エルトリア探訪日記

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・2007年6月12日:第1話 気がつけば水の都(上)
・2007年6月12日:第1話 気がつけば水の都(下)


第1話 気がつけば水の都(上)

 これが果たして届いているかどうかわからないけれど、一応、送信してみることにする。届いたところで、信じてくれる人がいるかどうかもわからないけれど。

 わたしはいつも通り、高校からの帰り道を、友達の相川夏輝と一緒に歩いていた。わたしたちが住んでいる町は田舎のほうで、住宅街の小路を歩いていて人とすれ違うことなんてまれだ。
「あー、明日も晴れるといいなあ。室内練習じゃ気分がのらなくってさ」
 夏輝は陸上部だ。見るからにボーイッシュなショートカットで、わたしと違い、運動神経がいい。
「天気予報じゃ曇り時どき雨って言ってたから、微妙だよね」
「そうよねえ。亜衣のほうは、天気に左右されなくっていいね。うち、たまに中止になるから、時間もてあましちゃったりしてさ」
 わたしが入っている部活は、新聞部だ。雨が降ろうが雪が降ろうが、部室でやることは変わらない。
「まあ、行き帰りが大変になるから、晴れて欲しいのはわたしも同じだけどね」
 そんな他愛のない話をしながら歩いていると、やがて、分かれ道に差し掛かる。
「それじゃあ、明日ね」
「うん、バイバイ」
 夏輝の家はもっと南だ。彼女と手を振り合い、一人になったわたしは、夕日に染まった道を赤い屋根の我が家に向けて歩き出した。
 今夜の夕飯何かな。そういや、今日はあのテレビ番組の放送日だっけ。
 ほんの十数歩の間、わたしの頭の中を占めていたのは、そんなことだ。
 それにしても、なかなか家の玄関に着かないな。
 ふとそれに気がついて足を止め、ぼうっとしていた焦点を合わせてみる。
 心地いい――今まで見たこともないほど青い空に、小鳥が二羽、飛んでいた。夕方じゃなかったっけ、と思って視線を少し下げると、アスファルトの地面は、草のじゅうたんに変わっている。
 幻か、白昼夢か。いや、実は学校に行ったことも含めて夢だったのか。わたしはまだ、登校前のベッドの中……。
 それにしては、靴の裏のやわらかな感触も、鞄の取っ手を握る手のひらの感触も、とてもリアルで細やかに感じられる。
「これってなに?」
 リアルな夢を見たとき、声を出した瞬間に目覚めたことが何度かあった。しかし、今回の場合、一度変質した景色は変わりはしない。
 少し放心したような気分のまま、周囲をぐるりと見回し、振り返ってみる。
 思わず、わたしは背後に広がっていた景色に見入った。
 少し離れたところに広がるのは、青い街並みだった。半透明な、氷で造ったかのような城壁に囲まれた、同じく青く半透明な建物の並ぶ町。その建物の上や通りを、水が浅く流れていく。町の向こう側には、湖も見えた。
 一番目を引くのは、太い柱だ。それは建物とは違い、停止してはいない。水の流れが柱のように真っ直ぐ、天から降りそそいでいるのだ。人工的な滝、のように見える。
 水の都。何かの映画で見た、コンピュータ・グラフィックスで描かれた神秘的な町のようだった。
 自分が何だか良くわからないうちに一人でここに立っていることも忘れ、わたしはその風景に見惚れていた。
 そうして立ち尽くすうちに、ようやく気がつく。何かが近づいて来ることに。
「いたぞ、こっちだ! 異訪者を一人発見!」
 緑色の服で完全に草原と一体化していた男が、突然立ち上がって大声を上げたので、わたしは少し驚いた。異訪者、というのがわたしのことだろうか。
 仲間を呼んだ男が、凄い速さでこっちに近づいて来る。
「あの……」
 とりあえずことばは通じるようだし、理性的な相手らしい。穏便に話ができそうだ、と思って声をかけようとしたところで、わたしは目を見開く。
 緑色の服を着た男、と思っていた。だが、次第に視界で大きくなるその姿は、顔から手足に至るまで緑色だ。それに、ゴジラのような尻尾がある。
 カメレオン男――!
 その姿が、尋常でない速さで迫ってくる。
 ほとんど条件反射のように、わたしは身体の向きを変え、駆け出していた。
「おい待て! 取って食ったりしねーって!」
 後ろでカメレオン男が何かわめいているが、久々の全力疾走中のわたしの耳には届かない。わたしの一六年の人生のなかでも、こんなに思い切り走ったのは初めてだ。
 初めてのわりに速く走れているのか、追いかけてくる気配は遠くなっていく。
「仕方ねえな!」
 足もとには、充分注意していたはずだ。なのに、わたしは障害物のないところで思いっきり転ぶ。
 セーラー服のリボンが緑色に汚れたら嫌だな。
 べちゃっと地面にぶつけた鼻の痛みや、恐怖より、まずそんなことが頭をよぎる。
 しかし、起き上がろうとして足首を見ると、そんな余裕はなくなった。ピンク色の細長いものの先端が、左足の足首に巻きついていた。
 カメレオンの舌だ。
 頭の中の思考の一部が、ぐるぐる回っている感覚になる。このとき叫んだことばを、わたしは正確には覚えていない。
「舌のバケモノー! 妖怪が、妖怪がぁ!」
「妖怪って何だ! おい、オレはバケモノでねって痛あっ!」
 適当にぶん回した黒革の手提げ鞄が、近づいて来たカメレオン男の顔にヒットした。
 そのまま、スローモーションで仰向けに倒れていく相手を、わたしはわけもわからないまま、目の前にしていた。
 しかし、脅威がいなくなったのなら喜ばない手はない。これ幸いと、全力疾走を再開する。
 とはいえ、もともと体力に自信なんてない。
「待て、わたしたちは敵ではない!」
「そうだ、待ってくれ、お嬢さん!」
 今度聞こえるのは、若い声。
 追っ手はカメレオン男だけじゃないらしい。それどころか、他にも複数の追っ手がいるようだ。
 多勢に無勢。しかし、行く手にさえ相手がいなければ、何とか振り切れるかもしれない。
 すでに脚の筋肉が悲鳴を上げているのを無視して、自分を鼓舞する。そもそも、何で逃げてるんだろうという疑問はほんの一瞬だけ頭に浮かんだが、考えるのは逃げ切ってからにしようという欲求に押し切られ、どこかに消え去った。
「待て、一人になるのは危険だ! これ以上離れると夢魔が……」
 気配が近づいて来るのが背中に感じられた。それでも、わたしは振り返らない。荒い息をしながら走り続ける。
「仕方がない……」
 何か、妙なものを感じた。
 その瞬間、わたしはこの妙な場所に来て初めて、自分の服装や持ち物に意識を向ける。何か――何か武器になる物はないか。
 鞄に手を突っ込んでみると、ほとんど中身の入っていないペットボトルが指に触れた。ほとんど反射的にそれをつかむと、思い切って後ろに放り投げる。
 牽制にでもなればいい、と思ったくらいだ。ペットボトルが落ちるのも確認せず、走り続ける。
「なっ!」
 どうやら、誰かに当たったらしい。コン、と乾いた音がした。
 ほかに、投げられそうな物はないか。鞄の中をまさぐりながら、痛む足を無理矢理動かし、町から遠ざかる。
 そうして、視線を足もとから鞄に移したわずかな隙に、何かが足首に絡みついてきた。
 また、カメレオンの舌――?
 そんな恐怖を覚えつつ、転びそうになって手をつく。手首に、痺れるような痛みが走る。
 両足首を締めつける物は外れない。幸い、と言っていいのか悪いのか、それは長い舌ではなく、長く伸びた草だった。草が生き物ののようにうごめく様子は、それはそれで不気味なものだったが。
 ほどこうと手を伸ばしかけて、急激に、眠くなる。
「ずいぶん手こずったな」
「活きのいいお嬢さんもいたものだ。おーい、大丈夫か?」
「大丈夫だ、怪我はない」
「ったく、こっちはお星さまがグルグル回ってるぜ」
 ――結局駄目だったけど、わたしはできるだけのことはやった、最後まで力の限りやり遂げたよお母さんっ……!
 薄れていく意識の中、そんな奇妙な満足感を覚えつつ、どこか遠くから、若い男たちの会話が聞こえた気がしていた。

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第1話 気がつけば水の都(下)

 温かくて柔らかい。
 それが、最初に戻ってきた感覚だった。いつも、家で朝目覚めるときの感覚に良く似ている。
 だから、きっと目を開けたときにも、自分の部屋が見えるものだと思ってた。
 ――しかし、そんな予想は、はかなく散る。
「あ……あのう、気がつかれました?」
 清潔そうな、白い天井と壁。
 それを不思議がる前に、記憶にない、控えめな声が横から聞こえた。
 そちらに顔を向けると、白いローブを着た、長いブロンドの少女が立っていた。少女、と言っても、わたしよりひとつふたつ年上くらいか。色白で、目は澄んだ水色で、かなりの美人だ。
 わたしはなんとなく、彼女の前ではきちんとした格好でいたくて、身を起こして正座した。あれからどれくらい経ったのかわからないが、身体のどこにも痛いところはない。
「え、えーと、わたしは今居亜衣。亜衣っていいます。あなたは?」
 そういえば、相手はあきらかに日本人じゃなさそうだ……でも、日本語を話していたような?
 そんなわたしの疑問をよそに、相手は嬉しそうにほほ笑む。
「わたくし、ビストリカっていいます。ビストリカ・タルキーン。よろしくお願いします、アイさん!」
 差し出された細い手を、わたしはそうするのが当然という気持ちで握った。
 そういえば、この子はわたしを追った人たちの仲間なんだろうか。そうなんだとすると、その人たちも悪い人だとは思えない。
「あの……アイさん。皆さん、広間に集まっていらっしゃいますよ。これから、この世界に来ていただいた方々に、ご説明するんです。ですからその、着替えて広間に行っていただかないと……」
 この世界?
 と、喉まででかかった疑問を、わたしは飲み込んだ。説明されるというのだから、それを待てばいいだろう。
 それより、わたしは始めて、自分の格好を見下ろした。白い、サイズがぴったりとは言えない服を着せられている。
「アイさんの服なら、洗濯しておきました」
 ビストリカさんが壁に掛けてあった服を取ってくれる。わたしの地元の高校のセーラー服は綺麗に洗われ、青いリボンにも、草の色なんてついていない。
 医務室らしいこの部屋にいるのは、わたしとビストリカさんだけだ。わたしはさっさと着替えると、部屋の隅に置かれた自分の鞄を抱え上げ、案内するという少女について、部屋を出た。
 部屋の外は、石造りの廊下だ。武装した人間、荷物を抱えたメイド、なかには岩のような肌をした人間なのかどうかわからないヒトまでが忙しく行き交う。こちらにチラッと視線を向ける者もあれば、忙し過ぎて最初から目に入っていない様子の者もいる。
 ビストリカさんは人ならざるものを目にしても動じることなく、廊下を何度か曲がり、大きな両開きの扉の前に立つ。
「おお、最後の一人だね。ビストリカさん、お疲れさま」
「お疲れさまです、皆さん」
 扉の左右に立つ見張り番らしい二人の男が、わたしを一瞥したあと、親しげに白い姿の少女とことばを交わし、重そうな扉を押し開く。
 廊下の明りが、かがり火を焚いているとはいえ、やや薄暗い広間に差し込む。中に並ぶ老若男女様々な顔ぶれの視線が、一斉にこっちを向いた。
 何だか、肌が火照ってる気がする。
 ――ムチャクチャ恥ずかしい。
「皆さん、お集まりですね?」
 広間の奥は、一段高くなっている。そこから響き渡った声が、わたしを注目の嵐の中から救ってくれた。
  周囲に集まっているのは、大体、五〇人前後だろうか。その最後列に加わって改めて段の上を見上げてみる。
 中心に立つのは、長い赤毛の、落ち着いた感じの美青年だった。切れ長の目にはエメラルドのような緑が輝き、色の白い端正な顔は、一見女の人にも見える。身につけた暗い赤のローブは、軍服にも似ていた。
 その少し後ろ、左右に、ローブの老人やウェーブのかかったブロンドの美女、眼鏡をかけた青年、人の良さそうな青年などが並んでいる。
 ビストリカさんもそうだけれど、彼らの格好、あるものを思い出させる。
 ロールプレイングゲームや、冒険ファンタジーの漫画やアニメ、小説などに良く出てくる、『魔法使い』と呼ばれる職業のもの。
「突然お呼び立てして申し訳ありません。わたしはコラール・ラスタシス。これから、皆さんがなぜこの世界――〈エルトリア〉に召喚されたのかをご説明いたします」
「召喚された……?」
「ここは、地球じゃないってこと?」
 どこかから声が上がる。そちらに目を向け、コラール氏はうなずいた。
「ええ、皆さんを召喚したのは、我々……この、エレオーシュ国立魔法研究所の魔術師たちです。我々が大規模な儀式を行い、もとの世界から皆さんを召喚いたしました。それは、ある計画のためです」
 すぐには、信じられない話だ。コラール氏の話が受け入れがたいせいか、広間に並ぶ人々は黙り込む。
 かまわず、説明は続けられた。
「この世界、エルトリアは水の流るる地です。皆さんも、水陰柱はご覧になられたでしょう。あれは、いくつもの町にあります。大抵の場合、あれを中心に町が発展していったのですから」
 誰もが静かに耳を傾けている。神経質そうにそれを確認し、彼はことばを続けた。
「我々が水陽柱、と呼ぶ、水を吸い上げる柱もあります――世界に、ひとつだけ。水陽柱が水を天に運び、天で浄化されたその水が水陰柱から大地に流れ落ち、自然を潤し生き物が利用する。この世界は、そうやって歴史を重ねてきたのです」
 そうだ。わたしは思い出す。
 天と大地をつなぐ、水の柱。信じられない話ではあるが、あの柱は確かに存在する。その姿はこの目に焼きついている。
「しかし、水陽柱の力が年々弱まっていることが判明しました。それを危惧した多くの国々は話し合い、水陽柱を作り上げた古代魔法を再び編み上げることにしたのです。しかし、そのためには魔術師の数が足りない」
 その魔術師の補充員がわたしたち。古代よりこの研究所に伝わる機械で魔力の高い人間を選び出して、この世界に必要な分より少し多く召喚した。彼は、そう説明する。
「でも、わたしたち、魔法なんて……」
 誰か、女の人が洩らしたそのつぶやきは、わたしたちにとって、当然のものだった。
 そちらを見やり、コラール氏は少し、表情を緩める。
「それは、ご安心ください。ここはもともと、魔法に関する研究や、魔術師志望の学生への講義を行う施設です。皆さんには、ここで魔法を身につけていただきます」
 そこまで言うと、また、表情を引き締める。
「皆さんは、エルトリア水没救済計画が成功したら、元の世界から消えた一秒後の元の場所に戻させていただきます。無理強いはしませんし、嫌ならすぐに戻すことは可能です。ただ、できれば力を貸していただきたい……ここ、エレオーシュはだいぶ緩やかなほうですが、中には堤防が決壊し多数の死者を出した町、湖のそこに沈んだ村もある。いずれ、この世界すべても……」
 情に訴えるのはちょっと卑怯だ、とわたしは思う。もっとも、わたしはちゃんと帰れると聞いた段階で、もっとこの世界にいたい、この世界のことを知りたい、と思い始めていたのだけれども。
 もともと、好奇心は強いほうだ。帰ってからも、これが何かのネタになればおもしろいじゃないか。
 間もなく、説明は終わる。個人的に何か質問している人たちはいるけれど、わたしはそれより、この建物内が気になってきた。
「ビストリカさん、わたしたち、この建物で寝泊りするんですよね?」
 段の上を少しぼうっとして眺めていたビストリカさんに声をかけると、彼女は、慌てたようにこちらを向く。
 一体、何に見惚れていたんだろう。
「え、ええそうです、きちんと皆さんの分のお部屋が用意してあります……この研究所は、古いお城を改造したものなので、とっても広いんです。是非、ご案内……の前に、まず、一番重要なところに行きませんか?」
「一番重要なところ?」
 手を握られるのに任せつつ、訊いてみる。
「食堂です。ここのお料理、すっごく美味しいんですよ?」
 そういや、わたしの体感時間じゃそろそろ夕飯時だ。食堂と聞くと、急にお腹がすいてきた。
 廊下の窓から外を見ると、こちらも、だいぶ陽が傾いてきている。
 わたしは道順を覚えながら、ビストリカさんに手を引かれて歩いた。二階にあるらしい広間を出て、階段を下る。
 そこからまた歩き出したとき、見覚えのある、緑色の姿が前を横切るのが見えた。
「あ」
 一瞬、無視して通り過ぎようかとも思ったが、向こうもこちらに気がつき、足を止める。
「あの……その節は、どうも……」
 こちらも足を止めて言うと、彼――カメレオン男は目を見開き、こっちをにらむ。
 怒ってる、怒ってるよ!
 それも、当然だ。別に悪意もなくわたしを追っていただけで、思い切り鞄で殴られたんだから。
「ジョーディさん、お疲れさまです。お二人とも、もうお知り合いなんですか?」
 何も知らないビストリカさんの声が、凍りついた空気を溶かしてくれる。心底、今彼女がとなりにいて良かったと思う。
 それでも、ジョーディという名前だったらしい彼の視線はきつい。
 いつ怒鳴られるのかと、わたしは身を縮こまらせて相手のことばを待つ。
 すると、少しの間じっとわたしを睨んでいたかと思うと、彼は突然、ゲラゲラ声を上げて笑い始めた。
「いやいや、いいってことよ。お前さん、最後まで粘ったってんで、備え役の間じゃ有名だぜ。そこに居合わせたオレもハクがついたってもんだ」
 笑いながら、呆気に取られているわたしの背中を、バンバン、と叩く。手のひらに凹凸があるせいか、手加減されていてもちょっと痛い。
「これから、毎日のようにスパルタ教育が待ってんだろ? まあ、せいぜい頑張ってオレたちの世界を救ってくれよ!」
「はは……頑張ります……」
 痛いけど言えないことに対する理不尽さや、妙なことで有名になっていることへの恥ずかしさとか、色々な思いを込めてわたしができた行動は、引きつった笑みを浮かべることだけだった。
 陽気な笑い声を上げて、ジョーディさんは去って行く。
 とりあえず、怒られなかっただけ幸いか。
「そういえば、皆さんの世界には人間しか人型種族がいらっしゃらないと聞きました。それじゃあ、びっくりされたでしょう?」
 再び歩きながらのビストリカさんのことばに、わたしはうなずいた。
「ああいう、人間と同じように話せる人間じゃないヒトって……いないんです」
「エルトリアには、たくさんの種族がいらっしゃいますよ。ジョーディさんは、シュレール族です。きっと、授業で習うことになると思います」
「楽しみにしておきますよ」
 わたしが口を閉じたとき、丁度、わかりやすく〈食堂〉というプレートが上の壁に打ち付けられた大きな扉が、行く手に見えた。
 ――食堂は、数十人は入るほど広いものだった。そこで、到底魔術師には見えないおばさんたちが、忙しく料理を作っている。
 出された料理は、焼きたてのパンに何かの肉と野菜を挟んだもの、スクランブルエッグ、豆入りスープと牛乳プリンっぽいもの。素朴だけれど、レストランで食べる食事にも引けを取らない味だった。
 そのあと、研究所内を案内してもらう……と思っていたのだけれど、お腹が一杯になったわたしは急に眠くなってきて、三階の自分に与えられた部屋に連れて行ってもらい、そこで休むことにした。
「それじゃあ、明日ご案内します。おやすみなさい」
「ああ、ビストリカさん、おやすみなさい」
 彼女と別れ、部屋に入ると、わたしはランプに照らされた室内を見回した。
 本当に、部屋余ってるんだなあ。一人一部屋か。
 部屋には小さな棚と机、ベッドがある。壁には、寝巻きらしい白いローブが吊るされていた。
 窓からは、すでに夜闇に染まりつつある外の風景が見えた。湖が蒼白い月明かりを反射している。
 ああ、遠いところに来たんだなあ。
 ぼうっと、半分夢のような気分だったのが、じわじわと現実感に変わっていく。それでもまだ、これが現実だと、完全には断言できない気分だけれど。
 しばらくベッドに座ってぼうっとしてから、ふと、膝の上に置いた鞄のことを思い出す。
 投げて誰かにぶつけたペットボトルも、ちゃんと戻されている。残る中身は、何冊かの教科書とルーズリーフのノートにメモ帳、弁当の空箱におやつのキャンディやチョコレート、筆記用具と何かのオマケのピンバッジに小銭やカードが入った財布、交通安全のお守り、プラスチック製の孫の手、そして――
 すっかり存在を忘れていた。携帯電話。
 慌てて画面を見ると、圏外にはなっていない。わたしは片っ端から、記憶してある電話番号に電話をかけた。
 しかし、決まってスピーカーから聞こえるのは、圏外を告げる音声。
 電話番号が駄目なら、メールアドレスだ。夏輝を初めとする友人たちに、すぐに返信して、と添えてメールする。
 それも、ただ行ったきりだ。届いているかどうかもわからない。
 最後に、わたしは、インターネット上の日記をメールで更新できるようにしていた、そのアドレスに今までのいきさつを送ってみることにする。
 それも、届いているのかどうかわからない。ただ、それでもわたしは、バッテリーが続く限り、毎日あったことを、こうしてメールすることにした。


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