第四章 光亡き世界に求めたもの


  五、空への道


 フィアリニア軍の第二陣と合流を終えたフィアリニア・マドレーア連合軍は、間もなく休憩のために、丁度近くにあった小さな町に立ち寄る。そこでエーリャ公国に補給部隊を、トロイゼンに伝令部隊を送る手はずを整えると、わずかな時間の休憩を挟んで再度出発する予定となっていた。
「うーん……
 休憩所兼会議会場に選ばれた町外れのカフェテラス。そのオープンカフェで紙切れを手に考え込んでいるのは、レスター・クロークだった。一大国の司祭長が居座るには随分と開放的な場所だが、周囲に視界を遮るものも少なく、開けているがゆえに後ろ暗いものを抱えている者は近寄り難い。
「そんなに見ても内容が変わるわけじゃあるまいし、どうしたのさ」
「いや……このレモンド、っていう名前、どこかで見たような?」
 カフェで注文したミルク入りの珍しいハーブティーをすする弟のことばに、よく似た顔が首をひねる。
「レモンド、っていう名前自体はありがちな名前だと思うよ」
「それはそうだろうけどね……
「確かに、ありがちよね。何かしらの専門書を何冊か読めば一度は目にするくらいの」
 口を挟んだリンファはというと、いつもの定番のハーブティーとセットになっていたチーズケーキを味わっていた。
 それを聞いたレスターは何かを思いついたらしく、側近の者に小声で何かを頼む。
「それが何かの手がかりになるならいいけれども」
 レスターがじっと凝視していたメモを持ってきたのは、リンファと同じテーブルでココアを飲んでいたシリスだ。吟遊詩人は願いをかけるが、あまり期待していないのか、彼を除く周囲の反応は薄い。
 やがてレスターの側近がその手に持ってきたのは、これから魔術師を目指そうというような者が読む基礎的な魔導書だった。受け取ったそれを、司祭長はパラパラとめくる。
「あったあった。近代魔法の祖、レモンド・フラング」
 そう肩書付きで名前を耳にすると、魔法を勉強した経験を持つ者の脳裏には薄っすらとよぎるものがあった。
「確か、近代魔法のほとんどを作った大魔術師、だったっけ」
 と、ロイエが自信なさそうに言う。
 はるか昔、魔法はもっと原始的な時代に近づくほど使うのも簡単で効果も絶対だったという。それは世界創世の力が色濃く周囲に残っていたからだと言われている。しかし年月が進むにつれ創世の力が薄れ、魔法は何度も組成の仕方を変えなくてはいけなかった。そういった歴史の末、現在使われるようになった近代魔法はそのほとんどがレモンド・フラングがつくり上げたものだとされている。
「当然、召喚魔法を含むほとんどの近代魔法を使えたという大魔術師ね。でも、レモンドという名の魔術師ならほかにも魔導書に出てくるし、どのレモンドも、レモンド医師と同一人物とは限らないと思うの」
「確かに名前だけならそうですが……
 と、レスターはさらにページをめくり、あるページを見つけるとそこを開いた状態で本を立てて見せる。
「レモンド・フラングはなぜか超魔法文明の知識にも造詣が深く、それを基に近代魔法を編み出したという。また、彼はとある古代神の信者で、女神の聖紋が彫り込まれた聖印を常に身に着けていたとか。それに、レモンド・フラングらしき人物の目撃談はいくつもの伝承や歴史書にあったはずです」
 この場にはいないが、〈千年の魔術師〉セヴァリーのごとく。
 セヴァリーがそうであったように、レモンド・フラングもまた永遠を生きる者ではないだろうか。
「確かにそれはあり得る話ね」
 リンファもそれを認める。
 それを耳にしながらも、彼女のとなりでシリスの注意は外に向いていた。オープンカフェの目の前に面した通りに、人が集まってきている。この小さな町を訪れる旅人はそう多くないらしい。それも、神話から抜け出したような美しい旅人たちとなればなおさら。
 それに、集まっている人々――若い姿が多い彼らの目が集まるのはシリスの横に立てかけられた竪琴だ。どうやら、吟遊詩人というものが珍しいらしい。
「そんなに期待されると……リンファには安売りするなと言われそうだけれど、一曲歌いたい気分になるよ」
「いいんじゃないかしら、あなたが満足するなら」
 リンファはこの素朴な町の人々に料金を取る気にならなかったか、もしくはそういう気分ではなかったらしい。
 シリスが竪琴をかまえると、人々から小さなざわめきが起きる。吟遊詩人はほほ笑み、最初の弦を弾いた。

 誰かの心が叫んでいるよ
 どうしてすべての人々が幸せになれないの?
 いくら綺麗ごとを並べても
 耳に心地いい聖句はいつも矛盾だらけ

 ほんの小さな棘に触れただけで
 きみの世界は壊れそうになる
 自分さえも見失いそうになったとき
 ほんの少しでいい、もう一度だけ世界に触れてみよう

 鮮やかな花の香りに、子犬の心地よい感触に、
 そして愛する人の手の温もりに現実を感じたなら
 恐れるものなどなにもない
 いつか辿り着くその答への一歩を踏み出せたなら
 きみがいることが世界の存在価値だと気づくことができるから

 人々は少しの間静まり返ったあと、気がついたように拍手した。
「楽器のコンテストなんかで課題になるような曲なんだけど、ちょっと内容が難しかったかな。哲学者のことばが元になった歌詞なんだけどね」
「わたしたちの気分には合っているけれどね」
 リンファがカップを手に、最後のひと口をすする。
 人々も、決して心を動かされなかったわけではないようだった。
「いいえ、とても素敵でしたわ。ただ、圧倒されてしまって」
「内容は正直よくわからなかったけど、歌声もその楽器の音も綺麗ですっかり聞きほれたよ」
「あたしら田舎者だから、歌の聴き方もよくわからんもんで」
 口々にそう告げる感想を聞くと、吟遊詩人はほっと安堵する。聴衆には代金を払おうとする者もいるが、それは丁寧に断った。一枚のクッキーを差し出した少年のそれや、押し付けられた果物ふたつは受け取ることになったが。
「目的地に着くまでに考えることが増えたわね」
 人々が去り、果物をひとつ受け取りながら、リンファが空を見上げる。今のところ、雲も、影も見えない青空だ。
 近代魔法を作り出し広めたレモンド・フラング。近代魔法の成立は消魔大戦後であり、その頃には人類の歴史と歩んでいたと言える。そして、最近ではエーリャ公国で医師として、何を研究していたのか。グラスタにいた彼の協力者とは?
 間もなく一行は町を出発し、大きな町を横手に通り過ぎ山間の谷を抜け、マドレーア王国に入る。見慣れた景色に、マドレーアの誇る七星騎士団〈ミーティア・ナイツ〉の魔法兵団長、クワイトの表情は少し緩む。
 遠くに見える森に、さらに向こうには青い山並み。そして否が応にも視界に入るのは、空高くそびえ立つ見るからに古そうな土色の塔。
 その塔の主はいつの間にか姿を消していた。先に行って出迎えの準備でもしてるんじゃない、とリンファは気のない予想を口にしていたが、それは当たらずとも遠からずと言ったところだった。
 魔術師の塔に到着すると、その扉が大きく開かれていたのである。
「一階広間は小隊を迎える程度の広さはありますよ。そのまま中に進んでください」
 姿は現わさないまま、セヴァリーの声が朗々と響く。レスターが指示して言われた通りに中へ入る。窓や調度品のない、上への螺旋階段が壁沿いにひとつあるだけの広い空間だが、淡い魔力を放つ大きな四つの球体が目線の高さに、半ば壁に埋もれるようにしてはめ込まれていた。側面は淡い赤青黄緑の光に満ち、球体の正面だけに別の色が散る。覗いてみれば、それぞれに映るのはエーリャ公国バックナントの街並み、グラスタの墓場、見知らぬ風景が二か所。
「なかなか便利な古代魔法装置を持っているわね」
 リンファが装置のひとつに触れ、じっと魔力を集中する。すると、その手に触れている球体の映し出す風景はバックナントからトロイゼンのものに変化する。魔力とともに思い浮かべた場所を伝えると、その場所の風景を映すことが出るらしい。
「その装置はクワイトにも扱えるでしょう。ルーンドリアに移動できる人数は限られていますから、いくらかの兵力は置いていくことになりますよ」
「せいぜい十人といったところだな」
 どこからともなく響く声に、金色の聖獣が付け加える。
「もとより、そのつもりだよ。クワイトどのには、連中が邪魔しようとゾンビの軍団でも差し向けてこないか警戒してもらう。幸い、ここでこの装置を使えば各地の異常を察知していち早く伝令を送ることも可能だろうし」
 レスターはそう応じる。セヴァリーが一行を中に案内したのは、情報伝達を素早くすることを狙ってに違いなかった。
 クワイトも残ることは承知の上で、若い魔法兵団長はほっとしているようにすら見える。
「ぼくとロイエ、シリスさん、リンファさん、ザンベルさん、セヴァリーさん、ゼピュトルさんで七人。なにかあったときのために伝令役も連れて行こう」
「ザンベルを置いていけば二人分浮くんじゃないの」
「いや待て。オレも行くからな? ここまで来たんだ、乗り掛かった舟……もとい、浮遊大陸だ」
 ロイエの意地悪なことばに、ザンベルが意気揚々と剣の鞘を叩く。
「ルーンドリアがどんな場所かも気になるしな」
「言っておくが、観光しているような暇はないぞ。すぐにスプリルルガとすれ違うことになるから、ルーンドリアに移ったら即乗り移る準備が必要になる」
 ルーンドリアの王が言うと、残念、と大柄な剣士は肩をすくめた。
 見送るクワイトらを残し、九名は螺旋階段を登り始める。かなり長い歴史を経てきた塔は壁のところどころが苔むしていたりヒビが入っていたりはするが、蜘蛛の巣ひとつなく、手入れは行き届いている様子だった。塔の主の手によるものかもしれない。
 螺旋階段の登る内側にたまに扉はあるものの、めざすはひたすら屋上だ。外側の壁には定期的に窓が開き、徐々に視点の高くなっていく景色を楽しむことができるが、シリスは決してそちらは見ない。
 脚が少し疲れてきた頃、ようやく、行く手の天井に四角い穴が見える。穴の向こうは青空だ。
「やっと解放されたぜ」
 少し窮屈そうに出口をくぐったザンベルが息を吐く。その後ろで、シリスは思わず景色を見そうになって視線を上に向ける。
 屋上は縁を壁に囲まれているが、簡単に乗り越えられそうな柵程度の高さだ。その壁を背に、見覚えのある白い法衣姿が立っている。
「お疲れさまでした。ルーンドリアが来るまで少し待ちますね。お茶でも飲んでいるといいですよ。移るとすぐにスプリルルガで戦闘になりそうですから」
 そう言われ、シリスは決戦が近いことを自覚する。
 リンファは言われた通りハーブティーを用意し、レスターと伝令役たちは細かい打ち合わせを行い、ザンベルは剣を磨き、セヴァリーとロイエは読書で時間を潰す。ゼピュトルは丸くなって寝ていた。
 それぞれに束の間の安息のときを得る。シリスはこれまでの旅を思い返しながら、控えめに竪琴の弦を弾きだした。それは古くから戦場に伝わる、戦いに赴く者を鼓舞する音色だった。