見ていなよ」
(どういうこと?)
 シゼル、と名を呼ばれた声の主は、魔女の目を借りて知覚した、前方の光景に注意を戻す。
「すみませんが、ホリイさん」
 人々の間から、後ろのほうにいた青年が進み出た。銀縁の眼鏡をかけた、旅装の青年だ。レンズの照り返しで目が見えないせいか、表情が曖昧に見える。
「もともとの持ち主であるあなたの父上が印を記した以上、ここはもう、ぺドルさんの土地なのです。あなたは不法侵入ですよ」
 彼が手を上げると、その左右から体格のいい男たちが歩み寄り、ホリイという名らしい青年を左右から抱えた。
「金脈を見つけたからって今まで見向きもしなかったここに集まりやがって! お前らみんな金の亡者だ!」
 叫びながら、ホリイは街の奥に連れられていく。
 セティアが黙って見届ける前で、人々は散開した。眼鏡の青年とぺドル、その部下らしい数人は、奥の丘の上に鎮座する豪邸に去っていく。
(金脈を見つけたから、それを強引に買い取った、って話?)
「そう単純でもなさそうだけど……気になる?」
(そりゃあ、ね。あのホリイさんって、どこに連れて行かれたのかな)
 セティアは街の中心に向け、歩き出す。噴水が街並みに少ない彩を与える中央公園に入ると、彼女は、周囲を見回した。
 そして、ある建物の上に視線を留める。
(やっぱり、基本は人が集まる所だね)
 セティアはほほ笑み、〈金の山鳴り〉亭と看板が掲げられた大きな酒場のドアをくぐる。広く、天井も高い店内では、一仕事終えたらしい男たちが賑やかに酒と食事を楽しんでいる。
 ざっと見たところ、傭兵や旅の魔術師らしい姿もいくつかあった。その姿を横目で見やりながら、セティアは、カウンターの席に座る。同じカウンターの席で、剣士らしい男が一人、飲んでいた。
「やあ、お嬢さん。お嬢さんも用心棒の仕事を探して来たのかい?」
 この街独特の、頭に密着した厚い帽子を被ったマスターが、陽気な笑みを浮かべて声をかけて来た。
「用心棒……山賊でも出るんですか?」
「いいや、怪物だよ。山を掘ってると、たまに魔物の巣に行き当たったりするのさ。だから、採掘者も町自体でも、よく用心棒を雇うんだよ」
 木のついたてに彫られたメニューを見ながらの質問に、マスターは親切に回答する。
 セティアはメニューから、キノコのソテーと山菜スープ、焼きたてロールパンを注文した。
「そういえば、ぺドルさんとか言う人も、魔術師を抱えているようですね」
「ああ、あのぺドルか」
 マスターは、笑顔をわずかに崩して渋い表情を作る。
「あの魔術師……イグニとか言ったか。つい十日ほど前にぺドルに取り入った魔術師だよ。丁度、ホリイが金脈を見つけた後に現われて、ぺドルの手伝いをしているよ。金脈の利益目当てかねえ。でなけりゃ、誰があんな……
 つい言い過ぎた、という顔で、マスターは口を塞ぐ。
 しばらく、従業員のいる奥の厨房に引き取った後、彼はセティアが注文した料理を盆に載せ、カウンターに並べる。
(あーあ、ボクもお粥でも食べようか)
 魔法でつながっているものの、その身体は遠方にあるシゼルは、長患いでまともな食べ物を食べることも出来ない。セティアは心の中で、淡い罪悪感とともに苦笑する。
(いつか、味覚も共有できる魔法を開発することにしよう)
(ホントに? 期待しているよ)
 ほほ笑み、セティアは出された料理に手をつける。まず口に入れた温かいスープは、濃い目の味付けだが、野性の風味が生きていた。
 彼女が遅めの昼食をとっている間にも、客は入れ替わり、カウンター席にいるのは彼女一人になる。
「ぺドルさんって、余り評判が良くないようですね」
 残り少なくなったスープをかき回しながら、セティアは、他の客に聞こえないように小声で言う。
「ああ……昔から悪どい商売をやっててな。街の連中には恨まれてるのさ。あいつの商売のせいで財産を失った家族も、危険な現場で働かされて怪我をしたヤツも多い」
「でも、先ほど町の人たちがぺドルさんについていたようですけど……
 空になった食器を回収しながら、マスターは渋い顔をする。
「そこがあの魔術師の腕でな……一体、何を吹き込んだんだか。ホリイも仲間として長年一緒にやってきたっていうのによ……小賢しい魔術師だ」
 そう言い終えてすぐ、焦ったようにセティアに作り笑いを向ける。
「あんたはそんなヤツには見えねえがな」
……ええ」
 上の空で返して、黒衣の魔女は食後のハーブティーを注文する。
 背後のテーブルを占めていた一団が、ゾロゾロと連れ立って店を出て行く。入れ替わりに、ひとつの気配が歩み入ってきた。
(セティア、あの人……
 頭の中に響くシゼルの声で、魔女は背後に目を向けた。見覚えのある姿が、フラフラとカウンターに近づいてくる。
「ホリイ、災難だったな」
 マスターが声をかけた男は、間違いなく、ぺドルと対峙していた青年だった。くたびれた服を着た、疲れたような顔をした男は、うつむいたまま、力なくセティアのふたつとなりの席に腰を下ろす。
 座り込んだまま黙っているホリイに、マスターはホットミルクを出した。
「まあ、連中が掘り出す前に何かいい手を考えようぜ。まず、何とか見張りの連中を誤魔化す手を考えないとな」
「無理だ」
 顔を上げ、ホリイは断言する。
「もう、明日の早朝には掘り出しにかかるんだとよ。十年近くも金脈発見にかけてきたってのに……もう終わりだ」
 カップを手に、彼は笑った。疲れきった、何もかも諦めたような笑み。
(なんだか、可哀そうだね)
 無言で話を聞いていたシゼルが、腑に落ちない、といった調子の心の声を出す。
(明日までに、金脈をよそへ移す魔法とか、できないの?)
(出来ないことはないけど、魔術師が見張ってるだろうね。この街を追われることになる)
 セティアは心の中で答え、料理の代金をカウンターに置いて立ち上がった。その気配につられ、ホリイがチラリとローブ姿の少女を見る。
 しかし、彼は見たくないものを視界に入れたような調子ですぐに視線を逸らし、セティアもまた、気にすることなく出口に向かう。
「またどうぞ」
 マスターの声を背中に、彼女は店を出た。
 埃を含んだ風が、彼女のマントと束ねた長髪を揺らす。鉱山と街の間を行き来する人やトロッコの姿で、周囲は賑わっていた。近くの工場らしい建物の窓から山の高いところにある採掘現場までロープが張られ、滑車で吊るされている鉱物を載せたバスケットが滑り落ちていく。
 そういった、採掘関係のものではない建物は、この辺りには少ないらしかった。民家は少し離れたところにかたまっており、付近に見える店は酒場と宿屋くらいなものだ。
 選択肢は他にはない。セティアは〈トロッコの揺りかご〉亭という宿に入り、主人に一泊を申し出て、前金で料金を払う。
 宿屋は二階建てで、カウンターのそばに階段があった。造りは丈夫で、レンガの分厚い壁は古風な雰囲気を漂わせている。気配からして、どうやら数人の客が入っているらしい。
(食堂はないんだね)
(その分料金は安いけど)
 魔女は鍵をもらい、階段を登って与えられた二階の奥の部屋に向かう。階段もレンガ製で、足音も小さい。
 階段の踊り場に着くと、その、かすかな音も聞き逃さず、魔女は壁に身を寄せて顔を上げた。彼女の漆黒の目が向けられた先には、見覚えのある、旅装の魔術師の姿があった。
「おや……あなたも魔術師ですね」
 眼鏡を持ち上げ、青年は愛想笑いを浮かべる。
「ホリイさんにでも雇われましたか?」
「いいえ。あなたも、この宿に?」
「ええ。ぺドルさんの屋敷では、研究がやりにくいですからね」
 まるで古くからの知り合いのように、二人は何気なくことばを交わす。
「イグニさん。あなたは明日、早朝の採掘に同行するつもりですか?」
 歩みを再開しようとしていた魔術師は、名を知られていたことを不思議に思う様子もなく、軽く振り返ってうなずいた。
「そこまでが契約ですからね。それでは、失礼しますよ」
 彼は言って、階段を降りていく。
 それを最後まで見送ることなく、セティアは登り始めた。登り切ったところにある二階の廊下は狭く、彼女は真っ直ぐ突き当りの部屋に向かう。
 窓が一つある簡素な部屋に入るなり、シゼルが尋ねた。
(ねえ、何であんな風に訊いたの?)
 彼は、セティアのイグニに対する態度に不満があるらしかった。しかし、セティアはそれには答えず、曖昧な笑みを浮かべてはぐらかす。
「そのうちわかるよ。さあ、寝ようか」
 まだ、陽は少し傾き始めた頃である。夕食もまだ先のことだ。
 少し間をおいて、シゼルは、荷物を置いてベッドに腰掛ける魔女に、驚きと不審の混じった心の声をかける。セティアは本気らしく、留め金を外してマントを丸めて置く。
「明日は早いからね」
(金脈の採掘を見に行くつもりなの?)
 腰に吊るしたナイフを枕の下に挿し込み、彼女は仰向けに寝ころがる。
「おやすみ、シゼル」
(やれやれ……おやすみ、セティア)
 あきらめたのか、シゼルもあくびを洩らし、〈テレパシー〉の送信をやめた。

 鉱山の朝は早い。
 夜闇が薄れ、山並みが白み始めて間もなく、各現場が動き始める。その賑わいは、さすがに昼間に比べるとささやかなものではあったが。
 セティアは宿を出て酒場で軽い食事を済ますと、中央公園の噴水の周囲をめぐった。淡い金髪の一人の若い男が、本を顔に載せて木のベンチの上で横になっている。時折周囲を行く者たちは、風景の一部のようなその存在をまったく気にかけない。
 もともと、この周囲ではベンチより地面に座るのが一般的らしい。朝食を外でとろうと敷物の上に弁当を広げる老夫婦の姿もあるが、土で汚れた服を着た男が手っ取り早く朝食をとろうと、挽き肉を挟んだ焼きパンやおにぎりを手に直に地面に座る込んでいる姿が多い。
 周囲を三周してから、魔女は噴水の石造りの縁に座る。
……あ、おはよう。もう起きてたんだ)
 ようやく、太陽が山並みから顔を出し始めた頃である。シゼルにしてもかなりの早起きだが、それ以前から起きて動いている姿の多さに、少年はあきれとも感嘆とも取れる声なき声を出した。
(まったく……それで、坑道のほうはどうなの?)
 問われると、セティアは立ち上がり、視線をめぐらせる。坑道の入口は見えないが、その前に、人垣が出来ていた。最初に町を訪れたときよりも、さらに人数が多い。
(金を見たい人たちかな? あの魔術師やぺドルさんがいないようだけど)
「もう中に入っていったよ。そろそろ、採掘が始まっている頃だね」
 言って、人の壁の後ろに歩み寄っていく。人々は皆、一言も発さず、真剣な表情で何かを待ち受けている。
 人々の視界に入らない背後に立ち、セティアも待った。
(もっと寝ていれば良かったかなあ)
 シゼルが、後悔のことばを洩らす。
 だが、幸い、待ち時間は長くは続かなかった。
 轟音、そして地面を震わせる揺れ。
 坑道の出入口から、白煙が吐き出された。人々の間から小さな悲鳴が上がり、人垣が、セティアの目の前までさがって来る。
(何? 魔力を感じたような気がするけど……
「ああ。そろそろだろうね」
 セティアが平然と目を向けるのを合図にしたように、ふたつの影が坑道から飛び出した。コウモリに似た翼と赤い目、鋭い爪を持つ下級悪魔、ガーゴイルだ。
 それが上空に飛び上がるのを見て、人々は慌てて駆け出した。赤く鋭い目が映す視界の外へ。
 セティアは逃げ惑う人々の間を歩いて、噴水に向かった。
「坑道の奥に魔物の巣があるのあるのは珍しくないらしいね」
(じゃあ、採掘に出かけたぺドルさんたちは……
 背後から、ガーゴイルが迫る。急降下した下級悪魔の爪が魔女の背中に伸ばされた。しかし、それが黒いマントに触れようとした途端、見えない壁が遮って火花を散らす。
 驚き、上空に退避するのを振り向きもせず、噴水のそばに立つ。
 周囲にいるのは、ベンチの上で寝転ぶ若者だけだ。酒場に逃げ込んだ者やマスターが見ているのを一瞥して、セティアは、彼女の姿を追ってきたガーゴイルを見上げた。
 魔女は挑発するようにナイフを抜き、銀色に輝く刀身を振る。
 ガーゴイルが再び、急降下した。家の中や陰で見守る人々が目を見開いて凝視する中、彼女は接近する悪魔たちの目がはっきり見えるまで待って、口を開く。
「ヘルバ・マグナ」
 魔法の力を解放するなり、セティアの立ち位置を中心に地面に光の円が現われ、その縁から八本の緑の光が宙にのびた。光のロープはガーゴイルたちを捕らえ、からみあってカゴのような形状を作ると、圧し潰すようにして縛り上げる。
 間もなく、ガーゴイルたちは煙となって消滅した。
(今回は、ずいぶん手をかけた魔術だね)
「わかってたからね」
 何の危機感もなくセティアの視界を共有していたシゼルが、不思議そうな声を出すと、それに答えて、セティアは足もとを見下ろした。すると、少年にも、赤土の上に小さな魔方陣が描かれているのが見えた。
 一部始終を眺めていた人々が戻ってきて、冒険者を含む自警団の者たちが坑道に入り、間もなく気絶した鉱夫と護衛の冒険者、そして、息絶えたぺドルとイグニ、その部下二人の遺体が運び出された。
(死んじゃったの?)
「ああ。心臓は動いていない」
 地面に敷いたゴザの上に、豪華な服を血に染めた富豪と、眼鏡をかけていない青年魔術師、昨日ホリイを連れ去っていった男たちが寝かされていた。
 涙する者は誰もいない。冷たい目で遺体を見る人々の間から、ホリイが抜け出す。
「天罰だ……
 そうつぶやきながらも、笑顔を見せず、青年は祈りを捧げた。

 太陽が山の縁を完全に離れ、鉱山とそこで働く者たちが本格的に仕事にかかり始めた頃、一人の魔術師が、町を離れようとしていた。門の外であるここでは、鉱山の喧騒も遠く聞こえる。
 魔術師が門を出ると、それを追うように、数十人の住民が姿を見せる。
「本当に、ありがとうございました」
 頭を下げる人々の前で、魔術師は振り返ってほほ笑む。
「依頼を果たしたまでです。報酬も頂きましたし……あとは、きちんと彼に取り分を渡すことですね」
「それはもちろん」
 人々は、強くうなずいた。
「では、私は消えさせてもらいますよ」
 言って、魔術師は歩き始める。山並みも途切れ、地平線まで建物も見えない、まばらに木が生えただけの草原を。
 背後に、町が見えなくなったとき――魔術師は、足を止める。
「あなたには、礼を言わなければいけませんねえ」
「必要ない手出しだったでしょう」
 言いながら、黒衣の少女――セティアが、木の陰から姿を現わす。
 コートをまとい、少ない手荷物が入ったバッグを抱えた淡い金髪の魔術師は、眼鏡を軽く持ち上げ、ほほ笑む。
「あの場は、使う魔力を抑えたかったので、助かりました。身体換装は結構力を使うんですよ」
(ちょっと……どういうこと? この人がイグニさん?)
 シゼルが疑問を伝える。その音のない声も、イグニには聞こえているようだ。
「ええ、私はイグニ。人の身体と同じものを製造する錬金術には少々自信がありましてね……あの身体もそろそろ飽きてきたので、消えてもらいました」
「あなたが連れていた二人も、あなたの命令を聞く人造人間……ゴーレムですね。本体は公園のベンチの上に置いて、坑道に行く元の身体が破壊される寸前に意識を移した。ガーゴイルも自分で召喚したものなら、タイミングを合わせやすい」
「御名答。あれで皆、私が死んだと思ったことでしょう」
 すべて見通した調子のセティアとは違い、シゼルは、まだ納得がいかないようだった。
(イグニさんは、ぺドルさんに雇われていたんじゃないの?)
「確かに、雇われていましたよ……表面上は。しかし、私の雇い主は、人々です。人々の依頼に従い、あの男の下についていたに過ぎない」
(それじゃ、暗殺……
「そういうことが、必要なこともあるんですよ」
 眼鏡の奥の目に苦笑を浮かべ、コートの懐に手を入れる。そして、何かをセティアに投げてよこした。その意外な重さに、魔女はそれを落としかける。
 彼女の手のひらに収まったのは、金色の欠片だった。
「ほんのお礼です。残りは、あの青年の元へ行くでしょう……私は久々に家に帰るとしましょう。さようなら、〈黒の聖女〉の後継者と、風霊の谷の少年」
「さようなら」
(さようなら、イグニさん)
 眼鏡をかけた魔術師は、再び歩き始める。そしてまもなく、幻が薄れていくかのように、その姿を景色に溶け込ませた。
 それを見届け、黒尽くめの魔女も足を踏み出す。
(そういえば……イグニって、聞き覚えない?)
 少しして、シゼルが問う。
 立ち止まり、晴れた空を見上げて考え、セティアが思い出す。
……〈命封精〉イグニ」
(ああ、あの人形の館の! 館のことを伝えなくってよかったの?)
……まあ、家に帰るって言ってたし、大丈夫だと思うよ」
 手のひらに収まった黄金の輝きを小袋に入れ、彼女は再び歩き出した。