エルトリア探訪日記

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・2007年6月13日:第2話 魔法研究所の人々(上)
・2007年6月13日:第2話 魔法研究所の人々(下)


第2話 魔法研究所の人々(上)

 かさかさと、紙擦れの音が重なる。
 栗毛に茶色の目の、人のよさそうな青年――確か、リビート・ディルスラックと名のったか――が、段の上でエルトリアの歴史やこの世界で生きていくのに必要な基礎知識を講義していた。
 黒板はないが、正面の壁には大きな地図が貼られている。それを見ながら、椅子に座って机に向かい、ノートをとっているわたしたち異世界人。
 異世界にまで来て勉強かあ、と思わなくはないけれど、知識欲旺盛なわたしからすると、どの講義も興味深い。
 昼前の講義は、休みを挟みつつ三教科続いた。最初なので、どれも魔法の基礎の理論だ。
「あ、終わりました?」
 昼休みになり、昼食をとろうと食堂へ行こうと教室を出ると、廊下に、見覚えのある白い少女の姿があった。
「お昼ご飯を食べたら、建物内を案内しますね!」
 ビストリカさんは嬉しそうに言って、昨日のように、わたしの手を取った。
 ――もしかして、凄く気に入られてる?
 そんなことを思いながら、彼女と一緒に食堂で食事をすると、昼休みのうちに昨日やるはずだった、研究所内めぐりを始めた。
 古城を改造したというだけあって、ここの建物はかなりデカい。本丸は五階建てで、少しはなれて別棟があり、周囲四方に、高い塔がそびえている。
 元の学生さんたちは、今は別棟で暮らしているという。エルトリア救済計画のためとはいえ、わたしたちが来たことで、ちょっと不便をかけてるかもしれない。
「ここ、いいところですよ〜。皆さん、いい人だし」
 白い城を見上げながら、ビストリカさんは気持ち良さそうに深呼吸して、そう言った。
 街外れの草原に、古風な城。すぐそばには綺麗な湖。
 確かに、一流リゾート地とも思える、いいところだ。
「こういう空気のいいところでなら、勉強もはかどりそうですねえ」
「あら、アイさん勉強はお嫌いですか?」
「そんなことはないですけど、興味ない話とかだと、眠くなってきちゃったり……話しが上手い先生だとそんなことないんですけどねー」
「そうですね、やっぱり先生の話し方が……」
 言いかけた彼女の表情が、突然焦りに変わる。
「そうです、あと少しで次の授業が始まっちゃう! わたくし、もう行かないと……アイさんも、遅れないでくださいね!」
 そう言い残して、急いで研究所内に戻っていく。
 ビストリカさんは午前の授業にもいなかったし、わたしたちと一緒に授業を受けるはずはない。それとも、別棟の学生さんだったりするんだろうか?
 こっちに来てから一番話しをしている相手だけど、思えば、わたしはまだ、ビストリカさんのことをよく知らない。
 というか、わたしだって自分のこと、全然話してなかったっけ。
 まあ、お互いのことも、おいおいわかってくるだろう。
 そういうことにして、開かれた扉のひとつから場内に戻る。教室や自分の部屋など、大体の場所はもう覚えていた。
 教室に戻る道順で、何度目か、角を曲がった瞬間。
「いてっ!」
 何かがぶつかってきて、わたしは尻餅をついてしまう。
 意思の床で擦った手をさすりながら目を向けると、目の前では、銀髪に青い目の少年が、わたしと同じような格好で転んでいた。
 年の頃は、十代前半くらいか。小柄で、丈夫そうなズボンに白い服、その上に緑のベストという服装。とても、魔術師とは見えない。
「あ……大丈夫? ごめんね」
 立ち上がって、手を差し出す。
 けれど、その手は握られなかった。
 少年は一瞬驚いたように目を見開いたあと立ち上がり、キッとその目を細めてわたしをにらみつけた。
「どけ!」
 荒々しく言って、わたしの脇を駆け抜けて行く。
 ――なんて、乱暴な!
 という怒りは、意外なほど薄かった。たぶん、彼がまるで、傷ついた小動物のような目をしていたのが理由だ。
 何かを恐れ、怯える者は、ひどく攻撃的になる。昔、そう本に書かれていたのを目にしたことがある。
 彼は一体、何を恐れているんだろう。
 しばらく立ち尽くしていると、上のほうから、カーン、カーン、と鐘の音が聞こえる。
 まずい。授業が始まる!
 わたしは急いで廊下を走り、教室に駆け込んだ。
 幸い、まだ先生は来ていないらしい。空いている席について、常に持ち歩いている鞄からノートを取り出す。
 ノートのまっさらなページを開いている間に、周囲のざわめきが途切れた。先生が段上に現われたらしい。
「それじゃあ皆さん、これから、薬草学と魔法薬学の授業を始めます。講師はわたくし、ビストリカ・タルキーンです。よろしくお願いしますね」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいるのは確かに、白いローブに金髪碧眼の少女の姿がある。
 先生だったんだ……。
 こちらにウインクをする彼女の笑顔を眺めながら、わたしはようやく、さっき彼女が言っていたことの意味を理解した。

 授業が終わると、わたしは今日教えられたことをアレコレ考えながら、席を立たずにぼうっとしていた。
 ビストリカさんは用事があるとかで、授業後にすぐに教室を去り、もう今日は授業がなく、室内にいる人もだいぶ少なくなっている。
 思えば、こっちに来てからの話し相手なんて、今のところビストリカさん一人だ。このまんまじゃ、ちょっとつまらないかも。
 そう思って、周囲を見回してみる。できれば歳の近い、日本人の女の子がいればいいんだけれど……どうやら、少なくとも今ここには見当たらないようだ。
「嬢ちゃん、誰か捜してるのか?」
 キョロキョロしていると、教室に残っていた人の中から、若い男が近づいて来た。金髪碧眼と、日本人でないことは確かなその青年は長身で、魔術師候補として召喚されたわりに、とても体格がいい。
「え……ああ、別に誰かを捜してるわけじゃなくって……ただ、皆さん、どう過ごすのかなーって」
「ああそうか。こんな状況だから、同郷のみんなのことって気になるよな。オレはとりあえず、一緒にフットボールやってくれるだけの友達ができれば嬉しいんだけど、なかなか誘いに乗ってくれなくってさ」
 そりゃそうだろう。基本的に、頭脳派の人たちが呼ばれているんだろうし。それに、みんなまだ、そんな余裕はないかもしれない。
「まあ、いつかフットボールもできるようになりますよ」
「そうか。そうだよな! ところで、オレはヴィーランド・カーターっていうんだが、嬢ちゃんはなんて言うんだい?」
 わたしの無責任なことばに嬉しそうにうなづいて、彼はそう問うてきた。
「わたしは、今居亜衣です。アイと呼んでください」
「アイちゃんね。日本人だね」
 何だか、ここで『日本人』という単語を聞くと、妙な違和感を感じてしまう。
 そんなわたしの思いをよそに、彼はにぃっと笑った。
「それでアイちゃん、これから外で一緒にアメリカンフットボールを……」
「あ、わたし、用事を思い出しました、すみません」
 鞄を手に、わたしは口から出任せを言って、教室から出た。ヴィーランドさんが悲しそうな目でこちらを見送るが、それには気がつかなかったことにする。
 とはいえ、長いこと教室で授業を受けていたので、外に出たい気分なのは確かだった。夕食時まではまだ時間がある。
 わたしは、昼休み中にビストリカさんと一緒にくぐった扉をもう一度通り、建物の外に出た。
 もともとのここの学生さんらしい、水色のローブ姿の人たちが敷物を広げてお茶をしていたり、女の子たちが花を摘んで髪飾りを作っていたり、少し疲れた様子の学生さんが草の上に寝転んで眠っていたり――休日の公園の様子に、少し似ていた。
 でも、何となくその中にぽつんといるのは嫌で、わたしは余り人目のない場所を捜した。城の周りを歩き、自分の部屋がある辺りまで来ると、だいぶ人の姿が少なくなる。
 湖畔に、少し高くなった丘があった。木が何本か生え、まるで湖を見下ろすように、緑の葉をつけた枝が垂れていた。
 似たような地形の中にある、ちょっと変わった場所。わたしはなぜか、そこを目ざしたくなる。
 まあ、目印のようなものがあればそこに目がいくのは自然なことだ。
 そう自分を納得させて、丘を登る。思ったより、けっこう高い。
 ふう、と息をつき、木を見上げる。日陰の葉の匂いが気持ちよい。
 緩く倒れた太い幹を見ているうち、わたしのなかに、いたずら心が芽を出した。
 ――この木に登れば、湖を真上から眺められるかもしれない。
 さすがに何年もやっていないけれど、木登りは得意だったし、好きだった。静かな場所から、騒々しい下界を眺めているような気分になれる。
 どうせ誰も見ていないし。

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第2話 魔法研究所の人々(下)

 と、木に手をかけた途端。
「……その木は幹の中が腐っているから、やめたほうがいいぞ」
 急に声をかけられて、わたしは危うく転びそうになるほど驚いた。
 誰もいない、と思っていたものの、実際は誰かがいたらしい。少し高めの、性別不明な声が聞こえたほうへと近づいてみると、そこに、奇怪な姿がうずくまっていた。
 青と白の、鮮やかな色の縞が入った筒袖に、紺色の妙な形をした帽子。玉飾りがついた服。まるで、サーカスのピエロのようにも思える格好だ。白い髪を首の後ろで一本に束ね、こちらに向けている目は空色。ピエロのように赤い鼻をつけていたりはしないが、顔の上半分は白い仮面に覆われている。
 その姿を見たわたしの驚きに気がついてか、彼はわずかに目を細める。
「安心しろ。怪しい者ではない」
 ――明らかに怪しい格好した人が、真顔で『怪しい者ではない』って、『怪しい者ではない』って!
 ……不安とか疑問とかを超えて、自分の中の凄く失礼な感情に従い妙に笑いそうになるのをグッとこらえ、わたしは何とかうなずいた。
「はあ……」
「ここの者ではないが、部外者というわけでもない。きみたちがここにいる間、対夢魔の警備を任務とする備え役の魔術師が足りなくなるので呼ばれて雇われた、臨時備え役の魔術師だ」
 夢魔――
 まだ授業でも習っていない、何かを表わす名詞。 
 そういえば、記憶にある単語だった。いや、ことばだけでなく、彼の声にも聞き覚えがあるような……? 追っ手の中にいたんだろうか。
「備え役が必要ってことは、その……夢魔ってヤツは、危険なんですか?」
「夢魔は、水を人や家畜の血に染めようとする、凶暴な存在だ。普通、町に入ってくることはないが、ここは敷地が広いからな……。それに、ヤツらは水の多い場所、魔力の集まる場所を好む」
 説明しながら、彼は周囲に鋭い視線を向ける。キラキラと陽を反射する湖は、一見、平静そのものだ。
「ここは、狙われやすいってことさ。まあ、そう頻繁にやって来るわけではないが」
「そうなんですか。じゃあ、こうしている分には安全なんですね」
 ほっとしながら、わたしはさらに、相手に歩み寄った。
 ほっとしたのは、夢魔とかいう怪物についてだけではない。この彼――彼女という可能性もあるけれど――が、安心できる相手だと思ったからだ。
「あのー、わたし、アイっていいます。今居亜衣。あなたは……」
「きみの名前は聞いている」
 ……どうやら、備え役の間で有名だというジョーディさんのことばは本当だったらしい。
「わたしは風来坊だからな。自分の名など持たない。周りは、道化、道化師、などと呼ぶが……好きに呼べばいい」
 初めてこちらと視線を合わせたその目は、湖の色を反射したように、綺麗に澄んでいた。
 好きに呼べ、といっても、勝手に名前をつけるのも失礼だし、わたしは以後、この人のことを『道化師さん』と呼ぶことにする。
 その口調からの印象か、何となく博学そうな気がしたので、わたしは彼に、まだ習っていないことをいくつか訊いてみた。
 まず、ここでは言語の違いが問題にならないのはなぜか。
「きみたちをここに呼んだのは、昔の文献に同じようにした記録があったためだ。はるかな昔にこの世界の水の循環をつくり出したときにも、同じように異世界から魔法の才能ある人間を集めて大規模な魔法を使ったらしい。それとほぼ同時に、この世界の大気自体に異世界の言語を翻訳する魔法を仕掛けたという」
「どんな言語も翻訳できるんですか? 凄い仕掛けですねえ」
「この世界に召喚された者たちの言語を、この世界の共通語に直す――そして、共通語をきみたちの言語に直す」
 ってことは、魔術師候補が呼ばれる世界って決まってるんだろうか。それにしても、言語ったって、国や民族によって色々あるわけで……。
 わたしがそう言うと、道化師さんは湖を見渡しながら答えた。
「精神に働きかける魔法だから、言語の中身は余り関係がないのさ」
 うーん、何だかわかったようなわからないような。
 聞いているほうに母国語を聞いてると錯覚させるってことなんだろうか……でも、微妙なニュアンスとかの違いで齟齬が生まれたりしないんだろうか。
 そんな疑問は残るが、わたしはそれは質問せず、新たに生まれた大きな疑問を口にした。
「そんな大掛かりな魔法が使えるなら、夢魔ってヤツも封じたりできないんですか?」
 この質問はちょっとひねったものだったせいか、彼は少し間を置いて答えた。
「夢魔がどこから来るのか、まだわかっていない。……伝承によると、その時代の魔王が生まれると同時にあちこちに出るようになると云われている」
「魔王……ですか?」
「ああ。魔王は闇の力と魔王たる証を持って生まれてくる。長らく魔王のいない時代もある。同じ時代に二人はいない……そのうち授業で習うだろうが、いずれもとの世界に帰るきみたちには、余り関係のないことだ」
「そうですか……」
 ほっとしたような、残念なような気分で、わたしは湖に目をやった。
 まだ、色々と訊きたいことがあった気がする。でも、そう簡単に必要なときに必要な質問が思い浮かんだりはしない。
 少しの間を置いて、道化師さんは振り向いた。
「戻らなくていいのか? そろそろ寒くなるぞ」
 言われて顔を上げると、空の端がオレンジ色がかっていた。
 もう食堂も夕食の準備を終えているころだ。それに、ビストリカさんが用事を終え、わたしを捜しているかもしれない。
「それじゃあ……」
 と言いかけて、ふと、少し前にぶつかった、少年の姿が頭に浮かぶ。
「疑問ってほどのものじゃないんですけど、通路で銀髪の男の子に会ったんですが……ここって町の人とかも出入するんですか?」
 立ち上がりながら何気なく訊いてみると、彼は少し驚いたように目を向ける。
「町の者だけで歩くようなことはないはずだが……」
「授業中の教室にもいませんでしたし、学生さんはローブ着てますし、一般の人だと思ったんですけど」
「町から入るには正門を通らなければならない。誰かが迷い込むようなこともないと思うが……わたしにはわからないな」
 それが何か重大な意味を持つのか、訊かれたほうは考え込むような様子を見せるが、わたしとしては、それほどこだわりはない。『わからない』という答でも、もらえればそれだけで良かった。
「そうですか。色々教えていただいて、ありがとうございました」
 礼を言って、夕日に染まる古城の扉へ戻る。いつの間にか、周囲に姿のあった学生さんたちも、別棟に帰ったらしい。
 一人で歩くと、気温がだいぶ下がっているのをようやく体感する。話すのに夢中になっている間は全然感じなかった寒さだ。
 ――それにしても、色々教えてもらって良かったなあ。あの道化師さんは悪い人じゃなさそうだ。
 そんなことを考えながら扉をくぐると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「もー、駄目だって言ってるじゃないですか」
「そう言わないで、子猫ちゃん。このボクの熱い思いを受け止めておくれ。そうでないと、もう、この心にひしめく思いは……」
 ビストリカさんと、歯の浮くようなセリフを並べる若い男の声。
「もーっ、シェプルさんはいつもそうなんですから」
 あきれの声を聞きながら、声の元を捜して走る。
 角をいくつか曲がったところにある階段の向こう側に、白いローブ姿と、背の高い青年の姿があった。
 青年は金髪碧眼で、髪は肩の下くらいまで伸びている。貴族の若者のような高価そうな服に胸にはバラの花、顔はなかなかハンサムだけど、その周りにまともな神経の女は寄り付かないような、独特の世界を作り出している。
「この瞬間もボクの声を、ボクの帰りを待つお嬢ちゃんたちはたくさんいる。でも、今宵のボクのハートは、きみだけのも……」
 わたしがビストリカさんに助け舟を出そうかどうか迷っているうちに、何かが視界を横切った。
 ごつっ。
 耳に届く鈍い音。
 仰向けに倒れるシェプルとかいうナンパ男。その顔の脇には、少し変わった形の木靴が落ちていた。
「まーたやってたんか。ほんと、美人と見るやナンパだなあ」
 靴が飛んできた方向からあきれ声を上げて歩み寄ってきたのは、すでに見慣れた、尻尾のある緑の姿。
「ほれ、とっとと行くぞ。次の巡回はオレたちだ」
 倒れてもまだ手をビストリカさんに伸ばしたままの青年を、ジョーディさんは慣れた様子で引きずっていく。実際、良くあることなのかもしれない。
「ビストリカさん、大丈夫でした?」
 わたしが近づくと、彼女は嬉しそうにほほ笑む。
「ええ……シェプルさんも、悪い人じゃないんですけど。備え役の中でも、一番この辺りに出入しているんですけど……綺麗な女の人を見ると、すぐ『結婚しよう!』とか『一緒に星を見よう!』とかおっしゃられるので……」
「嫌なら、はっきり言っ……ても、無駄そうな人ですねえ」
「嫌ということではないんですが、困ってしまいます」
 話しながら、わたしたちは食堂に向かっていた。ビストリカさんも、夕食はまだらしい。
 少し早めの夕食時間なので、人の姿は少ない。盆に自分の食べたい物をとると、長いテーブルの席に向かい合って座り、食事をとる。
 今回のメニューは、私の世界で言うところの鶏肉入りシチューに、焼き立てらしいパンとジャム、チーズ入りサラダに果肉の白い果物を四分の一に切ったものだった。
「ごちそうさまです。今日も美味しかった」
 先に食べ終えたわたしは、空の食器と替えて湯気を立てるカップを料理のおばさんからもらってきた。薄い紅色の液体は、〈シェシュ茶〉というこの辺りでよく飲まれるお茶だそうで、ほのかな甘みがある。
「そういえば……ビストリカさんて、先生だったんですね。これからは、ビストリカ先生と呼ばなきゃいけないかな」
 何気ないこの一言が、相手には、かなりの衝撃を与えたらしい。
 ビストリカさんは喉を詰まらせかけ、わたしが慌てて差し出した水を飲み、胸を叩いたあと、やっと落ち着く。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……」
 コクコクうなずいたあと、彼女は、突然身を乗り出してわたしの手を取った。
「あ、あの、わたくし、ここのお仕事は好きですし、皆さんに教えることでお役に立てるのも嬉しいです……で、でも、わたくしが教える人だとわかると、皆さん、距離を置いてしまって……」
 恥ずかしいのか、彼女は顔を真っ赤にして言う。
「だから……歳の近い女性の方と、友達になりたくて……」
「ビストリカさんとわたしは、もう友達だと思いますよ」
「駄目ですっ。だって、友達同士って、敬称つけたり、敬語で話したりしないじゃないですかっ」
 ……つまり、彼女は若い女学生さん同士のような、気安い友人関係に憧れているわけか。
 なのに、教授という立場のせいで、それららしい友達関係は作ったことがなかった。思えば、寂しいことかもしれない。
 とはいえ――
「……敬語に敬称は、ビストリカさんも一緒じゃないですか」
「そ、それは癖で……わたくしも直しますから、アイさ……アイちゃん……?」
 自分で言っていて違和感があるのか、誰にともなく問いかけるように言う。
 わたしは、思わず口もとに笑みがのぼってくるのを感じる。
 ――ビストリカは可愛い人だなあ。
「いいよ。わたしとしてはそっちのほうが楽だし。これからもよろしく、ビストリカ」
「はい、アイさん……じゃなくて、アイちゃん」
 言い出した本人のほうが慣れるのに時間がかかりそうだけれど、とりあえず、わたしと彼女は、良くある〈女友達〉になった気がした。
 でも、その日の夜、ベッドに入ってから、わたしは思った。
 ビストリカはエルトリアの人間でも、わたしは異世界人。そう遠くないうちに、元の世界に帰る日が来る。
 ――仲良くなればなるほど、別れがつらくなるなあ……。
 でも、こういうことは、いくら考えても仕方がない。小さな悩みを胸に仕舞い、わたしは眠りに落ちていった。


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