カテゴリ“探訪日記” アーカイブ
・2008年02月03日:第24話 闇の中で(上)
・2008年02月03日:第24話 闇の中で(下)
第24話 闇の中で(上)
それが起こってしまったのは、一昨日のこと。
晴れた、いい天気だった。自室を出て廊下の窓の外を見たわたしは、今日はいい休日になるだろうと思った。
それから地上を見下ろし、湖岸に浮かぶ物に目を奪われる。
大きな、丸太を連ねた上に板を打ちつけたイカダ。その周囲に見える姿は、キューリル先生を含む数人。
――そうか。ついに来たのか。
これは、行かない手はない。わたしは上着を着て鞄を手にすると、急いで外に出た。
芝生は白く薄化粧。寒さも山は越えたらしい。
「おはようございます、キューリル先生」
「おっはよー! アイちゃん、待ってたのよー。見て見て、ついに来たの! お詫び代わりに安くしてくれるって」
ゴーレム暴走で迷惑を掛けたからと、あの商人が気を利かせたらしい。
「これなら、二〇人くらいは乗れそうだよ。氷もへっちゃらね」
アンジェラさんが軽く、イカダを叩く。湖の表面には薄く氷が張っているものの、このイカダの強度なら砕けそうだ。
イカダを眺めているうちに、耳慣れた声が聞こえてきた。
「よー、持ってきたぞ」
城から出て歩み寄ってきたヴィーランドさんとレンくんは、何やら大きな包みを抱えている。
「やったぁ。やっぱり、ハイキングにはお弁当がないとねえ」
――イカダで行くのもハイキングっていうのか?
そんなどうでもいいようなことを考えているうちに、人が増えていく。
集まった顔ぶれの中で知っているのは、ヴィーランドさんとレンくん、アンジェラさん、村瀬先生、リフランさんとイラージさん、シエナさんだ。あとは、たまに顔を合わせる程度の学生さん。
「……湖探検か。学長の許可は取ってあるな? 気をつけてな」
大体、メンツが出そろったころ、通りかかった道化師さんが色気のないことを言ってきた。
それを、キューリル先生が目を輝かせて振り向く。
「平気平気ぃ。あたしにまーかせて! それより……ねえねえ、あなたも一緒にどぉ? 楽しいわよー」
「誰が行くか」
近づく先生から離れながら、彼は首を振る。
「それに、きみだけで充分だろう。何かあれば駆けつけるさ」
軽く手を振って、本城の太い柱の根もとに腰かけると、そのままわたしたちがイカダに乗り込んで出発するのを見送る。
彼がそうしたことで、今日の探検行が決定的な結末を迎えようなど……誰にもわかるはずがなかった。
水面の氷を砕きながら、大きなイカダは直進する。動力源は備え付けられた玉に触れた者の魔力で、操作もそれで行うらしい。イカダはキューリル先生の魔力に反応して、湖面をスイスイ進む。
普段は遠くに見える小さな島々の調査、というのがこの遊びのもっともらしい名目だ。
「ねえねえ、このイカダの名前、〈ミルキースター〉号っていうのはどうー?」
楽しそうに包みのひとつ、お菓子やデザートが入ったほうを開きながら、キューリル先生がそう提案した。
「えー、オレは〈キング・マゼラン〉号のほうがいいな」
「ぼくは、〈渡り鳥の翼〉号のほうが……」
とは、ヴィーランドさんとレンくん。
「まあ、あたしは何でもいいけど、先生のイカダだからね。最終的には、決定権は先生にあるさ」
「じゃあ、みんなの案合わせればいいのよぉ。〈ミルキー・マゼランの翼〉号にしましょー」
そのネーミングセンスはいただけない。でも、みんな『本人がいいならいいか』という表情。
わたしたちがクッキーを摘んでいるうちに、やがてイカダは薄い霧の中に突入。振り返れば、城は白い中に影が小さく浮かび上がるだけになっている。
行く手には、小さな島々が顔を出し始める。枯れた芝に覆われた、人が何人か座れる程度の大きさのもの。
その中でも、一際大きな島があった。イカダよりも少しだけ大きい。
「あそこでご飯食べよー。イカリを下ろせー」
ノリノリの先生のことばに答えて、ヴィーランドさんがイカリならぬ金属製の重りを島に放った。先生がそのままイカダを島につける。
「さー、ご飯ご飯」
イカダから島に降りる。まだ足もとが柔らかいように感じて、心もとない。
ご飯の包みが広げられた。並べられたのは、パンに野菜と厚切りハムを挟んだ物と、炒めた小魚とキノコのチーズ巻き、それにナッツの詰め合わせ。お菓子の包みには、デザートの果物とじゼリーも入っていた。
「それにしても、ちょっと寂しいところね」
水筒からお茶を注ぎながら、アンジェラさんが感想を言う。そのとなりの村瀬先生も残念そう。
「さすがに、この時期では生き物も見当たらないしな」
「ま、実際はこんなもんでしょう」
「いや、わからないぞ。この先、何かあるかもな」
わたしのことばを受け、ヴィーランドさんは、夢のあることを言う。
他愛のない雑談を交わしながら、遅めの朝食をとる。このときはわたしも、ピクニック気分だった。
それが、包みを片付け始めたころに一変する。
「みんな、イカダに乗って」
不意に放たれた先生の一言は、いつもとトーンが違っていた。
「先生……」
レンくんの呼びかけが終わる前に、水が噴き出す大きな音がした。黒い影が近くの小島に飛び上がったのを目にしたときには、わたしでも、異質な気配を感じていた。
――夢魔……?
キューリル先生の幻術とは思えない。この状況で、する理由もないし。
黒い霧の塊のような大きな夢魔が、指のない、紙のような手を伸ばす。
「〈ヴァルスランク〉!」
先生の放った光が、黒い霧の一部を吹き散らす。夢魔はすぐに元の形を取り戻すものの、いくらか小さくなったように見えた。
「こいつはあたしが何とかするから、ここを離れて!」
先生のことばに一瞬だけためらって、ヴィーランドさんとイラージさんが協力して重りを引きあげる。
「後で迎えに来ますから!」
リフランさんが玉に手を置いた。
正体不明の相手に、狭い足場。そこに大勢いれば、戦力より足手まといになる。残りたい気持ちはあったけど、そういうわけにはいかなかった。
でも、結局、出発もできなかった。
夢魔が身体を膨れ上がらせると、大きな、その分密度は低くなった手を振り下ろしてくる。
「飛べ!」
と、呼びかけたのは誰だったのか。
急いでイカダを飛び降りた直後、あの丈夫なイカダが水しぶきを上げて砕かれてしまう。密度が低くなったとはいえ、空高くから振り下ろされた大きな手は破壊力も大きいらしい。
わたしは島にしがみついた格好のまま、それを振り返ってから、視線を前に向ける。飛び降りた先は夢魔とキューリル先生がいる島だ。
辺りは霧が濃くなってきて、そう離れていない先生の後ろ姿も薄い。いや、この霧はきっと、わたしたちを夢魔の目から隠すためのもの魔法じゃないか?
先生は白く光る結界を両手のひらの先に張り、のしかかるような闇に押しつけていた。夢魔の身体は削れ、最初に見たときよりだいぶ小さくなっていた。
――これは、行ける。
そう思ったとき、急に夢魔の身体がざわざわうごめく。
「あ……」
かすかな声。
それが最後に聞いたことばだった。
結界が消える。次の魔法を用意するためか、軽く身を引く。その隙間を夢魔が詰めたところで。
キューリル先生の身体が、渦巻くような闇に包まれた。
そしてあっけなく、闇は消える。先生の姿を道連れに。
わたしは茫然としていた。忽然と消えた先生の姿は、どこにもない。
そのうち、夢魔が目の前に近寄っていることに気がつく。
次は、わたし。
この世界に来て、いや、生まれてから今までないほど危機を、死を身近に感じる。
夢魔に対抗する方法を考え、わたしはやっと鞄を握りしめていることに気がつき、それをかまえて立ち上がる。
呪文を唱えながら見上げるわたしへ、黒い手が伸びてきた。
わたしは、きっと鞄で弾けるはず……そう信じながら呪文を唱え続けた。
第24話 闇の中で(下)
気がつくと、闇の中にいた。黒一色だけど、足もとに地面の感触はある。
何かの魔法か、わたしは死んだのか、それとも全然違う原因か。
とりあえず、数歩下がる。夢魔に攻撃される気配はない。さらに下がってみても、水に足を突っ込むことはなかった。その感触も、冷たさも感じない。
周囲を見回す。何もない。
声を上げようと、口を開きかけたとき。
「大声出さなくても、大丈夫だよ」
背後から、声が聞こえた。
振り返ると大きな布を頭から被った小柄な人間が立っていた。声からして、若い女だ。顔の半分以上が隠れているが、のぞき見える目の色は、黒。
「あの、あなたは……」
「わたしは、この研究所に古くからいる者。ここの地下には、色々な抜け道があるの。本城の、別棟休憩所寄りの柱の根もととかにも出入り口があるね。でも、今そこまで送ったら色々面倒になるし、とりあえず元の場所に戻してあげる」
一体、この人は何者なんだろう。敵ではなさそうだけど。
そう思って改めて眺めてみると、マントのような布の裾から、わずかに青いローブの端が見えた。その色、裾の模様は、見覚えがあるもの。
「さあ、そろそろ応援がくる。夢魔はまだいるから気をつけて」
「あの、あなたは……」
「わたしのことは、いずれわかる。それに、忘れないで。闇もいずれ晴れるということ」
わたしが言いかけると、それを遮るように意味深長なことばを口にして、彼女は口もとに笑みを浮かべていた。
質問に答えてくれるつもりはないらしい。
でも、もう少し努力してみようと口を開きかけたところで、闇に光の点が穿たれ、それが大きくなる。トンネルを抜けるときに似ていた。
「また、いつか会いましょう」
光がまぶしくて、わたしはすぐに彼女の姿を見失った。
気がつくと、もとの島のとなりの、小さな島に寝そべっている。
顔を上げると、またあの夢魔を正面にする。慌てて鞄を捜すと、ちゃんと両手に握っていた。
「お前の相手はこちらだ!」
聞き慣れた声。でも、ここにはいないはず――。
首をめぐらせると同時に、湖面に白い道が作られた。夢魔へと導くように、湖面の一部が凍りついた。魔法に違いない。
その道を走ってくるのは、道化師さんとシェプルさん、ロイドさんの備え役三人と、近くで拾われたらしいリフランさんとイラージさん。
襲いかかる夢魔は、キューリル先生との戦いでだいぶ消耗していたのだろう。最初より動きも遅く、身体も小さくなっている。
夢魔はあっさりと、道化師さんの放った魔法の一撃で消滅した。
色々あって……その翌日の、昨日。
当然、授業はすべて休講になって。葬式が執り行われた。
遺体もないし思い出の品も見当たらないから、棺に入れられるのはよく使っていたカップと食器。棺はエレオーシュの、あの墓場に埋められるという。
わたしは何だか……。
「まさか、殺しても死なないと思ってたあんたが先に逝くなんてね……」
と、テルミ先生が涙を見せても、
「学長。まだ彼女は死んだとは限らない。夢魔がどこからか出現した件も考えて、すぐに備え役から調査隊を編成し派遣すべきだ」
「残念だが……それはできん。今ここを手薄にするわけにはいかん。きみもわかっているだろう」
と、式の後に、きっと一緒に行かなかったことを後悔しているらしい道化師さんと、悲しげな表情の学長さんの顔を見ても、
「アイちゃん……大丈夫? 一番最後まで近くにいたんだから、一番ショックだったでしょう」
ビストリカに心配されても、わたしは現実感がなかった。まるで、夢の中のようだ。
ただ、心に感じるのはひとつだけ。
――キッツイなあ……。
漠然とそう思う。
ただひとつ、確かめたいことがあった。それが確認できたとき、わたしに現実感が戻ってくるのかもしれない。
誰もが部屋から出ないその日の夜、わたしはこっそりと部屋を抜け出す。
目指す場所は、あそこしかない。本城の、別棟休憩所寄りの柱の根もとの部分。上手く巡回の目をかいくぐって外に出ると、本城の外周に沿って慎重に歩く。
息が詰まりそうなくらい静かな夜をできるだけ乱さぬように歩く。まるで、いつかの幽霊にでもなったような気分だ。
やがて、城を支える太い柱のひとつにたどり着く。根もとはしっかり大地に根を下ろすように広がっていて、刻まれたいくつかの段がよく椅子代わりに使われていた。
周囲の地面には、四角く石畳が広がっている。わたしはその石畳を軽く叩きながら、膝で這いずり回る。はたで見てる人がいれば変に思うだろうけれど、今夜は大丈夫だろう――備え役の巡回に当たらなければ。
根元に出入り口があるって言うなら、たぶん地面だろう。というわたしの予想は的中した。
石畳の一部がはがれ、重いそれを苦労してずらすと、暗い縦穴と地下へのハシゴが現われる。
出入り口はあった。これからどうするか。
鞄を握りしめて、行くかどうか迷う。この先に何が待ち受けているのかはわからない。夢魔と遭遇する可能性もある。
でも、行かなければいけない気がした。
魔法で光球を生み出し、下をのぞき込む。
「どこへ行くつもりだい?」
気配も感じなかった背後からの声に驚く。でも、誰なのかわかれば納得だ。この人はいつも、こういう登場の仕方をする。
振り向いたそこにいるのは、やっぱり、四楼儀さん。
「四楼儀さんこそ……見張りはどうしたんで?」
「代理の幻獣に任せている。ところでお
「そんな風に言うってことは、一人で行かせないアテでもあるってこと?」
藍染の浴衣にも似たローブの袖口に両手を突っ込んだまま、小さく溜め息を洩らす。
「
のんびり立ち話なんてしていたら、誰かに見つかるかもしれない。わたしたちはとりあえず、岩を削ったような地下通路に入る。
通路は真っ直ぐ、湖のほうへのびているらしい。
「お主らが湖にいる間、水中から現われた夢魔の気配は感じていた。それでも、儂はすぐには応援に伝えなかった。応援がお主らのもとへ行くのは時間がかかるし、あのキューリルで充分始末できる程度の夢魔だったからな」
「でも、実際に勝てなかったのは……」
「急激に力が増幅された。何か、外からの作用としか思えん」
でも、わたしはあのときのことをしっかり覚えている。ほかに夢魔は存在しなかったし、気配もなかった。
でも、あの霧の中だ。何か、魔法で身を隠していたりしたら、わたしには見抜けないかもしれない。
考えながら暗い通路を歩き続けると、突然、開けた場所に出た。
普通の、岩の壁に囲まれた空間ではない。どこかの屋敷のロビーのようで、かなり違和感を感じる。窓の外は真っ暗だけど、じゅうたんに埃は積もっておらず、天井のシャンデリアの細工は綺麗。
「湖の下に、こんな場所が……?」
「強力な結界を張って、その内側に造ったこの屋敷も魔法の影響を受けている。時間が止まったような効果がある魔法だね」
話しながら、彼はどんどん、先へ行ってしまう。行く手には、楕円形のテーブルがあった。
テーブルの上には、小さな箱がある。その中、布にくるまれて、テーブルに似た形の透明な石がある。石の中に、薄い紫色の光が閉じ込められていた。
「封魔石だ。闇の力を増幅させる。多少、中身が残っているな……調べられれば何かわかるかもしれないが、これは容易に砕くことはできん」
石を拾い上げて、四楼儀さんは明かりにかざす。
わたしには、それがとても脆い物に思えた。なぜなのかはわからないけれど。
気がつけば、わたしはそれを奪い取って、地面に転がしている。
そして、思い切り振りかぶった鞄のカドを一撃。
パキン。
高い音を立てて白いひびを走らせたあと、それはふたつに割れる。
「お主……何ということを……」
言われて、わたしはやっと、四楼儀さんが感心したようなあきれたような表情で目を丸くしていることに気がついた。
「ま、まさか、闇の力が増幅されるからとんでもないことに……?」
やってから焦り出したわたしに、彼は首を振る。
「いや……もう、それだけの力はない。ただ、驚いただけの話さね。封魔石を割るとは、その鞄、どうなっているのかねえ……まあ、よい。どうやら、これは割と最近持ち込まれた物のようだ。夢魔の力を数倍にする、かつての魔王の魔法が封じられておる」
「かつての魔王の……?」
「封魔石は世界各地にある。これよりずっと強力な物が、パル・メセトの神殿に厳重に封じられていることもある。歴代の魔王の力の残滓のようなものだ」
砕けた、ただの透明な石の残骸のようになった封魔石を見下ろしたまま、遠い目をする。何かを悔やんでいるようにも見えた。
――誰がいつ、どんな狙いでここを造り、ここに封魔石を持ち込んだのか。
頭の中を占める疑問に、答は出ない。
ただひとつ確かなことは……まだ、先生がいなくなったことに、現実感がないということだった。
目次 | 前項 | 次項