カモメの夢



 午後の海は、青色が濃い。
 朝は薄い色。夕方は夕日に染まったオレンジ。見慣れているものでも、いつも違った顔をしている。
 その顔を描き移そうと、わたしは、パレットに紺の絵の具を絞り出す。緑と、空色の絵の具を少しだけ筆につけて、色を見ながら慎重に混ぜ合わせる。
 それを真っ白な紙の上に塗りつけて、木を組み合わせただけの柵の向こうの海と見比べる。そして、そのスケッチブックの一番上のページを破り捨てた。
 色を移しては、それを言い訳に紙を破り、丸めて、屑かご代わりの持参した袋に放り込む。近所のスーパーのロゴ入りビニール袋は、もう、丸めた紙で一杯だった。
 何回、何時間、何日、繰り返しただろうか。
 去年の今頃は、課題にサークルに勉強に、と忙しかった。大学を中退してぽっかりと空いた巨大な『退屈』という穴を埋める、数少ない日課。今は、退屈という穴を埋めるためだけに、生きて、考えていた。
 海辺の公園には、誰もいない。いつものことだ。こんな昼食時も過ぎた頃に小さな公園にいるのは、この辺りじゃ、わたしくらいだ。
 誰も見ていないのだから、一人遊びを続けたっていい。でも、そろそろ飽きてきた。新しい退屈しのぎを探そう……そう思って、わたしは改めて絵を描くのがが自分の一番楽しいことじゃないことに気づき、情けなくなる。
 両親が一生懸命働いて、いい美術大学に入れてくれたのに。そこまでして絵を描きたかったのは、それが本当に楽しかったからじゃない。
 スケッチブックと椅子、それに畳んだ立脚をバッグに仕舞い、わたしは立ち上がった。
 公園は海辺の岡の上にあって、子どもが遊ぶような木製の遊具とベンチ、潮風をよけるための木々が並んでいる。木は、青々とした葉を茂らせていた。
 風もないのに、その葉が、不自然に揺れた。思わず身がまえて、そちらに目をやると、青いデニムのジャケットの裾が見えた。
 退屈しのぎの日課でも、筆を手にしているときは集中しているらしい。他に人間がいることに気づかなかった自分に少し驚きながら、わたしは立ち尽くす。
 一体、こんな時間にこんな小さな公園にいるなんて、どんな人物だろう? 自分のことを差し置いて、そんな興味がわきあがる。
 同時に、自分の姿を見られたくない、早くここから立ち去ってしまいたいとも思う。
 ふたつの感情の狭間で、しばらく、身動きが取れなかった。ただ、目は木の向こうにいる人間を凝視して、それだけで何か好奇心を満たせるものを得られたら、感情に足止めされることもなく帰ることができるのに、と希望を抱く。
 でも、そんな都合のいいことが起こるわけはない。
 相手が、わたしの存在に気づいた。逃げてしまえば面倒はないと思うが、そうすれば、変に思われる。もう二度とここに来られなくなるかもしれない。
 そんな奇妙な覚悟を決めるわたしを見つけ、期の向こうから顔を出したのは、若い男だった。若いと言っても、わたしより二つ三つは年上だろう。余り体格の良くない、色白で、柔和な雰囲気をまとった青年だ。
「こんにちは。こんなところで人に会うとは珍しい。あなたも、絵を描いているんですか?」
 人懐っこい笑みを浮かべて、彼は尋ねて来た。そのことばからすると、彼もこの公園に絵を描きに来たらしい。
 確かに、ここは海を描くにいい場所だった。でも、ここにわたし以外の人がそういう目的できたことは、わたしが知る限りではない。行動範囲が狭いだけかもしれないが、周囲に絵を描く人がいるという話も聞いたことがなかった。
「ええ。海の絵を」
 答えて、わたしは片付けたばかりの椅子や画材をバッグから取り出し、元通りにし始める。話しかけられてすぐに立ち去ると、嫌がっているように思われるかもしれない。わたしはなぜか、彼に拒絶の印象を与えたくなかった。
「この辺は、いい色の海ですからね。写生には向いていると思いますよ」
「そうですね。わたしも、この色が好きで」
 心にもないことを言って、また、真っ白なスケッチブックに向かう。
 彼はわたしと違って、とても楽しそうに、パレットの絵の具を筆に移す。
「ぼくは、堺亮太と言います。あなたは?」
 彼は、年上なのに、丁寧にきいた。その口調は、友だちによく気難しいと言われるわたしでも、悪い気はしない。
「わたしは、凪井深雪です。この町じゃ、初めて知り合った絵描き仲間ですね」
「ぼくもですよ」
 顔を見合わせて、わたしは久々に、少し笑った。
 彼は、知り合いの職人の元でデザイナーの勉強をしているという。そして、休みのたびに、町のあちこちに出かけては絵を描いているという。
 一時間くらい、わたしたちは、話をしていた。彼の仕事のことや、弟がいること、それにわたしも、今年の春に大学を中退してきたことや、両親が半年前に亡くなったことを話した。彼は、わたしから話さない限り、わたしの身の上を追求してきたりはしない。それがありがたかった。
 やがて、綺麗な青の海が、オレンジに変わり始める。
「ああ、そろそろ、弟に会いに行かないと」
 腕時計を見て、彼が慌てた様子で立ち上がった。彼の弟、浩太くんは、病院にいるのだという。どういう病気なのか、どれくらい入院しているのかは、追及しなかった。
 彼は画材を片付けると、「それじゃ、失礼します」と頭を下げて、公園を出て行く。わたしは、妙に大きな物を失ったような気分で、それを見送った。
 こんなに人と話したのは、何ヶ月ぶりだろう。そう思いながら、わたしも帰る準備を始める。
 結局、スケッチブックは真っ白のままだ。でも、昨日や一昨日よりは、何かをした気分になれた。
 道具をバッグに詰め込んで、ふと、堺亮太が陣取っていた木の向こう側をのぞいてみる。
 わたしは、目を見張った。
 彼が身体を向けていた方向には、海はほとんど見えなかった。葉をたわわにつけた木の枝が邪魔をして、隙間から、ほんの少しだけ青がのぞくだけだ。
 彼は、一体何を描いていたんだろう。
 疑問を抱いて、堺亮太が去って行った方向を振り向く。
 すると、出入口のそばにある緑の茂みに、何か白いものが引っかかっているのが見えた。ただの紙屑か、わたしが捨てた物が飛ばされたのか、と歩み寄って、拾い上げてみる。あまり、大きくはない。B5のスケッチブックの一ページのようだ。間に挟めてあったものを、落としたのだろうか。
 それは、絵だった。わたしの描いた物じゃない。どこか遠くの、外国の田舎の風景に見えた。遠くには青い山並みを望み、木製の素朴な家々が並ぶ町を、どこか丘の上から見下ろしている構図になっている。
 写実的な絵ではない。綺麗な、幻想的な絵だ。その絵に、わたしは見入った。どうしたら、こんな絵が描けるんだろう。悔しい、とさえ思う。
 絵を裏返して見ると、アルファベットで『sakai』と書かれていた。
 今から追いかけて、間に合うだろうか……そう考えて、すぐに結論を出す。無理だ。間に合うとしても、それは、相手の行き先を正確に知っていたらの話だ。
 わたしの思考は、次の議題に移る。
 じゃあ、この絵はどうしようか。
 まさか、同じ場所に置いておく訳にもいかない。警察に持っていくのが妥当かもしれない。
 でも、それは面倒だ、ともう一人のわたしがつぶやく。もう陽も暮れてきたし、届けるにしても明日にしよう、それほど急ぐ用事じゃない、と。
 わたしは、その絵を大切にスケッチブックの間に挟んで、アパートに向かって歩き出した。

 自室に着くと、帰り道のコンビニで買って来たベーコンを卵と一緒にフライパンに落とし、夕食の支度をする。サラダ用の野菜を切ってドレッシングをかけ、冷凍物のチキンを付け合せるだけの、手間をかけない、夕食だった。そんないつもと変わり映えのしないメニューが、今日は少し、違って見える。
 小さなテーブルの真ん中に、写真立てに入れられた絵が飾られていた。汚れないように、それに、せっかくここにあるんだから、人に見られていたほうがいいよね……と、我ながら勝手な理屈で自分を納得させて、その絵は、部屋のインテリアのひとつに加わっていた。
 黄身の崩れたベーコンエッグを箸でちぎりながら、飽きることなく、絵を見ている。わたしの知らない、どこかの風景。スイスのほうか、それともアラスカかしら、と思いながら、ふと、手にした箸を見る。このメニューには、箸よりフォークのほうが似合うに違いない。
 わたしはキッチンに駆けて行って、引き出しから、お気に入りの、綺麗な細工が入ったフォークとナイフを出す。気に入ってはいても、今まで使ったことがなかった物だ。両親がわたしのために残した遺産をこんなことに使っていいかと迷いながら買った趣味の物だけど、今は、買ったことが無駄じゃなかったと、許されたような気になれた。
 フォークとナイフを手に居間に戻って、食事を再開する。まるで、絵の中のような自然に囲まれた街の中で食事をしているような、清々しい気分。油っぽいチキンも、野菜の形が不ぞろいなサラダも、いつもよりおいしい気がした。
 食事が終わると、わたしは、この絵をどうやって彼に帰そう、と、ようやく肝心なことを考える。
 警察に届けようという気はなくなっていた。自分の手で返したかった。他の絵も見てみたい、という、下心があったのは確かだ。それに、もしかしたら、わたしにもこういう絵が描けるようになるヒントが見つかるかもしれない。
 わたしの、成長のない絵。周りのみんなが絵が上手い、画家になれるね、画家になるといいよ、と言うから……それだけの理由で、当たり前のように、絵を描き続けて美術大学に進学した。わたしの絵には何かが足りない。何かが欠けている。それとも、欠けているものはひとつだけじゃないのかもしれない。
 わたしの絵になくて、彼の絵にあるもの。それが知りたくて、わたしは彼に会いたいのかもしれない。
 会うにしても、名前だけでは、ヒントが少なすぎる。ただ、それほど遠くない所に住んでいるはずだ、と思った。
 大学を中退し、この町に来てから、自分から他人に関わることを控えていた。でも、明日は、積極的に話を引き出してみよう。
 彼の描いた絵を見つめたまま、わたしはそう誓った。

 月に一度、町内会で、ボランティアのゴミ拾いをやっていた。わたしは、こういうボランティアには何度も参加している。働きもせずに、親が命を削って稼いだ遺産で無駄遣いばかりしているようなわたしにも、少しは社会に居場所がある、と思えるから。
 何度か顔を合わせているおばさんたちには、顔を覚えられている。わたしは、感心な学生さん、という目で見られているらしい。
「いやあ、いいことをした後の一杯は気持ちいいねえ」
 長居さん、とみんなに呼ばれている女性が言うと、周囲のみんなも、笑い交じりに同意した。
 今日は、中央公園の清掃だった。それが終わり、参加者はベンチや花壇のふちに腰を下ろして、配られた缶ジュースで一服していた。
 少し離れたところでオレンジジュースをすすっていたわたしは、なんとか、おばさんたちの会話に入るタイミングを計っていた。しかし、なんと言ってもおしゃべり好きなおばさんたちの会話には、隙がない。
 楽しく談笑する所に声をかけるのは、勇気がいる。でも、他に頼れる情報源はない。
 意を決して近づくと、ありがたいことに、一人がこちらに気づいて声をかけてきた。
「あら、深雪ちゃん。今日もがんばってたねえ。ほんと、今時の若い子でも感心だわ」
「いえ……その、堺亮太って人、知りませんか?」
 余り回りくどいことを言っていると、会話の中心がまた別の方向に移ってしまうので、わたしは単刀直入にきいた。
 おばさんたちは、どうやら、わたしの出した名前に興味を持ってくれたらしい。頭をひねりながら、しばらく口をつぐむ。
 そんななか、すぐに、長居さんのとなりにいた女性が手を打った。
「ああ、そんな名前の子、いたわねえ。毎日弟さんのお見舞いに行ってる感心な子だって、新聞屋さんが言ってたわ。確か、中央病院に入院してるんだってねえ」
「中央病院……ですか」
「ええ、間違いないわ。弟さんは、可愛そうに、事故で足を大怪我しちゃったって話よ。今、一生懸命リハビリしてるだってねえ」
「そうそう、あそこの先生、結構評判いいんだってねえ」
 病院の話になると、他のみんなも話に加わり出す。このままここにいると、巻き込まれそうだ。
「ありがとうございます」
 脱出のタイミングを逃さないよう、わたしは頭を下げて、そっとその場を離れた。
 ボランティアの参加者が解散した後、わたしは昨日の公園に行ってみた。もしかしたら、またここで会えるかもしれないと思ったからだ。
 公園には、人がいた。もう、小学校も下校時間だ。家への帰り道なのか、ランドセルを背負ったままの子どもたちが、木製の遊具に登って遊んでいた。
 堺亮太は、いなかった。
 わたしはベンチに腰を下ろし、ぼんやりと、これからのことを思う。今日はもう遅いし、病院は、明日にしよう。とりあえず、帰りにコンビニで弁当を買って帰ろうか。
 カモメの鳴き声を背中にしながら、わたしは海辺の公園を出た。

 また、あの絵をテーブルの真ん中に置いて、夕食をとる。買って来たコンビニ弁当は、流し台の下に放り込んだ。そして、今日は昨日より手間をかけ、ハンバーグとマッシュポテトをこしらえた。
 この絵を見ながらの食事も、これで最後か。明日は、朝早めに病院に行こう。彼が毎日病院の弟を見舞っているなら、かなりの確率で会えるだろう。
 その時が待ち遠しくもあり、絵と離れるのが寂しい気持ちもある。
 でも、もしかしたら、この絵を失って寂しいのは彼も同じかもしれない。絵を失くしたことで、今、困っているのかもしれない。そう思うと、持ち主に返すのが一番正しいと、自分を納得させる。
 夕食に使った食器を洗っている途中で、わたしはふと、思いついた。洗い物もそのままで、クローゼットの奥に無造作に置いてある、古いスケッチブックを取り出す。
 そして、テーブルの上でペラペラとめくってみた。自分が昔描いた絵を見るなんて、普段はまったくしないことだ。
 ただ、今回は、どうしても捜してみたかった。堺亮太が描いた絵と、似た構図の絵。それが、頭の片隅にあった。
 それを描いたのは、半年くらい前のことだったか。完成直前に、両親が事故死したという電話があった。その連絡を受けた後、わたしは、描きながら泣いた。涙で溶いた絵の具で描いた絵。
 それなのに、スケッチブックの中に見つけたその絵は、何の感動ももたらさなかった。
 岡から見下ろした街並み。学校の校庭で子どもたちが駆け回り、人々が道を行き交い、遠くには山が稜線を描く。端には海が見え、白い紙屑のようなカモメが、どこかへ飛び去ろうとしていた。そのカモメだけが、どこか寂しさをまとっている。
 彼の描いた絵とは、まったく違う。楽しげな子どもたちの表情も、どこか作り物くさくて、ただ、それらしく描いてあるだけだった。
 無色透明。通路の飾りにはなるだろうが、ただそれだけの絵。
 そんな絵のために、何をしてるんだろう。何をしてきたんだろう。そう思うと、どこか虚しい気分になる。
 それを無理矢理心から追い出して、スケッチブックを閉じる。
 そして、歯を磨いて着替えると、額に入ったままの絵を、何の気なしに自分のスケッチブックと一緒にバッグに入れ、わたしはこの日、早めに眠った。

 中央病院へは、バスで目の前のバス停まで行くことができる。朝七時過ぎのバスに揺られながら、わたしは、窓の外の景色を眺めていた。
 今日は、日曜日でも祝日でもない。ランドセルを背負って通学路を駆けていく子どもたちや、忙しそうに歩く背広姿の大人たち、楽しげにおしゃべりしながら自転車で走り去っていく数人の女子高生などが見えた。
 どれも、わたしには縁のない世界だ。窓の外の、他の人たちの生活はいつも、わたしには異世界の出来事に見えた。
 それでも、わたしはバスや汽車の窓の外を眺めるのが好きだった。窓の外の風景は流れ、車両は目的地に近づいていく。わたしが一歩も動かなくても。
 中央病院の辺りは、割と賑やかだった。すぐそばのバス停で下りると、わたしは目をつけておいた喫茶店に足を運ぶ。『カフェ・スターメイカー』と、手作りらしい木の看板がかかったなかなか雰囲気のいい店だ。でも、時間帯のせいか、なかはガラガラだった。
 入って迷うことなく、窓際のテーブルに座る。ここからなら、病院への出入りが見える。
 名前もわかっているのだから、直接病院に弟さんの見舞いに行けばいいのかもしれないが、それだと、兄が来るまで待つための理由が必要になる。まさか、弟さんに、もっとお兄さんの絵が見たい、どうしてそんな絵が描けるのか知りたい、なんて、言えるはずもなかった。
 それに、仕事があるはずだから、堺亮太が姿を見せるのはだいぶ先のはず。それも、夕方になってから、あるいはすっかり暗くなってからかもしれない。それでも、わたしは付き合う気になっていた。
 どうせ、用事も何もない。時間が潰せるネタがあるだけ充分だった。
 ただ座っているだけでは悪いので、コーヒーを一杯注文し、じっと窓の外を眺める。その景色のなかを行き交う人々もまた、わたしとは別世界の人たちだ。
 わたしには、見舞う相手もいない。最後に病院を訪れたのは、両親の死に顔と対面した時だった。
 そんなセンチメンタルなことばかり考えている自分が嫌になって、外に集中する。ガラス越しの病院とその駐車場を、時折車が出入りする。駅から近いので、徒歩で訪れる人のほうが圧倒的に多い。
 店の真ん中にあるアンティークの柱時計の針が正午をさし、病院への出入りが落ち着いたころ、わたしは一度、店を出ることにした。近くのコンビニででも弁当を買い、公園のベンチにでも座って昼食を取るつもりだった。
 コーヒー代を払って店を出ると、丁度道路の向こう側に、見覚えのあるショルダーバッグを背負った背中が見えた。
 わたしは慌てて、その姿を追った。考えてみれば、昼休みに見舞いに来ることもあるだろう。
 道路を渡り、病院の敷地内に入る。直接声をかけず、わたしは、少し間を置いて相手を追った。歩いているうちに、わたしは確信する。
 間違いない、堺亮太だ。病院の玄関に入るとき、チラリと、横顔が見える。
 彼は顔見知りらしい看護婦に声をかけると、そのまま奥の階段を登って行った。
 それを見届けて、わたしは受付に向かう。
「あの、こちらに堺浩太くんが入院しているって聞いたのですけど」
「ええ。あなたは、どのような関係で?」
 ベテランらしい、中年女性が応対した。安全を守るため、そう簡単に病室を教えられないことは、わかっている。
「お兄さんの友人です。亮太さんが、弟さんに渡す絵を忘れて行かれたので、届けようと思いまして」
 そう言って、わたしは最後の切り札のごとく、バッグからあの絵を取り出し、その裏側を見せた。そこには確かに、堺亮太の署名がしてある。
 その、奥の手に最後の一押しをされて、彼女は、わたしを通して問題ないと判断したらしい。
「堺浩太くんの病室は二階、二〇三号室になります」
 ありがとうございます、と早口に言って、わたしは、エレベータではなく、階段を使った。
 都会の病院に比べると少し小さいが、ここは、この規模の町としては充実した病院だった。周辺地域のなかでも、かなり大きいほうだ。
 患者や看護師らとすれ違いながら、二階の廊下を歩き、二〇三号室を捜す。
 間もなく、わたしは、目的の部屋を見つける。出入口の横に五人の名ふだが貼られた、共同の部屋だ。名ふだには、ちゃんと堺浩太の名もあった。
 すぐにはなかに入る気にならず、入口から覗き込む。すぐ手前のベッドが、浩太くんのものらしかった。ベッドのそばには、松葉杖が二本、たてかけてある。
「どうだ、リハビリは」
 聞き覚えのある声がする。ベッドの向こう側、横に置いてあったらしい椅子に腰を降ろした兄が、弟に声をかけているようだった。
「ああ、今日はもう、二キロくらい歩いたよ。あと三キロくらい行けるかな」
 ことばを返すその声も、当然かもしれないが、兄のものに似ていた。水色のパジャマを着た少年は、中学生くらいだろうか。かなり、歳の離れた弟らしい。
 兄のほうは、スケッチブックを取り出してめくる。
「こないだは……どこだったかな。あれ、置いてきちゃったのか。ごめん、後で持ってくるよ」
「いいって、別に。次の、もうあるんでしょ?」
 浩太くんは、何か期待を込めた目で兄を見る。そして、折りたたんだ紙をベッドの横の棚から取り出し、広げた。遠くてよく見えないが、どうやら、地図らしい。
「二キロって言ったら、大体この辺か。じゃあ、これだな」
 一瞬地図をのぞきこんだ兄の亮太が、スケッチブックのあるページを選んで、掲げて見せた。
 その絵に描かれたものは、山の風景らしい。小川が流れ、色とりどりの花が草色のじゅうたんの上に散りばめられ、その上を、蝶々が舞っている。空は高く、そびえる一本の木の上に、淡い青が広がっていた。
 動きのあるイメージが、目の前に呼び起こされるような絵。やっぱり、わたしの静止したような絵とは正反対の、わたしには描けない絵だ。
 わたしは、何だか恥ずかしくなってきて、病室の前で立ち尽くした。自然にあんな絵が描けてしまう彼に、わたしの絵なんて見せられない。見られるのが恥ずかしい。
 ここまで来て、彼と顔を合わせるのが怖くなった。会うのを多少楽しみにしていた気分なんて、どこかへ消えていた。
 白衣の医師が角に消えていくのを確認し、誰も見ていないことを確かめると、わたしは、バッグから取り出した堺亮太の絵を病室の出入口の横に立てかけて、早足でその場を去った。

 翌日、わたしはまた、海辺の公園にいた。愛用の椅子に座り、真っ白なスケッチブックを目の前にして、パレットと絵筆を持つ。
 いつもと、堺亮太と会う前とも変わりない、日課の繰り返し。
 ふと、これから何歳になるまで、こうしていられるんだろう、と思う。両親が残した遺産は、かなりのものだ。それでも、一生このまま過ごせるというほどではない。
 それまでに、絵で仕事ができるようになるのか。そのために、どうすればいいのか。どうすれば、人の心を惹き付けるような絵が描けるのか。
 本当は、自分の絵に何が足りないのか、わかっていた。
 どうして描きたいのか。何のために描くのか。それがない。だから、ただ行為として描くだけになる。何を表わそうとしているのかもわからない、ただそこにあるだけの、無色透明な絵。当然だ、何かを表わそうとしていないんだから。
 太陽が沈みかけた、晴れた空と、水平線まで続く、青い海。いつも目にしているその光景に、わたしは悩む。何を表わせばいい? 何を描きたいの?
「海…………カモメ…………波しぶき」
 自問しながら、視界の中のものをひとつずつ、口に出していく。
 公園には誰もいない。そう思って声に出していたわたしは、急に背後に近づく気配に、飛び上がりそうになった。
「そこに、あなたの気持ちを加えれば、絵は完成しますね」
 聞き覚えのある声だった。振り返ると、さかい亮太が、ショルダーバッグを背負い、缶コーヒーを二本、手にしてほほ笑んでいた。
 彼は歩み寄ると、缶コーヒーを一本差し出す。わたしは少しぼうっとして、何となくそれを受け取ってしまう。
「ありがとうございます。あの絵を届けてくれたの、あなたでしょう? また描くのも骨が折れますから、助かりました」
「いえ……どういたしまして」
 彼は、少し離れたところで、折りたたみ式の椅子を出して座った。
「あの絵は……空想の絵なんですよ。一応資料は集めたんですが、さすがに名所でもなければ写真も手に入りづらいですし」
「空想で、写真? 外国の絵ですか」
「はい。カナダなんです。弟が、いつか行ってみたいっていう国のひとつで」
 病室を覗いた時、浩太くんが手にしていた地図は、どうやらカナダの地図だったらしい。ということは、堺さんが描いている絵も、カナダの絵か。
 でも、名所以外の風景も空想して描かなければいけないなんて、どういう意味だろう。カナダの風景や雰囲気を楽しむだけなら、名所や都市の街並みだけでも充分なのではないだろうか。いや、そもそも、本当にカナダの風景を知りたいだけなら、資料や写真だけでいい。絵にする必要はないはずだった。
「浩太くんは、堺さんの描かれる絵が好きなんですね。だから、堺さんに好きな国の風景を絵にしてほしい……ということですか?」
 わたしの質問に、彼は、少し照れくさそうな笑みを浮かべた。
「確かに、弟はぼくの絵を褒めてくれます。でも……本当は、リハビリのためなんです。弟は、もう一生歩けないかもしれないと言われました。でも、少しでも希望があるならあきらめないでほしい。だから、リハビリで歩いた距離を測って、同じ距離を好きな国の道を歩いたことにしてるんです」
「そして、歩いた周囲の風景を描いてあげているんですか」
 彼の絵は、コンテストに出す目的でも、どこかに飾るためでもない。ただ、弟さんのために描かれた絵だ。そのことを、わたしは、頭の隅で惜しいと思った。
 でも、コンテストだけを目的に写実的に描いただけの絵が、人の心を揺さぶるだろうか。わたしはあちこちのコンテストに自分の絵を出しては、選外になった。今その絵を見ると、簡単に理由がわかる。その絵には、美しく、綺麗に、それらしく描こう、という意図しかないからだ。
 逆に堺さんの絵は、浩太くんへの思いが伝わってくるような絵だった。弟に、今まさにその風景を目にしているような躍動を伝えたい。その風景の美しさに感動して欲しい。風景の素晴らしさを全体に表わしたい。その思いが、色形ににじみ出る。
 それに近づくために、わたしはひとつ、思いついた。本当は、自分だけで気づいていかなければならないんだろうけど。
「あの、堺さん」
 断られるんじゃないか、と恐れながら、彼の顔を見る。彼はすぐに、はい、と答えた。
 わたしは、もらった缶コーヒーの中身を一口含んでから、意を決して言う。
「わたしも、弟さんのための絵、描かせてもらえませんか」
 わたしが申し出ると、彼は一瞬、驚いた顔を見せた。
 それも、すぐに穏やかな笑顔に戻り、うなずく。
「もちろん、いいですよ。弟も喜びます。でも、自分のための絵も、忘れないでくださいね」
「自分のための……
「はい。あなたの心を表わした絵。いつか、ぼくにも見せてくれませんか」
 急にきかれて、少し戸惑う。
 昨日は、恥ずかしくて、とても見せられないと思った自分の絵。それを、いつかは見せられる時が来るかも知れない。いや、必ず、彼に見せられるような絵を描いてみせる。
「いつか、必ず」
 うなずいて、わたしは久々に、自然と笑顔を見せた。


   FIN.