それほど暗くもないのに、何だか、不気味な夜だった。
部活が遅い時間までかかることなんて、珍しくもない。暗い帰り道だって慣れっこのはずだった。
違和感が生まれたのは、余計なことに気がついてから。空の高い位置に輝く、見慣れぬ青い星――学校の門を出た辺りでそれを見上げて、ふと、亡くなったおばあちゃんのことばを思い出した。
『空の高いところに青いお星さまが出るとき、必ず良くないことが起きるんだよ。何十年も前に青い星が出たときはね、家族みんなで高台に避難して、台風の洪水を避けることができたのさぁ』
何かあるたびに耳にしたことだけれど、ここ数年思い出すこともなかったし、忘れてた。
まあ……あの星がおばあちゃんの言ってた星だとは限らないし、あれが凶兆だったとしても、あたしに関係があるとは限らない。
そうだ、いつもの日常が続くだけに決まってる。家への道を辿りながら、自分に言い聞かせるようにして、そう信じきっていた。
――なのに、家への最後の角を曲がったあたしの目の前には、今、信じられない姿がある。
「ほう……かような闇夜に小娘が一人うろちょろしているとはな。普段なら目障りゆえに冷たい空にでも放り投げているところだが……喜べ小娘。今宵の私は貴様に用がある」
街灯に照らされて蒼白い顔に冷笑を浮かべているのは、黒いマントに身を包んだ銀髪の男だった。目は血のように赤く、爪は鋭く、口には牙も見える。
吸血鬼。映画とかでよく見るドラキュラとかヴァンパイアとかいうもの、そのものだ。
映画か何かの撮影……などとは思えない。カメラもないし、何より、あたしが出演者なはずない。それに、あの爪や牙は作り物とは思えなかった。
あたしは、思わずぎゅっと鞄の柄を握りしめる。相手が本物の吸血鬼なのかどうかはわからないけど、偽者だとしても、相手は大人の男。怖いことには変わりない。
ここから逃げ出すべきなのかもしれない――けど、ここを抜けないと家には戻れない。何とか、用とやらが平和的なもので、それが無事に済んで通してもらえることを祈るしかなかった。
すると、怯えるあたしの前に、別の姿が、闇の中から進み出る。吸血鬼っぽい男と同じ銀髪に黒尽くめなものの、こちらは、黒いスーツの老紳士だ。フレンドリーな雰囲気はないけれど、威圧的でもない。
「こちらは、由緒正しき吸血鬼の一族の血を引くシャリド・ウェルフ・ヴァルタースさまであらせられます。シャリドさまは、このような夜分遅くにお嬢さん一人で出歩くのは危ない、いつもならすぐに家に送り届けるところですが、用事があるので話を聞いていただきたいとおっしゃられています」
老紳士のよどみないことばに、あたしは少し呆気に取られる。
その表情をどう解釈したのか。彼は、少し慌てて一礼した。
「これは失礼。申し遅れましたが、わたくし、シャリドさまの執事をしております、セバスチャン・クレッセントと申します。どうぞセバスチャンとお呼びくださいませ」
いかにも執事な名前は、その外見と相まって、一度聞いたら間違えそうもない。
それにしても、彼の訳は本当なんだろうか。だとしたら、シャリドとかいう男も、悪い人ではないのかも。そう言えば、おばあちゃんがいつも、人を見かけで判断しちゃいけないって言ってたっけ。いや、そもそも人じゃないかもしれないけど――
そんな風に思って視線を移動すると、執事曰く本物の吸血鬼らしい男は、にやりと唇の端を吊り上げる。
「小娘よ、貴様らの汚らしい貨幣で一二八〇円だ。それで、我が偉大なる力を三日間、貴様に貸してやろう。どうだ……素晴らしい契約だろう?」
何だか、いきなり小さな話になってきたなあ……そう思いながら、あたしは口を開く。
「それはつまり……アルバイトってこと? 三日間、何でもしてくれるの?」
三日間で一二八〇円なら、ちょっとお買い得かもしれない。
「ちなみに、できる仕事があれば、もちろんわたくしもお手伝いします。それと、我々は寝床や食事は必要としません」
執事の説明通りなら、かなりお買い得だ。あたしは、『オマケ』とか『定価の半額!』のようなことばには弱いほうである。
だいぶ心を動かされているあたしに、シャリドが鋭い人さし指の爪を突きつける。
「我輩と契約を交わせば、この力が三日は思いのままだ……しかし! そちらも契約を果たさなければ、小娘、貴様のはらわたを抉り出して、この――」
彼の黒い服の袖口から、何かが顔を出した。街灯を照り返す目は、彼と同じく、深紅。
「我がしもべのエサにしてやろう。覚悟するがいい!」
突き出した腕の上で、白い仔ウサギがくんくんと鼻を動かす。
か、可愛い。
「そのアルバイト、雇います」
あたしは、お買い得なものだけでなく、動物も好きだった。
それから、せいぜい五分ほど経ったころだろうか。
あたしは、両親と――そして、人間じゃないらしい二人と一緒にテーブルを囲んでいた。
「お口に合うかどうかわかりませんが、良かったらどうぞ」
「ありがとうございます。どうぞおかまいなく」
お茶菓子の手作り団子を出す母さんに、執事がのんびりとお茶をすすりながら、礼儀正しく答える。
自然にこの変なお客さんを受け入れている母さんとは違い、父さんの顔は少し強張っていた。セバスチャンさんが一緒でなければ、おかしな自称吸血鬼など家に入れなかったに違いない。
その自称吸血鬼は、
「ほほう……下等な人間の食するものにしては上等じゃないか、この団子は! フハハハハ!」
と、あたしの家でも無駄に偉そうだ。
「えーと……とにかく、アルバイトとして、自由に使ってかまわないと……言うことだね?」
空気を変えたいのか、父さんが一つ咳払いをしてから、助けを求めるようにこちらを見た。
「うん、三日間好きにしていいってさ。忙しい時期だし、いいんじゃない?」
「確かに、人手は欲しいけれど……」
何か言いたげに二人の客を見るものの、その先はさすがに言えないらしい。
でも、見た目はアレだし言ってることもアレな部分はあるとはいえ、とりあえず手足がついて働けるのなら、忙しい時期にはありがたいはず。
あたしが二人を雇ったのは、ウサギが可愛かったからだけじゃない。うちは農家で、ここ数日は丁度忙しい時期なのだ。
「それにしても、どうしてそんな安いバイト料で働くつもりになられたんですか? 何か、欲しい物でも?」
母さんが嬉しそうに、団子をつまむシャリドを見ながら問うた。
確かに、吸血鬼が安いバイト料と引き換えに労働する理由というのは気になる。一体、何のためにお金が必要なんだろうか。
あたしたちの興味津々の視線を受けて、シャリドは自慢げに胸を反らす。
「本来、我輩のような高位の吸血鬼は、貴様らのような下等な人間どもの金など必要としない。だがしかし! 人間もたまには我輩の高尚な嗜好に合った味を含むものを作る……中でも、明日発売されるそれは貴様らの中でも高い評価を得ているという」
「シャリドさまがお好みなのは、あなたがたの言うところの〈トマトジュース〉でございます。昨今、吸血鬼の間ではトマトジュースが人気なのです」
セバスチャンの解説に、父さんは少し驚いたように目を見開いた。
「吸血鬼って、血を吸うんじゃ……」
「かつての野蛮な時代の風習ではそういうこともありましたが、それは、吸血鬼にとっても危険の大きなことでございます。それでコレステロール値が上がり健康を害した吸血鬼も多く、現在では、我々の間でもヘルシー志向が強いのです」
ヘルシー志向……ねえ。
「今では多くの吸血鬼が自分の畑を持ち、自家製のトマトジュースを楽しむ世情ですが、やはり人間の味付けには及ばないとされております。そんな中、一週間後に新たに発売されるというトマトジュースに、関係各誌が五ツ星をつけたとか」
「それだけではない。事情通の吸血鬼も、『あれは五ツ星に相応しい』と口をそろえる! その極上の味……早く楽しみたい物だ……!」
そのための一二八〇円か。確か、ペットボトル三本入りのセットでそれくらいの値段になる。
「それはそれは、嬉しいことですね」
パチパチパチ、と母さんが手を叩く。何でそうなるのかわからない様子で、シャリドはそちらに目をやる。
横から、父さんも少し嬉しそうに、
「それはそれは、丁度いいところにいらっしゃったなあ。吸血鬼のかたたちにもそこまで期待されているとなると、頑張らないとなあ」
先ほどまでの不安はどこへやら、こういうところは父さんも母さん同様、のん気なものだ。まあ、期待されれば誰でも悪い気はしない。
そう、あたし達の家は農家。一週間後に発売されるトマトジュースは地元の小さな工場から出荷されるもので、うちでも工場にトマトを出荷している。
明日からしばらく、そのためのトマトの収穫や出荷作業で忙しくなる。だから、アルバイトが欲しかったのだ。
「頑張って働いてもらえば、その分トマトジュースもおいしくなるからねえ。頑張ってね」
あたしのことばに、シャリドは今まで以上にやる気を出した様子で、
「小娘、貴様に言われるまでもない。我が手にかかれば、収穫作業などすぐに終わる! フハハハハ!」
大げさな高笑いを響かせた。
翌日、早速収穫作業が始まる。
両親と、高校が休みのあたし、そして、母さんに勧められた部屋を断って、どこかで一晩過ごしたシャリドとセバスチャン。
一体どこから用意したのか、二人は、エプロンを身に着けていた。執事のセバスチャンさんはともかく、シャリドに白いエプロンは……すっごい似合わない。
「小娘、何を見ておる? 我輩の麗しい姿に見惚れたか?」
「はいはい、それじゃ始めようかー」
その場に固まる吸血鬼の、少し寂しそうな視線を背中に受けながら、あたしは両親のあとについて、トマト畑に向かった。
それから、ごく普通にトマトを収穫する。シャリドやセバスチャンも手慣れたものだ。自家製のトマトジュースを作るのが吸血鬼の間でトレンディーなら、二人ともトマトの収穫は経験済みなんだろう。何だか吸血鬼がトマトの収穫に慣れていることに改めて奇妙なものを感じるが、無視することにする。
二人のおかげで、作業は順調に、それに予定よりかなり早いペースで進んでいった。
そして、何の問題もなく、二日目の作業が終わった夕方。
「それじゃ、あとよろしくね」
両親は、地域の会合に出かけていく。新発売のトマトジュースについても、最後の詰めの報告がされるらしい。
二人を見送って、あたしは居間でテレビを見ながらせんべいを食べ始める。兄弟がいるわけでもないし、一人で過ごすのもいつものことだ。
ふと、あの二人――吸血鬼とその執事はどうしているだろう、と思った。あたしは、彼らが夜、どこで過ごしているのか知らない。
外に目をやると、ずいぶん風が強くなってきたようだった。まだ七時を過ぎた頃なのに、空も暗く、まるで深夜のようだ。天気予報では、今夜は晴天のはずなのに。
どうせ、そのうち晴れるだろう。
そう思って、テレビ番組に集中する。バラエティー番組を見ているうちに、いつの間にか周囲の状況を忘れていた。
が、CMの間にまた外を見て、ついに雨まで降り出したことに気がつく。まだ強い雨ではないものの、止みそうな気配もなかった。
それからしばらくは、テレビを見ながらも外を気にしていた。内心、早く止まないかな、止んで欲しいなー、と思っていたけれど、その望みが叶えられることはないらしい。
風も雨も強まり、窓の外は嵐の風景。
まだ収穫していないトマトが気になった。今年の収穫期は穏かな天気の日が多かったので、あまり農作物の被害もなかった。それでも、荒れた天候の日は、去年以前にも何度も経験している。
それに、そういうときに父さんがどうしてきたのかも、あたしは何度も見てる。
ウィンドブレーカーを来て、それについている帽子を首の前で紐を固く縛って固定し、勇気を持ってドアを開く。
風がびゅうびゅうと音をたて、木々の枝も折れそうにざわめく。取っ手を放すと風の圧力で勢い良く閉まってしまいそうなので、ゆっくりドアを閉めると、あたしはそのまま、小さな物置に向かう。
予想はしていたけど、帽子はあんまり役に立たない。頬に、冷たい雨が叩きつける。
物置からブルーシートを取ると、向かい風に足をとられそうになりながら、あたしは前のめりになってトマト畑に向かって歩いた。
どうしてあたし一人のときに限ってこんなことが、という恨めしい思いはあるけれど、実際、一人なんだから仕方がない。トマトを守るには、あたしがどうにかするしかないんだ。
覚悟を決め、長靴で泥を踏みしめてトマト畑に近づくと、強風に、妙な音が混じった気がした。
音……いや、これは声?
顔を上げると、そこには、夜闇に溶け込むようなマントをなびかせる、見覚えのある姿。
「小娘、一人でトマト畑を守ろうとは……貴様、我輩をないがしろにしようというのではなかろうな? そのような無礼千万を働こうものなら、今こそ我が使い魔のエサにするぞ!」
「シャリドさまは、あなたの心意気に感心し、その覚悟のためにも、それに五ツ星トマトジュースのためにも、ここで見捨てるわけにはいかない、力をお貸ししましょうとおっしゃっております」
吸血鬼の横に控えるセバスチャンは、なぜか、髪一本も乱していない。
こんな奇妙な、つい最近まで関わり合いのなかった――むしろ、関わり合いになりたくなかったくらいの二人だけど、今のあたしにとっては、最高に心強かった。
あの嵐の夜から、一週間。
幸い、トマトも予定通り出荷できたし、五ツ星トマトジュースも予定通り発売された。あたしは約束通りにバイト料を払って、シャリドはそれで、トマトジュース三本セットを買ったらしい。ちなみにトマトジュースのキャッチコピーは、『吸血鬼にも大人気!』だ。
ともあれ、彼らとは、それでお別れのはずだった。
しかし――
「クックックッ……フハハハハ……ハーッハッハッハ!」
台所のほうから、不気味な高笑いが響く。
洗い物をしながら、母さんが笑顔で、
「そうなのよー。まったく、笑っちゃうわよねー」
まるで友人と談笑しているかのように答える。いや、母さんの中では、実際そうなのだろう。
その視線の先、椅子の上では、シャリドが腕と足を組んで、自分の城であるかのようにくつろいでいる。でも、周囲はのどかな家の風景なんだから、相変わらず、その黒尽くめの姿は酷く違和感があった。
離れたところでは、父さんが執事と、
「いやあ、なかなかお強いですな」
「そちらこそ、結構なお手前で」
などと穏かにことばを交わしながら、将棋をさしている。
あたしと吸血鬼の契約は終わった。しかし、シャリドは次に、母さんに契約を持ちかけた。出荷できない、でも出荷したものと味はさほど変わらないトマトで母さんが作る、手作りトマトジュースが気に入ったんだとか。
「クククッ……このトマトジュースも、三ツ星くらいにはなるかもしれんな。ハーッハッハッハ!」
シャリドはコップに注いだ血に似た液体を飲んで、再び高笑いを始める。
この騒がしい吸血鬼との付き合いは、もう少し続きそうだ。
FIN.