そいつはどうにも、ほかのみんなとは違う感覚の持ち主らしかった。
理由を知れば、まあ納得はできる。海外の病院に長い間入院していて、学校もロクに行ってなかったというんだから、日本の同年代の若者たちの常識から多少外れてたって仕方がない。
と言ってもねえ。
「なあ、文恵。今日、『男性用エステ開店!』とかいうポスターを見つけたんだよ。これはあれか? 日本はここしばらくの間に、日常的な女装にかなり開放的になったということか?」
というようなことを、高校の行き帰りのたびに尋ねられるというのも面倒臭いもので。
「そんなわけないでしょ」
わたしは、平日はほぼ毎日口にしていることばを繰り返す。
彼――瑞樹成太にとっては、最近の日本の文化がいちいち目新しいらしい。詳しく聞いたことはないけれど、よほど遠くの国の病院に入院していたんだろう。
そんな彼がどうしてわたしと知り合ったかと言うと、わたしが盲腸で入院したときのことだ。病状がだいぶ快復してきた彼が、同じ病院の六人部屋に転院してきたのである。そして何の因果か、今は同じ高校に通ってるわけだけど……初めて顔を合わせたときから、本当に何度珍妙な質問を受けたことか。
「単に外見を良く見せようって話でしょ。営業しやすくなるようにとか、女の子にもてるようにとか」
「ふうん」
質問の答のほうには興味がないのか、彼はつまらなそうに鼻を鳴らす。
でも、夕日に染まる住宅街を家に向かって歩いているうちに、また彼から新しい質問が湧いて出る。
「そういえば、雑誌やなんかでチョコの特集とか多いけど、何かあるのか? コンビニで二月一四日がどうとかいう紙が貼ってあったけど」
「あんた、バレンタインデーも知らないの!?」
さすがにちょっと驚いて、思わず大声を出してしまう。
こいつが日本の病院に転院して一年ちょい。まだ通院してるけど、退院して半年くらい。小さいころのことは覚えてないとしても、バレンタインデーも知らないなんて。普通、病院でもそういう記念日じゃ、チョコ配ったりするよなあ。
それとも、何も知らないままチョコだけ食べてたか、そういうのが食べられない病気だったのか。
「何か、お菓子がもらえる日っていうのがいくつかあったのは覚えてるんだけどなあ」
ボサボサの頭を掻きながら、曖昧な記憶を辿るように空を見上げる。もちろん、そんなところにカンペなんてあるはずがない。
「バレンタインデーはね、女の子が好きな人にチョコレートを渡す日なの。あんた、ホワイトデーも知らないでしょう? チョコレートもらったら、ちゃんとお返ししないと駄目なんだからね」
「え? 俺、病院の人たちにお返ししてない」
「それは義理チョコだからいいの。ホワイトデーにクッキーも配られてたでしょ。どっちも病院でやってんだからいいのよ」
「義理……?」
義理と本命の違いまで説明しなきゃいけないのか。ちょっとうんざりしながら、T字路で足を止める。
「本命チョコをあげるってことは、付き合ってください、って告白するのと同じことよ。で、OKなら男もホワイトデーに本命クッキーをあげるの。大抵は、その前に付き合ってるけどね」
で、ホワイトデー前に別れてたりして。
わたしの説明を、彼はやけに真剣な顔で聞いていた。そして、急にわたしのそばに来て、
「あのさ、文恵。本命チョコちょうだい」
本気とも冗談ともつかないことを言う。
いや、彼の目は真剣そのものだ。つまりこれはいわゆる告白ってこと……?
そう思うと、わたしは顔が熱くなるのを感じる。指先から頭のてっぺんまで、煮だってるみたいに。きっと、鏡を見たら真っ赤だろう。
でも、成太はそんなことには気がつかない。壊滅的に鈍いヤツだ。
「だってさ、本命チョコくれそうなの、文恵くらいだもの。それに、本命チョコもらわなきゃ、本命クッキーってあげられないんだろう? こうでもしないと、一生経験できないかもしれないし」
なんだ。そうか。
つまり、彼にとってはこれは一種のシミュレーションというか、『本命チョコをもらうというのはどういう経験か』という、〈実験〉なんだ。バレンタインデーを体験してみようっていう。
――期待外れ。
「わかったよ、あげるよ」
「そうか! 楽しみにしてるぞ」
大喜びで手を振って、彼は下宿先に続く曲がり角を右へ。
わたしは溜め息を洩らしながら、小さく手を振り返して左に折れ、家への道を辿った。
着実にバレンタインデーは近づき、一日前ともなると、わたしたちが通う高校でも、誰にあげるのか、どんなチョコをあげるのか、という話題で持ちきりになる。特に最近は手作りのためのセットなんかも増えてるから、単純なチョコ以外のものを手作りする子も多い。
「文恵はどうするの、チョコ」
友達の秋野那美が、昼休みに訊いてくる。彼女は、憧れの先輩に本命チョコでアタックしてみるつもりらしい。
「まあ、クラスの男子にはいつもの百円チョコで済ますわ」
「へえ、今回も本命なし?」
「本命ねえ……」
中学生のとき、一度だけ本命チョコをあげたことがあった。同級生の、バスケットボール部の男の子。ホワイトデーを待たずにほかの学校に転校していって、『あのときは僕も好きだったけど、なかったことにしよう』とかいう、余計なことを書いた手紙があとから来たっけ。
その手紙をもらってしばらくは落ち込んだけど、今では、わたしの中でもなかったことになってる。
「今年は何か、あげることになってるんだよね、本命チョコ」
「へえ!」
と、喜んで身をのり出してきたところで、彼女は首を傾げる。わたしの言い方におかしなものを感じたらしい。
「あげることになっている……?」
「まあねー」
溜め息交じりに言って、成太の席を振り返る。
タイミングがいいんだか悪いんだか、丁度向こうもこっちを見ていて、嬉しそうな笑顔を見せる。
「文恵、忘れないでくれよ。本命チョコ」
教室内のクラスメイトが、耳ざとく聞きつけて注目してくる。
ああ、なんでこいつってこんな鈍いのか。
「わかってるって。ちゃんと本命チョコってやつを体験させてあげるから」
わたしがわざと大きめの声で言うと、周囲のクラスメイトたちも納得したようだ。さすがに半年も同じクラスにいれば、成太の性格くらい、みんな理解している。
ただ一人、当の本人だけは周りの様子に気がつかず、「楽しみにしてるから!」と本当に嬉しそうに言っていた。
「大変ね、あんたも」
成太が教室を出ると、那美が同情してくる。
「まあ、気持ちもわからないわけじゃないけどね。あいつにとって、初めてのバレンタインデーみたいだし」
そう、人生最初のまともなバレンタインなんだ。彼はわたしと違い、誰かと恋愛するとか、バレンタインデーやホワイトデーみたいな記念日をドキドキして待つとか、そういうこととは無縁な人生を過ごしてきたんだ。
重い病気で、病院の中で。中学校にも塾にも、ほかのどんな習いごとにも行くことなく。
そう思うと、わたしは、このバレンタインをできるだけいいものにしてあげようと思った。これが彼にとって実験なんだとわかった直後は、五〇〇円くらいのバレンタインデー用チョコをコンビニかどっかから買ってきて済ませようとか思ったけれど、今は、きちんと手作りしてやるつもりでいる。
だから、ここ数年、それなりに話は合わせるけど半分以上聞き流していた、友人たちのどんなチョコを作るかっていう話も、今年は興味津々で聞いていた。
あげるチョコレートには、大きく分けて三つあるらしかった。
ひとつは、スタンダードな大きなチョコレートひとつ。ハート型にする人が多いらしい。大きいのでチョコペンでメッセージを書いたりできるけど、ひび割れたりすることもあるし、割れたときのダメージは大きい。
クラスの女子で一番多いらしいのが、細かいチョコをいくつも作るもの。市販の物でもこれが多い。一箱でいくつもの味が楽しめるし、作りやすい。ただし、あんまりインパクトはないし、本命、って感じはしにくいかも。
最近増えているのが、チョコだけじゃないもの。チョコケーキとか、ムースとか。形が崩れやすかったりするかもしれないけど、ゴージャスな印象になるかも。那美は、チョコケーキにするつもりらしい。
こういうのは、相手の好みも重要だ。それで、成太は何が好きだったかと思うと、何でも好きだ。
――じゃあ、自分の好みでいいよね。
というわけで、放課後店に寄って材料を買い込み、家に帰るなり、荷物を部屋に置いて台所に向かう。何を作ることにしたかというと、チョコレートのムースにチョコレートをかけた果物を散りばめて飾ったもの。大き目の入れ物に入れればひっくり返さない限りは崩れないし、上に文字だって書ける。
「ねーちゃん、本命チョコ作るの? 珍しい」
いつもはこの日に台所を占領する妹が、目を見開いてこっちを見る。彼女はもうすでに、自分の本命用チョコを作り終えたところらしい。
「新しい砂糖、棚の入れ物に入れといたから。お湯はポット。汚したらちゃんと洗ってね、じゃないとあとであたしがお母さんに怒られるんだから」
「わかってるって」
妹は慣れた調子で、チョコ入りの綺麗な箱を揺らさないように持ちながら、パタパタと二階の部屋に去って行く。
わたしは長い髪を縛って頭巾を被ると、早速調理に取り掛かった。お菓子作りは何度かやっているけど、ここまで気合入れて作るのは始めてかもしれない。
まずは、本を見ながらムースを作る。ほかのチョコよりずっと甘く、印象に残る物を作りたくて、砂糖はどっさり。そして、上にはさっぱりフルーツ。フルーツは円形のムースの端のほうに寄せて、真ん中に、ホワイトチョコレートのペンで文字を書く。
『I LOVE YOU』――
使い古された、直球の一言。
でも、こんなことばだって、あの鈍いヤツの心には届かない。これだって、本命チョコらしさを演出するための、意味のないことばにしか思われない。
通じればいい。でも、無理だろう。
それが、わたしの本心だった。あの鈍さを超えるぐらいのインパクトあるチョコレートを作りたいけど、そんなアイデアなんてないし、お金もないし。
結局これも、あいつにとっては〈実験〉で終わるんだ。
何か、ちょっとむなしくなってきた。勝手に涙が出てきて、視界がにじむ。
調理の後半は、ほとんどヤケクソになりながら、わたしはバレンタインデーチョコレートを作りあげた。
翌朝、わたしは少しだけ成太と時間をずらして高校に行った。朝に出会っていきなり渡すのも気が引けたからだ。
でも、校門の辺りで追いついてしまう。いや……きっと、成太が待っていたんだ。
「くれるんだろう、本命チョコ?」
わたしがうなずくと、彼はいつものように無邪気に、嬉しそうに笑う。
まったく、人の気も知らないで……。並んで玄関に入りながら、わたしは少しだけ怒りを覚える。
「こういうのは、雰囲気が大切なの。だから……そうだね、昼休みに校庭の桜の木の下で渡すわ」
こうやって先延ばしにしたのは、ちょっとした意地悪だった。それだけでなく、どうせ本命チョコの気分を味わうならそこまで徹底したほうがいいだろうというつもりもある。
どうせむりなら、わたしも『もしも』の世界を楽しもう。もし、バレンタインデーに彼に告白するとしたら、という世界を。
「そういうものなのか。楽しみだな、昼休み」
彼は上機嫌で言うと、下駄箱の蓋を開ける。
途端に滑り落ちたのは、ピンク色の可愛らしい包み紙の、手のひらサイズの箱。四方に回されたリボンの間に、お洒落なカードが挟んである。
成太はキョトンとしたあと、それを拾い上げた。
「昼休み、屋上に来てください、だって……何これ、決闘の申し込みか?」
「決闘にチョコがつくわけないじゃない」
ツッコミを入れながら、わたしは動揺していた。冷静になろうとしても、声が震えてしまう。
「本命チョコだよ。良かったじゃない……これで、わざわざわたしの本命チョコ受け取ることないね」
正直、この男を好きになる物好きがいるとは思わなかった。
いや、それはたぶん、わたしの希望だ。成太はトンチンカンなところはあるけれど、別に嫌われるような性格じゃない。運動はできないけどそれは病気のせいで、運動神経が悪いわけでもないし、頭もいい。顔も悪くはないと思う。
こうやって本命チョコのひとつももらっても、おかしくない話だった。
「……なんで?」
ピンクの箱とカードを両手に、彼は茫然と立ち尽くしている。
向かい合う棚の前で、わたしと彼も向かい合う。
「だって、ほかに本命チョコもらえるんだからいいじゃない。あんたの本命チョコもらう経験したいって目的は達成されたでしょ?」
「……文恵は嫌だったのか? 俺に本命チョコくれるの」
成太の顔が、泣きそうに歪む。
否定しないと、泣かれそうだった。それに実際――わたしは、嫌じゃなかった。
「本命チョコ欲しいって言われたときは嬉しかったよ。でも、それが実験のためだって言われたら……」
「実験……?」
彼の表情がまた変わる。今度は、不思議そうな表情。
「あんた言ったじゃない、本命チョコくれそうなのがわたしくらいだとか、こうでもしないと経験できないかもしれないからとか」
わたしが口を尖らせて言うと、ようやく、鈍い成太にも通じたらしい。
彼はなぜか、少し怒った顔をする。
「だって、文恵ほどつきあい長い相手もいないし、俺を好いてくれそうな人、いないし」
「わ、わたしがあんたを好いてるわけ?」
「違うの? 好いてなかったら、一緒に登校したり下校したりしないよな? って、同じクラスのほかのみんなも言ってた」
ほかのみんな……って……
もしかして、わたしの想いはバレバレ!?
カーッと顔が熱くなる。鈍い鈍いと思ってた成太が、そんな自然にわたしの気持ちを知っていたとは。クラスの男子が憎らしい。
「で、でも、それならなんで、経験できないかもしれないとか言うのさ?」
わたしが成太を好きなら、そんなこと、何度も経験させられる……とは言わないけれど、いくら奥手だって、わたしはやるときはやるはずだ。たぶん。
「だってさ……」
彼は少しだけ、何かを悟ったような大人びいた表情になる。
「またいつか、重い病気になって会えなくなるかもしれないだろう?」
本命チョコもらえないまま、この世界からいなくなる。
わたしからすると非日常的なことでも、何度も死の危険を感じてきたらしい彼にとっては、それこそが普通の感覚なのかもしれない。こうして普通に学生生活を送っている半年こそが、彼にとっては常識外れなことなんだ。
だからあんなに、本命チョコを欲しがったのか。
わたしは気がつけば、自然と顔に笑みを浮かべていた。
「もうそう簡単に、会えなくなったりしないって。……待ってるから、昼休み」
もうひとつの本命チョコはどうするのか。それは、彼が決めること。
彼はそのピンクの包みを手にしたまま、笑顔でうなずいた。
昼休みは、もう半分も過ぎていた。
桜の木、と言っても、当然まだ花は咲いていない。あいつ木を間違えてるんじゃないか、と一瞬思うものの、校庭に出てきさえすればわかるはず。
屋上にいるのか。と、見上げてみても、囲いが高くて誰かがいるのかどうかもわからない。
――どうなったのかな。やっぱり、気が変わって向こうの子に行ったのかも。
息を吐いて、下を向いたときだった。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
そっちに目を向けると、ボールが迫ってくる。顔面に当たりそうになって、慌てて身を引く。
ぐちゃっ。
嫌な音がした。
「……あ」
ボールは見事、私の両手の上の箱に命中。せっかく綺麗にラッピングしたのに、水色の包装も破れ、リボンも潰れて土がついていた。
箱自体も大きく凹み、おそらく、中身も……。
――無念。
怒る気力もなく、土の上にへたり込む。ボールを取りに来た誰かが何か言っていたが、聞こえなかった。
そして、どこまでもタイミングの悪い男がやって来る。
「ごめん、遅れて……文恵?」
心配そうな声に、わたしはようやく顔を上げた。
「……どうだったの、あっちは」
「断ってきた」
さすがに、両方受けるとかいうトンチンカンはやらかさなかったらしい。
それは嬉しい。嬉しいけど、半分以上は絶望的な気分で、わたしは半泣きになってた。
「ごめん……こんなんなっちゃった」
説明するより、見せたほうが早い。ぐにょりと曲がった蓋を開けて、わたしは中身を見せた。
ムースが跳び散り、あちこちにこびりついている。チョコをかけたイチゴやバナナ、キュウイも、完膚なきまでに潰され変な汁がにじみ出してた。当然、ペンで書かれてる文字なんてわからない。
その惨状を見て、成太は一瞬驚いたものの、すぐに笑顔を見せる。
「俺は、文恵が作った料理は何だって美味しいと思うから」
そう言って、箱に入ってたプラスチックのスプーンを手にする。
そうだ、チョコがメチャクチャになったっていいじゃないか。こうして両思いだってわかったんだから、わたしは幸せだ。
それに、成太はとても人の食べるものとは思われない茶色のぐちゃぐちゃを、おいしそうに口に運んで――
「しょっぱああぁぁぁ!!」
叫び声が、校庭に響いた。
周囲のみんなの視線が、こちらを向く。その注目の中で、わたしは動けずにいる。
――まさか。そんな馬鹿な。
そんな、古典的なミスをやらかしてしまうとは!
試しに、蓋についたムースを舐めてみる。
……わたし、なんて塩辛作ったの?
「そうか……」
なぜか、成太は納得の声でつぶやく。
「みんな、『最近の女子が作るチョコは甘い、甘すぎる』って言ってたけど、こういうことだったんだな!」
「……こういうこと?」
「つまり、バレンタインデーってのは、愛の大きさを示す試練だったんだ!」
そう叫んで、スプーンを持ち直す。
「さすが文恵は一味違う。甘くない試練だ。それだけ、俺を信頼してくれてるんだな。なに、すぐにこんな試練、クリアして見せるから!」
「いや、塩分取りすぎで身体壊すって!」
必死に塩辛いチョコムースをかき込む成太を、わたしはどうにか引き離す。
成太は不満げな顔をするけれど、わたしは何としてでも彼を止め、誤解を解かなければならない。
――少なくとも、ホワイトデーまでには!
FIN.