絵本の国

 その街の大通りには、何件もの書店が並んでいた。開かれた店には大きな本が並び、カラフルで可愛らしい絵を通りに向けている。ときどき親に連れられた子どもがやって来ては本を開き、気に入った物があれば買い取っていった。
 満足そうに少年と母親を見送った店主は、店先に珍しい客が姿を現わしたのに気づき、声をかけた。
「いらっしゃい。お客さん、旅の人かい?」
 黒ずくめの姿は、魔術師に違いない。そう考えると、店主の愛想笑いは、少しこわばったものになる。魔術師に違いないということは、安全なこの国の外からきた者に違いないのだ。凶器の類は門番が預かっているだろうが、魔法は奪うことができない。
「はい。昨日、この国に来ました」
 答えて、少女は台の上に並べられた絵本の表紙を眺める。
「ここにあるのも絵本ばかりなんですね。他の店でもそうでしたが」
「ああ、そうだよ。この国には、絵本以外の書籍を販売したり、所持したり、書いたりしてはいけないんだ」
 店主が説明すると、少女は驚いたように目を向けた。
「それは、なぜ? 他にいい娯楽があるのですか?」
「一生懸命働いて、家族と過ごしていたら、娯楽なんて必要ない。大抵の娯楽は精神的、身体的負傷の可能性を秘めている。そんな危ないことはできないよ。せいぜい、花を育てて、観賞するくらいかな」
 何を当たり前のことを、という調子で、店主は説明した。
「本だって、邪悪な思想や精神的ショックを与える可能性があるからね。本を書けるのも、販売できるのも、厳しい審査がいるんだ。この通りに並んでいる店は、どこも高い競争率を勝ち抜いてテストに受かった店なんだよ」
 店主は言い、誇らしげに胸を張った。厳しい審査をくぐって店をかまえている、書店の店主という立場に対しての誇りか。
 少女は特に感慨もなく、再び尋ねた。
「辞典とかは、ないんですか?」
「ああ、あるよ。ただ、ちゃんと免許を持ったその分野の専門家しか購入できない。シロウトにそんな本を読ませるなんて、大変だからね」
「そうですか……ありがとうございました」
 少女は頭を下げ、店の前から去って行った。
 店主は、少女の後を私服の警備員がつけていることに気がついていた。

「どうやら、野草辞典は期待できなそうだな。この国の先の丘には、薬草が色々と生えていると聞いたのだけど」
(ま、適当にって、次の街で聞いたらいいじゃない)
 歩きながら肩をすくめる少女に、少年の声が答えた。周囲の通行人には聞こえていないらしく、注意を向ける者はいない。黒目黒髪に黒ずくめの少女自体が目立っているが、皆、一度注意を向けるとすぐに視線をそらす。まるで、関わりたくない、というように。
(でもさ、セティア、どうしてここの人たちはこんなに平和主義なんだろう?)
 通りの端を歩きながら、セティア、と呼ばれた少女は、溜め息交じりに応じる。
「たまに地震が起きる程度の豊かな気候に、他国に攻め込まれることもなかった歴史……。競争心などとは無縁の人々なんだろうね」
(だから、争いの描かれない絵本ばかり? つまらない)
「シゼルは冒険物を読みたいだけじゃないか」
 遠くの者と会話する魔法、〈テレパシー〉は、大抵の街で一般人にもよく知られた魔法だ。この国ではまったく知られていないが。
 もうこの国に用はないと、セティアは北の門に向かうことにした。国を横断する幅の広い大通りを、中心部に向けて歩く。
  この国で一番大きな十字路に近づいたとき、彼女は、北東にある門の前に人込みができていることに気づいた。門の向こうには、白い大きな建物が見える。おそらく、この国の政治の中心であろう。
 人込みに近づくと、二人の男が言い争っている声が聞こえて来る。
「そうは言われましても、これを説明するには絶対にこの記述が必要なんですって」
「ふざけるな! このような生々しい表現、精神の未成熟な子どもたちに見せられるか! わたしが見てもおぞましい。さあ、とっとと帰れ! これ以上ここにいれば裁判も辞さないぞ」
 有無を言わさぬ声の最後に、ガシャン、という重い音が重なった。門が乱暴に閉められた音に違いない。
 言い争いは終わったのか、野次馬たちはその場から立ち去り始めた。まばらになった人の姿の間から、セティアは肩を落として門の前に立ち尽くしている、銀縁眼鏡に白衣姿の青年の姿を見つける。
 辺りに他の人の姿がなくなってから、彼女は青年に声をかける。
「あなたは、お医者さんですか?」
 背後からの突然の声に、青年はビクッと驚いたように振り返る。声の主を見ると、ほっとしたようにもがっかりしたようにも見える表情で溜め息を洩らした。
「ええ、そうです。……あなたは、旅の方ですね?」
「はい。この国の外から来ました」
「じゃあ、その、色々と汚いものとか怖いものとかも見たことはありますよね? ……よかったら、話を聞いていただけませんか?」
(ね、セティア、聞いてあげようよ)
 待ってましたというように、シゼルが即座に言ってくる。それを、セティアは予想済みだった。
「はい、お話をうかがいましょう。ここではなんですから、どこかお店ででも」
「では、そこのカフェに入りましょう」
 彼は少し嬉しそうな顔で、十字路の南西に建つ店を指差した。

 カフェは、〈銀のゆりかご〉亭という名前だった。壁から突き出した半円形のテーブルが並んでおり、それをめぐるように、ふかふかの長椅子が配置されている。テーブルもふちは弾力のある素材だった。ぶつけて怪我をしないように、という配慮か。
 他に客はいなかった。ウェイトレスが物珍しそうにしながら、注文を取ってカウンターの向こうに去る。
「この国の本屋さんは、もう見てみましたか?」
 暑くもないのに、袖で汗を拭くような仕草をしながら、彼は尋ねた。
「ええ。絵本ばかりですね」
「そうです。この国では、いかなる知識を得るにも、絵本のように穏やかに伝えなけくてはいけません。それは、学校の教科書も同じことですよ」
 言って、彼は懐から一冊の本を取り出した。紐で止めただけの、店に並んでいるものに比べて粗末な本だ。青年が自分で製作したのだろう。
 それを手渡されて、セティアはパラパラとめくってみる。そこには、負傷した人間への処置の方法が、怪我の種類や段階に合わせてわかりやすく描かれていた。ほとんどは絵本と同じく、かなりデフォルメされた挿絵が付いている。
(医学の教科書かな)
「これを、あなたが?」
 セティアが本を返すと、青年はうなずき、あるページを開いて見せた。カウンターの向こうに見えないよう、気をつけながら。
 彼が開いたページには、人体模型が描かれている。デフォルメされているが、一目でそれとわかった。
「どの内臓が身体のどこにあるのか、どんな形でどんな大きさなのか、医者なら知っておくべきです。しかし、これがこの国では許されないんですよ。この国は色々と科学が進んで便利になっていますが、医学の方面ではさっぱりなんです」
「あなたは、この国のかたではないんですか?」
「ええ、医者のいない町をめぐって旅をしていましたが、この国の惨状を見て三年前からここに住み着きました。医療もそうですが、そのう……
 彼は身を乗り出し、小声で続けた。
「この国は性教育もまともにできないんです。色々といかがわしい商売が蔓延していますよ。国は取り締まることもできない」
「なぜ? 違法なんでしょう?」
「そういった知識すら拒否している国ですから、どこでどのように行われるかもわかっていないんですよ。たまたま立ち寄ったよその国の者が、独自のルートを作ってる。いいカモですよ」
 長い溜め息を洩らして、彼は身を引いた。丁度、ウェイトレスが注文していたものを運んでくる。
 そのとき、カウンターの奥の棚がカタカタと音を立てた。
(なに?)
 一同が不思議そうに首をめぐらそうとするなり、轟音が響いた。大地が揺れる。若いウェイトレスが素早くテーブルの下に隠れるのを見て、セティアと青年もそれに倣った。建物は地震に強い造りらしく、固定されたテーブルもこのためだろうか、と、セティアは感心する。カウンターの奥の棚も耐震性に優れているようだが、二、三回ほど何かが割れる音がした。
 十数秒して、揺れが収まる。奥から店の主人らしい中年男性が姿を現わした。どうやら、無事のようだ。
「たまに、こういう大きいのが来るんですよ」
 テーブルの下から這い出しながら、青年が言う。
 ウェイトレスが店のなかを片付け始める。揺れが収まってしまえば店内は静かなものだったが、外が騒がしかった。泣き声や、怒号も聞こえて来る。
「怪我人が出たのかもしれない。行ってみます」
 代金を払い、青年は店を出た。セティアもその後を追う。
 通りに、先ほどよりまばらな人込みができていた。その中心には、額から血を流して倒れている少年がいる。そばで少年を揺さぶり、半狂乱で泣き叫んでいるのは、母親らしかった。
 青年は、一目散に少年に駆け寄っていった。セティアはそれを見送り、茫然と立ち尽くしている者のうちの一人、近くにいた男に声をかける。
「あなたは、国の役人でしょう。何とかできないんですか?」
 男は、驚いたような顔をしてから、首を振る。彼自身が怪我人であるかのように顔面蒼白で、表情は強張っていた。
 男に興味を無くして、セティアは少年のほうに歩み寄った。青年は母親を叱咤して息子から引き離し、脈や傷の具合を確かめる。
「とにかく、検査と手術が必要だ。近くにわたしの診療所があるから、そこへ運ぼう」
 彼は周囲の者に指示して、シーツと物干し竿を二本、用意させた。担架を作り、診療所に運ばせる。周囲の人々は、ただ言われるがままにするしかなかった。
 しかし、青年が手術の手伝いを求めると、皆、一様に首を振った。
「命がかかってるんだぞ! あんた、救命術くらい習ったことはあるだろう」
「それくらいは……でも、大量の血や内臓なんて見たことないし、見たくない! それは話が違う!」
 国の役人である男は、ほとんど泣きそうな顔になって、千切れんばかりに必死に首を振った。次に目を向けられて、少年の母親が首をすくめる。
 誰も視線を合わせようとしないのを見て、隅で様子を見ていたセティアが口を開く。
「わたしが手伝いましょう」
 周囲の者たちが驚いたように彼女を見る。
 青年医師はうなずき、セティアとともに奥の部屋に消えていった。

 丘は緩やかに続いていた。そこに辿り着いた旅人は、太い木の根もとに荷物を降ろす。そこから眺められる一面に、様々な種類の野草が生えていた。何割かは、色形の様々な小さな花をつけている。
(よかったね。成功して)
 腰を下ろして淡い水色の空を見上げるセティアに、シゼルが言う。
「なんだ、起きてたのか。てっきり手術の様子見て気絶でもしたかと思ったのに」
(まさか。本で読んで慣れてるもの。勉強になったよ。ボクは、将来、医者になりたかったんだ……
 それから、二人は少し黙った。やがて、セティアが何かを思い出したように口を開く。
「医者か。大変な職業だよね……
(ボクは、技術より白魔法が得意だと思うけどね。風霊の谷は白魔法で有名だし)
「魔法か……
 セティアは立ち上がった。薬草を詰めるための布の袋を手に、周囲を見回す。
 すると、見覚えのある姿が近づいてくるのが見える。
 相手がすぐ近くに来るのを待って、彼女は声をかけた。
「お出かけですか?」
 白衣の青年は苦笑し、大きなカバンを持ち上げて見せる。
「追放されてしまいました。許可の無い者に手術という凄絶な場面を見せたということで。以前から目障りだったんでしょう」
「あの少年は?」
「国の病院に移されました。まあ、あれなら大丈夫ですよ。絵本の中の国の医者でもね」
「絵本の中の国、ですか」
 セティアは苦笑した。青年も笑う。
「ここに薬草を取りに来たんでしょう。どれが珍しい薬草か、お教えしますよ。絵本がなくてもわかりますから」
「それはもう、是非」
 青年は、何度もここで薬草を採ったことがあるのだろう。何種類もの薬草を見分け、セティアに名前と効能を説明した。薬草でない種類のものも多く、見落としそうな小さな花が高価な特効薬になるものや、到底薬草になりそうに見えない毒々しい実が薬効のある植物もあった。それとは逆に、薬草に似た毒草も生えていた。適当に摘んでいたら、まったく薬草が手に入らなかった可能性もある。
 持てる限りの薬草を採集すると、二人は木の根もとに戻って荷物を回収した。
「これからどうするつもりですか?」
 身支度を整え、セティアが青年にきく。
「そうだね……前と同じように、旅を続けるよ。いつかは、あの国の人たちにも真の安全を知って欲しいけど。今のままじゃ、手術もまともに受けられないからね。手術できる医師も看護士も育たないし」
「あの国の人たちは、白魔法による治療なら受け入れるでしょうか」
 セティアのことばに、青年は驚きの表情を浮かべた。
「白魔法ですか……それなら、内臓を見る必要もない。そうですね、わたしはこれから白魔法の勉強をしてみることにしましょう。色々と、ありがとうございました」
 彼は頭を下げると、善は急げ、という様子で丘を駆け下り始めた。それを見送り、セティアも木から離れ始める。
(魔法で怪我や病気を治す国か。ますます絵本に近づいていくね)
「まあ、あの国があれで成り立ってるなら、別にいいさ……
 つまらなそうに言って、彼女は街がある方向を振り向く。
「本当にあの国の体制が駄目なら、そしてその体制では死傷者が大勢出るというなら、いつかはあの国から人がいなくなるだろう」
(でも、あの体制はあの国の人が作ったものでしょう?)
「大切な者が失われるとき、人は体制も体面もどうでもよくなる」
 花の香りが、風に乗って彼女の周囲を包んだ。
「あの母親は、確かに彼に言ったんだよ。『ありがとうございます』ってね。だから絵本の中の国でも、医者をやめられないんだろうな」
 丘を降りたところで、彼女は背後を振り返った。
 水色の絵の具を塗ったような空に、花々と野草が散りばめられた、絵本の中の世界のような景色が広がっていた。